生き方の病気

人は知らず知らずに病気になります。その病気は、肉体だけでなく人生の生き方の病気というものもあります。この生き方の病気というのは、魔が差すような甘い汁を吸ってしまうことが当たり前になってしまったり、肉体であれば便利すぎる環境で生活習慣病で自堕落したりするものもあります。常に心身を身ぎれいにし、日々に調えていくことは、本来の健康とは何かを磨き続けることです。

つい自分の都合で周りがやっているから自分も大丈夫だろうとしたり、誰かのせいにしてその仕返しにと勝手な正義を振りかざしてしまうと何が真に正しく、何が本質なのかもわからなくなってしまうものです。うまく見せようとしたり、周囲への見せ方がうまくなってくると嘘で塗り固めているうちに嘘が本当のように勘違いしてしまうものです。

生きていれば必ず周囲の影響を受けてしまいます。それくらい今の時代は、純粋性を保つことが難しい時代ともいえます。例えば、食べ方一つ、お金の稼ぎ方一つ、日々の過ごし方、人への接し方、暮らし方などはすべて生き方から出てくるものです。自分の生き方が、歪まないようにするには自分の初心を確かめたり、周囲に耳を傾ける謙虚さがあったり、間違っていないかと畏れたりと、平常心を意識して反省し改善を続ける必要があります。それでも必ず知らず知らずに無意識に歪むものです。人間はそういうものです。すると何かしらの出来事があって、半強制的に反省させられるものです。そしてその時に反省して悔い改めても、それがきちんとすぐに実行、改善され続けられなければまた同じことが別のカタチになって繰り返されるのです。

王陽明にこういう言葉があります。

『反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。』

薬だけで治るのではなく、本当に自分が治すのだと決意して生活習慣病や生き方の方を改善しなければ必ずまた同じことが別のことで発生するということです。周りに流されたり周りのせいにする前に、自分自身が自分自身を正し続けるという修養に集中するしかありません。

ある意味、人は誰でも失敗や後悔を通して人は生き方を見つめ直す機会を神様や天に戴きます。それはとても恵まれていることで、いつも見守られているともいえます。その時に、本当に素直な人は気づいてすぐに反省し変わります。人は変わる生き物ですから、その時々に変わったものが真の価値なのです。

失敗や後悔をして別の方法を探す前に、「もう二度とこの生き方はしない」と心に決めて後は行動、実践していけば改善が福になり運も善くなります。運が善くなるというのは、自然の運行、天地の道理にかなってくるということです。

自分が真に自分らしく自分の道を歩んでいくためにも、反省させていただけることに感謝して謙虚に素直に改善していきたいと思います。

ありがとうございます。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

伝承の結

昨日、郷里の偉人でながのばあちゃんという名称で有名な長野路代さんとお会いしました。聴福庵に来庵いただき伝統や伝承の話を私たちのスタッフたちと4時間ほど語り合いましたが目的や想いを共有することができとても仕合せなお時間になりました。

また私が大切に育ててきた伝統固定種の堀池高菜を食べていただき、とても褒めていただきました。この高菜とのご縁のキッカケには深い悲しみがありましたが、供養で続けてきたいのちがこのタイミングで甦生していることに不思議さと有難さを感じています。

長野さんは、そのものがもつ素材本来の美味しさをつくりだしていくことに長けておられます。その加工の方法は現代の単なる大量生産のときの人工的な加工とは異なり、自然そのものを自然の知恵をつかって自然に加工をする方法を取ります。それは例えば、その地域独特な環境や風土、そして先人の知恵を結集してそのものがどうやったらさらに美味しくなるかを追求するのです。

想えば、先人たちはその場所にはその素材しかないものを工夫してどうやったら最高の状態で人々がその価値を味わえるかを追求してきました。それは魚、植物、木の実、野菜、野生動物や昆虫、あらゆるものをその土地にしかない味としてその素材を活かしきろうと創意工夫をしたのです。

本来の特産品というものは、他所からもってきて借りたものではなくその土地にしかないもの、その風土でしか味わえないもののことです。その価値をどう磨き上げるかというのが先人たちの伝統でした。その伝承をしっかりと受け継がれ、今でも時代に合わせて創意工夫をされている長野さんの経験や知恵はそのまま伝統食の根源と呼んでもいいものでした。

本来、調理というものはどういうものか、和食というものはどういうことか。その根源を突き詰めていけば、ある場所に辿り着きます。その場所は、日本人と日本の心、そして日本の風土であることは間違いありません。

私たちは今まで唯一無二の歴史を辿りそのなかで伝統を伝承してきました。それは、加工技術の中にも垣間見れます。例えば、私の取り組む漬物の伝統もどうやったら美味しくなるか、自然のもつ素材を味わいきるかを考えつくした形が今のものです。さらに言えば、今の高菜は改良された現代のものとは異なり歴史をもったあるがままの姿です。これ以上ないほどに完成されている自然体の高菜ほど見事なものはありません。

私は自然農でずっと育てていますが、この伝統固定種の高菜の御蔭で高菜とはここまで美味しいものだったのかということに気づいて感動し涙しました。これも伝統を受け継いだからこそ感じる実感です。他にも、私は古民家甦生をはじめあらゆる日本の暮らしを甦生していますが仕合せに包まれる豊かさに感動することばかりです。

私たちは日本文化という宝を持っています。その日本文化を語ることなしに、何を語るのか。その原点を忘れてお金儲けや便利さばかりを追求すれば、私たちは和食というその伝統も失うように思います。

子どもたちには、本物の調理、本来の日本の伝統を伝承していきたい。ますます私の覚悟や意識を再確認できました。この出会いに心から感謝しています。これから、この場所から伝承の結をはじめます。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

人類の甦生

自然というのは毎日変化しています。変化しないものはありません。人間はあまりにも人工的なところに甘んじていくと、変化することを避けるようになるものです。例えば、都会にいけば冷暖房も完備され、大きなビルなどは総合空調です。毎日、建物の中に入ればいつもの温度でいつもの部屋、ビルに入っている飲食店も季節感などはなくずっと同じメニューです。そこに変化はほとんどなく、たまに何かお店が入ったり、人が変わったりすれば変化したと思うくらいです。

このような状況の中で日々を過ごしていると、変化しないことの方が当たり前になっていきます。先ほどのビルの総合空調であれば、温度が少しでも寒いとビル管理に連絡して寒いので温度をあげてと連絡します。昨日と比べて少しでも異なったことが変化ということになるのです。つまり人間は、自分の設定したいつもの状態であることの方が当たり前となってしまうとそうではないことがおかしなことになっているということです。

しかし自然界を観ていたらどうなっているのか、毎日、気候も温度もすべての自然物たちは季節の巡りで変化していきます。特に今の時機は三寒四温で日々に寒暖の変化が激しく、また植物たちも次々と芽生えてきています。その季節の巡りにあわせていこうとすると、毎日が変化です。常に変化する方が自然で当たり前になっているから、その状態に自分を合わせていくことの方が当たり前なのです。

この当たり前の違いというものが、自分の意識にとても大きな変化をつくります。人工的なものが当たり前の常識と、自然的なものが当たり前の常識とでは使っている感覚が異なるからです。前者は脳みそで少し考えて対応すれば終わりですが、後者は全身全霊と感覚を駆使しなければなりません。前者は変化しなくても済みますが、後者は常に変化でいないといけません。

生きる力というものは本来、地球で生き残る力です。大きな災害があったり、あらゆる自然の猛威のなかでも子孫へとつなげていく必要があります。それが世代の使命の一つです。

今の時代は、人工的な環境をつくり変化を止めてあらゆる生き物たちが絶滅しています。人間には都合のよい環境でしょうが、自然にとっては生きていけない変化しない環境を与えられます。自然と共に生き残ろうと選択してきたからこそ、人間の人工化に適応できないのです。

この先人類はどうなっていくのでしょうか。

子どもたちのことを思うと、変化することの大切さを真の意味で学ぶ場が必要だと感じます。私が暮らしフルネスに取り組むのもまた、その理由もあります。そして生き残るというのは実は仕合せになるということに似ています。ただ生きるのではなく、変化と共に生きることの仕合せがあるのです。全身全霊の感覚を使うことはいのちの充実でもあります。そうやっていのちが結ばれつながり地球と共にあるという安心感は格別であり唯一無二のこの世の楽園です。

子どもたちのためにも引き続き、人類の甦生に取り組んでいきたいと思います。

カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

それぞれの生態系

季節が変わり始めると、動物たちも活発に活動します。特にこの時機は、猫をはじめアライグマなども繁殖期のために夜中に動き回っています。特殊な鳴き声や足音が聞こえるので田舎だと気になって寝不足になります。

それぞれの動物にはそれぞれの生存戦略があります。他とあまり被らないようにして、安全が確保できるタイミング、あるいは餌が豊富にある季節。温度なども計算して、もっとも相応しい時期を選んでいます。

生息場所が少しずつ減っているからか、害獣駆除も増えています。人間の都合で害獣として駆除されていきますが、むかしはそれぞれに居場所がありエリアがありうまく共生できる関係もあったように思います。

生態系が崩れ、環境が変わればむかしのようにはいきません。

最近、スズメも激減しているようで家の周囲に住む場所がなくなりお米などの稲作の環境もなくなっているのも影響があるようです。今いるいきものたちは、本来はむかしからの環境を引き継いで今もある一定以上の数が存在しています。それが減るというのは、それだけ環境がむかしと変わったということの証明です。

生態系は見事に調和していましたから何かが減れば、それにつながっているほかのものも減っていきます。今の人類の環境だと、どのような生態系になっているのか。想像すると歪な形になっているのを感じます。

生物多様性の調和は、いのちの調和でもあります。

子どもたちと一緒に将来の生態系を考えながら、今できる場づくりに取り組んでいきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。