魂を磨く暮らし

人が何かを体得するというのは、日常の暮らしになった時に獲得するものです。頭でっかちに知っても、それを知恵として持続することはできません。知恵にするには、その人の生活そのものと一体になっているときに実現します。

この日常にするというのは、習慣化するということです。習慣化というのは、知恵化するともいえます。私たちの今いる現代は、知識は消費の一つになり知識を膨大に得てはそれを日々に消費しています。有名人やインフルエンサーなど、毎日のようにSNSで発信し、専門家や芸能人などは知識の発信に余念がありません。そしてその知識を早く得ようと、膨大な費用を使っては消費活動を拡大させていきます。

情報化社会というのは、情報がお金になり、その人が持つ時間をいかに情報に費やしたかどうかで費用を使わせるという具合です。

もともと現在の経済は、経世済民ではなく如何に経済を発展させるかに余念がありません。経済が衰退するとき、国家が滅ぶとさえ信じ込まされていて経済的な破綻=国家の破綻となっています。これは人間の破綻もまた経済の破綻と同じと定義されています。

しかし本来の破綻とは、生活文化が失われていくことではないかと私は思います。それは古来からの知恵が失わていくことです。例えば、食文化や伝統文化、生活文化、伝承文化、先人たちの体験から得た気づきを知恵にしそれを連綿と繋いできたものが失われた時にこそ、真に滅ぶのです。経済が破綻したとしても、文化があればいくらでもそこから甦生できます。しかしいくら経済が発展しても、文化が失われたらそこでお終いです。

これは人の生き方も同じです。生き方が残っているからこそ、魂は守られます。魂を売ってしまうと、あとは奴隷のような時間が残るだけです。人は魂を優先するとき、知恵を伝承することができるものです。

暮らしというのは、本来は魂を磨いていくことです。

魂を磨いていくことは、人生をよりよいものにし子孫へその知恵を伝承していくことです。教育の本義もまたそこにあるはずで、知恵のない教育など物質文明の中の消費材の一つになっているだけの産物です。

現代人は時間がなく、知恵を獲得するのにかかる習慣化や持続の時間を確保するのに抵抗があるものです。それもお金にならない場合はなお選択しなくなります。しかし一つの知恵を獲得するのにかける時間も費用も本当は対価がつけられないほど偉大なものばかりです。

純度高く、取り組んでいく人こそ知恵の伝承者です。

子どもたちに生きる力、知恵が伝承していけるように日々の暮らしを調えていきたいと思います。

智慧と感謝

今までの人生を振り返っていると、有難い智慧というのは自他一体の時に巡り会ってきたように思います。自分が大変だから智慧が湧いたのではなく、誰かのために、あるいは小さな自我を超越して、みんなのためにやお山、あるいは地域、先祖、歴史など、偉大な自我と向き合ったときに出会いました。

本来、人は奪うために存在するのではなく与えるために存在しているものです。これは人に限らず、すべてのいのちというものは与えあい助け合うなかで共に生きていくものです。

つまりは共生というのは、自然の掟であり野生のものは本能でそれを獲得しています。だからこそすべてのいのちには智慧が具わり、この宇宙のなかで共に生命を謳歌していくことができるのです。

その逆に共生をやめてしまうとどうなるか、対義語は自存といいますがニュアンスは自分だけのことしか考えないということでしょう。先日、地域の長老にお話しや智慧をお伺いすることがありお時間をいただきました。その方は95歳ですが、この世紀、どこに今につながる分水嶺になったかをお伺いしたら戦後、平和になりみんなが自分のことしか考えなくなったと仰っていました。

よく、今だけ、金だけ、自分だけという言葉があるともいわれる時代です。今さえよければいいと問題を先送りし、なんでもお金で解決すればいいとばらまいて、あとは自分のことさえ守られればいいと他人事のように考えていく。これは先ほどの、自然の共生や人間の本能としての社会というものを破壊していくもののように思います。

不自然もここまで極まれば手のうちどころがないほどです。しかし、禍転じて福になるようによく反省して自分を見つめていれば、それが問題の根本的な解決になることに気づきますし、何より智慧が存在することにも目覚めます。

私は、先ほどのでいえば今だけではなく長い目でずっと遠いことを優先し、お金だけではない真の豊かさや足るを知る暮らしを実践し、自他一体となって同じように伝統や伝承をしようと純粋に苦労している人たちと相互扶助の仕組みをつくりたいと徳の循環する経済に取り組んでいます。

そもそも自分の生活や暮らしがどうこうではなく、子どもたちが憧れる未来、子どもたちの参考にできるような智慧を少しでも遺していけないかと取り組んでいます。そのため自然の法則や自然の掟を学び直し、環境や場を改善していくことが第一だと地道に実践を積んでいます。

有難いことに、たくさんの仲間やご縁に恵まれ場も増えてきました。時代のスピードに流されることなく、今の自分を保てているのは今は亡くなられた恩師たちやメンターたちのご指導の御蔭さまです。

引き続き、初心を忘れず感謝を磨いていきたいと思います。

お山の知恵

英彦山の宿坊では先日の大雨被害から水回りのお手入れを続けています。都会の治水とは異なり、山の治水は思った通りにはいきません。毎回、水量が更新され水の流れも新しくなります。そのままにしておけば、水路ができたり道が遮断されたり土砂崩れになることもあり、土木作業が必要になります。

山で一人で土木作業というと想像するだけで大変なことがわかります。特に重機などを使わず、人力で行っていますから作業量の多さに立ち眩みするほどです。

しかしこの治水というのは、お山で暮らすためには必須の力であるように感じます。石を用い、水を治める。あちこちの宿坊跡地をみていても、如何に水を御するのか、そして土を管理するか、木々と石と風と水、それらを上手に総合的に組み合わせて場をととのえていたのがむかしの人たちの山での暮らし方だったのでしょう。

治水といえば、有名な人物に加藤清正がいます。むかし明治神宮の傍に住んでいたとき、よく加藤清正が掘った井戸にいくことがありました。水を上手に活かすことができる人物というのは、自然の道理や知恵に長けておりまさに自然の総合力を活かせる人物だったように思います。国を治めるのも、水を治めるのも道理は一つだったように思います。

その加藤清正に治水五則というものがあります。

一、水の流れを調べる時に、水面だけではなく底を流れる水がどうなっているか、とくに水の激しく当たる場所を入念に調べよ。

一、堤を築くとき、川に近いところに築いてはいけない。どんなに大きな堤を築いていても堤が切れて川下の人が迷惑をする。

一、川の塘や、新地の岸などに、外だけ大石を積み、中は小石ばかりという工事をすれば風波の際には必ず破れる。角石に深く心を注ぎ、どんな底部でも手を抜くな。

一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水はあふれて大災害を被る。また川幅も定めるときには、潮の干満、風向きなどもよく調べよ。

一、普請の際には、川守りや年寄りの意見をよく聞け。若い者の意見は優れた着想のようにみえてもよく検討してからでなければ採用してはならぬ。

これは知恵の結晶です。何度も治水に取り掛かるうちに失敗したことを改善し、その改善したことを五則として再現可能なものに展開しています。誰でも失敗はしますが、それを善い失敗として何度も反芻するなかでそれを一つの法則にまで高めていく。

法則を持っていることで、後世の子孫たちが真に参考にでき知恵が活かされるという仕組みです。

英彦山ではもう山伏もいなくなり、治水を知っている人もほとんどなくなりました。今は故人の遺した石垣や治水の跡をよく観察し、どのような道理なのか、そして谷がどうなっているのかを洞察して治水を続けています。

お山の暮らしは学ぶことがいっぱいあります。子孫のためにも、お山での知恵が子孫へ伝承できるように改善し仕組みにしていきたいと思います。

いのちをつなぐ

いのちは世代交代を繰り返しながら甦生を続けています。寿命というものは、すべてのいのちに与えられていてみんなその法則に従っていのちを循環させていくものです。当たり前すぎて忘れてしまいますが、身の回りの植物から昆虫にいたるまで連綿と毎年同じように生死を繰り返して甦生しています。

最後まで順風満帆に全うするものもあれば、途中で事故やケガ、病気で死んでしまうものもあります。しかしそこで途絶えないのは、他にもいのちがありどれかが無事にいのちの巡りを全うして次世代にいのちをつなぐからです。

目の前の虫も同じく、鳥に食べられるものもあればうまく見つからずに老衰して全うするものもあります。そのいのちの境目は何なのか。もしその虫の気持ちになれば、食べられる方は一瞬ですが最後までいのちを全うできなかったと感じるのでしょうか。虫によっては、カゲロウのように食べないで子孫を残すためにいのちを削り込むものもいます。またはイチジクコバチのように植物に吸収されるものもあります。そのいのちの目的は、子孫へといのちのバトンをつなぐためだけに集中しています。

植物や木々も同じく、魚やバクテリアもみんな同じいのちの目的のために生涯を費やします。これはいのちの法則であり、そこには運不運もありますがそれも含めてみんな真摯に次世代へといのちをつないでいくことで使命を全うするのです。

人間は、気が付くと自分というもの、自分のいのちを私物化するようになってしまいました。いにしえから、いのちの私物化は天敵によって滅ぶという仕組みがこの宇宙や地球には存在しています。その理由は、いのちの目的から外れるためです。みんなでいのちをつないでいこうとするから多様性が生まれ、その多様性によっていのちは守られます。

相互扶助とは大きな意味ではいのちの世界の根源を顕します。

みんなが助け合って支え合って生きるためには、それぞれがいのちを尊重してみんなでいのちをつないでいくような世界を創造していくしかありません。そのために場づくりがあり、本来の場とはそういういのちを実感できる智慧が宿っているところです。

今の世代は、いのちの尊重や多様性を学び直す世代だと実感します。自分さえよければいいではなく、みんなもどう尊重していくかを実践で会得していく必要を感じています。本来の自然と共生していのちを繋ぐといった暮らしを伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの恩恵

お盆休みに入り、ゆっくりとお手入れ三昧を味わっています。最近では、神仏とのご縁が深まっていてあらゆる場所とのつながりもできましたから参拝するところが増えています。日程にも時間にも限度があり、大変なことではありますが真摯にお手入れをして綺麗にし調えている時間がとても豊かです。

自然というのは、時間を経て塵も積もりくすんできます。埃も溜まってくるし、場所も乱れてきます。これは人工物を自然に戻そうとする作業でもあります。野生の山林や河川などにいくと野生のままに整っています。それぞれのいのちが共生しあっている場所においては隙間がないほどに、それぞれの場所が融和しています。

しかしそこに人間が入れば、その場所が人間の入った場所に代わっていきます。そうなると、次第に野生のなかに人工的なものが入りますから場が乱れていきます。その場所を人間が調えていくと、人間にとって居心地のよいものになっていきます。野生との調和がとれるといってもいいかもしれません。

私たちの居心地のよい自然とは、お互いの距離感が保たれている状態のことをいいます。これはどの生き物でも同じで、過ぎたるは猶及ばざるが如しとあるようにやりすぎるとそこに反発が発生します。

場を調えていくのは、ほどほどがよくそこには丁寧な暮らしがあってこそというものなのでしょう。

人は限度がありますから、限度を超えない、身を弁えることから調和が保たれるようにも思います。この距離感というものは、自然と自分との距離感であり身近なもの、手が届く範囲の配慮でもあります。

一人一人が暮らしを調えていくことがなぜ世界を救うことになるのか。それは今の経済の在り方では終焉がまじかであるからです。永遠や永久、長い目で子孫のことを思えば思うほど、暮らしフルネスの実践の重要性を感じます。今の時代は、でもこういう自然的なものに蓋をする時代でなぜ気づかないのかと忸怩たる思いがあります。

世の中の価値観では不便であること、効率が悪いこと、お金にならないこと、野生的なものは悪とも断じられる時代です。でも人は、どこかで懐かしい暮らしを忘れてはいないと私は体験から信じています。

引き続き、実践を味わいながら楽しみながら周囲に伝道していきたいと思います。

南方熊楠と暮らしフルネス

南方熊楠のことを深めていますが、あの時代に実施された神社合祀のおぞましさを知り今に影響を与えていることをより理解できます。そもそも自然を尊重し、自然を崇拝するという生き方は、縄文時代より前から日本人は当たり前の暮らしの中で実践されてきたことです。

杜には様々ないのちが共生し貢献しあって循環し、その恩恵で私たちはみんなで暮らしを営んでいくことができます。それを支えているのは、目には見えない場の力です。この場の力を保つためにも、その中心となる場は神域としてもっとも大切に守り続けていく必要があるものでした。

それが西洋に倣って豪華絢爛の教会のような場所に換えようとし、国策や目先の私利私欲に走った人たちによって破壊されて本来の神社や地域の役割も破壊されました。

そもそもこの神社合祀というのは、簡単に言えば明治末期に約20万社近くあった神社を半分くらいに削減したものです。今でも好む中央集権化というか均一化、合理化によって便利になると考えたのでしょう。しかし実際には、古木や古樹は売り飛ばし鎮守の杜に新たな巨大な神殿を設け、神職の私邸などを建立するなどで人工的に変えていきました。

つまりは、自然よりも人間の方を優先しようとした政策に他なりません。そうやって自然があるところを破壊すればよりその土地を有効活用でき、国に利益が増すと考えたのでしょう。伝統や伝承など、目に見えないものを大切にするよりももっと物質的に価値があるものの方がいいという考え方で今の資本主義の価値観の根幹ともいえるものに転換されていったように思います。

これに対し、南方熊楠はこう反対します。

  1. 民の和融を妨げる
  2. 地方を衰微させる
  3. 国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を妨害する
  4. 愛郷心と愛郷心を損ずる
  5. 土地の治安と民利に大害あり
  6. 史蹟と古伝を滅却する
  7. 天然風景と天然記念物を亡滅する

結果的に、目先の利益よりも後世のことを考えたら非常に害があると訴えます。それでも目先の損得に目が眩んでいる人たちからはお上がそういうのだからいいだろうと我先に神社を破壊しては合祀していきます。結局は、大正9年には「神社合祀無益の決議」がなされ、神社合祀は終了しましたがそれまでに壊された杜は元には戻りません。

結局この明治8年頃に行われた廃仏毀釈や神社合祀、山伏禁止令などよくもまあ先人たちはこのような狂ったことをしたなと今でも憤る気持ちがあります。どのような気持ちで仏像や杜を破壊し、山に住む人たちを山から追い出したのか、絶望します。近代国家という幻想を西洋に抱いて、自らの精神の根源を捨て去ろうとする。日本人のアイデンティティが崩れてきたのはこの辺からであったのではないかと私は感じています。

逆を言えば、日本人は自然を尊重し崇拝していくことで甦生するともいえるように私は思います。自然を中心に和合した暮らしを甦生すれば、本来の根源的なものと結ばれ風景や風土と合一し民族の長所が活かされるのです。

今の日本の生活は、自然よりも人間、自然よりも人工、永遠よりも目先の利益といったもので仕上がっています。今更、どうやって元に戻すのかという具合に環境は人間中心のものになっています。故郷を失った根無し草のような環境のなかで路頭に迷っている状態です。

こういう時こそ、原点回帰が必要で何が元だったのか、原点は何かという日本人の初心を思い出す必要があります。縄文から今まで、ずっとつながってきた大切なものに触れることで思い出すのです。

この初心伝承の実践は、丁寧な暮らしからはじまります。子孫のためにも、一つ一つ形にまで甦生し、仕組みにして暮らしフルネスを展開していきたいと思います。

徳の循環と目的

懐かしい暮らしをしている人たちがいます。その方々は、その土地の風土と一体になって祖父母やその先の先祖が辿ってきた道の延長線上に同じような暮らしを現代でも試行錯誤しながら続けています。

産業は発展し、機械化も進んでいきますがそこは風土に見守られ、風土を見守り、節度をもって謙虚に暮らしておられます。お金にはならなくても、とても豊かで幸せな生き方を実践されている方々です。

私たちは百姓というと、何か農民で農業だけをするイメージですがこれは中世のころからそのように定着してきました。本来は、それぞれの姓を持つ公民ともいい、あるいはたくさんの職種や仕事を熟すエキスパートのような存在もいました。

むかしは、一つのことだけをするほどに余裕があるわけではなくあらゆることを熟しながら暮らしを維持してきました。専門職でなくても、それぞれの得意を活かしあって共にその風土の豊かさをいただきながらその自然から与えてくれる利益によって暮らしを味わっていきてきました。

自然の恩恵というものは、人工的につくりだしたものではなくまさに自然界が協力し共生しあって貢献することによっていただける徳のようなものです。その徳をみんなでわけあって循環することで私たちはこの地球で喜びと仕合せで暮らしを永続していく知恵をいただいてきました。

その自然の知恵を人間が勝手に使っては、徳を貪るように消費していけば地球での喜びや仕合せは持続できません。そのうち、徳が減れば減るほどに悲しみや不幸、苦しみが増えていきます。この世に陰陽があってバランスが保たれるように、極端に何かを貪ればその因果が応報して訪れます。

むかしの人はそうならないようにこの世の徳の循環をよく観察して、自然がバランスを保ち続けられるように人間に与えられた徳の役割を真摯に果たしていくことに集中してきました。

その証拠こそが懐かしい暮らしの中に、たくさん遺っています。

時代が変わっても、生き方は変わらない人たちはいます。何のために自分の生を使っていくか、それを覚悟して生ききる人たちがいるのです。百姓が今でもあちこちにいて、それぞれの志で一隅を照らしています。

そういう人たちが協力していきながら、むかしからの道を甦生させていくことが子孫のため、人類の明るい未来を創造していきます。私に与えられた天命は何なのか、よく深めていきたいと思います。

本来の歴史

歴史のある場所を訪ねていると、つい何年前のものかということを意識して考えてしまいます。10年くらいならまだしも、100年、あるいは500年、1000年、もっと前の2000年前のことになると頭では考えられなくなります。特に古代のことになると、1万年や10万年などというとほとんど想像ができません。

自分の人生の時間軸で物事を量ろうとしても、それは量れません。例えば、重量計で載せられる範囲のものはわかっても載せれないほどの壮大なものであったなら私たちはそれを計算で量りますが実際の量は頭で計算した分であり感覚的にはピンとこないものです。

それだけこの世の中は、頭では量ることができない感覚的なもので存在しているのです。歴史も同じく、私たちは時間を量れません。そこに流れてきた経過、そして生き続けている今を量ることはできないからこそ感覚的に感じて近づいていくしかありません。

これは自然に近づいていくことにも似ています。宇宙を量るときもあの膨大で無限に存在する星々をどのように認識するでしょうか。教科書にあるような星座や銀河を想像してもあまりピンとはきません。吸い込まれるような大きな闇に感覚的に近づいていくとき、その無数の星々と一つになります。自分が星になり、星が自分になるかのような一体感があってこそその場に溶け込んでいくことができます。

分けている世界ではなく、分けていない世界に溶け込んでいくのは感覚を用いるものです。この感覚を研ぎ澄ませていくことは、目には見えないもの、また頭では量れないものを感受する仕組みです。

古代の人は、また数千年前、数百年を生きる歴史の人たちはこの感覚の世界に存在していて今も生きています。これを理解するのは、感覚で近づいていくことですがこれをすることが修行の本懐であるようにも私は思います。

子孫のためにも、甦生を続けて本来の歴史を感覚を研ぎ澄ませる仕組みをもって伝承していきたいと思います。

生き残る知恵

これだけの激しい気候変動が世界中で発生していると、その災害に直面した人々なら必ず何かに気づくものです。偶然にたまたま仕方がないと思うのか、それとも何か私たち人類は間違っていないかと思うのかではそのあとの行動が変わってきます。

謙虚さというものは、気づきからはじまるものです。何か間違っていないか、自分たちはこれでいいのかと反省するときに自然からのメッセージを受け取れるように思うのです。

現在、また大型の強い台風がこちらに向かっています。先月、英彦山では観測史上最大の雨量を体験して水がかつていないほど膨大に空に集まっているのを感じました。道はほとんど土砂崩れでまだ復旧していませんし、宿坊への道もところどころ陥没して今それを修復している最中です。

この水の量が増えた理由は、色々と科学者は理由を並べますが直感的には北極や南極の氷が溶けたことが発端ではないかと私は感じます。あれだけの氷が海や空に流れ込んだのだからその分、激しい水害が各地で発生するはずです。

地球はバランスを取りますから、熱くなれば冷えて、冷えればまた熱くなります。同時に、水の量が換わればそれにあわせて自転するリズムも循環する時間も変わってきます。

海流は変化し、風の流れも変わります。そうすれば地中の脈動やマグマなどの配置も変わっていきます。人間の身体のように、絶妙なバランスで健康を保っていますから変化するのは当たり前です。

人間はだからといって自然の前では無力ですから、謙虚にみんなで知恵を絞って対応していくしかありません。あまり自然を刺激しないように、自然の絶妙なバランスを壊さないようにと、本来は自然の一部として自然からいただける恩恵をみんなで分け合って永遠に生きる道を選択してきました。

今では、もっともっとと足りない方ばかりを追いかけて地球の資源を奪い合うなかでついに自然が黙っていない状態に入ってきたということでしょう。生き残りをかけて、地球のいのちたちもこれから真摯に適応していきます。どのような生き物たちが篩にかけられて生き残るのか。それは生き残るものたちから学ぶことが大切です。

何億年と続いてきた気候変動のなかで、生き残れているのは運のよさです。今も運のよい生き物たちが一緒に生き残っている存在ともいえます。では彼らは何が運がよいのか、もう一度よく観察していく必要を感じます。

引き続き自然も喜び、自他も喜び、先祖や子孫が喜ぶ生き方とは何か、その徳を学び直していきたいと思います。

徳とは何か。

徳に関することわざの一つに「陰徳あれば陽報あり」という言葉があります。中国の思想書『淮南子(えなんじ)』に由来する「陰徳有る者は、必ず陽報有り。陰行有る者は、必ず昭名有り」から抜粋された言葉です。

そもそも徳とは何か。

言葉で語られる徳というものは、形があるようでなくなんとなく一般的に人間では善行のことを指すように言われます。しかし実際には、自然界で行われているような当たり前のことを実践することをいうように私は思います。

それが徳の本体です。

この当たり前に行われているというものは、この淮南子の文中においては山が雲を集めるように、水が深くなると龍を生むように、君子が道をつくるようにと書かれます。つまりは、自然にその徳が循環することをいいます。

そもそも相互扶助という助け合いや思いやりは、弱者のためだけに存在しているものではありません。これは本来、徳を積むものたちで自然に発生してきたものです。この自然に発生するということは何か。それは本能によって行われてきた自然的なものです。別の言い方では、野生的なものです。

私たちの所属している宇宙や地球は徳が循環することでいのちを分け合うシステムが働ています。これは身体の中を分析してもわかるように、全体が一つになって助け合うことで身体を維持しています。現代の医療は、分類わけして臓器を一つずつみたり、専門分野にわけてそれぞれの部位や病気などを診断する仕組みですが臓器が一つ壊れたら他の臓器との連携ができませんから体も壊れます。これは身体の話ですが、自然というものは本来そういうものです。

もともと何がいのちの正体で、どこからきてどこにいくのか。そういうものは哲学のようにいわれますが私からすればそれは徳の話です。本当の幸福や喜び、そして安心や永続はこの徳を拠り所とすることで得られるように私は思います。

歴史上、今の時代こそ、徳が必要な時代はありません。

同じ思いの人たちをどう集めていくか、試行錯誤の連続ですが目覚めて活動する人が増えるように道を丁寧に切り拓いていきたいと思います。