伝承を磨く

伝承の力というものがあります。これは代々に守られてきたものによって子孫が守られるというものです。先人が子孫のためと真心を籠めて遺したものを、子孫が先人の真心を大切に守っていこうとする実践のことです。

これは形を遺そうというものもありますが、本来は心を遺していくことのことをいうように思います。先祖たちは、形を守るために子孫が非常につらい思いをしてほしいなどとは思わないはずです。

例えば、子どもには幸福になってほしいと願うものです。時代が変わってもそれは普遍的なものです。ある時代の価値観で幸福だと思っても、それは時代が変われば不幸になることもあります。だからこそどうすることが普遍的な幸福なのかと考え抜いて家訓や理念などを譲り遺していくのです。

特に老舗などは、時代が変わるたびに変化によって価値観に揺さぶられ幸不幸や辛酸をなめてきたからこそ伝承していくことの大切さに気付いたように思います。

祈りや信仰また同様です。

しかし、今の時代は受け継ぐ力を持っている人が減ってきています。歪んだ個人主義を教育され、次第に利己的になり自分の代のことだけで精一杯になっています。自分を守ることに意識がでれば、守られていることに気づかず、守っていこうともできなくなっていきます。

本来は、守られていることに気づいて守っていこうとするからこそ伝承していこうという実践が産まれます。今の自分があるのは先人たちの御蔭であり、その連綿で続いてきた心が今の自分たちに宿しているという感覚があれば伝承を守ることの大切に気づけるように思います。

私は、英彦山の守静坊や聴福庵をはじめ他にも土地や歴史的な遺産や文化、暮らしの知恵などを伝承する機会に恵まれました。これは先祖や先人たちへの感謝、そして守ってくださっていることへの御恩返しで徳積財団を設立し取り組んでいます。

時代が変わっても、変わらないものがある。

だからこそ、その普遍的なものを優先する生き方の中に本来の感謝や謙虚さ、素直さを磨く砥石があるように思います。子どもたちのためにも、子孫のためにも、伝承を磨いていきたいと思います。

むかしの人々

英彦山のむかしの山伏の道を歩いていると、岩窟や仏像、墓石などが谷の深いところにたくさんあります。今は木々が鬱蒼としていて、廃墟のようになっている場所にも石垣があったり石板があったりとむかしは宿坊だった気配があります。むかしはどのような景色だったのだろうかと思うと、色々と感じるものがあります。

守静坊の甦生をするときに、2階からむかしの山伏たちの道具がたくさん出てきました。薬研であったり、お札をつくる木版であったり、陶器や漆器、他にも山の暮らしで使うものが出てきました。

その道具たちを見ていたら、むかしはたくさんの人たちが往来していたのだろうと感じるものばかりです。食器の数も、お膳もお札の数も、薬研の大きさも関わる方々のために用意されたものです。

英彦山は3000人の山伏と800の宿坊があったといいます。この山では谷も深くお米もできませんから、食べ物はどうしていたのだろうかと感じます。これだけの宿坊があり、家族もいますから山の中だけでは食べ物は確保できません。実際に、宿坊にいるとそんなに作物が育てられるような場所も畑もありません。きっと、里の方々、檀家の方々をお守りしお布施として成り立っていたのでしょう。

宿坊には、他にも立派な御神鏡や扁額、欄間などがあります。貧しくもなく、そして派手でもない。しかしとても裕福な暮らし、仕合せをつくるお仕事をなさっていたことを感じます。

庭には、柿の木やゆずの木があります。そして220年の枝垂れ桜があります。足るを知る暮らしを静かに営み、祈りと里の人々の平安を見守るような日々を感じます。

英彦山、お山という存在は人々にとってどのような場所であったのか。

日々に疲れやすい心を癒し、身体を健康にしていくための故郷だったのではないか。今ではそう感じます。お山は誰かのものではなく、みんなのものです。そのみんなのものを大切に守ろうとされてきた方々によってみんなの故郷も守られてきました。今ではほとんど宿坊もなくなり、山伏もいませんがその精神や心、魂はお山の中に遺っています。

この遺ったものを感じ、自分なりにお手入れをしながらむかしの人々の生き方を学んでみたいと思います。

知識と知恵

私たちはよく本を読み知識を得ます。しかしその知識は、自分自身の中に一体になり知恵にならなければ本当の意味で役に立つことはありません。知識と知恵は両輪であり、そのどちらもあることではじめて活かし続けることができます。

特に知識は、知識を持っている人たちの間では役には立ちます。特に最近は、情報化社会で知識はそのままお金になりますから知識を持っている人が持っていない人に提供することで役に立ちます。また知恵は、知識がなくても仕組みや方法、習得していることで救われるものです。知識で言葉にできなくても、先に実践をできてしまっていればそれはそのまま役に立つことができます。本来、すべての生命、そして存在はこの知恵を持つことで生き延びてきました。

知恵はそのまま自然の仕組みが身体から体現されたものであり、その知恵は身体のつくりをはじめ特徴、あるいは性質そのものまでに影響を与えています。虫が色々な形になったのも、動物がいろいろな種類があるのもまた、これは知恵が性質に及ぼしたものです。

人間もまた知恵が性質に及ぼしたものです。その知恵の一つに、知識があるということです。人間の脳のつくり、そして身体の動き、手を上手に用いて知識を活用し様々な道具を産み出します。これが人間の持っている特徴であり知恵です。

知恵としてのこの知識を使うことを持っていても、その知識があるゆえに人間自体が滅びてしまうこともあります。知識をどう用いるかは人間次第です。先人たちは、自然の知恵を学び、それを知識で磨いてきました。人間の欲を知識で調和させてきました。道徳や信仰というものもまた、知恵と知識の両輪を活かしたものです。

今の時代、知恵を隠し知識が知恵をコントールできるかのような様相で話が進みます。そんなことは存在せず、知識はあくまで知恵の後に従って一緒に動く存在です。包丁と砥石のようなもので、鏡と布のような関係です。お互いを磨いたり、ととのえたり、清めたりする存在であるとき、この両輪は調和するように私は思います。

知識の在り方のようなものを語り合う人はほとんどおりません。偉い人は、知識を使ってさらに自分の立場を守ります。教育の本当の怖さというのは、他人の知識を得ることで自分で学ぶことを忘れさせることかもしれません。

子どもたちには、自学自悟、自分の目や手、あらゆる五感や身体感覚などを用いて学ぶことの大切さを伝道していきたいと思います。真の豊かさを日々の学びから集めて磨いていきたいと思います。

芸の道

昨日から神奈川県相模原にある水眠亭に来ています。英彦山の守静坊でお茶を立てていただきその生き方に感銘を受けて生き様を拝見したいと思いようやく念願叶って訪ねることができました。

この水眠亭は、川のほとりに眠っているように見えた江戸時代の古民家をみて名付けられたそうです。ご主人の山崎史朗さんが彫金・工芸・デザイン・音楽・俳句・食文化、茶室を含め一期一会に直観とご縁があったものをご自分で手掛けられている唯一無二の完全にオリジナルの空間と場が存在しています。

自分の目と手で確信したご自分の美意識によって本物をつくるため、すべての制作の工程を他人に委ねずに自らで手掛けられます。この場にあるすべての道具や家、庭園にいたるまでほぼすべてご自身で見立て納得いくまで手掛け磨き上げられたものです。

どのものを拝見しても自分の信じた美意識を徹底的に追求し磨き上げていく姿に、その覚悟を感じます。まさによく言葉に出てくる「一線を超えよ」ということの意味を実感することができました。

もっとも感動したものの一つである手作りの茶室はまさに総合芸術の粋を極めておられ、そこで立てられるお茶はまるで千利休が今の時代に甦ったのではないかと思えるほどの佇まいと気配です。ご自身でゼロから茶室をつくることを通して、なぜそうなったのかを自分なりに突き止めておられます。つまり利休の心を建物から学び取られています。そして利休が目指した心、また日本人の心とはどういうものだったのか、利休が追及したものと同じように自分なりに辿り着かれておられます。

本来、誰かの真似をしたり先人のやってきたことをそのまま学ぶのではその人の求めたものとは別のものになってきます。釈迦も利休も自分が亡くなったあとは必ず廃れるという言葉を遺しています。「古人の跡を求めず 古人の求めしところを求めよ」という言葉に出会ったことを改めてここで思い出しました。これは先達や師の真似や後ばかりを追いかけるのではなく先達や師が何を求めたのかを自分も同じように求めてこそそのものと同じになるといったのでしょう。先日お伺いした三大薄皮饅頭の柏屋さんでもその家訓に「代々初代」というものがあることを教わりました。「代を継いでいるのではなく常に自分が初代になることだ」ということでしたがこれも同じ意味でしょう。

歴史を鑑みると、中興の祖という存在が顕現して道がまた甦生していくことの繰り返しです。

現代は、マニュアルや作法のことをまるで道そのものかのように呼び、本来の本物の道は単なるテクニックや事例のように扱われます。大衆に蔓延る権威や権力、権利が真の道を覆い隠します。まるでこの世は道の終焉の様相です。しかし真の道というものは、誰かに教わり真似をするのではなくまさに自らの覚悟で一人、自学自悟していくものです。

「時代の川の流れを眺めながら一人、静かに道を極める。」

まさに水眠亭の徳を感じる一期一会のご縁になりました。それに茶室、「海庵」のすごさ。この川の阿はいつか海になり空となる。日本人の忘れてはならない深い魂に共感することができました。

人の生き方というものはやはり覚悟が決めるものです。

覚悟のある生き方は真に豊かであり仕合せを醸成していくものです。自分が好きになったのを極めるのではなく、好きを極めるから好きになる。本当に好きならすべてを丸ごと好きになるということ。この人生を丸ごと深く味わい好きになることこそ、真の芸道ではないかと直観しました。

私が取り組むことと同質のことに先に挑まれている先人にご縁をいただいたことで、私も生き方の勇気と自信になりました。まだ道ははじまったばかり、子どもたちの喜びや仕合せを未来へ結び続けられるようにこれからも切磋琢磨していきたいと思います。

出会いに心から感謝しています、ありがとうございました。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

今の心をととのえる

万葉集を詠んでいると、むかしの情景が思い出されます。現代は、情報化社会でありとあらゆる他人の人生や価値観が無尽蔵に流入してきますがむかしは人の心の奥ゆかしさのようなものを交わしあっていた時代であったように思います。

情報は、二つの側面を持っています。

一つは、流行や時代の変化など生き残っていくために必要といわれるような情報。現在の情報革命はこの情報をインターネットを用いて誰もが持てるようになってきたことです。一部の人しか持つことができなかったものも、ITの媒体を用いて全体が平等に持つことができるようになってきました。

もう一つは、心の情景や情緒、共感や共鳴といった思いを通じ合わせて仕合せになっていくために必要な情報です。これは万葉集の時代も、今の時代も、お互いの心配りや心遣いを通じ合わせていくものです。

人は何のために生きるのか。

1500年も2000年も前から、ある意味今と似たような日常を過ごしていました。ただ今よりもむかしの方がゆっくりと過ごし今に集中できていたように感じます。それだけ時間というものや社会も複雑ではなかったし、自然との共生や文化が醸成されシンプルだったからです。現代はスピード社会で、振り返る暇がないほどに毎日情報が入ってきてはスケジュールに追われるように生きていて社会全体が忙しくなっています。

旅をするときに、何が旅の醍醐味だろうかと思います。多くの観光地を矢継ぎ早にたくさんまわって次々と見て回るというものもあります。同時に、ゆったりと人の息遣いや文化を感じて心を通じ合わせて語り合い深く共感し人生を豊かにしていくようなこともあります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、大事なのは今をどう大切にしているか。今はどうなっているのか、今の心をととのえていくことだと私は思います。

今の心をととのえていくと、自分の一期一会の人生の妙味を感じます。

人は誰にしろ、喜び、悲しみをはじめ侘び寂びなどの感情があります。同じ人間として、分かち合う、分かり合えることは人がこの世に生まれてきた仕合せの境地です。

子どもたちにも、今というものをどうととのえていくことが仕合せに近づけるのかを身近な実践から伝承していきたいと思います。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

同志の友

昨日は、同志の友が来て一緒にお酒を酌み交わしました。お互いにそれぞれで別々の仕事をしていますが目的は同じだったりするものです。お互いにやり方が異なり、手段も違いますがどのようにアプローチをしていくのかは参考になるものです。

時代の中で、何度も同じようにそれぞれの得意分野や役割分担をしながら志を分かち合って取り組んでいきます。この分かち合いというのは、勇気の分かち合いでもあります。それぞれにそれぞれの場所で頑張っているからこそ、挑戦も葛藤もあり、その心を分かち合います。そのなかでお互いに前進していることを確認することで刺激し合うこともできるからです。

よく好敵手の関係というものもあります。ライバルともいいます。この存在の御蔭で自分が一つ進化していくことができます。仲間であり好敵手というものが同志というものも味わい深いものです。

長い時間をかけて人は成長していきます。そしてその長い時間、長い道のりの中で偶然に同じ目的地に向かっているような人と出会います。それは嬉しいものです。嬉しいからこそ、同志に恥じないように自分の持ち場で志を高めて磨きます。

磨き合う関係になるというのは、魂を分けた関係でもあります。みんなそうやって長い歴史の中で託された魂を受け継ぎ、分け合い、磨き合いながら前進し続けます。懐かしい何かに触れて色々と思い出しました。

吉田松陰の遺した言葉を振り返ります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。」

「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

「成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか」

「英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。」

「法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。」

ということで、再会を楽しみにしています。

波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。