それぞれの生態系

季節が変わり始めると、動物たちも活発に活動します。特にこの時機は、猫をはじめアライグマなども繁殖期のために夜中に動き回っています。特殊な鳴き声や足音が聞こえるので田舎だと気になって寝不足になります。

それぞれの動物にはそれぞれの生存戦略があります。他とあまり被らないようにして、安全が確保できるタイミング、あるいは餌が豊富にある季節。温度なども計算して、もっとも相応しい時期を選んでいます。

生息場所が少しずつ減っているからか、害獣駆除も増えています。人間の都合で害獣として駆除されていきますが、むかしはそれぞれに居場所がありエリアがありうまく共生できる関係もあったように思います。

生態系が崩れ、環境が変わればむかしのようにはいきません。

最近、スズメも激減しているようで家の周囲に住む場所がなくなりお米などの稲作の環境もなくなっているのも影響があるようです。今いるいきものたちは、本来はむかしからの環境を引き継いで今もある一定以上の数が存在しています。それが減るというのは、それだけ環境がむかしと変わったということの証明です。

生態系は見事に調和していましたから何かが減れば、それにつながっているほかのものも減っていきます。今の人類の環境だと、どのような生態系になっているのか。想像すると歪な形になっているのを感じます。

生物多様性の調和は、いのちの調和でもあります。

子どもたちと一緒に将来の生態系を考えながら、今できる場づくりに取り組んでいきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。

 

そのものの味わい

そのものの味わいというものがあります。この味わいというのは感覚ですが、言葉にできるものではありません。一般的には、料理などでも味わっていますが私たちの感じる味わいにはただ舌先だけで感じているものではありません。

ありとあらゆるものを味わうことができるのです。それは複雑な味わいであり、奥深さがあるものです。ではそのものの味わいとは何かということです。

昨日、伝統野菜の堀池高菜を井戸水を汲み上げ炭火で沸騰させずに3時間ほどゆっくりと煮込みました。そのスープの中には、堀池高菜のそのものの味わいがすべてとけだしていました。水や火、そして古い鉄鍋などはそのものの素材の味を引き出していきます。

極力、自然にそのものの味を邪魔しないようにしてくれるのが水で火です。私たちはそのものを感じることで、いのちの中にある何かとつながりその味を引き出してきます。つまり照合するように、同一化するように、一体化するように元々の味にたどり着きます。

私たちはこの味というのをいつ知ったのか、それは産まれる前からもっています。つまり味は徳の正体でもあります。私たちが味わえなくなったらどうなるか、それはこの地上の楽園に来た甲斐を失ってしまうものです。味覚でなくても、私たちは全身全霊で生きていること、魂を磨いていく味を感知します。味わいというのは、人生の醍醐味でもありこの世を感知するための大切な手段です。

そのものの味わいがわかるというのは、それだけシンプルに完成された味を自分も持っているということでもあります。みんながそのものの味わいの中にいることはまさに平和であり調和です。

暮らしフルネスは徳を顕現させ、徳に気づくことで仕合せの道を拓いていく一つの方法です。子どもたちのためにも、その初心を伝承していきたいと思います。

伝統野菜の本質

伝統野菜というものがあります。この伝統野菜は在来品種で地方野菜とも呼ばれているもので明確な定義はありませんが日本各地で古くから栽培されてきた在来種・固定種のことです。

長い時間をかけてその土地で種を繰り返し自家採取して育ててきた遺伝資源でもあります。この遺伝子は、一度失われると二度と元に戻ることはありません。伝統文化の伝承もですが、それだけ貴重なものであるのは間違いありません。

現在、この伝統野菜はスーパーなどではほとんど残っていません。それは戦後に、野菜生産の工業化、F1という改良した種により均質な野菜を中心にした標準化、さらには自家採取をやめ種子販売が中心になったことで伝統野菜は消えていきました。

私が取り組む伝統野菜、堀池高菜もほとんどが大手の種子メーカーが改良した高菜の種になったことで地元でも育て自家採取する人がいなくなりました。その地名になった堀池も、ありとあらゆる大手のフランチャイズ店や飲食店、お菓子屋から薬屋などが乱立し田んぼや畑もほとんどなくなりました。高菜も大量生産の仕組みにあおられ、中国産が入ってきて価格が崩れむかしからの伝統の老舗漬物店もすべて廃業していきました。そして地元の食文化であった高菜離れも進み、戦前戦後は必ず食卓にあがっていた高菜もほとんどなくなり今では一部の農家や飲食店で使われるほどです。

本来、野菜は買うものではなく育てるものです。それは人間も同じです。みんなで育つ中でお互いに必要とし合い成長していきます。それが風土であり、故郷です。自分がどこで何を食べて生きてきたか、その生育歴こそが今の自分です。

人間も本来は、その土地の伝統的な人間であったものが均一化する教育と食事、そして改良された種、そして自家採取ではなくどこかで買ってきたものというようになるのが常識になるのは本当に残念なことですし不自然なことです。

この先の時代、様々な環境の変化、気候変動に対応できるのかと考えたときのリスクは計り知れません。だからこそ多様性や遺伝的な強さを持つそれぞれが個性を発揮することで何かあったときにこそお互いに活用し合い助け合って生き延びようとしたのが共生してきたいのちたちの戦略だったはずです。

一番危険なのは目先の安心安全などに翻弄され、本当にやってくるリスクに備えないことです。だからこそ、今の時代、原点回帰が必要だと私は感じます。言い換えれば常に原点を持っている存在が必要ということです。それが伝統であり文化なのです。

私は堀池高菜を守っていますが、同じようにこの土地でその伝承をする仲間を集めていこうと思います。子どもたちに、未来もかつてのむかしと同じような安心安全を推譲していけるように取り組んでいきます。

永遠の今

本日は、妙見神社(ブロックチェーン神社)の4回目の例大祭です。この日は、この神社創建の日であり一年で最もハレの日として盛大に御祭りをしています。ここの神社にご縁ある方、いつも見守っていただいていると感じる方々と共に神様を喜ばせるような清々しい一日を過ごしています。

よく考えてみると、一人の人から祈りがはじまりそれが長い歳月を経て多くの人々が祈る場所になります。この世のすべての神社や仏閣もまた、同様にはじめは一人からはじまったものです。

今では当たり前にどこの神社でも寺院でも参拝できますが、むかしはそこには何もありませんでした。そこに一人の人物が覚悟を定め祈りはじめそこから祈りは広がり子孫をはじめ今も祈りは続いています。

この祈りこそバトンの正体であり、その祈りを通じて私たちは大切な初心を伝承するのです。この祈りとは、まさに行そのものであり今でも実践を通して太古の人々、親祖と呼ばれるはじまりの先祖の真心に触れることができます。

私はご縁があって神社創建の機会をいただき、むかし人がどのような気持ちで信仰をはじめようとしたかも体験させていただきました。ずっと永遠を願い祈ることは、永遠の平和と仕合せをいのることでもあります。

ここは秩父神社から八意思兼神、妙見神社から闇雄神の御霊に御鎮座いただいています。智慧を司る神様と水を司る神様です。不思議なことですが、同じ想いで繋がっていくからかその祈りと共に歩む方々ばかりがこの場に来ていただき一緒にお祈りや御祭りをするようになりました。

今でも私たちは歴史の中にいて、むかしからずっと今にして祈りを続けています。連綿と永遠に道は続くのです。

その大切な日を忘れないことはハレの日を常に甦生し迎え続ける目出度い真心の養生です。みんなで喜び合い仕合せを感じることこそが、この例大祭の本質ではないかと感じます。

永遠の今を味わい、一期一会の喜びに感謝していきたいと思います。

季節の巡り

明日は、節分でいよいよ2月4日は立春です。二十四節気もここからはじまります。私は自然暦というものを直観して暮らしをするのでこの時機は自分の季節感覚を初心に戻す大切な期間としています。

二十四節気は季節を感じるのにとてもよく、自然が今どうなっているのかを意識的に観察できます。ちょうどこの立春までの間はは最も寒さが厳しい大寒というもの。そして立春の期間を過ぎれば天候は雪から雨へと変わり雪解け水が大地を潤す頃という意味の雨水になります。すでに三寒四温が繰り返され、朝晩の霜も降りず大地は次第に水気を帯びてきています。

春というのは、すべての生き物たちが夏に向けて準備をはじめていきます。5月の節分を迎える初夏のころには新芽が旺盛で一斉にすべての生き物たちが子孫繁栄のための成長を開始します。春は、まさに長く厳しい冬を超えたいのちが福をいただきお目出度い心のままに目覚めるのです。

私の家の近くでも野良猫たちが騒ぎだし、池の畔の鳥たちも賑やかです。

気が付かないだけで周囲はみんなそれぞれの役割や役目に集中しています。本来、人間は他人のことばかりに時間を使わずに自分自身に集中していく必要があるように思います。自然、野性の生き物たちは、自分自身の直観に正直で素直です。

その季節季節の巡りに対しても今、どうあるかを直観で判断して行動しています。そんなに頭でっかちに考えていることなどはありません。頭は悪くても、行動力と直観力があるのが野生です。

今年は野生の勘というもの、自然の直観というものをどれだけ優先できるか。それをさらに磨く一年にしていきます。英彦山とも再会し、歴史とも出会い直し、修験道や自然道も拓きました。

新しい一年を迎えるまで、心を調えてこれから掃除を味わいます。懴悔懴悔六根清浄して、また新たな道を一歩一歩開いていきたいと思います。

野性を磨く

冬の山奥深くに入ると、生きものの気配がありません。静かな空気と冷気に包まれ、聴こえてくるのは水の音くらいです。この静寂は、動いているものの気配を引き立たせていきます。光や風もまた無為の様相です。

自然の美しさというものは、この静寂なかに直観するものです。野生の生き物たちは、自然に寄り添い自然と共生します。つまり野性とは何か、それは自然と一体になっている存在の物です。

いのちの危険に晒され、いつ死んでしまうかもしれません。安住安楽ではなく、常に緊張感をもって全神経、全感覚を研ぎ澄ましています。身の危険を感じれば、すぐに行動をし対応します。頭で考える暇などもなく、すぐに行動しなければいのちを失うからです。それを人間であれば野生の勘とも呼びます。しかし本来は、この全神経、全感覚をフル稼働していたのは原初の人類です。そういう危険がなくなってくることで、その野生の勘も不必要になってきました。そのことから生きる力も、現代社会で生きるための知識などに変換されてきました。日常は、情報化社会で常に知識を得ては未来を話し合うばかりで何も変わりません。

本来の危機感は、行動を伴うものです。危機だと言って何もしないのは、野性が失われているからです。動物は直前の危機は回避しますが、長い目でみて危機を事前に察知しそのために地道に改善を続けていくことが人類の知恵でもあります。しかしそのどれもが野生がなければ成り立ちません。

現代は理性も知性も磨かれていますが、野性はどうかというと反比例して減退しています。自然災害や人災によって地球が危険な状況になっていることがわかっていても、それが打開できないのは野生が失われているからかもしれません。

本来の野生から考えて、今、どう生きるのかということを直観することは自分自身になり自分を生きるためにも大切なことのように思います。引き続き、自然に学び野性を磨いていきたいと思います。

天命を楽しむ

天命というものを実感する人は、泰然自若として焦ることもありません。その人たちは天命を楽しみ、今に生きています。言い換えれば、天命を自覚しているということでしょう。天命というものは何か、これは中国古典に色々と記されます。一般的には、天から与えられた寿命、そして天から与えられた命令ともいわれます。

つまり天という、人間ではどうにもできない宇宙や神のような存在がありそこから命令を受け命を授かって今の自分があるという思想です。私たちもどうしようもない事実を受け容れるとき、これが天命だったという言い方もします。時間があるのなら、あるいは偶然の組み合わせでというような人知では及ばないことが発生した時に使います。

そもそも人知で及ぶ範囲というのはどこまででしょうか。目先の手が届く範囲くらいでしょう。実際には、無限の組み合わせと結びつきで今は変わり続けます。人の出会いも、また自分の呼吸も、その決断一つで変化を已みません。呼吸している間中、何か私たちは天命を感じるものです。心臓の鼓動が止まってしまえばそこまでで天命、あるいは自然災害や人災に巻き込まれてしまうのも天命ともいえます。ではどうにもならないことだから、何もしないでいいということかというとそうではありません。

この瞬間も心臓は動き、血液も流れ、生きています。どういう結果になったとしても、そこまで最善を盡すことが与えられた天命を楽しむということでしょう。

中国の易経にこういうものがあります。

「與天地相似。故不違。知周乎萬物而道濟天下。故不過。旁行而不流。樂天知命。故不憂。安土敦乎仁。故能愛。」

意訳ですが、天地はあるがままである。これはすべてにおいて自然であり真理でもある。だからこそ、私たちは天を楽しみ命を知るだから憂えることもない。天に対して地球が安心してすべての生命を真心で包むように、私たちもそうあればいいと。

あれこれ迷い惑わず、じたばたと焦らずただ日々に天地自然の真心と一体になり自分を盡することを楽しむこと。それが天命であると。

天命という言葉は、今を生き切ることにとても楽天的に感じられるものです。

最後の瞬間まで、どれだけ天命を生き切ることができたか、楽しむことができたか。それが本来の人生の妙味であり醍醐味です。

色々と世の中の流行や変化、社会の評価や人の意識や動向に影響を受けますが、実際には天命とは何の関係もありません。天命を生きるのは、豊かに仕合せに楽しく、自然が元氣で快適であるような心と一体でいることかもしれません。

今日も天命を楽しみたいと思います。

暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。

 

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。