徳の道

昨日は、徳積財団の理事長と一緒に故郷の御大師様の御堂で新著の写真撮影を行いました。もともと、財団をつくる切っ掛けになり、ご縁を結んでいただいた場所で初心を忘れないためにもいいお時間になり仕合せでした。

理事長と私が親戚になったのは今から2年前、偶然、この御堂の屋根の修繕をしようと私が進めているところに紅白幕がかかっており、そこに理事長の名前があったのがきっかけです。

御堂のお世話をしていただいてる方から、連絡を取って一緒にやったらいいのではないかとアドバイスされ連絡を取りました。お会いするとどこか懐かしい感じがして出自などをお伺いすると私の祖父の家の隣で育っており、お墓も隣同士、趣味も感性も似ていてちょうどその時に私が先祖のルーツを辿っていたところから一緒に市役所とお寺にいき過去帳を調べたらなんと同じ先祖の名前があって親戚であることが判明したのです。

お墓はバイパスができて失われましたが、隣同士にお墓があるのは兄弟であったこともわかり意気投合していきました。御堂を茅葺で修繕するという話は、時期尚早ということでなくなりましたが不思議なご縁で徳積財団として藁葺の古民家を甦生させるという取り組みを一緒に行うことになりました。そして御堂のお世話をしていただいていた方が、その古民家の地域の重要な人でもあり応援していただくことになりました。

また約20年近く空き家だったその藁葺を買い取り、提供してくださる方の家の玄関にもお大師様の御堂がありました。人のつながり、土地のつながり、時のつながり、信仰のつながりが合わさって徳を積むための場をととのえてくれています。

場に力が集まってくることで、その場に不思議なご縁が結ばれはじめていきます。

昨日はその意味を深く味わい、一枚の写真にいのりを籠めました。この写真は、湿板写真といって明治の頃のカメラを使いその当時の薬品の配合で撮影されます。まさに、天候や湿度や気温などに左右され、人間の五感をフル稼働して撮影する難しい技術ですが二度とない一期一会の写真が撮影されました。

色々なことが結ばれてはじまったこの日を忘れない。

そういう日々をこれからも生きていきたいと祈る一日になりました。子どもたちの100年後、そして世界の1000年後のために今私が何をすべきか。そしてどう生きるか、真摯に向き合い偉大な見守りを感じながら徳の道を切り拓いていきたいと思います。

広く明るい志

昨日、英彦山で友人のエバレットブラウンさんと一緒に法螺貝を立てました。不思議なご縁で、私に法螺貝をはじめる切っ掛けを与えてくださりさらに人生が深く豊かになりました。

まるで冒険するかのように生きるその姿に、感銘を受け新たにその生き方や学び方に私自身も多くのインスピレーションをいただいています。それにところどころ感性や豊かさ、個性に通じているところが多く、自分というものを客観視する機会にもなっています。

先日、私の役割について社内でみんなに聴いてみる機会がありました。

自分では思ってもいないようなことを言われ、驚きましたがそのどれもが道を切り拓くや、既成概念を毀すや、壁を打ち破るや、維新をするや夢に突き進むというイメージばかりでした。

確かに片時も休まずに作り続け毀し続けて歩んできました。もっといい方法はないかと、自分の直観を信じて歩み続けてきました。後悔する暇もなく、仕方がないと言い聞かせては前に前にと足を進める日々を送ります。

自分の志に嘘はつけませんから、今できる最善だけを盡します。

だんだんまた一人になり、そして孤高や孤独と生きていきます。それでも私の歩んだ後に道はできると信じて、子どもたちにつなごう、結ぼうと、誰も征かないところに向かっていくのです。

その旅路で出会う人たちは、どれくらい一緒にどこまでいけるのか。多くの人たちと出会いと別れを繰り返しましたが、長く一緒に歩める人がいたことは本当に仕合せなことです。

ここから先は、後を任せる人が出てくるのか。今はよくわかりません。しかし、法螺貝を天空に立て、大自然の山々と呼応し、その廻る木霊を聴いているとただ無意味のようなその一立てに志を立てることの永遠を感じます。

志で歩み続ける道を、自分がこの世に斃れ後人に譲るその日まで自分に与えられた天与の使命を明るく朗らかに生き切っていきたいと思います。

存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

自由縁人

ご縁を辿っていると、絶妙に未来とつながっているものを感じます。今度はそのご縁を遡ってみると、絶妙にそれが創造されていることにも気づきます。未来と過去というものをご縁を中心に観直すと面白いことが分かります。

時というものを無視してみれば、その交差する点の中に私たちが2つの側面で生きているのを感じるからです。それはワクワクして色々なことを感じたいと感情が味わうための目的、そしてしみじみと真理を悟りたいと心が味わうための目的。それが絶妙に相調和しているのです。

私たちが今に集中するといいというのは、その両方を実感することができることによって人生の妙味を実感することができるからです。

私たちの人生は、先に決められたことのように感じるのは心があるからです。そしてどうにでも変えられると感じるのは感情があるからです。心と感情が整ってくると、私たちは子どもの心のように自由であり自分であることに仕合せを感じます。

あるがままの自然と一体になっている喜びを知り、それを客観的に理解している喜びも知れます。歴史を振り返れば、この真理に気づき、真理を遊ぶところに人間の醍醐味があるようにも感じます。

生き方として運のいい人という人がいます。

偉大な何かに流されながらもそれを深く味わって楽しんでいる。行雲流水というのでしょうか。いのちの時を生きる人たちのことです。一度しかない人生の中で、今を深く味わい今に生ききる人は、心も感情も自由自在に自己合一しています。

限られた体で、限られた時間で、永遠の魂と、無限の時空を往来する旅人のような存在です。

子どもたちには、この世で迷うことがあってもまた道に出会えるように先人たちと同様に融通無碍を歩んでいきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

自由に磨く

時代の変わり目には、様々な今までの価値観や固定概念が通用しなくなり新しい常識が誕生します。一年前まではマスクは、花粉症やインフルエンザの流行の時期の風物詩のようでしたが今ではマナーとして当然に身に着けています。

他にも、テレワークや在宅勤務などと言われていてそれが特別だったことが今では当たり前になってきています。他にも、色々とありますが以前とは変わってしまっている世界に生きているということです。

これは別にコロナだけではありません、この世にはじめてインターネットが誕生し広がればそれ以前ではないし、核爆弾が発明されたらそれ以前ではなくなります。人類はこうやって時代の影響を受けては、それまでの常識と思い込んでいた社会を刷新し続けてきたのです。

人間は現実的には、自然とは別に人間のみの常識の中で安心しようとします。不安を解消するために、あれやこれやと不安にならない便利なものばかりを追い求めていきます。大きな意味では、危機感からのものですがそれが本末転倒していることもたくさんあります。

例えば、核兵器をつくれば今度は核兵器が使われるのではないかという不安が来ます。ワクチンを開発したらそのワクチンが効かないウイルスが出てくるのではないかという不安が来ます。いたちごっこのようにいつまでも、その不安を解消するために永遠に同じことを繰り返しています。

むかしの人たちは、不安を解消するのではなく自由に生きることを目指していました。自然と調和する生き方というのは、これも自然であると丸ごと受け容れる生き方です。制限のある中での自由、自然の中で許されている範囲の人間社會を謙虚に生きていたように思うのです。

その理由に、里山の循環の仕組みや、日本的な和の暮らしを体験すればその意味が理解できていきます。心が穏やかで和やかに生きていくために、固定概念に縛られず自由に生きた先祖たちの生きざまに感動するのです。

この時代は、知識や思考が何よりも優先されることが多いように思います。そこから正義やルールや評価からあまりにも緻密に膨大に囲われており生きづらさを感じることも増えているように思います。自分らしく生きるためには、何かに没頭するものが必要なのかもしれません。自分自身に没頭するようなことを通して、如何に自己の中にある恒常性を疑い、本来の自然調和の中に実践をするのか。

子どもが子どもらしくいられるというのまた、常に新しい常識ばかりを生きようと心のままでいることを肯定されているからです。成熟していく社會のなかで、子どものように生きる人たちが否定されれば常識がますます固着していきます。子どもたちが憧れる社會を目指して、心地よい常識を自由に磨いていきたいと思います。

無念無想の暮らし

先日、北海道からきてくれた友人と一緒に祐徳大湯殿の原点サウナを楽しみました。サ道の話で盛り上がり、この時代に必要な豊かさやゆとりの時間などについても語り合いました。

この方は、御実家が茶の湯のたしなみがあったようでお母さんの背中に茶の心のようなものを見てきたことがあったようです。私がこの原点サウナに5時間以上をかけてじっくりと炭火をいれて整えた話でまるで茶道のようだと感心してくれました。

また昨日、来られた方からは「一人ひとり、一件一件に真心を籠めて取り組まれている姿に自分の価値観も換えられました」と話をいただきました。1年半ほどのお付き合いになりますが、数字や時間のことなどは気にせず、ひたすら目の前の人にいつものように今を大切に取り組んでいるという印象だったようです。

今に心を籠めると書いて「念」といいます。

本当の念とは何か、それは無念無想のことだと私は思います。この時代でシンプルに言うと、何も考えないで今を味わうといっていいかもしれません。もしくは、ただ心のままに実践を続けるといってもいいかもしれません。

私にとっては無我の境地というものは、別に自我を捨てようとすることでもなく、中庸のようにバランスを保った状態であることなどではありません。自分の使命に熱中することや、ご縁を大切に一期一会を味わい盡すような中にこそ存在しているように思っています。

時代的によく呟かれる今を生ききるという言葉はきっと、心を籠めていきていくということでしょう。心を見失い、心が荒廃してきているからこそ、そういう生き方が憧れられるのかもしれません。

心は悠久であり、永遠のままです。

心を友として、心のままに歩んでいくとき、心は今にしか棲んでいないことに気づくものです。これからまもなく完成する徳積堂で茶の道にも入りますが、磨き澄み切った茶の湯に心を投影し月の雫のような深い味わいに挑戦していきたいと思います。

ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。

原点の伝承

世の中には様々な価値観というものがあります。ある人に価値があるものでも、別に人には価値がありません。人間は価値観を持っていますから、人それぞれではあるのです。

ある人にとってはそれが宝ものでもある人にはゴミにもなります。物が豊富にある時代は、そうやって価値があるかないかの影響を大きく受けるように思います。

例えば、価値観をコントロールすることで金銭的に儲けようとする人も増えてきます。当然、価値があると思うことでもそれよりも価値があるということを誰かがいうことでそれを追いかける人が増えていたりします。

当然、いのちがもっとも大切というのが本来のことですが今ではお金のためにはいのちよりも大切なものがあるとさえいう人もいます。何が本来の価値だったかも、わからなくなっていくからこの世界が整わず混沌と乱れていくように思います。

こういう時こそ、原点回帰する必要があり何のために生きているのか、何のためにやっていくのかを考えることが大切なのです。

資本主義の中で金銭的な価値の物差しばかりが走る世の中においては、原点や本質的な価値が見失われていくのでしょう。子どもが宝であったり、時間や暮らしが大切であったり、健康が重要であったりも、忘れてしまっている人も増えています。

本来の生きていく上での原点を、考え直すことで人間は何が本当の価値なのかに気づいて変わっていく勇気が必要だと思います。わかっていても、もはや止められない、変えられないというのも事実です。しかし一人一人が少しずつでも、暮らしの中で変革していけばいつか本物の価値が磨かれて原点回帰できるようにも思います。

価値を思う時、原点を思う。

子どもたちのためにも、原点を生き、原点を伝承していきたいと思います。

物は語る

今は、大量生産大量消費の価値観が当たり前の世の中ですから物をただの物(いのちのない存在)としてすぐに使ったら捨てていきます。リサイクルなども、まだ使えるからと再生しますが物であることには変わりません。

むかしは、物にも心が宿っていると知っており物のように扱わずにそこには心があると信じていました。つまり物もすべて生き物であると信じられていたのです。生きているからこそ、関心を持ち磨き手入れをして大切にしてきました。

大切にされた物は、心が通じ合いますからお互いに無言の対話を続けていきます。そして何かのご縁から結ばれ、偶然の物語が生まれます。そうやってお互いのいのちが輝き、生きていることの豊かさを共有し共感しあってこの世を彩るのです。

物が溢れてしまうことは、ある意味で贅沢なことのように思えますがその分、機会が減ってしまうこともあります。以前、大阪の藤井寺で尊敬する室礼のメンターにお会いすることがありましたが、そこは本当にすべての場所に丁寧に物が置かれ、場がイキイキとしているのを感じたことがあります。

あれだけの物をすべて丁寧に配置する配慮の仕方に、物との接し方を学んだことを思い出しました。その方は、雛人形を毎年お祀りし3000人ほどの人に無料で公開しておられますがお祀りする姿勢にたくさん学ぶことがありました。

私たちは物と接するのにどれくらいお祀りするつもりで関わっているかが問われます。物はただの物ではないと感じられるのは、物に対しての接し方がいのちのあるもの、心があるものと思って暮らしを生きるから観えてくる境地でもあります。

それを単に人間の都合のよい便利な物になれば、不便になればすぐに粗末するのでは物のいのちも見えなくなり、物がゴミのように扱われて捨てられます。都市のいたるところにはゴミ山だらけです。ゴミばかりが毎日、大量に捨てられ便利なものばかりに囲まれて生きることは果たしていのちは仕合せなのか。

子どもたちに譲りの遺していきたい未来のために、今の生き方を見直し、物を手入れし磨き直して大切にしていきたいと思います。