英彦山の宇賀弁財天

昨日は、英彦山にある宗像神社にてお掃除とお手入れ、ご祈祷を行いました。ちょうど守静坊が最もその神社に近く、よくお参りする場所です。巨大な山のような磐座があり、そこからの景色は広大です。また磐座に立つとそこから英彦山の山頂が拝めるようになっており、古代からこの場所で祭祀が行われていたような感覚があります。

そもそもこの宗像神社がなぜ英彦山にあるのかということに疑問があり色々と深めていきました。地域の人たちは宗像神社とは呼ばず、弁天様や弁財天と呼んでいました。この弁天様や弁財天というのは、仏教の守護神である天部の一つでヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教に取り込まれた呼び名です。この天部とは、元々は仏教の生まれたインドで仏陀の生まれる前から信仰されていたバラモン教やヒンドゥー教の神様などが仏教に取り込まれた神々ということです。

日本で最も古いと言われる弁財天は東大寺法華堂に安置されていた奈良時代の弁財天像といいます。八臂辨財天(はっぴべんざいてん)といい、八本の手に八つの道具を持って仏法を守護しているともいいます。そしてもう一つが、宇賀弁財天(うかべんざいてん)というものがあります。この宇賀の神は中世以降に庶民の間で信仰された蛇や龍の化身とされる神さまのことです。一般的には翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の弁才天が信仰されて十五童子を伴っています。

英彦山のこの宗像神社の御神体と像は、この宇賀弁財天です。もともと弁財天は、お水の神様でありインドでは川の神様です。そしてこれは龍を顕します。

英彦山は神仏習合の山で修験道のはじまりの地です。その修験道の開祖は役行者です。豊前坊という天狗の場所がありますが、そこに役行者の石像と龍、そして不動明王が祀られています。お水が滾々と湧き出る場所です。そして役行者の母は、女山伏の祖ともいわれており、白専女(しらとうめ)、また渡都岐比売(とときひめ)、刀自女(とらめ)といいます。そのその白専女は、宇迦之御魂神の御霊を持っていたといわれています。

つまりここから推察すると、元々のご神体は瀬織津姫であるということです。修験道の祖が何をお祀りしていたのか。これは私の勝手な洞察なので、責任は私が持ちますがお水が古代においての最も重要な信仰のはじまりであり、私たちはお水から心を学び、お水から智慧の全てを学びました。この世の全ては、お水が変化したものでありお水の化身がこの宇宙の存在ということでしょう。

その存在に気づいた役行者が瀬織津姫をお祀りして修験道がはじまったのではないかと私は直観します。最初の導いた神様が宇賀弁財天、瀬織津姫であったということでしょう。よく考えてみると、大祓祝詞にも瀬織津姫は水を司る神様とされています。仏教では龍神です。八大龍王ともいいます。

そして弁財天が音を司るようになったのは、その水の流れる音と繋がりがあるといいます。音のはじまりもまたお水からということでしょう。

今年は辰年で龍にご縁ばかりがある歳です。有難い英彦山のお水に見守られながら、お水の持つ徳を伝承していきたいと思います。

新たな種~第二創業

創業という言葉があります。これは事業をゼロから創ることです。そして第二創業というものがあります。これは創業して成長し成熟し、そして衰退するときにまた新たな種を蒔き芽を出しまたゼロから成長していくときの節目のことです。

宇宙のなかで地球に住むとこの場所の摂理というものがあります。それは重力や引力があるのも、陰陽がありバランスをとるのも、また呼吸をして水を循環させいのちを保つのも「最初から決められて存在している」ものです。これを「自然の摂理」とも私たちは呼びます。

その自然の摂理の中に、種から芽が出て成長し花や実をつけて枯れてまた新たな種になるという循環があります。私たちが赤ちゃんで生まれてから成長し老化して死に至ることも摂理でありそれは最初から決められているものです。地球が丸いことも、水に包まれていることも、太陽との距離が一定であることも月が傍にあるのもこの場所が持つ摂理です。

摂理というものは、いちいち逆らっても仕方がないのでその中で私たちは最善の体験をして摂理を学びそれを活かし、いのちを繋いでいきます。植物も年々同じ四季を迎えて同じ成長をしているようですが変化し続けているものです。天候、気候も変わり時も経ち周囲の循環すべてが微妙に変化していますから同じであることは不可能です。その同じではないことに対して、どんなものでも小さな変化を続けていきます。それが成長の本質でもあります。

摂理にはサイクルがあり、また新たに生まれ変わるような状況を意図的に創り出します。それが死というものです。ある意味では、私たちの生死とは摂理の中で創り出した自然と共に永続して生きるための最善の智慧であり仕組みです。

そしてこの生まれ変わりというのは、実は日々に発生しているともいえます。毎日、夜寝て朝起きては細胞をつくり毀し新しい自分として甦生させます。これを繰り返していくなかで老いて死ぬまで細胞分裂を繰り返します。そのうち別のいのちと和合して新たないのちを産み出します。それが赤ちゃんです。子どもは瑞々しい産まれたての好奇心を発揮して新たな環境を創り出すのです。それが創業のサイクルです。

永続している老舗やまだ数十年ほどの会社であってもこの創業のサイクルは発生しています。そして自然の摂理に沿ってまた新たに生まれ変わるのです。自然に逆らえばそのまま終焉を迎えます。それだけ自然というのは、循環することや永続することを最も大切な摂理にしているのです。終わることは最初からないということです。終わるのは私たちが摂理に合わせて終わらせているのです。

そう考えてみたら有難いことに第二創業というのは、それまでのいのちが充実して結実し新たな種を創るところまで時間も経験も醸成したということの証です。何もなかったところから、志に導かれ目的を定め理念を磨き、仲間を集め、形として顕現するところまで生育して成長して終わるのです。いわば、次の種を創れるところまで成長してきたということです。

一つの種ができるためには、大切な時間といのちを使う「思いの醸成」が必要でした。種はちゃんとこの思いの醸成という自然の摂理を通らないとできませんから種が新たにできたというのは思いの結晶が誕生できたということです。

その結晶を軸に、新たないのちの芽を出していくのが第二創業です。不易と流行という言葉もありますが、変わらないものを持っているからこそすべてを変えていくことができるのです。つまり摂理が変わらないからこそ、我々が変わっていくことができるのです。世の無常というのは、歴史を鑑が観ても明らかです。人の生死のように摂理はいまでも揺るぎません。新たな門出に、感謝の気持ちがこみあげます。

ここ数年取り組んでいる修験道でも、山伏が峰入りするのは擬死再生や母胎回帰の通過儀礼を意味しますがある意味、第二創業にも似ています。生々流転していくことは仕合せなことであり何よりおめでたいことです。

昨日は、カグヤのクルーたちと共に百年自然酒を酌み交わして予祝をしました。いつも善いご縁、善い仲間、そして徳に包まれて有難い時を過ごしています。

この機会をいただけたこと、そして新たないのちが誕生していくこと、摂理と共に永続していく喜びに感謝しています。子どもたち、子孫たちに徳が譲り渡されていくことを信じて新たな種と共に社業を邁進していきたいと思います。

暮らし=生き方

昨日は、千葉県神崎市にあるカグヤのむかしの田んぼで視察研修を行いました。この田んぼは、取り組みだした13年前から一度も肥料も農薬も入れたことはありません。しかしある研究機関がお米を分析調査していただくと、非常に抗酸化力が高いと驚かれました。また味も美味しく、お米好きな人や本物好きな方にとても好評です。

何か特別な農法をしているのかとよく聞かれますが、実際にやっていることといえば、社員みんなでお田植祭や新嘗祭などをしご縁に感謝して楽しく取り組んでいるくらいなものです。

福岡県飯塚市でも伝統の在来種の高菜を自然農法で育てていますがここもまた同じく肥料や農薬を一切使っていません。しかし市販の高菜と比べたら、味も複雑で濃く、同時にピリリとした辛みと野性味があります。虫にもほとんど食べられることなく、見た目の元氣さも特別です。

ここも特別な栽培方法をしているわけではなく、家族で多少の草取りと作業しながら美味しいご飯を畑で食べたり、音楽を聴いたり歌ったりしながら楽しみ有難い時間を過ごしているくらいです。

現代は、すぐに収量を余計に気にします。それは儲からないからです。大量につくれば多く稼げます。しかしその大量を優先すれば、大量になるような農法をしなければなりません。そこから様々な欲望が芽生えていきます。一緒に育つ大切なパートナーを儲けのためだけに利用するようになるのです。

これは養鶏も養豚も養殖なども同じです。餌に何かを足し、抗生物質などの薬を投与し、大量に育てては安く販売していきます。世の中の経済の在り方が、そもそも安く大量にを推奨してきましたからみんなそのことには疑問にも思いません。いいものを安く買えるのは正義のようになっています。それが現代では、人間にも同様なことが発生して安くて大量な人材ばかりをつくろうとします。

そもそも私たちのご先祖様たちが取り組んできた理想の姿を見つめていると損か得かとか、利益があるかないかではなく、常に「生き方」というものを大切にしてきたことがわかります。

今でも見事な風土や貴重な在来種の種が大切に残っているのは、その種を守るために自分の生き方を磨いてこられた人たちがいたからです。特に何百年や千年を超える老舗を見学するとその磨かれてきた生き方が随所に垣間見ることができます。彼らは、単に儲けのために材料を利用するのではなく、今でも生き方を守り感謝して代々の願いや祈りを伝承して味わって暮らしているのです。

私が「暮らしフルネス」にこだわるのは、生き方にこだわるからです。暮らしをどう定義するのかは色々とあるでしょうが、私にとっての暮らしは生き方です。暮らしを換えるというのは、生き方を換えるということでそれは人生を換えるという選択です。

どのような人生を歩んでいくかは、その人が決めることができます。何を大切にするのかを判断するかは、まさに日々の生き方が決めていきます。時代が変わっても、生き方はそれを伝承していく人たちによって結ばれ繋がり永遠です。

いい土を遺してくださった存在や、いい種を繋いでくださった先人、そういう有難く温かい真心をいつまでも継いでいきたいと思うものです。現在、お米のことを深めてお米を甦生していますがお米には何かそういう先人たちのいのりを感じます。

子どもたちの未来のためにも、暮らしや生き方を見つめ直していきたいと思います。

蕎麦の文化

蕎麦打ちをはじめて蕎麦を食べ続けていますが、お米と同じように飽きることはありません。特によい蕎麦はとても美味しく、こんな素晴らしい食べ物をなぜ今まで知らなかったのかという感動が何度も押し寄せます。

私は十割で打っていますが、世の中の蕎麦屋さんでは小麦や山芋を入れているところが多くあります。最近のチェーン店では麺に蕎麦も入っていないのに蕎麦といっているところもあります。

蕎麦は日本の大切な文化なのでその尊厳を守ってほしいと願うばかりです。

蕎麦は、中国が原産とも言われていますが実は日本でソバの栽培が始まった時期はそれよりももっと前からあったといわれます。高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたことが発見されました。またさいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっています。つまり縄文時代からすでに私たちの先祖は蕎麦を栽培し食べていたということになります。

お米はというと、縄文時代の後期(約2800年前)とされていますので蕎麦は日本人の食のルーツの一つであるのは間違いありません。

もともと「蕎麦」という字の由来を調べると、蕎麦の「蕎」という字は、「とがったもの」とか「物のかど」を意味する「稜」のことです。蕎麦の実が三角卵形で突起物になっているのが理由でそれでその角がある形状から、「稜麦(そばむぎ)」と呼ばれていたといいます。

この稜という字を重ねると「稜稜」といって「稜稜し(そばそばし)」とい言葉がありました。これは「かど立っていて、よそよそしい」という意味だそうです。そこから「高層建築物の上の草」を意味する「蕎」という漢字が使われるようになり蕎の字になり「そば」と呼ばれています。そして麦は、小麦や大麦と区別するために蕎麦となりました。

蕎麦の麺だけをみていたらとがったものというイメージがないかもしれません。私はそば殻の枕を使っていますから頭の高さを調整するときに中身をみるととがっているのがすぐにイメージできます。

今は機械がありますが、むかしの人たちはこれを石臼で丁寧に脱穀して大変だっただろうと思います。さらに石臼が入ってくる前は、どうやって脱穀したのだろうかと。きっと煮込んでスープにしたり、小さく砕いてパンのようにしたりして食べていたのかなと想像できます。

今では信じられないかもしれませんが、ずっと以前の私たちのご先祖様たちはそうやって食べ物として大切に栽培してくださったことを思うと頭が下がります。蕎麦は今でも日本人に人気ですから、これからも大切に初心を忘れずに食べていきたいと思います。

和と和風

私たちの食べる和食というものはどういうものであったか、色々と歴史を辿ると面白いことがわかってきます。現在、和食は2013年12月、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されています。これの特徴は農林水産省によると1.多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重。2.健康的な食生活を支える栄養バランス。3.自然の美しさや季節の移ろいの表現。4.正月などの年中行事との密接な関わり。とあります。

もともと和食の始まりは何か、ざっくりと現存してわかっているのは縄文時代からとなります。縄文時代は縄文土器を使って、煮る、茹でるなどからはじまります。弥生時代に入り、稲作がはじまりお米が主食になっていきます。そして平安時代のころには中国からの食文化が流入してきます。そこから大饗料理という種類の多いおもてなしの食材が増え、今度は禅僧から精進料理、茶道に入り懐石料理などと発展します。戦国時代には、昆布やカツオの出汁が主流になる料理が増えます。江戸時代には、1日3食食べるようになり天ぷらや寿司、うなぎ、蕎麦、うどんなど人気がでます。そのあとは、現代の原型にもなっている西洋の食文化が流入してまた混ざり合っていきます。最近では、世界各国の料理が流入し、食材も海外から当たり前に大量に入ってきます。ファーストフードや急速冷凍技術も高まり簡単便利に何でも食べられる世の中です。

和食というものは、結局は日本人の好みに合うように和合された食文化ということでしょう。なので日本人が変われば和食も変わるということです。平安時代の和食と、現代の和食が違うのは当たり前ですがでは何が和食とするのかということです。

それはかつてから変わらない日本的な生き方であったり、食べ方であったり、風土に適った育て方であったりと、本来の味を変えないものであることに気づきます。これは今ではとても難しいことです。

日本人の暮らし自体も変わってしまい、価値観も変わりました。溢れるばかりの食材と世界から入ってくる流通の材料、それに環境も変わってしまいました。東京の都心などに住んでみるとわかるのですが、毎日、別のものを食べてもお店も材料も尽きることはありません。私たちが和食が恋しいとなると、ご飯、みそ汁、お漬物という具合になります。

しかしこのご飯なども、現在はむかしのような育て方でもなく力もありません。お味噌も発酵を簡素化したものやお漬物にいたっては化学調味料で味を似せているだけです。これを和食と思うかというと、見た目が和風食ということになります。

この和風食と和食だけでもはっきりと違いを定義してほしいと感じるものです。

私は有難いことに、むかしながらのお米作りやお漬物、そして味噌も発酵させて自給自足できています。その御蔭さまで和食の原点というか、味に気付くことができています。手間暇をかけて、大切に日本の風土で育てたものを自分たちの身体にもっとも合うようにして食をいただく。

和というものは、決してその部分最適だけをいうのではなく日本の歴史全体を含む全体最適であるときにはじめて五感で味わえるものだと私は思います。

私が暮らしフルネスのなかで食を通して人が感動してくださるのはきっと、そういう生き方や働き方、暮らし方や食べ方に懐かしい何かを感じていただいているからかもしれません。

引き続き、本物か偽物かではなくむかしからある懐かしい徳を現在に甦生してそれを子孫へと伝承していきたいと思います。

英彦山に残る“守静坊のしだれ桜”伝承物語

これは今から二百年以上前の江戸時代から霊峰英彦山の山伏の宿坊、守静坊(しゅじょうぼう)にある一本の老樹、しだれ桜と共に語り継がれているお話です。

霊峰英彦山は九州福岡にあり、日本三大修験場の一つに数えられ修験道のはじまりの聖地であり、古来においては霊験を極めた仙人たちが棲む神仙の地で人々が憧れる天国のようなお山であったといわれる場所です。

現代ではあまり聞きなれない修験道というのは、厳しい自然の中で修行をする修行者のことを指し、金剛杖や法螺貝などを持ち歩き、深山幽谷に入り自然と調和し己を磨きその験徳を実践する方々のことです。

そしてこの守静坊は、戦国時代末期から続く修験者の棲む宿坊で先代の駒沢大学名誉教授の長野覚氏で十一代続いている由緒ある坊です。

守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたちょうど二百二十年年前には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らしていたといわれます。当時の英彦山はとても賑わっており、山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたといわれます。

その当時の面影を残し、今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあります。この桜はもともとは京都の祇園にある桜でした。品種名は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿です。

実際には樹齢二百二十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園のしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

樹齢としてはもっと長いものがありますが、守静坊のある場所は標高六百メートルほどもあり、冬は特に厳しいもので雪は積もり、鹿などの野生動物も多く被害にあいます。厳しい環境の中で生き抜いてきた老樹は今までも何度も枯死する危険に遭遇しました。平成二十年には台風で倒木し枯れる寸前で花もつかなくなっていたこのしだれ桜を九州ではじめて樹木医と認定された医師による治療の甲斐あってまた満開の花が咲くほどに復活しました。

同時に守静坊も人が住まなくなって数十年ほど経ち坊内や庭園の荒廃が進み倒壊し失われる危機を乗り越え飯塚にある徳積財団が譲り受け皆様よりのお布施の御蔭様のお力をいただき修繕し新たな物語を繋ぎ結い直しました。また甦生で出た屋根の古い茅葺をしだれ桜の周囲に敷き詰め土壌をふかふかにしたことでさらに美しい花を咲かせてくれるようになりました。守静坊の敷地内に苔むした石垣と共に宿坊と見守り合うように凛とそびえ立つ姿はまるで英彦山の伝説にある仙人の佇まいを感じます。

しかしなぜこの京都の円山公園にある伝説の祇園しだれ桜が、ここで生き残っているのかということ。もしかするとむかしは大志を志す同志が共に初志貫徹しあうことを願い、同じ霊木の苗木を分けそれぞれの生きる場所に植えて大輪の花を咲かせようと誓い合ったという言い伝えもあります。その初志を叶えるために今も桜は私たちを見守っているのかもしれません。果たしてどのような浪漫が隠れているのかは、この守静坊のしだれ桜を直接観に来ていただきお感じしたものを語っていただけると有難いです。

私たち一人一人にも誰もが語り継がれてきた歴史を生きています。

先人や先祖の物語の先に今の私たちがそれをさらに一歩進めて結んでいます。今、私たちが生きているということは歴史は終わっていないということです。今も新たに生き続け語られている現在進行形の物語を綴っているということになります。みんなでご縁を結び、かつての壮大な物語に参加することは私たちもその語り継ぐ一人として同じ歴史に入ったことになります。

この守静坊もしだれ桜も偉大な語り部です。私は、毎年この時季の満開の桜を眺めると言葉にならないものが語りかけてくるようでいつも魂が揺さぶられています。

伝統と伝承は純粋な気持ちによって永遠に結ばれ繋がれていくといいます。

大和桜花の季節、霊峰英彦山守静坊にてご縁と邂逅を心から楽しみにしています。

おにぎりとおむすび

おにぎりとおむすびというものがあります。これを感じで書くと、お結びとお握りです。一般的に、おむすびが三角形で山型のもの。おにぎりが丸や多様な形のものとなっています。握りずしはあっても握り寿司とはいいません。つまり握るの方が自由なもので、お結びというと祈りや信仰が入っている感じがするものです。

また古事記に握飯(にぎりいい)という言葉があり、ここからお握りや握り飯という言葉が今でも使われていることがわかり、お結びにおいては日本の神産巣日神(かみむすびのかみ)が稲に宿ると信じられていたことから「おむすび」という名前がついたといわれています。

このように、お握りとお結びを比較してみると信仰や祈りと暮らしの中の言葉であることがわかります。形というよりも、どのような意識でどのような心で握るかで結びとなるといった方がいいかもしれません。

この神産巣日神は、日本の造化三神の一柱です。他には、天之御中主神、高御産巣日神があります。古事記では神産巣日神と書きますが、日本書紀では神皇産霊尊、そして出雲国風土記では神魂命と書かれます。このカムムスビの意味を分解すると、カムは神々しく、ムスは生じる、生成するとし、ビは霊力があるとなります。つまりは生成、創造をするということです。

結びというのは、生成や創造の霊力が具わっているという意味です。お結びというのは、それだけの霊力が入ったものという認識になります。いきなり握るのと、きちんと調えて祈りおむすびするのとでは異なるということがわかると思います。

また他の言い伝えではおにぎりは、鬼を切(斬)ると書いて「鬼切(斬)り」からきたというものもあります。地方の民話に鬼退治に握り飯を投げつけたもありおにぎりという言葉ができたとも。鬼をおにぎりにして、福をおむすびにしたのかもしれません。

私たちが何気なく食べているおにぎりやおむすびには、日本古来より今に至るまでの伝統や伝承、そして物語があります。今の時代でも、大切な本質は失われないままに、如何に新しく磨いていくかはこの世代の使命と役割でもあります。
有難いことに故郷の土となり稲やお米に関わることができ、仕合せを感じています。子孫のために徳の循環に貢献していきたいと思います。

日本の醸し文化

日本には古来から食文化というものがあります。その一つに酒があります。このお酒というものは、日本人は古来より家でつくり醸すのが当たり前でした。醤油や味噌などと同様に、発酵の文化と一つとしてそれぞれの家にそれぞれのお酒を醸していました。何かのお祝い事や、あるいは畑仕事の後などに呑み大切な食文化として継続してきたものです。

それが明治政府ができたころ明治32年(1899年)に、自家醸造が禁止されます。この理由は明治政府による富国強兵の方針に基づき税収の強化政策でした。実際に明治後期には国税に占める酒税の割合は3割を超え地租を上回る第1位の税収だった時期もあったそうです。

そこから容赦なく自家醸造が取り締まられ、高度経済成長期にはほとんどお酒を自分の家でつくる人とがいなくなりました。実際にはお酒以外にも酒以外にも、砂糖、醤油、酢、塩などの多数の品目にも課税されましたがこれらの課税はその後撤廃されていてなぜかお酒だけが今でも禁止のままです。

それに意を反して、昭和に前田俊彦氏がどぶろく裁判というものを起こしましたが敗訴しています。その時のことをきっかけに全国でも、おかしいではないかと声があがりましたがそれでも法律は変わっていません。先進国の中でもアルコール度が低いお酒でさえ醸造するのを禁止しているのは日本だけです。発酵食文化として暮らしの中で大切に醸してきたものが失われていくことはとても残念に思います。

ちなみにこのどぶろく(濁酒)というものは、材料は米こうじとお水を原料としたものでこさないで濾過しないものというお酒のことです。一般的な清酒はこすことを求めていますがどぶろくはこしません。しかしこのどぶろくを飲んだことがある人はわかりますが、生きたままの菌をそのまま飲めるというのは仕合せなことです。

以前、私も生きたままのものを飲んだことがありますがお腹の調子がよくなり仕合せな気持ちになりました。アルコールはただ酔うためのものではなく、菌が豊かに楽しく醸しているそのものをいただくことでそういう心持ちや気持ちになってきます。

つまりは生きたまま醸したものを呑む方がより一層、その喜びが感じられるのです。

現在、宿坊の甦生をしていて明治の山伏禁止令に憤りを感じましたがこの密造酒として禁止した法令にも同じように義憤を覚えます。

子どもたちが食文化としてのお酒が呑める日がくることを信じて、自家でやる醤油、味噌など日本の醸し文化を伝承していきたいと思います。

道具を磨く

「おりん」という仏具があります。お寺をはじめ仏壇には必ずこのおりんがあります。このおりんはもともと禅宗に起源を持つといわれます。禅は瞑想や坐禅を中心とした修行を行っていて、その瞑想や開始や終了、また坐禅の時間、読経をするときの合図として使われていたそうです。そこから他の宗派に広がっていき、今では家庭の仏壇をはじめあらゆるところで見かけるようになりました。

この「おりん」と似たものに金属製の鉢やお椀の形をしたチベットの民族楽器の 「シンギングボウル」 があります。 シンギングボウル は縁を叩いたりこすって音を出しますが おりんは縁を叩いて音を出すだけでこすって音を出したりはしません。その造り方も異なり、おりんは鋳型に金属を溶かして入れて作りますがシンギングボウルは、金属を叩いて作ります。厳密にいえば、どちらも仏具として使われてきた歴史があるのでどちらを用いても用途に違和感はありません。

あるご縁からネパールのシンギングボウルを分けていただき場での瞑想や坐禅に活用していますがその中にはおりんも混ざっています。ただし、432hzに統一しているのでその帯域ではないものは別の祈祷の際などに活用しています。

実際に楽器や仏具の違いなどは、私からするとあまりないように思います。その人がどのようにそれを用いるか次第では楽器にもなり仏具にもなります。これは全てに言えることで、生き方が道具に反映されるのです。

これは単に仏具や楽器の話ではなく、「場」というものも同じです。その場をどのようなものとして活かしているかで、その場にあるものは変わります。場を感じる力というのは、その場を調える人の生き方が反映されます。

時代の変遷を経て、いつまでも祈りや瞑想、そして供養や浄化に使われてきたおりんやシンギングボウルはそれだけ道具としての持ち味、歴史や伝承を宿しています。

むかしの道具たちを活かすことは、今の時代にも結ばれている生き方を伝承していくことにもなります。私は全ての道具を暮らしの中で活かしていきますから、あまり分別や分類することが好きではありません。そのものの持ち味が活かせるのなら、どう活用してもいいという考え方です。

格式を高めたり、敷居をあげるのも好きではなく大切に日常の暮らしの中で一緒に生きていく存在としてなくてはならないパートナーとして活用していく方を優先しています。

3000年以上前から在り続ける存在に深い尊敬の念が湧いてきます。引き続き、自分の思うように道具から学び、道具を磨いて新しくしていきたいと思います。

いのちの先生

私は幼い頃から動物が大好きで、子どもの頃の夢は動物園の飼育係でした。大人になっても、衛星テレビのアニマルプラネットなどは一日中見ていられるほとです。犬を飼うところからはじまり猫や鳥など色々な動物と接してきました。動物が当たり前にいる暮らしに心がとても癒されてきました。

しかし動物は私よりも寿命が短く、どうしても先に死んでしまいます。出会ったすぐはとても嬉しく仕合せで毎日ずっと一緒にいては自然のなかで遊びます。そのうち、家族のようになり心を通じ合わせては喜怒哀楽を共にして暮らしの一部になります。後半は病気になったり介護をしたりと、お世話をしてはお別れします。

一生というものは、短く喜びと同じくらいの悲しみもあります。今まで接してきた動物たちは色々とありますが、亡くなる直前に姿を消した犬と猫もいます。不思議ですが、最後にご挨拶というか見送られて去っていきました。通常は見送るはずが、見送られるのです。

愛の深さというか、いのちを共にした存在は静かに見送りこの世を去ります。自然のなかで深く結ばれたからこその静かな愛です。

動物たちの御蔭で私はたくさんことを学んできました。

彼らはとてもシンプルで感情をそのままに伝えてきます。そして心をいつも感じています。私達みたいな文字などの道具は持ちませんが、その分、洗練された持ち味としての個性を発揮します。これも一つの愛の姿の顕現です。

また野生動物たちとの繋がりというものもあります。英彦山の宿坊周辺の生き物も、私がきているのを分かっていて遠すぎず近すぎずに見守り合っています。なんとなく目があえば、音を響き合えば距離感を通して感情を伝えあいます。

他にもメダカなどの魚、農作物たち、そして虫もまた同じ感覚でコミュニケーションをとっていきます。自分の感覚が知識ではなく、深い愛や尊敬を保てばいのちというのは交流できるように思います。

人間がいのちと対話ができなくなるのは尊敬をやめて謙虚さを失うときです。動物たちは私たちのいのちの先生でもあります。

今までいただいてきたご縁のなかに徳があることを実感し、有難い気持ちになりました。これからも動物やいきものたちと共生しながら一生をともに歩んでいきたいと思います。