遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

遊行の妙

遊行を実践してみると、一人ではなく二人でいることがわかります。もともと四国巡礼では同行二人という言葉があr、常に弘法大師と一緒に巡っているという意味で用いられます。しかし、実際には自分の中のもう一人の自分、自我と真我という言い方もしますがこの二人が常に対話しながら歩んでいるともいえます。

瞑想も同じく、この二人が次第に静かになって一つに纏まっていきます。すると、次第に静かになり穏やかになります。他にも、五感を調え六根清浄をするときにも一つになっていきます。

つまり歩くことで、別々のものが融和して一つになっていくということかもしれません。

そもそもこの世のすべては、二つが一つになっています。その最小単位は、火や水や風など五元素をはじめあらゆる一文字で語られるものが二つから形成されているからです。

火というものも、二種類のものでできています。熱いものと温かいものです。水もまた固まるものと固まらないものです。これらがバランスよく一つになっているものをみて私たちは火や水を認識しています。

そして二つが一つになるのは、静止しているときではありません。動いている時にはじめて一つになっている様を感じることができます。地球が太陽系をめぐり、自転しているとき私たちは地球を丸く感じられるものです。同様に、動的なときにこそ静止しているように感じられます。

道を歩くというのはその行為に似ています。そしてこの遊行は自らを知り自らになる道でもあります。

子孫のためにも、道を歩んだ人たちのあとを学んで伝承を味わっていきたいと思います。

信仰と感謝の暮らし

この時期の英彦山の宿坊は、空氣が澄み渡っていてとても心地よい季節です。あちこちの木々の葉も紅葉づいて秋の静けさに合わせて綺麗な光が差し込んできます。夜の月も清浄で美しく、明けの明星も一際煌めいています。守静坊では、囲炉裏の火がゆらめき、煙の懐かしい香りの余韻が充満していて穏やかです。

季節季節に喜びはありますが、この秋の豊かさは何よりの贅沢です。

そして今の英彦山は、水が少なく井戸の水量が激減しています。いつもは宿坊の周囲の小川もさらさらとたくさんの水が流れていますが今はほんの少しちょろちょろと流れる程度です。

水がなくなってくると、生活に利用するための水をもったいなく丁寧に使うようになってきます。

以前、鞍馬寺ですべての水道の蛇口に「お水さんありがとう」と書かれたものが括りつけてありました。それに感動し、すぐに自宅の蛇口にも同じように括りつけて忘れないようにと実践していました。しかし、水道水は蛇口をひねれば自由に出てくるためそんなにもったいないと感じにくいように思いました。今でも、ついシャワーなどは高温が出るまで出しっぱなしで水のことなどあまり気にしていません。

しかし英彦山の宿坊に来ると、水がなくなるとまた水量が元に戻るのにかなりの時間がかかってしまいます。そこで少しでも水が使い過ぎにならないように気を付けながら使います。すると、自然にお水さんありがというという気持ちになり、お水の使い方も変わってきます。あまりお水を使わなくていい方法を模索したり考えたりするのです。

洗い物や洗濯、水洗トイレ、シャワーなど今では当たり前に水があることが前提の生活用品や生活家電であふれています。水が足りないところでは使えないようなものばかりです。

不便によって本来の当たり前が変わっていくことで、意識も暮らし方も変わってきます。しかしその暮らし方の中に、もったいないと感じる豊かさと有難さがあり、感謝や信仰の仕合せもまた味わえるものです。

暮らしフルネスの一つに、このもったいないというものを味わうことがありますが英彦山の宿坊はお水のことをいつも深く感じられることが多くあります。一年中、水で溢れる梅雨や冬から春までの大雪にいたるまでお水の影響をかなり受けます。お水のありがたさを感じるほどに、また火の有難さも感じる場所です。

都会や都市にはない、真の豊かさはかつての信仰と感謝の暮らしのなかにこそあります。いつまでも大切な恵みを忘れないように、場をととのえていきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

剣聖の生き方

生涯無敗の剣聖として有名な、「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)がいます。有名な言葉に「戦わずして勝つ」という教えがあります。もともとは、日本の戦国時代の剣士、兵法家で父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた人物とされています。

下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない戦国時代に人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた生き方をした剣豪でした。

この無手勝流の奥義、戦わずして勝つというものがどういうことか。それが色々な説話からも残っています。例えば、家督を3人の養子の誰か1人にその家督を譲る際にも「無手勝流」でやりました。ふすまを開けると木枕が落ちる仕掛けで3人を試し、次男と三男は剣を構えて木枕を斬ったが、長男は仕掛けを見抜いて先に木枕を取り除いたので、長男に家督を譲ったとあります。戦いとは戦略ともいい、戦略は戦いを省く知恵ともいいます。戦わないで済む方法を持つ者こそが、真の剣豪であるとしたのかもしれません。

また他にもこういう説話が残っています。これは塚原卜伝に弟子入りを志願した人との対話です。

弟子入りの志願者は「剣術を習いたいので入門を許して下さいませんか。私は一所懸命に修行します。どれくらいで免許皆伝していただけますか」と。それには卜伝は「一所懸命にやれば、5年で免許皆伝になるじゃろうよ」そしてまた「では、寝食を忘れて修行に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか」と尋ねると、卜伝は「寝食を忘れてやれば、10年で免許皆伝になるじゃろうよ」と。さらに「それじゃあ、死に物ぐるいで修行すれば、何年で免許皆伝になりますか」と最後に尋ねると卜伝は「死に物ぐるいでやれば、一生、免許皆伝にならんじゃろうよ」という話です。

通常であれば、必死に頑張れば頑張るほどに早く免許皆伝できるだろうと考えます。特に弟子入りする人は、早く免許皆伝するのはどうすればと考えるものです。そういう気持ちもあって色々と尋ねたのかもしれません。しかし卜伝は、本質で応えます。

「一所懸命で5年、寝食を忘れて修行すれば10年、死にもの狂いは一生無理」という話。これは今でも通じている知恵の一つです。中庸というものは、執着と離れたものです。そして私心が出れば出るほどに悟りは遠ざかるようにも思います。

如何に、私心を離れていくのか、

生涯無敗という意味の奥深さをその生きざまから感じます。塚原卜伝の教えは国に平和をもたらす剣であったといいます。真の剣豪、そして剣聖とはどういうものか。

今の時代も学ぶところばかりです。生き方を学び直し、徳や聖というものの生きざまも磨いていきたいと思います。

徳あるものは永遠に生きる

山本玄峰先生という方がいます。百万遍念仏のことを調べていて知ったのですが、素晴らしい生き方をされ示唆をいただいております。終戦にも深く関わっておられ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉に影響を与えた人物としても知られている方です。

多くの政治家をはじめ、リーダーたちを指導して国を導きました。まさにあの頃の国師のような存在です。

この山本玄峰先生は、若い時に失明を宣告され絶望をして死地を求めてあらゆるところを探し回りました。そしてどこでも死にきれず、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路に最後の希望を懸けました。

そして7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れました。その後、無銭宿泊所の「通夜堂」で、3、4日過ごしついに出家を決意して同寺の太玄和尚に相談します。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」と。

すると太玄和尚は答えます。

「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」と。

その後は、すべてを手放し出家して修行にあけくれました。その師匠の言葉どおりの人物になり、葬式や法事をするためではなく、真理を開眼するような大導師になったのです。

その山本玄峰先生は、こういう言葉を遺しています。

『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』

何を拠り所にすることが、もっとも生きるのか。死を求め続けて、生きることの真の意味を悟られた先生の法の言葉は深く心に沁みます。

暮らしの中で禅で生きるというのは、暮らしのすべてで徳を積むということだと感じます。実際にはとても難しく、先達の偉業に深く尊敬の念がこみあげます。

今に集中して、暮らしフルネスで徳を実践していきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

お山の甦生

昨日は、英彦山でお山のお手入れをしてきました。水気が多く、澄んだ風に心身が安らぎます。この霊峰英彦山の味わいは、この風と水にあるというのが私がお山に棲んでみての感想です。

また守静坊はとても静寂です。夜は、鹿の甲高い音と虫たちの音が響き渡ります。朝になれば、鳥たちがさえずり、昼間は風で木々が揺れる音、また柿の実や栗の実が落ちてくる音が聴こえてきます。

このお山がもともと信仰の場であったことは、このお山の安らぎによって実感します。

人は安らぎを求めては、お山に来るのです。そのお山を大切にお手入れすることで、人々は心から救われます。そのお手伝いをするところこそ、お山に棲む人たちの大切な役割だったのではないかと思うのです。

どの時代も、どの世の中も、人々は苦しみや不安、焦燥や悩みをたくさん抱えるものです。時には、その苦労や心配が増えて命を絶つ人もいたでしょう。そういう人たちがどこに救いを求めてきたか、それがお山だったのです。

人がお山に入るのは、救いを求めるためです。その救いの形とは、安らぎであり、安心できる場としての心のふるさとの存在なのです。

ではなぜ、お山にいると心が安らぐのか。それは言葉にするのは難しいのですが、敢えて選べば浄化されるからでしょう。色々な垢や穢れ、他にも染みついたものや背中に乗っているものなどがお掃除されていくからです。お山が引き受けて、吞み込んでくれるからです。

とはいえ、そのお山の存在に気づいて気づかせる存在があることがとても重要なことだと思います。岩をみてもただの岩にしかみえない、お山をみてもただの山にしかみえない、海も、そして滝も物質としてのそれしか感じられないでは気づくことも少ないように思います。

それをちゃんとその存在を丸ごとを感じる人の手と声などによって、人は何かに気づくものです。その橋渡しをする存在こそが、本来の山伏ではなかったか、あるいは宗教者ではないかとも私か勝手に感じています。

私はどこの宗教宗派にも属さず、ただ礼を盡すだけで祈ります。しかしそれぞれの宗派がもっている文化は尊敬していて、信仰の実践には感じるものがあります。

元々の道の元は何だったのか。

これからもそれを突き詰めて、本来のお山の甦生に取り組んでいきたいと思います。

月の心

この季節は、夜空の月をよく眺めるものです。夜半に目が覚めれば、家の隅々に月の光が差し込んできます。この月の光が強すぎては、気になってなかなか眠れません。この月の光は街灯のネオンなどとは違って、清らかに反射する真鏡の光のようです。

もともとこの中秋の名月はなぜ美しいかというと、秋の空気と月の適度な高さが関係しているといいます。この時期の空気は、水分量が春や夏に比べて少なく乾燥しています。それに月の位置も冬に近づくほど空の高い位置を通り、夏は低い位置を通ります。そして春は地上の埃などで月本来の明るさが霞んで綺麗にはみえません。月の通る高さと空気の水分量がより美しく観える条件になっているともいいます。それに加え闇夜に入っていく時間帯、またススキにはじまり枯れていく樹木や草たちがより光を反射させます。またものさみしく弱弱しく鳴いているコオロギや鈴虫、また水鳥たちの声の風情がより月を引き立てます。

この季節の月というのは、どこか日本の懐かしい原情緒や侘びさびを感じさせるものがあります。古来から月で詠まれた和歌がたくさんありますが、寂しさやせつなさを詠うものが多いのもその理由かもしれません。

私がその中でも月の詩でもっとも好きで肌身離さず手帳にはさんでいるものがあります。それは菅原道真公の詩です。

海ならず たたへる水の底までに きよき心は月ぞてらさむ

これは京都から九州へと向かうときに詠まれたものといいます。月の光が深い海の底も照らすように、曇りなき澄んだ心を照らしてくれるだろうという私心なき姿を詠まれたものです。

月の光というのは、私にとっては澄んでいるものの代名詞です。月の光は月そのものです。そして夜空の光のなかでもっとも私たちを見守っているのも月です。私は月の生き方に憧れ、社名もカグヤにしていますし、常に陰徳に憧れています。

月は私の心そのもの。

いつの日か、子どもたちに月を観ては心を澄ますような美しい場を譲り遺していきたいと思います。

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。