真心を磨く

現在、人間社会が自然を凌駕するような生活に一変しかつての自然との関係は崩れてしまっています。人工的な自然を自然とし、人間の法を自然の法と挿げ替えていることにすらも気づかなくなってきました。教育や環境によってさらに自然という本来の真の自然は遠ざけられ、私たちには人間が作り出している人工的なものを自然と呼ぶようになりました。

都市型の生活においては、自然はほぼ失われ人間の人工的な暮らしが当たり前の日々に代わります。水よりもお金が重要視され、これはいくらくらいかかるものかということが生活の中心になっていたりもします。

本来、人間は自然の中で活かされているそのほかの生き物と同じ立場にいるものです。虫たちも鳥たちも、またあらゆる小さな生命、そして植物のような存在にいたるまですべて自然が等しくいのちを活かしています。その一つとして人間もいるのだから、みんなが循環し助け合い支ええ合う中で私たちは生きることができいのちは輝きます。みんな謙虚に生きて、自然の恩恵をいただき暮らしを充実させていくのです。

それが人間の生活だけで好き勝手していくなかで自然を破壊し、自然を征服していきました。資本主義の本当の問題は人間の問題ですが、もっといえば人間と自然の関係の問題だともいえます。

人間が謙虚になっていかなければ資本主義がどうかとか環境問題がどうかとかの問題ではありません。本来、自然に活かされている人間はどのくらいの自然のおこぼれに肖り生きていくかを問題にしなければならないと私は思うのです。

そもそも暮らしフルネスの足るを知る暮らしというのは、自然との関係の話です。自然の恩恵は人間だけにあるものではありません。これはみんなのものです。ある時は、猪のものですしあるときは鹿のものにもなります。

うちの畑でも猪が入り、掘り起こされました。せっかく種を蒔いたのにとショックをうけておろおろとしますがお互いに生きていますから仕方がないと少しの対策をしたらまた種を蒔き直します。また別のところを掘り起こせるように配慮して、全部を奪わないようにしたりもします。生きているのが人間だけではないのだから、どうやったらみんなが喜ぶかを考えて農業を生産するのです。

つまり自然からいただく生産は、みんなで分け合う生産であるということです。

太古の時代から私たちは徳を循環させてここまで生き延びてきました。みんなで分け合い、助け合うことは徳の循環を促していきます。そしてその方が自然の恩恵や利子をたくさんいただくことができるのを知っていました。

自分が精いっぱい、自然と一緒に生きていけば自分も喜びみんなが喜ぶことに気づいていたからでもあります。人間の世界は、そうではないから傲慢になっていきます。奪い合い、戦争し、悲しいことがたくさんおきます。自然の災害は深い慈愛がありますが。人間の災害は辛い後悔があります。

自然と人間がどのように折り合いをつけていくか。そろそろ本気で向き合う時代に入ってきているともいえます。その中心を私は「徳」であると確信しているのです。引き続き、変わらぬ日々でも自分を変え続けていくためにも実践を真摯に積み重ねて真心を磨いていきたいと思います。

巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

自然と不自然

物事というのは分断することで問題を発生させていくものです。一般的には、分析することで問題を解析していきますが解析することでさらに問題は細分化されていきます。細分化された問題を解決してもそれは部分最適ですが、それがかえって全体の問題を大きくしたりすることもあるのです。

環境問題なども、最たるものでよかれと思ってやっていたことが実はさらに環境を悪化させたということもあります。何が自然で何が不自然かということも現代の人間社会では変わってしまっていますからそう簡単に解決にはならないものです。

私は物事を解決するための方法は、先人の知恵に従うことだと思います。長い年月、数千年、数百年続いてきた存在がどのような体験をしてどのように対処してきたか。そこから学び直すというものです。

本来、歴史というものは学校で教わるようなものではなく生きる知恵として子々孫々まで伝承されていくものです。伝承されたものを守り続けることで、困難を乗り越え、試練を耐え、生き延びていくのです。

よく格言というものがあったりもします。その格言もまた、よくみたら物事を根源的に解決するための大切な知恵であることがわかるのです。

例えば、あるインディアンの教えに「7代先のことを考えて決める」というものがあります。約300年先にどうなるのかと思慮して決めごとをするというものです。これも環境問題が部分最適にならないための知恵に溢れています。時間をかけて地球は循環しているのだから、今のことに対処ばかりしていても物事は解決しません。というより、そもそも解決することもなく問題も本当はありません。本来は、自然であるだけです。

自然を尊重して、自然と共生していく世の中であれば問題もそれは必然になり自然になります。

子どもたちには何が自然で何が不自然かがわかる感性や知恵を学び、これからの未来で何が必要になるかを伝道していきたいと思います。

 

土間の魅力

昨日は、古民家の和楽で朝から掃除をしながら友人たちと一緒に銀杏拾いを行いました。土間では、色々な人たちが行き来してそれぞれに近況や雑談をして楽しみました。

土間は、縁側と同様に日本家屋の魅力の一つです。外と内をゆるやかにつなぎ、家と自然との境界を結ぶものでした。外からもは入りやすく、内からも出やすい環境は人をつなぎ、人との関係性も豊かにします。

この土間の歴史はもともとは縄文時代の竪穴式住居にあるといいます。あの建物を観たことがある人はわかりますが、床は全体が土間でその上に藁などを敷いて暮らしました。 藁ぶきの古民家の原型は、竪穴式住居であったことは簡単に想像できます。

長い時間をかけて、用途にあわせて発展させていったのです。これが江戸時代の頃には、土間から小上がりになり板間や畳といった裸足であるくスペースになりました。そのままご近居さんや友人、来客の交流の場になりました。

これは縁側と同じく、プライベートではありますがパブリックな空間になっているということです。かつて日本人がどのように生きてどのように周囲と協力して暮らしてきたかは日本家屋から感じます。

特にこの縁側と土間は、周囲に閉じずにいつも開こうとするつながりや関係性を大切にして見守りあってきたことを直観させます。現代では、個人主義が入ってきて家は完全にプライベートになっています。誰でも入ってくるということはまずありません。鍵が閉まっていて防犯上危ないからとなっていますが、外と内をつなぐゆるやかな関係性までなくなったことで孤立も感じやすくなったのかもしれません。

土間は他にもみんなで一緒に作業をする場所であり、共に食事をするところでもありました。また家畜といって生活を支え合った仲間を守る場所でもありました。土間にいると安心するのは、こういう先人の知恵がいつまでも空間に宿っているからです。

時代が変わっても、本来の生き方を体験すると安心して豊かです。子どもたちにも、先人たちがどのように長く暮らしを味わってきたのかを具体的な実践を通して伝承していきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

いのちの甦生

私たちの身体は、いのちをいただくことでいのちを活かします。この世のすべての存在はいのちを移し替えることによって存在しているともいえます。あらゆるいのちを転換して移動しているともいえます。これが循環の本質でありいのちの姿です。

そのいのちの移動で大切なことは、いのちを壊さないように丁寧に移し替えることです。例えば、いのちを壊すというのは心を籠めない、丁寧に扱わない、粗末にする、差別をするなどという時に行われます。その逆に、尊敬をし、真心で接し、大切に扱い、感謝すればいのちは甦生します。

いのちというものは、関係性の中、つながりやご縁の中にこそ生きているもので私たちはその「いのち」をいただき暮らしを営むものです。

一番悲しいことは、単なるいのちのない物として扱われることです。いのちがあるものを、いのちがないように扱われることで循環が止まります。いのちの循環が止まるというのは、つながりが断絶するということです。自然が失われるということでもあります。

私たちはそもそも自然という有機的なつながりの中に存在します。この宇宙もまた、いのちと捉えたらすべてはつながって存在していることに気づきます。その中の一つに私たちがあります。

死は死ではなく、新たないのちになっていくという感覚もまた同じようにいのちを大切にする生き方を通して感じられるものです。いのちは水の流れのようにありとあらゆる物質を透過し、通過することですべてのいのちをつなぎます。

私たちは水がなければ生きていけないのは、いのちの循環ができないから死ぬのです。肉体的な死だけではなく、私たちは空気中の水分、あるいは食べ物を通しての水分などいのちを吸収しいのちを転換して元氣を保っているともいえます。

現代は、いのちをあまり感じない生活が増えてきました。これは自然の循環をとめてしまうような環境が増えたともいえます。本当の環境問題とは何か、それは温暖化でもなければゴミ問題でもありません。これはいのちの問題のことです。

いのちを直視して、いのちを大切にする暮らしが私の実践する暮らしフルネスですが、いのちの甦生を通して自然の循環も甦生させていく必要性を感じています。知識ではなく、知恵としてこれを実践してこそ意味があります。知ることとわかることは異なります。知っても知っただけであれば、何も変わりません。

わかることは、知恵の中に生きているいのちがつながっている証拠です。子どもたちにも知恵が伝承していけるように丁寧にいのちことを実践していきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

人類のリーダー

世界中で自然災害の猛威が広がっています。自然災害はそれまで人間が当たり前に生活していたことを一瞬にして破壊していきます。洪水、津波、地震、熱波に寒波、ついには隕石などあればどうしようもありません。

人類は目の前に明らかに危険が迫ったときでないと動かないということがインプットされています。時間をかけてゆっくりじっくりということにはあまり危機感がなく、突然来たことに対して対処するようになっています。これは昆虫も似ていて、急に現れると逃げれますがゆっくりやってくると逃げれないのです。

この辺はもう経験と直観で対応するしかないように思います。そういうとき、リーダーといった危機感が強く、大事な局面で大きな災害を予見し集団を救うという存在が出てきます。

本来、政治というものはそういう未来を見据えて危機意識の高い存在が人々の信頼を得て未来へ導いたのでしょう。最近は、政治と金というように既得権益を守るために存在しているようになり文明衰退期の様相です。しかし文明の問題と、この自然災害は関係はありません。むしろ自然災害が発生すればそれまでの文明の構造もパワーバランスもあっという間に崩れていきます。自然災害のリスクの方が、圧倒的にリスクになるのは間違いないことです。

だからこそ人類は本来は、リーダーをどのように選択するかは自然災害に対応できる歴史に精通し、人類の機微をよく理解し、環境に配慮でき、自然と共生する智慧に長けている存在を選んだ方が生き残る確率が高くなるのです。

インディアンの長老や、自然の道理に精通している経験豊富な知恵者などをリーダーにした方が生き残れると思うのです。今の時代は、経験者よりも知識者の方を重宝しそういう人がリーダーになります。しかし実際に事が起きる前、また事が起きたときにその知識では経験を補うことができません。いくらみんなで事実を知っても、知ることと知恵を持つことは全く別物だからです。

知恵を持つためには、知恵を持つための経験が必要になります。経験があるから知恵は維持されていくからです。その知恵を実践しているというのは、危機に備えていくということと同義です。先人たちはなぜ知恵を伝承してきたか、それは体験から得たものを忘れないようにしてくれてきたからです。

子孫として今のような時代、何が本来の人類の進む道かを見極め、子どもたちに生き乗るための知恵を伝承していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。