いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

道中学

今の私のことを振り返ってみると、過去に出会った人の影響を受けて形成されていることがわかります。素晴らしい生き方をしていた憧れの方々、あるいは反面教師にした方々、自分がどう生きたいかということを思いここまで来ました。

思い返せば、生き方というものが人生を決めるもっとも大切なものであることに気づきます。そのわりにあまり語られることがないのもこの生き方というものです。そして生き方が決まれば、次はあり方が決まり、そして働き方なども決まります。最後は死に方というものも決まるのです。

私たちは産まれてきて死ぬまで日々にどう生きるかということを問われ続けています。未来のことを憂うばかり、過去のことを後悔するばかりでは今に集中することはできません。今とは、日々のどう生きるかの答えです。その答えを日々に生きていくのだから、一生懸命である以外はありません。

一生懸命とは何かということを考えていると、全身全霊という言葉が浮かびます。全神経、五感総動員して全集中するという具合です。直観も働かせ、イキイキと青春の今に存在するのです。

サミュエルウルマンの誌にあるように、心の若さを持ち続けて学び続けて已まない人生が一つの一生懸命というものでしょう。どうしても日々の目先のことに流されていると、次第に流されて大切な初志や理念、初心を忘れてしまうものです。

そうならないようにと振り返りをして、また今日を再スタートする。いつも新鮮で創造する一日であるのなら、人生は常に青春そのものということでしょう。

私の尊敬してきた人たちはみんなそんな日々を生きてきました。どんな日々も自分の志を磨き高め、そして夢に前進していると学び続けておられました。亡くなるその時まで、感謝と青春の学びの日々です。

憧れた人たちのように今を生きる。

先人も同じような日々を送ってきたと思うと、今も一緒に心の中で歩んでくださっていることを思います。道中の出会いやご縁をいつまでも大切にしていきたいと思います。道を歩む日々に心から感謝しています。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には厳しいけれど豊かな環境のなかで恵みに感謝しながら土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

丁寧な心

時間を経て、あった出来事を振り返っているとそれがどのような思い出であったかが分かってきます。いろいろな人がいて、人間関係は紆余曲折、悲喜こもごもありますが真実は変わりません。

節目にあれは何だったのかと思い出すのはとても豊かなことです。

出会いや別れも同じように時を経て関係が変わってきます。あの時、お世話になった人もいなくなりまた新たにお世話になる人もいます。同時に今度は、自分もお世話する側にまわります。役割を交代しながら、巡り廻って助け合い存在するのです。

自然の循環も等しく、私たちはつながりや結びつき、その循環によって生きています。私のやっていることは、土づくりに似ています。土は間接的です。炭も間接的。触媒のように表には出てきません。しかしそれなくして循環を豊かにしていくことはできません。

時間をかけて土を醸成させていくのは、手間暇がかかります。しかしこの手間暇があるから、育つものたちの行く末を見守ることもできます。この見守るという行為は、間接的です。

でもよく考えてみるとこの間接的というのは、ご縁の網羅する世界であることは間違いありません。まるで神様がお導きするかのように、目に見えない世界は常に間接的に結び合ってつながっています。

そういうものに結ばれている人生を思う時、心はとても静かです。

今でも先人や先師は心の中に存在していて一緒に生き続けています。心が静かになるとき、関係の中に入っていくように思います。この世のすべては網のように関係していないことはないという事実。

それを受け容れ、受け止めて大切に歩んでいきたいと思います。子どもたちにつながっていると思い、丁寧に取り組んでいきたいと思います。

真の農家

今朝、友人の歩くラジオに出演して話をする機会がありました。この方は、東北岩手の方で宮澤賢治の故郷で育った方です。話をしながら宮澤賢治のことを思い出しました。

もともと私は賢治の残したメモの「雨にもマケズ」の文章がとても好きで、シンプルですが憧れる自分像を追いかけて歩んだ生き様に深く共感していました。私も子どもの憧れる会社をつくるということで今のカグヤを起業しましたがこれは童心を守り、道心を結ぶという取り組みでもあります。

童話や童謡、そして童心は、人類の遠い先祖であり未来の子孫の心を示すものです。ラジオの中でも「子どもは人類の先生」と言い方をしましたがこれも童心に由るものです。

宮澤賢治の中でもう一つ深く共感している言葉は、「農民芸術概論網要」のなかに出てくる「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というものです。

これは私が「徳」の話をするときによく用いるものです。徳も網の目のようになっているもので、その網の目の中に自分たちは存在しています。その存在している網の目は徳で結ばれています。

私たちは一物全体であり、全体は私でもあります。自然や地球、宇宙など言葉では文字にできますが実際には分かれたものではありません。分かれていないからこそ、もともとは一つです。その一つとは、網羅です。網羅する世の中では、自分だけの仕合せを追及しても意味はありません。

自分の仕合せがみんなの仕合せになるという、自他一体の境地を目指す必要があります。それはお互いを尊重し合い、お互いを喜び合うという繋がりや関係性の間に存在するものです。これを別の言い方では、場や間、そして和ともいいます。

日本人の先人たちは、それを自覚していてその境地をもって世界を真に豊かにしていこうと試行錯誤してきました。それが先人の暮らしの中に知恵として伝承されています。そこには偉大な思いやりと、経験や体験を遺してくださった恩徳があります。

そういうものを大切にお手入れしながら、子孫へどのように生きたらいいかを各世代が真摯に挑戦してきた御蔭様で今の私たちの暮らしがあります。そのどれもに向き合い、深く対話をし、どうあるべきかを体現させていくのは今の世代の本来の責任であり使命です。

私も農的な暮らしをしている人といわれます。暮らしフルネスは農の実践が多く、周囲から見ればそう見えます。しかし、私は徳が先でありすべての生き物たちが喜び合う世界を実現したいと願い真の農を実践しようと答えを生きています。

人類を愛し、全体を愛しているからこそ気づいてほしいと気づきを生きる。

今の時代を善く観て、何が必要でどれを活用して徳治の世を顕現させるかが真に遣り甲斐のある世代の事業でしょう。真の農家に憧れながら同じ世代を生きる仲間や同志たちと、宮澤賢治が農で実現しようとしたサンガを創造して挑戦を続けていきたいと思います。

日本語の感覚

私たちの日本語を改めて感じていると、そこに尊敬や親愛の気持ちが籠っているのが分かります。それを感じるのは「お」がついている言葉に触れるときです。

たとえば、おとうさん、おかあさん、おかげ、おれい、おちゃ、おさけ、おいのり、おひさま、おつきさま。あげればきりがないほどです。それはおいのちに対する自分の心の姿を顕現しています。

まるで自分の家族や兄弟、親子のように親しく近い存在として、また最も尊く偉大な存在として接していることが伝わります。これは自然に対する、私たちのものの見方であり、自然との接し方そのものともいえます。

むかしウェブの事業を立ち上げたときに、C3研究所として「かわいい」ということをテーマに取り組んだことがありました。日本語のかわいいは、小さくて愛おしい、素直で無垢なものが強く海外の言葉ではないものがたくさんありました。

私も古いものに触れるときに、懐かしいと感じて甦生していきますがこの懐かしいもまた尊敬や親愛の気持ちが入っているものです。

この感覚の正体はなんだろうかと少し掘り下げてみるとこれは慈母心であることがわかります。すべてを慈しむ優しい母親のような真心のことです。これは地球そのものの本体でもあります。

この世にあるすべてのものを慈しみ親しみ尊敬し愛する心、これは地球の存在です。この地球の存在と一体になることで、私たちはこの世のすべてものと一体一致する境地を得て感覚を結んでいくように思うのです。

言葉というのは便利な道具ですが、その言葉の背景には合理的ではない太古からの生き方や心が入っています。現代は、乱暴な言葉が氾濫し、心を用いなくても言葉だけで交わしている状態が増えてそれを学んでまた言葉の意味まで変わってきました。

日々の言葉を気を付けて使っていくことは、先人たちが目指した姿に近づいていくことでもあります。時代が変わっても、変わってはいけないものをよく観て気を付け、本来の歴史をつないでいきたいと思います。

自然と不自然

物事というのは分断することで問題を発生させていくものです。一般的には、分析することで問題を解析していきますが解析することでさらに問題は細分化されていきます。細分化された問題を解決してもそれは部分最適ですが、それがかえって全体の問題を大きくしたりすることもあるのです。

環境問題なども、最たるものでよかれと思ってやっていたことが実はさらに環境を悪化させたということもあります。何が自然で何が不自然かということも現代の人間社会では変わってしまっていますからそう簡単に解決にはならないものです。

私は物事を解決するための方法は、先人の知恵に従うことだと思います。長い年月、数千年、数百年続いてきた存在がどのような体験をしてどのように対処してきたか。そこから学び直すというものです。

本来、歴史というものは学校で教わるようなものではなく生きる知恵として子々孫々まで伝承されていくものです。伝承されたものを守り続けることで、困難を乗り越え、試練を耐え、生き延びていくのです。

よく格言というものがあったりもします。その格言もまた、よくみたら物事を根源的に解決するための大切な知恵であることがわかるのです。

例えば、あるインディアンの教えに「7代先のことを考えて決める」というものがあります。約300年先にどうなるのかと思慮して決めごとをするというものです。これも環境問題が部分最適にならないための知恵に溢れています。時間をかけて地球は循環しているのだから、今のことに対処ばかりしていても物事は解決しません。というより、そもそも解決することもなく問題も本当はありません。本来は、自然であるだけです。

自然を尊重して、自然と共生していく世の中であれば問題もそれは必然になり自然になります。

子どもたちには何が自然で何が不自然かがわかる感性や知恵を学び、これからの未来で何が必要になるかを伝道していきたいと思います。