紙垂から学び直す

神社建立後、改めて神道の様々な神具やそれまでの文化を深め直しています。例えば、しめ縄一つ、神棚一つ、紙垂一つをとってもそれまで疑問も覚えなければ意味を深めようとはなかなかしないものです。人間は、空気や風、土なども当たり前に生まれてから接しているとなかなか疑問を持ちません。しかしそこには大変な意味があり、深さがあり学ぶことが多くあることにすぐに気づきます。

私もこのブログの御蔭で、日々の内省から発見したこと気づいたこと、学びたいことを深める機会になっています。子どもたちに深めることや調べること、学び直すことの面白さやその意味を少しでも感じてほしいと感じるものです。

話をもとに戻すと、神道や神具は歴史の中で少しずつ追加されてきた作法です。

そもそも古神道はほとんど自然そのものですから今でいう二礼二拍手一拝などもありませんし、神社や祠すらありません。自然の存在そのもの、精霊そのものに対するいのちに対して畏敬の念をもち祈ることでしたから形式のものはありませんでした。

そう思うと私たちの民族の遺伝子には、自然崇拝といった八百万の神々を暮らしの中で感じて祈りながら共生するという文化が最初から在ったということです。そこから宗教的な神道になり、次第に様々な形式が出てきて同時に様々なお祓いや祭祀などの神具が出てきます。

また目に見えるように境界線に結界を意味するものを用意したり、実感できるように作法を整えていきました。忙しい現世で心を取り戻すために様々な工夫や知恵の一つだったのでしょう。

私たちはありとあらゆるものが五感や六感で感じなくなるのと引き換えに科学を発展させてきましたから道具の歴史はそれを物語ます。

今回は、「紙垂」の意味だけでも整理するとこれは聖域を示す神具です。この紙垂のはじめは日本神話の神代天石屋戸条(しんだいあめのいわやどのじょう)が由来でそこに紙垂の原型「丹寸手(にきて)」が出てきます。天の岩戸の話からずっとこの紙垂は出てきますから長い歴史を感じます。

またこの形状は、白い紙を交互に切り割くことによって無限大を表わし無限大の神威を一片の紙に象徴するもの。そして宮沢賢治が花巻農学校で教鞭をとっていたころの話では「注連縄の本体は雲を、〆の子(細く垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷(稲妻)を表わしている」と、生徒に教えていた。雲と雨と雷は、豊作のための不可欠な要素であり、注連縄は元来、豊作を願って神社に奉納されたと伝承されています。

私たちは紙垂を見ると、そこがすぐに聖域であることを察知します。これは自然に五感が呼び覚まされそこに何かが居られるのを直観することができるからです。日ごろは使っていない五感も、心を研ぎ澄ませていけばそのアンテナが感応するようにできています。

頭でっかちに脳だけを使っていると感覚がマヒしてしまうものです。子どもたちのように五感フル稼働で事物を味わい豊かな人生を送れるように神事から学び直していきたいと思います。

 

伝道者の育成

自己との対話というものは、自己研鑽の最も重要な実践項目です。これは一つの自分、一人の自分になるには自分というものが完全調和している必要があるからです。

私たちは生まれたての赤ちゃんの頃から3つ子の魂といわれる頃までは、ありのままの姿で自己を認識していたように思います。そこから社會を形成していく過程で他者とつながりはじめ、次第に自己を拡大させはじめます。

その中で、自己が次第に分かれていき自分中心と他者中心の世界観が発生し次第に現実が錯綜してくるものです。それは例えれば、目に見える世界が強くなればなるほど目に見える世界しか信じなくなり、目に見えない世界が強くなればなるほどに心に映る世界にしか信じなくなることに似ています。

この世には、物質的に存在している世界と精神的に存在している世界があります。これは結果とプロセスと似ていて、どちらも真実ですが大切なのはどちらも深く学び味わうという要素が必要になります。そして最終的には、和合といって現実と理想が一体善になり自然となります。

本来の自分というものを突き詰めていけば、人間は自分を深く味わうということがこの世で産まれてきて魂を磨いていのちを輝かせて天寿を全うするということになるのでしょう。だからこそどんな状況でも自己と対話を続けるのは、その両方を深く味わい意味をつけ、生死を度外視して魂を高めたいと本能が強く願うからかもしれません。

そもそもの自然界では、自己調和は必然的なものです。

自然と一体になり、すべてのいのちとつながっていますから自ずから自己調和をしています。人間は、これを知識によってコントロールするあまり現実と乖離した仮想世界を創造していくことができました。科学などその最たるもので、知識の世界そのもので現実を歪めていくことができます。自然の力の一部を取り出しては、その力によって自然を変えようとします。これがつながりを切ってしまう原因になっているのです。

人間も地球の生命の一つですからつながりを消してしまうと不安と恐怖を持つようになります。その逆にどんな時でもつながっていると信じて生きている人は安心基地を持っていて自分というものを深く信頼することができます。

むかしの人たちの暮らしの中には、つながりを大切に自己と対話を続けてきたのだろうと洞察できる素晴らしい文化がありました。現代文明はその文化のつながりを切って急速に拡大しましたが、その反動として人間の心は病みはじめています。

自己研鑽の意味も、単なるハードな修行をすることではなく愛や許し、そして自己調和に定義が変わってきています。これからの新しい時代、どう生きていくかを子どもたちに示す大人たちの存在が必要です。

一人でも多くの文化の伝道者を育成できるよう、私なりにできることを実践していきたいと思います。

自己研鑽~己を知る~

先日、野球の野村克也監督がお亡くなりました。改めて数々の名言を読み直してみると、見た目のあのぼやいている雰囲気にはない人間観察の粋を究めた考え磨き抜かれた言葉の数々があります。

人間は生き方がその遺す言葉に出ますから、どのように人物や人生を深く学び洞察して定義するかでその人の魂の真価のようなものを確かめることができます。どの道も突き詰めていけば原理原則に出会いますがその智慧はそのまま私たちの人生にも活かせるものばかりです。

いくつか深く感じ入ったものを紹介してみたいと思います。

選手時代のことは、

「京都の片田舎にある無名校から、十把一絡げのテスト生として入団した私は、最初から努力以外にこの世界で生きる術はないとわかっていました。だから連日連夜、誰よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです」

「素振りはつまらないし、回数を基準にすると続かない。私がこの単純作業を継続できたのは、振ったときのブッという振幅音に興味を持ったから。ミートポイントで力を爆発させるようなスイングができたときは、この音が短い。そして、この短い音を出すためには、力を抜いていないとダメだということに気がついた。これがおもしろくて、1時間、2時間はすぐに過ぎていきました。」

選手にはこう言います。

「努力に即効性はない。コツコツやるしかない。いつの時代にもいる一流選手と自分は何が違うのか。それを考えながらやるしかない。」

「一流の人を真似るのはプロの常識。そういう努力の中で、一流選手と自分との違いや、何が大事なのかということに気づいていく。よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです。」

監督としてはこういいます。

「選手がどういう場所で生きてくるかを気づかせるのが監督の役目でもあるんです。監督業というのは「気づかせ業」だと思っています。気づかせることが「再生」なんです。南海時代、それまで1勝もしてなかったピッチャー3人をトレードで獲得して「俺が言うとおりに投げれば間違いない」と言って3人とも2ケタ勝利で優勝。それで再生工場というような異名がつけられたわけです。」

「勝つときにはいろんな勝ち方があって、相手が勝手にずっこけたり、勝手にミスしてくれたりして「ああラッキー」という勝ち方もあります。しかし、負けるときというのは、負けるべくして負けるものです。勝負の世界にいると、勝って反省というのはできないが、負けたときには反省する。敗戦の中にいい教訓があると思います。」

監督は気づかせ業、負けに不思議の負けなし、これらの言葉はとても偉大な智慧が凝縮されています。自分と正面から向き合い、自分自身と常に対話して自己を修正してきたからこそ絞り出る言葉の数々があることに感動します。

他にも名言はありますが、私が野村克也さんから改めて学び直すのが「自己研鑽」この大切さです。自己研鑽=努力は、隠れていますからあまり表立っては評価されません。まるでそれは陰徳のようなものと同じです。頭を使うというのも、常に己を疑い己を修正し磨き続けることに終始すれば努力は離れることもありません。

野球人生を生ききった人物の後ろ姿はこれからの後人の光になると思います。

最後に、特に私が好きな言葉です。

「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。」

ご冥福を心からお祈りしています。

私たちは現実の世界とは別に意識の世界というものを持っています。量子力学が出てきてから、その世界のことが少しずつ解明されていきますが古代の人たちはその存在を身近に掴み生活に活かしていたことが遺跡からもわかってきます。

祭祀や神事というものも、言葉というものも、同様にその量子の世界、つまり目には観えない世界が働いて活動しているということを認識してそれを伝承しているものです。現代では、なぜこんなことをしてと思うことでもそこには確かに効果があるものが存在し、その効果を実感するからこそ今でもそれが大切に扱われ遺っているのです。

古代のテクノロジーというものでしょうが、それが現代になってもまだ活かされているという事例の一つでしょう。

私は、漬物や味噌づくり、そのほかの保存食などを手掛けますから発酵のことを学びます。発酵を学ぶと、そこには菌たちの世界が存在します。これは先ほどの量子の話と似ていてそれまで目には観えなかった菌があるとき存在していることを科学が可視化することによってその不思議な働きを解明することができました。

味噌も漬物も菌が活動してつくることが判明していましたが目には観えない時代は効果があることしかわからなかったはずです。しかし現代は誰しもが菌のことを知っていますから、事実がわかり菌というものを捉えています。

量子もまた存在していることがわかってくると、目には観えない波動や波長、意識や自然の気候や宇宙の原理などが次第に解明されていくと思います。そうすれば、なぜ意識が大切なのかやなぜ自然と調和する必要があるのかや、宇宙と人間の相関関係などの重要性もまたわかってくるはずです。

これは過去に効果がある理由が次第に解明されるということですが、人類はそうやって未知なるものを知識に換えてそれを使い文明を発展させてきましたからこれからもそれを続けていくと思います。

しかしあるとき、そのすべてを知った時、人はその偉大な力に対してどうするのか。扱えないほどの偉大なものを知り何を思うのか。私は知らないで感じることの方が、心地よく生きられ長く仕合せを保ち足るを知る人生を生きられるようにも思います。

今度の「場」は、道も入りますから足るを知りつついのちが働くことを謙虚に学ぶように取り組みたいと思っています。子どもたちに本当の豊かさや仕合せが持続するように、今できることを洗練させていきたいと思います。

場の道場

場の道場は、場を使いますから様々な場づくりを通して場を磨いていきます。この場が磨かれていけば、世間ではパワースポットだと呼ばれたりしています。そのまま場がただすごいと感覚でわかっても、それを説明できれなければスピリチュアル的とか、宗教だとか言われます。

現代は、ちょうど量子力学という学問が出てきます。これは原子よりもさらに小さいものを捉えていく研究です。素粒子やニュートリノといった宇宙の本来の姿、宇宙がどのように存在するかということを突き止めていく学問でもあります。

ここに「場の量子論」というものがあります。

ウィキペディアにはこう解説されています。「場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている」

そもそも素粒子をはじめ量子は空間の中に存在して絶えず活動する波長、波動のようなものです。その波のある空間を一つの「場」と見立てて、場の中にそれらが活動する舞台が存在すると定義しています。そしてこの「場」という空間を如何に高め磨くかということが私の「場の道場」の実践内容となります。場の中にある振動数を如何に磨くか、これは目には観えない波長をどれだけ研ぎ澄ませて自然と調和させられるかということに尽きます。これらの科学は、環境の科学ですが私はそれを風土ともいい、徳とも呼びます。

これらの粒子の波は、波動というものの振動数によって表現されます。無限に振動するその波長がどのような波長を放つか、その振動の波長こそ場の価値が出てきます。低周波というような、穏やかで和やかな振動数であれば場は落ち着き心は癒されます。またその逆の波長であれば心はざわつき、傲慢になっていきます。

私たちは一人一人その肉体や精神というものの中にそれぞれの「波動」と「波長」を持ち、それを積み重ねて人生を遂げていきます。しかしその人生の舞台の上には確実な「場」というものが存在し、その場を整わせていく中でまた記憶されていく宇宙の媒体に影響を及ぼし合っていくことになるのです。

もっとも深い私たちの存在には、この量子力学が関係しており科学はいよいよこの目に見えない波長や波動というものを捉える「場」という存在にまで近づいてきました。

私は直観型の感覚を澄ますのが好きですから、よりこの波動や波長を感じやすいタイプですしそれを「場」に定着させていくのが得意なタイプなようにも思います。

これからの時代、不確定さが増えてきたのは目に見えないものが主役になっていく転換期に入ってきたからです。だからこそ、私の取り組む「場」はこれから主役であり世の中を転換するための主人公となっていきます。

最後に、「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士の言葉です。

「環境が人を創り人が環境をつくる」

場を醸成し、新しい時代の幕開けをここから拓いていきたいと思います。

子ども心の安心基地

人は自分との対話の時間や、心を整い落ち着くために安心できる環境や場を求めていくものです。自分の安心できる場があるというのは、心の拠り所でもあります。心が安らぎ落ち着く中ではじめて人間は心の動きに合わせてゆったりと自分自身を取り戻すことができるようにも思います。

つまり心の安心の場を持つことで人はまた前に進む活力を得ていくように思うのです。

現代のような競争社会で歪んだ個人主義が蔓延すると、どうしても不安や恐怖にさられていきます。そういう不安や恐怖を乗り越えて恢復したり心の活力を取り戻し、エネルギーを補給したり癒したりするところが安心の場になります。

子どもたちにとっては安心基地は両親であったり、私の場合もお地蔵様やお守り、また犬だったりもしました。大人になっても形を変えて私たちはどこかに拠り所をもって安心する場を創造していきます。

資本主義経済で経済戦争が日々に行われているストレスの多い今だからこそ、そういう安心の場を提供するということが必要になってきているように思います。その安心の場が新しい時代の心の教育に重要な役割を果たすようにも思います。

心の教育があるからこそ、人々は心を見失わずに人間らしい本質的な知性や人格、徳を磨いていくことができます。新しく開く場のカフェは、子どもたちだけではなく子ども心を持つ人たちの安心基地にしていきたいと思います。

さらに深めてみたいと思います。

生涯の朋

昨日は、論語の「遠方より朋来る」という懐かしく有難い体験をすることができました。志半ばでインドで斃れた友人の遺志を継ぎ、取り組みはじめて神社を建立してから初めての来客でしたが不思議なご縁に感謝することばかりです。

そもそもこの神社建立も、友人が夢に出てきて技術の神様がいることを私に教えてくれたことがその切っ掛けでした。そこからBAを開校することにもつながり、そして神社を建立することにもつながりました。

今、思い返せば夢を信じてここまでやるのもどうかと思いますが遺志を継ぐ中で故人と話し合うこともできず、夢で見たことを本人の声だと信じて取り組んできたから今があります。

夢には種類がいくつかありますが故人からの夢はどこか温かい生々しさがあります。私たちは死んでしまえば、目には観えないからもういないと思っていますが実際には魂は生き続けています。

その魂は、死後もつながり導き活動し遺志をもち生存する人たちへ働きかけます。

私をここまで突き動かすものは何か。それはこの魂の遺志の力であり、故人の声を深く理解していく過程のように思います。私はもともと純粋な魂を持っている同朋は、一度会っただけでも生涯の朋のように感じます。

同じ思いや志を持つ人たちは、見えない絆で結ばれいつも大切な場面で協力して目的に向かって労を惜しまずに助け合うものです。これもまた、人間の愛であり、徳であり、絆であり、結びであろうと思います。

まだ始まったばかりですが、故人の存在を強く身近に感じています。

心の耳を澄ませて心の声を聴き、丁寧に丹誠を籠めて前進していきたいと思います。

正直を磨く

人間は生きていく上でもっとも大切なことは自分に正直でいることです。しかし自分に正直というのは、自分というものが本当の意味で分かることができて正直になることができるということでもあります。

なぜなら己自身が分からないままでは、正直だと思ってもそれは正直ではなく正直風になっているだけだからです。その正直風では、本来の自己一体ではありませんから偽りの正直さで嘘が増えていくからです。

正直さというのは、真実であり本当のことです。その人が生まれてきた意味や、何を使命にしているか、そしてどのようなことを魂が望んでいるかそれが分かる状態が正直ということです。

正直は他には真心や至誠など同じ意味を持つように思います。

つまり、本当の自分で生ききったということでしょう。自分らしさというものは、他と比較していく中で出てくるものではありません。自分自身をやり切ったとき、自分自身のままであるとき、自然体のとき、私の言葉ではかんながらの道を歩んでいるときにこそ顕現するものです。

自分らしくあることは、愉快痛快の面白い物語と人生の醍醐味に出会い続ける人生のことです。そこには成功者とか失敗者とか、またどのジャンルだとか分類とかは関係ありません。自分らしくあることのメリットを一つ上げるとするのなら、それは魅力的な人になるということかもしれません。

魅力的な人、チャーミングな人の周りには面白い人、豊かな人、明るい人、優しい人、数々の人たちが集まってきます。そして魅力的な人は「場」を創造します。その場には、目には観えない徳が集積してきます。まさに自分らしくあることこそが徳を積むことになるのです。

自分に正直に生きることは、子どもたちの憧れる大人に近づくことでもあります。子どもたちの仕事をするからこそ、突き詰めてみたらこうなったのだからさらにここから尖がって正直を磨いていきたいと思います。

出会いの哲学

この数日、9年ぶりに懐かしい先生が來庵してくださいました。この先生は、世界でも著名な哲学博士でありメビウス理論というものを提案し、その生き方もまたその理論を実証されているような方です。

どのお話も、一期一会の出会いを哲学されておりまさにいのちが喜ぶ生き方をされておられました。また口癖のように、学びになったと話され、何かあるとメモを書き取られ、齢82歳になられておられましたが少年のようなイキイキとして目と行動力で人生を深く味わっていました。

また、10年以上前に鞍馬寺に一緒に行って学んだこともまるで今さっき体験したかのように鮮明に感動しながら話されており、体験することの醍醐味とそれを心でしっかりと受け止めて忘れることのないお姿に何とも言えない素晴らしい人間像を感じました。

私も43歳になりましたが、自分が歳を得ていくなかでベンチマークできる尊敬できる先輩がいること、その存在そのものが有難く感じています。生き方は比較するようなものではなく、シンプルに憧れるものです。

憧れる生き方を見ては、子ども心はその生き方に魅了されそれを真似ようとします。学びとは真似びのことですから、真似る大人がいてくれるというのが子どもにとっては真に価値があることのように思います。

私も子どもたちに生き方を遺したいと願って生きていますから、尊敬する生き方や憧れる生き方の人に出会うことで私自身も成長をしていき、子どもたちにも徳が譲れます。

出会いの哲学を見て学びながら、教えていただいたことを胸に私自身も心機一転、新たな挑戦をしていきたいと思います。

理に遊ぶ

昨日は、無事にブロックチェーン神社の建立式典を終えることができました。4年前から古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスという智慧の仕組みに取り組む中で神社建立は一つの大きな目標でした。

これは暮らしの中には常に八百万の神々がいて、暮らしの実践の中で常に神様の方を向いて本心に恥じるところがないか、また動機は善であるか、自然の道を歩んでいるかと、正対するためにも必要なことでした。

思い返せば、家の中には暮らしの神様ばかりで現在は社員の数よりも神様の方が増えていき不思議な感覚になります。そして主客一体の境地においてはお客様も神様ですから日々に私たちは多くの神様と一緒に暮らしを味わっているのです。

このブログを書いている目の前でも、朝の薄明かりの陰翳の中で小さな羽釜に炭を入れ自ら育てた新米を炊いてその香りを嗅ぎながら出来頃を五感を使って待っています。水は井戸の水を汲み、火は炭火でゆっくりとじっくりと、湯気がしんしんとたち、中からぐつぐつとお米が回転し混ざり合っている心地より音色が聴こえてきます。それを大きな火鉢が囲み、その台の上にパソコンを載せて一緒一体で心も体も精神も穏やかです。

ハイテクとハイタッチ、この両輪を如何に正しく活用していくか。最先端技術と暮らしの智慧を如何に組み合わせるか、これができてはじめて人類はこの時代を新たに刷新していくことができると私は確信しています。

様々な矛盾を受け容れるのは柔軟性ですが、その柔軟性の根源になるのは神人合一の生き方です。

これからいよいよ革新と核心に入ってきますが、これが理解できる視座の高い人たちを集め、この世の理を遊んでみたいと思います。