音の道

昨日は、有難いことに鞍馬山で法螺貝を立てるご縁をいただきました。まだはじめて間もないのですが、エバレットブラウンさんの御蔭で「音」について深く学ばせていただいています。

この音には感情というものがあり、その感情を見つめて感情を整えていく。まさに音の深い魅力と不思議な効能などを実体験を通して学んでいます。

思い返せば、音については興味がありましたがなぜか楽器をもって何かをするということまではあまり至りませんでした。中学校、高校の時、バンドを組んでいたのでその際にシンセサイザーにのめり込んだことがありました。

あの時は、電子音でしたがバンドのメンバーの楽しい思いや挑戦したり努力している音色が嬉しく、思い出の青春の一コマになっています。

今回は、また別の青春の一コマであり、音というものの持つ神秘的なチカラや山伏や修験道というものの本質や伝承なども学ぶ機会になり、このタイミングとこの年齢で音楽に再び出会う機会になりました。

何年か前にインディアンフルートの音色に興味を持ち、いつかインディアンフルートをやろうと思っていましたがなかなかご縁がなく、なぜか先に法螺貝になってしまいました。しかし、どこが音の道の入り口であるかと全体を改めて見直すときまさに今此処が音というものの本質に入る時であることに気づきます。

私はもともと選ばない生き方をしていて、来たご縁は素直に受け容れます。それはその方が豊かであり面白く、ご縁に生きることができるからです。昨日は、ある山伏の生き方を聴く機会があり、その方はどんなことでも「受けたもう」と引受けて生きておられるそうです。今を生きるというのは、今の中に自分のすべてを没頭させていくことです。そしてその境地こそまさに心から楽しいことに一体となっています。これは生まれてまもない子どもたちの童心であり、自然界のいのちそのものです。

いのちは常に無我や無心と共にあり、そこに自分のいのちの中心軸があることに気づきます。音は、まさに調律、調和をこの世にもたらす一つのいのちの姿ともいえるのです。

いつか私のいのちの音により、子どもたちの心が癒され浄化し調律をできる日がくるまで引き続き日々の呼吸をととのえ音の道を精進していきたいと思います。

暮らしフルネスの本

現代は、脳が中心で動いている世の中です。脳以外の部分、例えば五感などの感じる部分が減退しています。都市化された社会で、なんでも便利になってしまえば頭で考えて計算していくことが価値があるように価値観が変化していきます。

思い通りになることが是で、そうではないことが非になるのです。なんでも未来を計算し、計算することがなんでも先になってしまうと感じる力をまたつかわなくなります。これがいのちが弱っていく理由なのです。

私がいのちの甦生を手掛けるのの最初の一つ目が、感じる力を高めることです。暮らしは五感を整え、清浄な場があらゆる五感を研ぎ澄まさせていきます。

例えば、未来というものは誰にもわかりません。予測はついても、それは予測通りにしているだけであって1時間後にどうなるのかは誰にもわかりません。ひょっとしたら事故にあったり、何か大事な出来事が勃発することもあるでしょう。何に出会い、何が変わるかなども誰にもわかりません。

つまり未来は計算通りになっていないのです。自分が計算をしているだけで、未来という別個の空間と時間が存在していてそこはどうにもならない全体の出来事の影響を受けているのです。だからこそ、計算ばかりしていても意味がないということです。計算疲れというか、現代人は、脳をフル稼働するばかりでいのちを使っていません。そんなことをしていたら不安や不信が募るばかりでいのちがすり減っていきます。

いのちは使わなければすり減ります。物質文明の価値観だと、使うと減ると思い込んでいますがいのちは物質ではありませんから使えば使うほど磨かれて光っていくのです。私の言葉にすれば、いのちが甦り続けて永遠に生き続けていくのです。

これが生まれてきた仕合せであり、この世で修行をする目的でもあるのです。自分の生き方を磨いていくことは、いのちを使うこと、それは言い換えればもっと直観や五感を大切にして感じるままに心の声を信じて行動していくことです。それは計算ではなく、感じるものを優先して生きるということです。

そのためには五感を常に研ぎ澄ます必要があります。自然の中に入り他のいのちに倣い、いのちを磨く道具と共にさらにそのいのちを調和させていく。その中にこそ、いのちがイキイキと喜び、充実する時間を持てるように思います。私が現代になぜ暮らしフルネスが必要だと思う理由はここなのです。

現在、私の尊敬する方々が本を編集していただいています。この地球上で最高のパートナーたちであり、整理編集は余人に代え難い見事な人たちがやってくれています。

私の人生初の書籍は、内容がどうこうというよりも誰と一緒にやっているか、まさに一期一会、今ここ、この瞬間の奇跡が何よりもいのちの仕合せです。

同じ理想を持つ人たちと一緒に本に取り組めることに心から感謝しています。

 

徳を積む

昨日、徳積財団の活動について話し合いを行いました。徳というものは、必ずこの世に存在しているものですがその徳を大切にするということを意識することは減ってきているように思います。

そしてその徳を積むとはどういうことか、そして何のために積むのか。私は魂を磨くことで徳が磨かれることに意味があると信じていますが過去の先人たちもみんなその徳についての言葉を遺しています。

松下幸之助さんは、「人間で一番尊いものが徳である」ともいいます。その話の中ではこう解釈しています。

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

これはなぜ教えることも習うこともできないか、それは無我無心の境地であるからだと思います。徳はただ磨く境地ですからただ磨くというのはただ動くということです。それは実践するといっていいかもしれません。実践する人は、そこに磨こうとする意志があります。そこに徳が集まってくるのです。

老子はこういいます。

徳のある人は自分の徳を意識しない
それは得が身についているからだ
徳のない人は徳を意識するため、
なかなか身につかない

だから、
最上の徳は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な徳は有為であり、
わざとらしいところがある。

最上の仁は無為であり、
わざとらしいところがない。
低級な仁は有為であり、
わざとらしいところがある。

つまり、無為自然であることこそ最上の徳であるということ。真心はそのまま徳になるのです。

子どもたちはその真心をどうやって学ぶのか、それは知識や知恵とはまた違います。それはその人の真心の行動によって学ぶのです。真心は必ず伝わり、真心は必ず天に通じます。

これを吉田松陰は「至誠」といいました。

先人に恥じないように、真心を盡して徳を磨いていきたいと思います。

 

浄化場の夢

四国に88か所霊場というものがあります。私はすべてを巡礼したことはありませんが、空海の出生地や遺跡のいくつかは伺ったことがあります。四国には独特な場があり、この場を支える人たちによって不思議なチカラを発揮しています。その一つのお遍路というものがあります。

これは日本大百科全書によれば『日本の各種の巡礼のなかで、四国八十八か所霊場を巡る巡礼をとくに遍路といい、その巡礼者そのものも遍路(お遍路さん)という。この文字は中世末から江戸時代初めに用いられ始めたもので、それ以前は「辺路」と書かれ、『今昔(こんじゃく)物語集』(12世紀前半)や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(12世紀後半)では「へじ」と読まれた。これが海辺の路(みち)をさしたことは『今昔物語集』(巻31第14話)で明らかであるが、それには「四国辺地」と書かれている。このような「海辺ノ廻(めぐり)」の修行が四国の弘法大師(こうぼうだいし)信仰と結合して、弘法大師空海の旧跡を巡る巡礼になったのが遍路である。』と記されます。

遍路は四国88か所霊場を指しますが、元々は修験者たちの修行の方法として山林抖擻といって山野をめぐり歩き山にこもり、山の暮らしから悟った智慧を里の人たちに伝道するような人々の生き方からはじまったといわれます。

また札所といって、参拝者の巡礼のしるしとしてお札を受け取ったり納めたりするところがでてきます。この道を歩んだ証明として大切にされてきたそうです。ここから霊場巡りではなく札所巡りとも言われるようになったといいます。

四国ではお遍路で有名な人物に衛門三郎という人の有名な話があります。この人はもともと伊予国(愛媛県)の豪農で欲が深く、地域の人望の薄い人物だったといいます。あるとき、門前に托鉢に訪れた乞食僧がくるので何度も追い返してもその乞食僧は毎日訪れます。八日目は僧の鉢をたたき落とし割ってしまいその鉢も八つに割れてしまいます。その日を境に、乞食僧は三郎の屋敷を訪れることはなくなりました。しかしここから不運と不幸が始まります。8人いた自分の子どもたちが次々に原因不明の病気にかかって亡くなってしまうのです。きっとこれは自分が乞食僧に酷い行いをしからに違いない、そしてあれは弘法大師空海であったと悟ります。そして生まれ変わってやり直したいと発心して空海を求めて空海の歩んだあとを追いかけていきます。これが四国で有名なお遍路のはじまりなのです。

実はこの話は続きがあり、衛門三郎は後を追いかけても追いかけてもどうしても空海に会えません。そして二十二回目ののち、今までと逆に回ればお会いできるのではないかとお遍路をして十二番・焼山寺の手前で倒れます。そこで空海に出会い、改心したことを認められ「甦生」を約束され亡くなりました。

私はこの話こそ、浄化場の本質を顕していると感じます。人は、穢れを祓い浄化されることで甦生します。つまり魂が磨かれて生まれ変わるのです。そうやって何度も何度もこの世に来ては修行をして、魂を昇華させ精進していきます。

現世は物質文明が偏り、なかなか心の世界のことを認めようとはしなくなっています。しかし、本来のいのちは何処に向かっているのか、何を求めているのか、それを思う時、大切なことを忘れさせないことへの工夫が初心を守る人々たちによって伝承されていきます。

浄化場が必要なのは、初心を伝承するためです。

引き続き、私の夢を実現していくためにご縁を活かしていきたいと思います。

私の道

故郷での様々な出来事を振り返ると、不思議な思いがするものです。生まれ故郷でもありますが、ここにはすべての原点があり、神話や歴史に裏打ちされた真実もあります。

私の故郷は、神武天皇や神功皇后、そして卑弥呼や台与などの歴史の舞台でもありました。遠賀川の流域には数々の遺跡が発掘され、そこには邪馬台国、大和国の時の記憶が一緒に宿っています。伝説や地名の数々もその事実を確実に裏付けるものとして存在し、話を聴けばきくほどに日本の原点をこの「場」に感じます。

私は、子どもたちのためにと自分の人生のほとんどをつぎ込んできました。それは単に我が子というだけではなく、物質的な子どもという意味のみならず、自己の内面にある子ども心や、人類が素直になって健やかに存在している時の純粋な子どもの魂のようなものを大切に見守りたいと願いここまで生きてきました。

その中で、私は心のふるさとというものに出会います。

そしてそれは正直で素直で誠実、真心で自分らしくあるときに顕れる心の風景のようなものです。この美しい生き方や暮らしを体験する機会を通して、この故郷が本物の心のふるさとに変化をはじめていきます。

自分らしく生きていく生き方が、暮らしを易え、働き方を改革していくのです。そしてその勇気と決断と行動によって人々の心が深く癒され、本来の心の原風景、魂の原点回帰につながっていくように思うのです。

おかしなことを言っているように思われるかもしれませんが、「場」を学び深めて本質にたどり着けばつくほどにその意味を感じない日はありません。

善い場を醸成するというのは、好い生き方を循環させていくということです。その人にしかできないことを好きなように生ききることです。バカや変人、狂人などと呼ばれようとも、心の中にしかない未来の理想郷を持って歩むのは誠実さや正直さゆえです。

美しい先人たちの生き方に恥じないように、先人たちや先祖の後押しや応援の風を戴きながら私は私の道を歩んでいきたいと思います。

心の原風景

故郷には、原風景というものがあります。これは、何をもって原風景というか、その辺はとても曖昧ですがお互いの中にある懐かしい暮らしの一端であることは認識できるものです。

例えば、むかしからある故郷の山の秋の山笑う色彩を眺めては山登りを一緒にしたことや、その山で遊んだこと、空気や風や水や光などを思い出します。私たちはその時、懐かしいものに触れ故郷の原風景を味わうものです。

この原風景とは、むかしからあるものであり共にそこでの暮らしを伝承されてきた伝統や思い出などを指しているように思います。もっと深く掘り下げると、それは心の風景でもあり、心の原体験、心の景色というものでもあります。

愛された記憶や、見守られた記憶、そして仕合せを味わった記憶、そういうものが頭の中ではなく心の深いところで生き続けています。先祖代々、何千年も何億年も前からその記憶は存在していて、その懐かしい記憶が原風景としていつまでも心に焼き付いているのです。

その心に焼き付いた記憶に触れると、心は瞬時にその時のイメージを懐かしみ心を仕合せで満たします。私たちはその心の養分を吸っていのちをイキイキさせてこの世での気力を充実させていくのです。

これは人間だけではありません。

犬にも犬の記憶があり、野山を仲間と共に駆け巡る記憶、人間と深く信頼し合っている記憶、美味しいものを食べ活力を得る記憶、安心して眠る記憶、他にもたくさんありますがその懐かしい原風景に触れることで仕合せを感じます。

私たちにとって決して失われてはならない、いや失いたくないものこそこの心の原風景であるのです。私の取り組んでいる活動は、この心の原風景を甦生させていくことです。

人類は発展していく過程で、何を失ってはならないかということを思い出す間もなく自転車操業的に目標に向かってまっしぐらに進みます。立ち止まる時間もないくらいに、お金や経済の大波に背中を押され続けてスピードは増すばかりでブレーキを踏んでも止まれません。

今回、コロナの御蔭でゆっくりと進むような機会を得て改めて何が大切か、何を失ってはならないかを思い出す機会を得ました。私はこの時こそ、心の原風景を取り戻し、みんなでその心の原風景を故郷に具現化する絶好の機会ではないかと思うのです。

子どもたちはこの心の原風景を糧にしてその後の人生を安心して歩んでいけます。子どもたちがこれ以上、心を傷つけることがないように私たちはまだできることがあるのです。

引き続き、故郷に原風景を甦生させながら日本をはじめ世界にその美しい仕合せの記憶を引き継いでいきたいと思います。

新天地

新しい分散型の働き方をはじめ、新宿の本社も移転しオフィスをやめて神田神保町にライトハウスというカタチで改めてスタートしました。これはライトワークハウスの略でもあり、見守るための灯台という意味でもあります。

以前のところは、大きなビルでたくさんの会社や人たちが働いていて総合空調で強固なつくりをしていましたが今のところは窓が自由に開けられる屋上にありテラスもあり、風通しの善い中で過ごせます。

環境が変わることで意識も変わるといいますが、変化の真っただ中に変化を楽しめることは変化を味わうのにも効果があるように思います。

時は無常で、変化しないことはありませんから今まで変化してなかった分がコロナによって急速に動いてきます。元に戻ることもなく、元通りになることもありません。確実に時は前に進み、新しい時代に合わせて変化がはじまっています。

大切なのは、本来どうありたかったか、本来どうしたかったかという本心や本音がそれぞれに試されていきます。こういう試練は実はとても貴重な機会であり、人生の大切な節目になります。自分の生き方や生き様と正対し、本来の目指す未来や目的に合わせて働き方も暮らし方も換えていくこと。

まさに千載一遇のチャンスと捉えて、明るく前向きに変化を味わう勇気が欲しいところですがなかなかそうはいかないのもまた人生です。わからないものに不安を抱くのは普通ですから、それを持ちながらも思い切って前進することで未来は開けます。人は、天にお任せして歩むとき我を省いていくことができるように思います。

仲間がいたりみんなが一緒に乗り越えていこうとする時こそ、勇気を分け合うものです。自分の前進や行動が他の誰かの勇気になるということは、仕合せなことでそうやってみんな勇気を分け合って生きているようにも思います。

新天地という言葉があります。

これは「新しい場所」を意味するだけでなく、「新しい活躍を期待される場所」という意味でもあります。引っ越しなどで新しい土地に移住するとき、引っ越し先の土地を「新天地」いいます。これは単に土地や場所を換えるだけではなく、仕事を変えることを意味します。

人生で新しく活躍する場所が発生したということ、それが新天地です。

私は本来の引っ越しや移転は、この「新天地」で働くことを意味するように思います。人生の節目で、新天地に移動するというのは別の新しい活躍を期待されたということです。そうならないのなら、新天地ではないとも言えます。

ステージが上がり、今までではなく何が新しく活躍を求められて期待されているか。それをよく確かめ、そのステージで活躍するための場づくりや自分の布置を高めていくことが変化を味わうことにもなります。

53歳で現役の三浦知良選手が新天地についてこう語ります。

「新天地での挑戦はいつだって、誰だって難しい。でも、人生は、いつの瞬間だって挑戦なんだ。」

さらに真剣にやるからこそ面白いとも言います。自分が本気になるもの、真剣になるもの、情熱をすべて注ぎ込めるものに出会うことは仕合せなことです。新天地を与えられるというのは、天から新たな役割や使命をいただいているということでもあります。

そこに合わせて挑戦をすることや真剣に生きることが、新天地で働くというステージに入っているということでしょう。誰にも平等に時が訪れるからこそ、真剣に生きるということを大切に子どもたちの憧れる生き方と働き方をしていきたいと思います。

智慧の伝承

私たちは自然の生態系から生き方を学んできた民族であったといいます。それは神道にも修験道、山岳信仰などにもみられるように何を師としてきたか、何を原点としてきたかはその経典や歴史の先達の方々の生き方からも感じるものがあります。

そして不思議ですが、過去に先人が体験した智慧を私たちは自然の中から感じ取ることができます。それは山に登ることであったり、海に入ることであったり、畑を耕すことであったり、それはただ体験しているだけではなく、先人の記憶に同化してその記憶から智慧を感じ取っているのです。

私たちが感じる智慧は、知識で得られるものではありません。つまり経験や体験といった「験」を得てはじめて感受できるものです。生きる智慧や、自然の法則は今はじめて得ているのではなく長い歴史の中で培ってきた遺産なのです。

これは人類に限らずすべてのいのちはその智慧と共に生き続けているとも言えます。

現代においては、自然から離れた生活をするあまり、智慧が分からず智慧に出会わず、智慧を使えずに迷い惑う日々を歩んでいくことが増えています。少し前の時代も、智慧をもった人物が山で悟り里で導くということで智慧を伝承していました。

智慧の伝承は、何よりも私達だけなく子どもたちのこれからの未来においてもとても大切なことです。

まずは自分自身がその智慧を会得するために修行し、その修行したものを一緒に体験しながら学び合える「場」が必要でそこに「道」を歩んでいくための導入が要ります。

それは旧街道を歩んだり、山岳修行に同行したり、暮らしの中で気づくといった験によるものが何よりも効果があるように思います。

子どもたちに伝承していきたい智慧を集めていきたいと思います。

場道家

先日、來庵された方々から時空の話や五次元の話をお聞きしました。ここにはそれがあるらしく、暮らしを共にしていく中で時間間隔がズレてしまうということでした。何人かからは竜宮城ではないかともいわれ、笑われましたが何か時の流れが変わる感覚を持ったのでしょう。

私はこれを表現するときに、「時の沈み」と呼びます。時間をかけてじっくりと醸成するものが集まり、そしてそられが共鳴共振するとき、そこに「場」ができます。その「場」に佇むと、太古から流れている通常の時間ではない普遍的な「道」を感じるのです。

そしてその組み合わせを「場道」と呼びます。

私が「場道家」を名乗るのは、この時空や波動のようなものを大切に暮らしを紡いでいるからかもしれません。

人間には、様々な感覚があります。1次元、2次元、3次元、そして4次元、その上が5次元です。一般的に生きている物質世界での状態が3次元ですから私たちは通常は3次元にいます。そこに霊的なものやスピリチュアルといった目に見えないものを感覚的に察知するとき4次元となります。その上というのは、パラレルワールド(parallel world)と呼ばれ多次元空間の世界に入るそうです。

このパラレルワールド(parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空といわれます。

今、流れている世界とまったく別の空間が存在するということ。つまり、私たちの目に見えない世界が同時にこの今に別空間に存在させるということ。シンプルに言うと、心の世界が物質の世界に突如として顕現して具現化されるということかもしれません。

これは日本人には得意なはずで、私たちは「和」を通して場や間を暮らしを通して創造してきた民族です。私がやっているのが特別なのではなく、誰でもできることです。しかしこの時代、この5次元が、何よりも価値を持つようになるでしょう。

その理由は、5Gをはじめ私たちは人類の科学が量子力学の発展やAIやブロックチェーンによる仮想空間に科学と共に進化していきます。その時、同時にこの並行世界や平行宇宙、並行時空は必要になるのです。

目に見えない世界を生きるということは、もともと存在していた場所を知るということです。

宗教っぽいといわれるかもしれませんが、現実として感じられる世界はもう間もなく科学も近づいています。笑い話ではなくすぐそこに話なのです。場道を通して、一人でも多くの人たちが魂のふるさとに気づき、目覚め、本来の真の豊かさに気づいてほしいと願います。

子どもたちが仕合せの世界に生き続けて、根からの養分を吸い上げ永遠の豊かさを享受できるように私の役目を果たしていきたいと思います。

生き方を磨く

100年後という時間軸があります。今の私たちが死んだあと、孫やその先の世代が暮らしている世の中のことです。よく考えてみると、当たり前ですが今の私たちがあるのは祖父母よりも先の人たちが子孫のことを考えて暮らしを整えてきてくださったお陰です。

その頃の人たちはどのような暮らしをしてきたのか。

私は、たまたま日本民家の甦生や文化に関わることが多かったためにその頃の人たちの暮らしを身近に感じることができました。御蔭で、本当に子孫の健やかな未来を祈り、その人たちが仕合せに生きられるようにと自然と循環し、心も体にとっても最善である仕組みを伝承し続けてきてくれました。

その御蔭で、大きくは道に外れず暮らしは営まれ続けてきたように思います。

現代は、あまり遠い先の未来ことなどに時間を割くことはせず目の前の目先のことばかりで多忙を極めている人ばかりです。経済のことばかりを優先し、経済に関係ないことはほとんとが後回しです。すべて経済によって動かす世の中にしてしまっていますから、福祉であっても、宗教であっても、なんでもかんでも今は経済ありきのことが前提の世の中になっています。

私自身も経済活動をしていますからそれが悪いとは思いませんが、もう少しバランスを保った方がいいのではないかと感じます。そのバランスとは、先ほどの時間軸、つまり長期的な取り組みをもっとみんなで協力していくことです。

それが先人の智慧を活かした文化の伝承であったり、生き方や働き方、暮らし方を学び直していくことであったりという協力の事です。

私はそれを「暮らしフルネス」といって現代でも同様の体験ができるように仕組みを甦生させました。この暮らしフルネスに取り組むことで、時間軸を見直し、長期的な視野で日々の暮らしを充実させながら現代での役割や使命を全うする経済と道徳が一致する活動を行っていくことができます。

毎日は、ものすごい速さで過ぎ去っていきます。同時に、常に静かに穏やかに流れています。その毎日の使い方、生き方、暮らし方こそが人生を決めています。

子どもたちが憧れるような暮らしを通して、生き方を磨いていきたいと思います。