螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

両輪

コロナウイルスが出てからほとんど田舎のようなところで暮らしていますが久しぶりに都会にいくと人の多さに驚きます。20年近く都心で生活して福岡と二拠点で往来していましたがこんなに長く東京に行かなかったことははじめてです。

思い返すと子どもの頃、人の多いところにいるのは疲れていました。大人になり都会に住めば気にならなくなっていましたが、久しぶりに都会の人混みの中にいるとどっと疲れます。

何が疲れるのかと思うと、もちろん視界に入ってくる情報が多すぎて気になることもありますが様々な音や匂いや物体に五感が反応し過ぎて疲れたのがわかります。

田舎の自然の中で過ごしていると、五感が鋭敏になっていきます。都会は便利ですから、五感を使うよりも便利なものに委ねていくことで適応していきます。脳がある程度まで対応できれば、脳の反応だけで事足ります。

バーチャルリアリティの技術が進化していくのも、都会での生活がベースになっていることがわかります。現実と理想の間で、人類はあらゆることを分類わけして切り取って住み分けていきます。

とはいえ、田舎でも私たちは便利な道具を用いて自然と分離させていきます。

例えば私がこの書いているブログの部屋も、外の自然と窓ガラスを隔てて分けています。窓を開ければ寒い空気が入ってきます。窓が閉まっているから自然を眺めながらも寒さはありません。頭では寒いのだろうとわかっていても、身体は寒さを感じていません。香りも音もあまり入ってきませんし、雨も風も入ってこないので五感のアンテナはその感覚を拾おうとはしていません。

自然というのは、全身全霊で感受するものです。

そうして自然の持つ様々な気配を動植物たちは分かち合い共に生きています。いのちは自然を受け容れる器があります。いのちのままであることは偉大なことです。そして人間は愛があります。思いやりや真心で人間のあらゆる行いを受け容れる偉大な愛を持っているともいえます。

このいのちと愛のことは、そろそろ付き合いを決めた方がよさそうな時機に入ってきました。

新しい価値と普遍的な価値の学び、その両輪をまわしてみたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

徳の醸成

昨日は、各地から大勢いの方々が手伝いにきてくれて無事に宿坊の掃除や片づけを終えることができました。雨の予想でしたが、作業している間は不思議に雨もなくみんなで気持ちを一つにして片づけることができました。

振り返ってみると、皆さん清々しい人ばかりで一期一会に貴重なご縁をいただいているのを感じます。煤汚れや重労働、大変な作業の中、笑顔で助け合い協力して一心一体になって身体も心も合わせていきます。

誰が指示するわけでもなく、最初に方向性だけ伝えるとあとはそれぞれの役割が自然に分かって自分のいる場所に配置されていきます。

これは懐かしいむかしの人たちの協力の仕方の甦生でもあります。

以前、宮大工の西岡棟梁の話に飛鳥時代の人々はみんな主体として協力し合って建物を建てていたと言っていました。それは建物を観ればすぐにわかるとのことでした。まさに、全員棟梁という言葉を使っていました。

今の時代は、棟梁は一人であとは職人という構図ですが本来は誰もが棟梁の気持ちで家に取り組んだということでしょう。これは神社でもみんなが宮司という気持ちで場を整えていたのと同じだと私は思います。これは国民一人ひとりが国の主という気持ちで働くこととも同じです。実はみんが主体として働けることこそが仕合せなのです。

昨日の片づけではみんなが宿坊の主と思うくらいに丁寧に、隅々まで真心を込めて取り組んでくれました。御蔭様で終わってからの余韻もまた清々しく、「場」が美しく整ったのを実感しました。

そして作業が終わるころには、信頼関係がより深まります。一緒に汗をかいて取り組むことで、人の心は通じ合い、豊かな心を醸成します。こうやって徳を積むことをみんなで体験できることこそが仕合せであり、未来そのものを引き寄せていきます。

真の豊かさとは何か、それを体験するには徳を磨くための「場」が必要です。

これからもこの英彦山を活かして場を用意し、この山に来た人たちが一人でも多く豊かさを味わえるように徳を醸成していきたいと思います。

 

草莽の朋と歩む

本日は、英彦山の宿坊「守静坊」の片づけや掃除を有志の方々と共に行う予定です。この宿坊は、山伏研究の第一人者でもある故長野覚先生のご実家の宿坊です。生前の御縁でお会いしたのはたったの3回ほど。そして期間もわずか3か月ほどのものです。

しかし、気魄と眼光の鋭さ、そして智慧や見識の高さ、どれをとっても偉大な方でした。最期にお電話した時の言葉が今でも耳に遺っています。私を全面的に信頼し、宿坊を託され、後のことを任されたあとにお亡くなりになりました。

きっと来春の枝垂れ桜の咲くころに宿坊が見事に甦生し、エバレットブラウンさんと共に温故知新した山伏の姿、またこれからの英彦山の明るい未来への兆しなど一緒に宿坊から見たかったはずです。誰よりも山伏たちの未来を案じ、誰よりも英彦山を深く愛した人ではなかったかと私は感じていました。

この遺志は、未熟ながら私が責任をもって果たしていきたいと思います。

振り返ってみると私の人生は、いつもこうやって遺志を継ぐことばかりに導かれてきました。道を歩んでいく中で、後を託されます。どう考えても、私の方が先に死んでもおかしくないくらい毎日すべてを絞りつくして生きていますがなぜか先に朋ばかりが逝きます。託されたあとは、任されたことに報いるように、またみんなが喜ぶように真摯に徳を磨きます。

この遺志を継ぐというのは故人が果たせなかった目的や願いを引き受けること」をいいます。

一代で果たせる夢というのは一体どれだけあるものでしょうか。ほとんどの夢は、何代もかけて果たしていくものばかりです。その夢を託す人は、決して身内だけということではありません。

志を共にする同志たち、草莽の朋たちが一緒に道を歩んでいます。

お金があるからとか、地位や名誉、そして権力をもっている人はアテにはなりません。保身ゆえに行動することができません。もちろんそれぞれに役割がありますがやはり古今、歴史を鑑みても事を為し遂げる人物は草莽の志士たちです。

日の目を見ず、誰にも相手にもされず、それでも只管に一途に志のために邁進する。それはその先に偉大な夢が待っているからです。道は無窮です。だからこそ後を継ぐ者、繋ぐ者、やり遂げるまで諦めない者が現れるのです。

故長野覚先生の分まで、情熱を燃やし、天国までその光が届くようにこの宿坊を世界一の場所に磨き上げてみたいと思います。