経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。

御蔭様の文化

私たち日本人の感性は、御蔭様の文化で磨かれてきたものです。この御蔭様というのは、光でいうところの闇、そして表でいうところの裏です。そういう目には見えないところ、目に映らないもののハタラキを観て私たちは感性を研ぎ澄ませてきました。

つまり、それが場になり、間になり、和とも変化してきたのです。これらのハタラキは、目には見えませんが感じようとすればそのハタラキは実感できます。

例えば、古民家の陰影というものを感じていれば常に目には見えないハタラキがあることを直観できます。他にも、丁寧に炭火で調理すればその御蔭様を感じますし、水もお水として大切にお祀りしていればそのお水のハタラキを感じます。そういう日々を過ごしていく中で、如何に裏側で陰になって大切な役割を果たしてくれているのか。そういうものを実感し感謝するのです。

これを農業でいえば、土のハタラキです。土が善く働いているからこそそのうえで立派な野菜が育ちます。土は目には見えませんが、土の状態がいいからこそ表面の活動は活発するのです。

またこれを人間でいえば、陰ながら支えてくださっている存在。例えばご先祖さまや家族、そしてその土地の風土や歴史、文化、さらには祈りや助け合いになどのハタラキによって自分というものが活動できます。如何に裏で陰で支えてくれているのかを知れば自ずから御蔭様に感謝できます。

この御蔭様というものは、足るを知るという価値観と思想であることがわかります。

今あるものに感謝するところから始めるということ。あれがないとか、これが不足しているとか不完全だとか言う前に、今、この状態であることが如何に有難いことかというところを起点にして自分たちがどう振る舞うかということを決めていくのです。

発展というものは、決して新しく拡大し不完全なものを完璧に仕上げていくということではありません。悠久に雄大に活動する自然のように、不完全を完全として循環してそれぞれの小さなお役目をみんなで支え合っていくことが真の発展だと私は思うのです。

そのために私たちはその御蔭様の感性を磨いて日本という風土で暮らしを研ぎ澄ませてきたのです。私が暮らしフルネスの中で、味わうのもまたその御蔭様の文化を活かした日々に感謝してどうハタラキをととのえていくかというところに由ります。

子どもたちがこの先の未来を生きていく上で、失ってはならないものは先人から大切に守られ伝承してきた生き方、磨き方、味わい方、暮らし方、ハタラキ方です。

子ども第一義の理念を守り、憧れる懐かしい未来を実践していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

水の知恵

水という存在はむかしからとても不思議です。いのちそのものであり地球を包んで循環しているものでもあります。この世の中は水が浸透し、水が巡ることで多くの生き物たちを育て助けています。つまり陰の立役者でもあり、欠かすことができないもっとも偉大な存在が水です。

しかも水というのは、目に見えるものもあれば空気中の湿度のように目には見えないものもあります。しかし明らかに私たちはこの水が通過しあうことでいのちを分け合っているのです。

例えば、雲が山に来て雨を降らします。その雨は山から流れ出て川になり海になります。そしてまた雲になり山にもどってきます。問題は、そういう水の流れを邪魔してしまうことが様々な問題を発生させます。

その代表的なものがダムです。水は本来は非常にシンプルで本質的な循環を産み出します。山から最初に流れ出てくる水が清らからで新鮮な水として流れ出します、山の麓ではその水を好む生物たちがその水の恩恵でいきいきと活動します。川エビやカニ、ヤマメやアユなどもいますし他にもその周辺には清流を好む存在がいます。そこから川に流れていきますがまずここにダムをつくればその周辺の生態系が変わっていきます。

水はすべての生命を通り、その生命を通る過程で必要ないのちを透過しながら次の養分へと結びます。水には、他のいのちと結合するという徳目がありそのすべてを通ることでいのち全体の流れを結ぶのです。

この結び目には、それぞれが水と共に生きる記憶があります。水がその記憶の間を伝いながら悠久の時間をかけて活動しているともいえます。つまり水は言い換えれば偉大な記憶装置のようなものです。記憶を留めて記憶を循環させていくことで、私たちはご縁の世界を生き、すべてを中和させていきます。

水には不思議な力がありますが私たちはまだその一端を知っているだけです。当たり前すぎてわからなくなっていますが、本来は水は神秘の塊です。

今回、鏡師と一緒に過ごしていくなかで改めて水の持つ神秘的な力を実感することができました。水にうつるあらゆる真実を深めて、子どもたちにその恩恵の偉大さを伝承していきたいと思います。

水の本質

昨日から鏡師の方が来て色々とお話をお伺いしています。どの話も新鮮で目から鱗のことばかりです。そもそもの存在が何のハタラキの支えがあって生きているのか。そして水がどのように結合し変化してこの世を循環するのか。水を知り尽くしておられる方のお話をお聴きし、私が好きな炭の話に通じる物ばかりで得心がありました。

もともと磨くという行為は、掃除を通して学びます。掃除をしているのは自分ですが、その掃除する対象や関係において磨かれているのが自分という体験をします。どの深さで掃除をするのか、どの高みを志して磨き合うのかでその行為の持つ密度も内容も変化してきます。

不思議ですが、自分の心のありよう、そして実践の純粋さや想いの透明さによってその結果が変わってくるというのがこの世の真実かもしれません。目に見えない世界と目に見える世界は常に表裏一体でこの世とあの世を融和しています。

その融和した世界において現代の私たちは常にその表面上のことでしか理解しないという仕組みになっています。しかし必ずそこには、裏でまた蔭で働く存在がありその隠れた存在のハタラキこそが表を創っているのです。また言い換えるのなら、表のハタラキで裏を支えることもできるのです。

これは私の目指している徳積み循環の道徳経済の話と一致しています。そもそも徳は陰徳といわれます。陰でハタライテくださっているから徳は陰徳です。そして表面に出てきているのは恩ともいいます。恩に報いることで徳を積むこともできます。

私たちの先祖は、常に知識や目に見えるだけで判断せずにそれが長い時間をかけてどのように循環していくのかを観ていました。つまりいのちの流れ、そのものが循環していく時にどのように全体を支えていくのかという徳の好循環を邪魔していないかを確認していたように思います。

例えば、自然循環でいえばダムをつくり堤防を用意し川をセメントで固め、汚水などを洗剤で洗えばどうなるか。生き物たちは水の恩恵を享受されることなく海に流れます。すると海が循環しない死んだ水を処理しなければならず、あっという間に海が弱っていきます。海が弱れば雲も弱り、水全体がいのちを失っていくのです。

水の浄化力というものの、増幅させ元氣にしていく循環と病気にさせ弱体化させていく循環があります。水があらゆるものを許容して受容し、それを全体がよくなるように繋ぐ役割です。水がどのような性質を持っているのかを知り、水をどのように活かすのかを考えたのが本来の治水ということでしょう。

ただの水害対策ではなく、お水を尊重し尊敬してその陰のハタラキに感謝していたからこそ人は謙虚でいられたのかもしれません。まさに今の時代、絶滅という言葉がよく飛び交います。なぜ絶滅したのか、それを掘り下げれば必ず水の問題にいきつくように私は思います。

子どもたちのためにも水を学び直し、自ら変えていきたいと思います。

竹垣の修繕

昨日、聴福庵の竹垣の修繕を行いました。毎年、2回ほど柿渋を塗り棕櫚縄で結び直したりしていましたが少しずつ傷んできます。蔓が巻き込んで壊したり、雨風でどうしても木材が腐食してきます。竹も時間が経てば、表面にざらざらと埃がついたりして傷みます。

お手入れをしていくことで長持ちしますが、油断していると急に壊れた気がしてきます。しかし実際には急にというのはなく、心を籠めて丁寧に観察していればどこが壊れてくるかなど次第にわかり早めにととのえておけばお手入れも少しで済みます。

もともと現代はやることが多く、少しでも気を抜けば忙しくなってしまいます。暮らしが消費に傾いていて、消費することで経済を活性化するというモデルですから世間の空気がそういう消費やスピードの空気です。特に都会に住めば、この空気はさらに密度が濃くなります。何かをやっていないと不安になるかのようにあらゆるものに手を出していきます。情報化がさらにそれに拍車をかけていきます。

本来、自然のリズムで生きていけば自然の循環を身近に感じてどのようにお手入れをしていけばいいかを暮らしをととのえながら組み立てていきます。それは今ではむしろ正反対、自然の利子で得た分をどうみんなで分け合うかという発想になります。なければないなりに工夫し、あればそれを使って修繕をしたり未来への徳を譲る活動をしてきたのです。

話を竹垣に戻しますが、聴福庵の竹垣は透かし垣です。もう一つの和楽の竹垣は遮蔽垣です。境界を示し風通しのよいものと、お庭の目隠しやプライバシーを守る意味もあります。

竹は天然の素材で毎年間引いていくことで美しい竹林ができます。またタケノコなども美味しく、旬を味わい健康にもなります。間引いた竹を家のあらゆるところに活用でき、しかも丈夫で長持ちし柔軟で使いやすい素材です。竹をつかった伝統工芸もたくさん出ていますがこれも自然のリズムと自然からの利子を活用した知恵です。

私たちはどうやったらこの地球で長く豊かに仕合せに暮らしていけるのかを考えて創意工夫して今があります。縄文時代より前、もう数万年も前からみんなで豊かに仕合せに生きていくためにあらゆることを実験して取り組んできたように思います。その知恵は古臭い過去の産物ではなく今でも最先端であり新しく、そして錆びつくことのない叡智そのものです。

竹垣は修繕したおかげでその場所にさらに深い愛着がわいてきます。さらにお手入れをして長持ちさせたいという気持ちも増えてきます。豊かさというものは、こういう物だけではなく心の豊かさや足るを知る感謝とともにあります。

子どもたちに暮らしの豊かさと仕合せ、暮らしフルネスの実践を伝承していきたいと思います。

自然との関わり

現在、使われている言語や言葉は今を生きている人たちの価値観で定義がついています。時代時代に人々が価値観をつくりますから使われている言葉も異なります。その言葉が正しいかどうか、ちゃんと知恵を帯びているかどうかを確認するのは元々がどうだったかが伝承されているかどうかによるものです。

最初にどうだったかを知っていて、それを継承しているのならその言葉は歴史があり連綿と流れた物語を帯びています。しかしそれをどこかの文字や教科書でイメージで学ぶと本来のその言葉の意味も誤解していきます。

みんな誤解している言葉を使っているから、この世の中は思い込みばかりで対立も争いもなくなりません。思い込みではない本当のことを知るために、私たちは言葉を学び直す必要があります。

例えば、お米といってもどのように最初はお米をつくりなぜこれを食べることにしたのか。もともと食べるということは何か、お米はどのようなものか、お米を作っているものは何か、先祖は今までどうしてきたのか、深めていけば次第に元々のことがわかってきます。そのうえでお米という言葉を使うと、その人のいうお米には力があります。つまりお米の知恵を帯びているのです。

言葉は知識として学ぶのではなく、本来は知恵として学ぶものでした。最初は、私たちはそんなに多くの言葉も知らず必要もありませんでした。合図や音だけあれば心も通じ合わせ、知恵を分け合うこともできました。それは知恵を生きてきたからです。この知恵というものは、私たちが宇宙や地球の存在そのものである証でもあり誇りでもあります。

自分というものを知るためにも知恵は必要です。知恵を学べば、自ずから原初の自分に辿り着くこともできるからです。私たちは先人たちからこの先の子孫にいたるまで、ずっと知恵を生きています。いわば、知恵に活かされているといってもいいと思います。

自然体で生きるということも一つの知恵の顕現した姿ですし、この世はすべて知恵そのもので存在していることが自然ということです。自然との関わりというのは何か、それは知恵そのものになっていくことです。

私が仙人苦楽部をはじめたのもその理由の一つです。

子どもたちに徳積み循環を結んでいきたいと思います。

滝行と龍

人はみんな感情を持っています。感情があるから様々なことを感じます。その感情は、欲望や願望などと結びついていて自分の中でも大なり小なり渦巻いているものです。その感情をととのえて本来の自分がどのように生きたのか、そしてどのように道を歩むかはその人の人格を修養することで行われていくものです。

昨日、友人のお坊さんと一緒に滝行をしてきましたが大雨のあとで水量が増しいつも以上に滝の威力を感じました。また滝に打たれているうちに、自分の中に渦巻いていたものが綺麗に澄んでいくのを感じます。

冷たい水が打たれるほどに熱くも感じ、また内面の熱が冷まされていくのも同時に感じます。

私たちの感情は、体温のように熱を帯びるように思います。たとえば、欲望も薪をくべるように火は燃え盛っていきます。穏やかな火になるには、穏やかな火でいるような状態にととのえていく必要があります。焚火と炭火もまた異なるように、どんな火を日々に熾すかによって感情もまた変わっていくのです。

滝行をしていると「龍」が関係してきます。この龍は一般的には想像上の生き物だといわれます。しかし、むかしの人たちは龍は存在しているもので雨乞いをし龍の力で多くの雨を降らせてきました。

今の日本では身近にあまり干ばつなどを気にすることはなくなってきました。しかし田畑を耕し食料を確保していたころは、雨が降らないというのは大変なことでした。川も干上がり、井戸も枯れ、田畑に水もなくなれば人間は生活することができません。

今では水道水も整備され、水のことなどほとんど心配せずむしろ大雨の洪水の方が心配されています。自然は、私たちの思っているように人間ばかりを優先することはありません。地球全体でバランスを取っていますから、謙虚に自然に祈り、水の有難さに手を合わせていたように思います。

時代や環境がかわっても、龍というものは私たちの心に存在します。その龍を穏やかにして、龍に祈ることで私たちの心の龍を鎮めて穏やかにしていくということ。滝行を通して、その場、その学びを子どもたちに伝承していきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。