原因の根源

昨日、ある地域の役場の方々が見学に来られました。とても熱心で、私も一緒に過ごして刺激をいただきました。日本にそもそもある前提になっている価値観や、風土文化、そして根底にある問題などについて話をしました。

表面上の課題というものは、目に見えるものです。しかし実際の問題は、日ごろ表面には語れない深いところにこそあるものです。手段と目的というものだけではなく、そもそもの原因の根源ともいうべきものです。

これは医療で例えてもわかります。病気が出ていますが、その病気が出る原因というものがあります。その原因が解決しない限り、それはいつまでもなくなりません。そして病気は、病気が出てしまえば治療方法ばかりが議論されます。そして治ったとか治ってないとか一喜一憂するものです。そのうち、治療法も繰り返しているうちに効果が薄れ、さらに過激な治療法になっていったりするものです。

本来、病気にならないという考え方を未病ともいいます。病気が起きる原因の方に対して、対応していくというのです。例えば、食生活や生活習慣を見直したり、そもそもの環境や行動を改善したりという具合です。

しかし人間は、そういうことをするのを避け、問題が起きるまでは問題が目に見えるところになるまではそのまま放置するものです。目に見える問題の方に対処していることの方が手ごたえがあるからです。すぐに目に見える結果の方が、やった気になるし、その方が効果が出ている気もするからです。そしてその目先の効果や成果は、評価の対象になります。そうやって周囲の評価を意識しているから余計に表面上の問題ばかりで対処する環境が広がっていくのです。

深いところの問題というものは、例えば根底に流れる文化、価値観、風土、歴史、場の空気、あらゆるものの中から洞察できます。人間の深いところの問題は実は、いつまでも変わっていません。私たちは永遠に解決しない問題を生きているともいえます。

だからこそ、その時代時代にそれをどう善い循環をつくったか。そしてどれくらい人間本来の人間力を磨いたかなどが試されていくのです。色々と学びながら、日本の小さな地域の問題は世界の問題であり、世界の問題こそ、この足元の小さな場所があることを再認識することばかりです。

徳積循環を子どもたちにも伝承し、少しでも今と未来に貢献していきたいと思います。

価値観を磨く

価値観という言葉があります。辞書を引くと、「人が自分を含めた世界や、その中の万物に対してもつ評価の根本的態度、見方。」そして「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断。」などがあります。

それぞれに人は価値観が異なるのは、その人の生まれて育ってきた環境もあれば、ご縁により影響を受けたもの、または文化など与えてきたものでも変わります。例えば、アマゾンの奥地で言葉がほとんどないような場所にいる価値観と、現代社会で都市部に住んでいる人では常識はほとんど異なります。

私たちは知らず知らずのうちに常識に吞まれていますから、価値観の影響を空気のように受け続けているともいえます。特に風土の影響は大きく、また周囲の人たちの存在も受けています。その土地の当たり前はその土地の常識ですが、少しでも離れたらそれは非常識というものもあります。他にも、今の子どもたち世代では常識であることが高齢者の世代では非常識になることがあります。結局、時代も変わり、環境も変わり、すると価値観も変わっていきますからお互いの常識のぶつかり合いで古いものと新しいものがいつまでも融合することができません。

価値観が変わるというのは、変化そのものです。ある一定の価値観を守っていこうとすれば、変化は悪いことになります。しかしお互いに価値観を守ることに強く固執し柔軟性を欠いてしまえば結局、その価値観は時代に否定され消失してしまいます。

本当は価値観を尊重し合い、折り合いをつけ、間を探すことでお互いの価値観をもう一段、ブラッシュアップすることもできます。そこには横糸と縦糸が結び合うように、大切なことがお互いに結び合えて真の意味で新たな価値観が誕生するからです。

これが価値観を磨くということだと私は思います。

私も周囲に何をやっているのかよくわからないや、変人や正体不明で何をしようとしているのかとよく聞かれます。しかし、いつも初心は明確でそのことだけに集中しています。

分かりにくいのは、もちろん言葉に説明できない言葉と言葉の中間にあることを実践していることもありますが今の世の中の常識の価値観とは少し異なる考え方を持っているからかもしれません。

子どもたちの未来から逆算して、今、こうすることが相応しいのではないかと思うと今の時代の常識からみたら不都合なことばかりです。未来と今で対立するのではなく、どうよりよい今を誕生させていくかをみんなで納得したうえで共に創造し、相乗効果を産み出していくかは私たちの大きな課題です。

引き続き、あらゆる声を聴きながら徳を磨き続けていきたいと思います。

ご縁の循環

人のご縁というものはとても不思議なものです。長い時間をかけて、そのご縁の意味がなんであったかはあとから現れてくるものです。その時は、何ともなかったご縁でも、時間が経てばそれがとても大事なご縁であったことがわかります。

振り返ってみると、まさかここでこのタイミングでということで助けていただいたご縁がたくさんあります。過去に誰かに親切にしたことが、巡り廻って自分のところにもやってくるのです。ことわざに、「情けは人のためならず」があります。これは人に対して情けを掛けておけば巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。親切の連鎖ほど、ご縁を有難く感じるものはあります。

そしてそれはいつからはじまったご縁なのかということに思いを馳せます。

自分がはじめて会った他人だと思っていた人でも、実は長い時間をかけて先祖や親族が親切にしてきた人かもしれません。偶然助けていただいた方でも、その方もひょっとしたら随分長い時間をかけてご縁が結ばれた人かもしれません。

一つ一つのご縁を大切にするのは、まだ見ぬ未来を明るくしていくためでもあります。それが時間をかけて育ってくるのを待ち、自分、もしくは未来に善い循環の流れをつくっていきます。

地球は循環を已みませんが、どのような循環をつくっていくかはその人の生き方次第です。毎日、それは試されていますしこの瞬間も実践する機会があります。そんなに人生悟ったようにはならないからこそ、ご縁を磨いていくような心がけが必要なのかもしれません。

子どもたちの仕合せを願うように、ご縁を大切にしていきたいと思います。

叡智を研ぎ澄ます

知恵というものは使うことによってのみ知恵になるものです。知識は使わなくても知識として持っていられますが、知恵はそれを使う時のみ持っていられるものです。

もちろん知識か知恵かではなく、知恵があるからそれを知識で分析することができます。また知識も知恵によって真の知識となりえるものです。

私は真の知識にとても興味があります。それは知識と知恵を併せ持った叡智のようなものです。叡智には深さがあり、そこには真理があります。

物事や時代も発展していくのに進化するという言葉があります。しかし進化だけしていてもそれが本当の意味で叡智にまでは到達しているような気がしません。それは今の時代の様子をみてもすぐにわかると思います。

毎日、SNSやテレビ、情報社会の中であらゆる新しい情報が氾濫していきます。情報過多でそれをまた整理し、また進化させようとします。急ぐことばかり、時間をかけないで結果を出す事、わかった気になるために必死に情報合戦を繰り広げていきます。目新しいものはなんども良いもののように扱い、古いものは時代遅れとまで言われます。ダーウィンもですが、進化論というのは結局は分類わけの一つの手法のようにも感じます。分類分けしていくことを進化というのなら、そこに深さはありません。ただ分けて整理できた、そして整理がうまければ上手に進化したということになるのかもしれません。

実際には、その進化ではなく深化といって深淵にたどり着き真価を悟るというものもあります。現在でいえば、豊かさということを見直す話が出ていますが果たして本当に豊かさとは何かということをこの時代に叡智まで高めて磨いた人がどれだけいるのだろうかとも思います。

だからこそ、先人の知恵を学び直し、先人の知恵から深さを知り、叡智に辿り着く必要性を感じます。言葉遊びにならないように、そしてお題目のようにならないように私たちは知恵を使い続けていくなかで学び直して改善し、この時代の叡智を磨いていく必要があるように思います。

暮らしフルネスの実践はそれをするのにとても大きな役割を果たしていくと確信しています。子どもたちのためにも、この今の叡智を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

経糸のような生き方

むかしの日本の歴史を調べていたら、素晴らしい生き方をされている方々のことが伝わっているものがあちこちにあります。その地域の偉人ともいう人ですが、今でいう医者であったり、教育者であったり、僧侶だったりします。

そこにはお金をもらうために職業を選択するのではなく生き方に憧れて職業に就くというものがあったのでしょう。尊敬される人たちが、その場、その場で徳を積みそして場を高めたことでそののちにその土地からまた偉大な人物が登場したりするものです。

私は大分県の耶馬渓にある青の洞門が好きで、時々、訪れます。禅海和尚が人生を懸けて取り組まれたところで、色々と苦しいときや辛い時は想いを馳せて共感します。この土地でその後、福沢諭吉が育ってきます。時代が異なっても、その土地に遺徳は場として生き続けていきますから生き方もまた伝承していきます。

尊敬される人が出るというのは、その尊敬の陰に憧れた人たちがいますからその人たちがあとを継ぎ、つなげ、また同じような存在となり時代を超えて人々のために働いてくれます。

むかしの人たちは、そうやって生き方を選び恩返しをしてきました。そこには横軸ではなく縦軸として時を超えて働いていこうとする経糸のような生き方があったように思います。

その時々で、人は周囲に恩返しをして生計を立てていきます。僧侶や医師や教師は、むかしは今でいうボランティアのような生活をしていたとあります。江戸時代の武士も同じように尊敬される生き方を志して学んでいたとあります。寺小屋でもまた、立派な人物になるようにみんなで切磋琢磨学んだように思います。

理論と実践というか、むかしはお手本が身近にありその人に触れて薫陶を受ける機会を求めて学問を磨いた人が多かったように思います。志は師友の出会いで道が拓けていきますから、いつの時代もその生き方を継いできた人たちによって日本も守られてきました。

話は戻りますが、耶馬渓の風景の中にはその場で醸成された生き方の余韻があるように私は感じます。最後に、福沢諭吉の言葉です。

「社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり」

自他一体に全体快適に生きる場を、この時代でもととのえていきたいと思います。

徳への御恩返し

振り返ってみると、今取り組んでいることのすべては最初のご縁やキッカケがあることに気づきます。時間が経てば次第に繋がってきますが、それがどの時点であったのかは後から次第にわかってくるものもあります。

例えば、私が徳というものに興味関心が湧いたのは致知出版の本社で藤尾社長から徳の講義を受けたことからはじまります。そこで志に徳が入り、徳の道に気づいたことです。それから何年もかけて、気づきの実践から徳を見つめ直します。さらに、冨屋旅館の鳥濱トメさんの教えに触れる機会を経て、さらにその徳の意味を学び直して徳の意味を知ります。

他にも出会った方々が、それぞれに徳の話をしてくださり徳に益々のめりこんでいきました。その後は、徳積財団をつくり古民家甦生や伝統文化の甦生などに関わり徳を磨くことを実践していきます。気が付くと、徳積帳をブロックチェーンで開発し、いよいよ徳循環経済へと転換に挑戦することになっています。

今思い返すと、最初は一体どこだったのか。故郷の近くにあるお地蔵さんだったのではないかとも感じます。きっとこれもあと数年、もしくは数十年後に意味に気づける日がくるのでしょう。

歴史というものを観察していると、その原因が数百年前のことが今につながりそれを私が一緒になって取り組んでいることがあります。もうだいぶ経っていますからその人たちは当然生きてはいません。しかし、今私がやっていることに絶妙に繋がっているのです。

こうやって人は、後から意味に気づいて理解していけますからやっている最中はきっと何か大切な意味があるのだろうとよくわからなくても自分を動かしている何かと一緒に歩んでいくしかありません。

私の生まれてきた意味や、やっていることの意味もまた、後から繋がって気づかれるものです。今、わからなくても、今、理解されなくてもこれは確かな何かにつながっています。こんなことを書くと、いい加減のように思われるかもしれませんがこの世はすべてを説明できることはできません。大切な何かに今、気づき続けているという学問は一生終わることもなく、磨き続けるのみです。

至誠や真心、そして真摯に実践をすることで徳への御恩返しをしていきたいと思います。

謙虚に精進

人は、負の連鎖というものを持っているものです。これは親子や先祖代々などから続いているものもあります。一般的には悪循環のことを言いますが、実際には同じことを何度も繰り返しながら同じパターンに陥ることです。

例えば、ある出来事が起きた時、それがよくないものであっても許し、それを別の物に転じるという考えがあります。故事にある禍転じて福にするという発想です。別の言い方では禍福一円というものです。

物事の善悪正否は、一円の中に置いて観るという思想です。これは二宮尊徳が実践したものです。世間や外側からみたらそれが負の連鎖であっても、それをどう福に転じるかということに重きを置くのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますから、特に幼児期の刷り込みを目の当たりにすることが多くあります。無意識に、親から子へとトラウマが伝承されたり、潜在意識の深いところに価値観やイメージを刷り込まれてしまうのです。

それが時間をかけて成長し、その人の人生にとても大きな影響を与えます。ある人は、それに苦しみ、ある人はそれを乗り越え、またある人はそれを福に転じます。それはご縁や出会いによって変わっていきますが、その人の生き方が決めます。

大事なことはそういうことに気づけるかということです。気づかないままループするのと、気づいて少し変えてみようと試行錯誤するのではプロセスも異なります。人は自分の思い込みやトラウマを他人にぶつけていくものです。それを受けた人は、それに傷つき同じことをしようとしてしまうこともあります。それは同質のトラウマや刷り込みがその人にあるからです。

本来、その時、一緒に乗り越えていこうとする人に出会ったり、もしくは先に乗り越えた人に出会ったり、寄り添ってくれたりすることもあります。その逆に、お互いにやり返しあったり、仕返ししあったり、攻撃し合ったりと紛争になっていくこともあります。それは深いところでは、個人の心の中にあるそのトラウマとの葛藤が周囲を巻き込んでいくのです。

平和も戦争も、元はその個人の心の中にある種が芽生えているものがつながって発生してくるのかもしれません。だからこそ、特に大切な幼児期に見守られ、許され、それを寄り添い受け容れてくれた人の存在が助けになることもあります。主体性や自立もまた、その負の連鎖を福に換える偉大な仕組みの一つでもあります。

社会の今を観て、長い目で観て一石を投じていくところに保育や環境、場づくりの氏名や役割もあるように思います。私自身が、禍転じて福にしていけるように謙虚に精進していきたいと思います。

経済の本質

道徳と経済の一致という言葉があります。渋沢栄一は、論語と算盤という言い方をしました。これはそもそも二つは一つであるという意味であろうと思います。二宮尊徳は、道徳なき経済は犯罪 経済なき道徳は寝言であるといいました。犯罪と寝言、厳しい言い方のようですが実際には今の資本主義の中ではなかなか理解し難いものかもしれません。

よく経済を血液の流れのように例えられることがあります。血液が綺麗でサラサラであれば、健康でその逆は不健康だといわれます。血液が循環し続けることで身体も維持されますからその血液を澱まないようにしていくためには工夫が必要です。

どうしても人間は、二者択一、対立構造で物事を分類していきます。本来は分けられないものを分けることでわからなくなります。その分かれているものを一致させていくことで本来の一つにしていくというのは魂の力です。魂という言葉もまた、心身一如、主人公としての自己一致の境地での言葉です。

本来、はじまりの言葉が何であったのかを考え抜くことで原点や初心を思い出すことになろうとも思います。

道徳も経済もそもそもは人の生きる道です。その道をどう歩んでいくかは、どのような実践をするかにかかっているともいえます。まず道があり、その道をどのような志で歩んでいくか。そこには徳があります。その徳をどのように磨いていくかで、社会を豊かにしていきます。

何のためにそれをやるのかを忘れずに、それぞれが道を歩んでいけばそれぞれが仕合せな社会を築いていくことができます。そのために、まず足元の実践を見つめ直す必要があります。

石田梅岩という人物がいます。この方もまた経済と道徳の一致を述べていた方です。その方が商人の道としてこんな言葉を残しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない。」

天下の宝という認識は、今の世の中には少ないように思います。本来、私たちは何のために経済を豊かにしていくのか。

子どもたちや未来のためにも原点を忘れずに実践していきたいと思います。

仙人の知恵

生活の中で様々な知恵を持っている人がいます。この知恵は暮らしの中で活かされるものばかりです。むかしは知識はあまり多くはありませんでしたが、知恵の宝庫でした。

田舎では、知恵をたくさん持っているお年寄りがいてその話を聞くのはとてもワクワクしました。今思えば、時代がどんなに変化してもずっと変わらずに役に立つ知識というのは伝統文化のようであると思います。

本来は、知恵をたくさん持っていることで豊かさは増えていきます。豊かな暮らしにはこの知恵が欠かせないのです。今では便利になってあまり知恵を必要とはしなくなりました。流通を含めほとんどがシステム化され、知恵を使わなくてで誰でもそれ相応の効果が得られるからです。

そしてそこにはお金がついてきますから、お金をかける方が知恵であるとさえなっている世の中でもあります。知恵そのものの定義が変わってきたということでしょう。

しかし本来の知恵は、自然の知恵に近いものです。あるものをうまく活かす、そしてないものは求めないという具合に物事のある方を観て知恵を発揮していくのです。

これは一つの仙人の知恵かもしれません。

私はそれを暮らしフルネスといって、足るを知る暮らし、そして暮らすだけで十分こそが知恵とも思っています。仙人の生き方は、これからの人類に大きな影響を与える気がしています。

これから仙人倶楽部を発足しますが、知恵をたくさんもった人たちが歴史を繋いでいけるように場をととのえていきたいと思います。