いのちの存在

現代は、世界のほとんどは西洋化が進み物質文明で覆い隠されていきましたから物はいのちではなく物として扱われるようになりました。それは最初は、無機質な道具類や建物、通常人間のように動いているように見えないものからいのちではなく物として接していくようになりました。

そしてそれがさらに大量生産大量消費の刷り込みの中で、動いているものやいのちがあると信じられたものまで物になっていき次第にいのちそのものが見えなくなっていきました。

いのちが見えなくなってしまえば、最後は自分のいのちすら物になっていくかもしれません。物のように接していくというのは、言い換えればすべて物にしていくということです。これが文明の持つ課題であり、文化はそれを常にバランスを保ってきました。

現代は文化が急速に衰退させられ、一時的に文明ばかりを追い求めていきました。それは物化する過程だったように思います。本来、地球は物か?そして海は物か?さらに宇宙は物なのか?最小単位ではウイルスは物なのか?という問いにたどり着くはずです。

そもそも物ではないと悟るのなら、何を自分たちが改める必要があるかが自明します。そしていのちの存在に気づくのなら、もっと大切にしなければならないことや優先すべきことがわかります。

人類は、今、大きな分岐点に来ています。ここで気づけるか、それともこれでもまた同じことを繰り返して覆い隠し続けるか。大事なことは気づいた人が、まず自分の足元から換えていくことです。そして私と同じように、古い物のいのちの力をお借りしていのちを甦生させ、いのちの存在に気づかせていくことです。

引き続き、子どもたちの未来のためにも徳を磨き挑戦をしていきたいと思います。

衆知を集める~クラシフルソン~

昨年末にハッカソンと聴福庵で行いましたが、次回は暮らしフルネスを取り入れて色々と試行錯誤してみます。もともとの「ハッカソン(Hackathon)」とは、ハック(Hack)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語のことです。これはエンジニア、デザイナー、プランナー、マーケティターなどがそれぞれでチームを組み、与えられたテーマを設定し技術やアイデアを持ち寄り短期間で集中してサービスやシステム、アプリケーションの開発をして成果を競いあう仕組みです。

この「ハック」「ハッカー」は、本来システムやソフトウェアを解析、改造するなど、「たたき切る」「切り刻む」「耕す」という本来の言葉の意味がありますが、「物事をブラッシュアップしていく」という意味だそうです。

実際には、日本でいう「ハレ」と「ケ」のように日常の同じ作業ばかりで繰り返されるマンネリ化を防ぐ効果もあったり、視点や目線を換えてみることで新たな観点を見立てるという効果もあります。

「場」を換えるだけでも、発想も視点も変わりますから場の道場(BA)を活用することは大変な効果もあります。

そしてもう一つハッカソンとは別に「アイデアソン(Ideathon)」というものがあります。これはアイデア(Idea)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語である特定のテーマについて多様なメンバーが集まり対話を通じて新たなアイデア創出やビジネスモデルの構築を短期間で行う仕組みがあります。

これはITエンジニアに限らず、多様な人たちがみんなでアイデアを持ち寄って集合知を創造するときに使います。日本では車座になって、長老を中心にみんなで意見を出し合って物事を判断していた歴史がありますが敢えて偶発的な対話の中で思いもがけないようなアイデアに出会うというのはまさに人類発展の仕組みの一つです。

これらを、私の場や和、間の思想と合体させ「クラシフルソン」というものを開発中です。これは「暮らしフルネス」(KURASHI)×「マラソン」(MARATHON)を掛け合わせた造語で、暮らしの中でもっとも和合した衆知を集める仕組みです。

ブロックチェーン神社にお祀りしている八意思兼神というのは、その道の神様です。

この神様が喜ぶような働き方を、BAで創造していきたいと思います。

 

覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

道は無限にある

人類はまた歴史に遺るような困難に見舞われています。新型コロナウイルスを発端として、いつ来るかといわれた株の暴落。今回は実体経済の方まで自粛と閉店、活動休止により急激に停止させられています。

過去の歴史を省みると失業者で溢れ、食べ物がなくなり不満がたまりそこから戦争の火種が出てきます。特に現代のように平和ボケしてしまった状態では、何が起きたのかすら気づくのに時間がかかるように思います。

本来、リーダーの役割は危機に対して敏感に迅速に行動をすることです。いつか来るであろう日を周りが楽観視して誰も考えもしなくても、ただ一人でその孤独と向き合い、みんなを守るために粛々と自重しながら対策を練り続けるのです。

戦国時代であれば、いつだれがどのように攻めてくるのかがわからず、どんな時でも生き延びることができるようにと常に八方に注意を払い最善を盡してきました。その歴史を生き延びて今の私たちもいます。

そして世界中で自然災害に巻き込まれたときには、みんなが飢餓を乗り越えるために協力し合って助け合い連携してきたから今の私たちがあります。

困難はある一方から観れば人類が大きく修正し、成長するかけがえのない機会でもあり、それをどのように乗り越えるかで子孫へいのちをどのようにつなぐかの未来が懸かっています。

困窮するとき、困難に陥るとき、先人はどのような智慧をもってそれに正対したか。松下幸之助氏は「道は無限にある」の中でこのように語ります。

「われわれ人間の歴史をみても、おそらく三十年前には想像もできなかったと思われることでも、今日、現実の事実として次つぎとできていることがあります。これはいいかえると、人類の限りない発展の過程の一コマであるというようにも考えられるのです。ですから、決して困難なことはないというようにも考えられます。ただ困難にするかしないかということは、それを困難なこととして認識するか認識しないか、認識してそれを打破する道を見出すか見出さないかということだと思うのです。」

困難だから困窮するのではなく、困窮するから困難が悪いものになっていく。困窮するのではなく、こういう事態だからこそ道を拓こうとする。そうして道を拓く人は、困難を認めたうえで困難を打破することでより発展向上し成長するのであるということでしょう。

今までなんとなくずるずるとやってきたことをここで決別するいい機会であり、方向を完全に転換する最良の好機という見方もあります。大切なのは、ただじっとして困窮するなということです。

困難を前にしてあなたはどうするか、道を拓く人か、それとも道にどうする人か。

道は無限にあるのだから、自分の決めた道を歩むことが困難を乗り越える覚悟でしょう。子どもたちのためにも、道を拓いて新しい時代の幕開けを楽しみたいと思います。

人が集まる場

人が集まる場というものがあります。なぜか、そこには場があり大勢の人たちが往来しているうちにコミュニティが生まれてきます。パリのカフェのように、様々な思想の共有であったり、芸術家たちの学習であったり、新しいことを始めるきっかけや出会いを創造するところであったり人の集まる場には確かな「場」が生まれます。

ではなぜその場が生まれるのかということです。

人は場に引き寄せられ移動していくものです。これはすべての生物が、環境によって拠り所をもっているところに似ています。そしてそれは生きていく目的によってまたその場を選んでいきます。

これは動物だけではなく植物でも同じく、どのような環境に自分が適合しているかを無意識にも理解しているのです。逆を言えば、自分に合わない環境のところには近づくことはありません。

そう考えてみると、「場」というものは目的に合わせて環境を創造することであり、その環境が生きものたちを集める力を持っているということです。

場を研究するにあたり、どのような「場」をここに創造したのかという場を司る人物の目的を確認する必要があります。その場には、その目的にあわせて最適な場を創造した人の思想や生き方が空間や環境に凝縮されて存在しているからです。

人々が集まればそこに自然に不思議なつながりが生まれ、その偶発的な出会いによって運が変わります。運とは、循環であり天機であり、命の変化です。

現在、場の道場を創造していますがこの場がどのような命の変化を創発するか、そしてどのような人々を集めていくかとても楽しみです。子どもたちのいのちが輝く舞台になるように譲り遺してにしていきたいと思います。

夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

場の要諦

私は和を甦生し、復古起新するものですがその要諦としてもっとも大切なことは「積み重ねる」ことであると確信しています。この積み重ねるという言葉は、文化を伝承することにおいてもっとも重要なことです。別の言い方では「研鑽を積む」とも言います。

この「研鑽を積む」とは、物事に対して一生懸命に取り組むということそれを継続して磨き続けるという意味があります。

何よりも大切なことは、文化とは「継続して磨き続ける」という意思をもったものであるのがその言葉の定義なのです。では何を磨くか、それは心や魂を磨きます。そしてその中心には生き方があり、具体的には技術があります。

一つひとつのことを丁寧に和にしていくことは、生き方を和になるように研鑽していくことです。そしてこの積み重ねこそがその「場」に見えかったものが顕現してきてその価値の素晴らしさを人々が実感するのです。

私の取り組む「場」は、積み重ねの場であることは間違いありません。「場」には一体何があるか、それはこの積み重ねがあるということです。そしてこの「場」は、別の言い方では「空」であり、「間」であります。つまり「空間」ということです。そしてその空間に何か大切ないのちの姿が可視化し宿るとき、人はそれを「和」と呼ぶのです。

この「和」が、人間に与える影響は多大なもので子どもたちであれば五感を通してすぐに学ばずに学び、教えずに吸収することができます。私は保育を研究し続け、実生活で自然農や古民家甦生、その他、発酵や伝統技術を学び続けてきましたからこの「和」の保育が持つ偉大な効果を身近でずっと体験してきました。

「場」は、現代のような目に見えるものしか信じない時代に大きな楔を打ち込み人類を持続可能な循環に導く大きな一手になると私は祈っています。この祈りもまた、積み重ねの智慧であり伝統文化です。

引き続き、場の神社と共に暮らしフルネスを通して研鑽を積んでいきたいと思います。

 

 

質の追求

人類はかつて生産性を高めるためにあらゆる工夫をしてきました。生産性を高めていくのは、質と量がありますが量が増えていくことで質は次第に下がっていきました。その下がってきた質をそれ以上下げないようにするためにあらゆる工夫を凝らしてきました。

それが科学や工業の発展につながっているともいえます。しかし、本来、質を高めていけば量は減りますが質はさらに高まっていきます。量が少ないからこそ質は上がります。かつての先人たちは量が少なくなっても、それは永く使えるものになっていきますから敢えて量を少なくする戦略をとってきたのです。

ここ数百年で人口を爆発的に増やし、大量生産を可能にした人類はますます質を下げていきました。そしていくら進歩したと発表しても、質がそれで本当に上がったのかというとかえって下がってしまった質の中での最高を目指しているのであって本来の質には戻ることはできません。

量の拡大というものは、時間を短縮するものです。短期的に効果を発揮することを優先する場合は一時的に量を確保することはいるでしょう。しかし長期的に効果を発揮するには必ず質を選ぶ必要があります。

長い年月生き残るための智慧は質を守っていくことです。それは量を優先しないということです。現代は資本主義で大量消費による利益の無限の拡大を競争の中で目指していますから、その中での質はあくまで短期的な効果のみで優劣を決められてしまいます。

歴史や伝統文化に取り組めば組むほどに、手間暇や準備をかけて人の手で丹誠を籠めて限りなく質の高いモノづくりを観ていたら人類の永続してきた理由に気づきます。私たちの先祖は、自然と同じリズムとサイクルでどれだけ安心して暮らしを営むことができるかを第一に考えてきたように思います。

そこには人生の質をはじめ、ありとあらゆる質を追求して今でいう非効率的なことに人生を費やしていきました。しかしそれが何百年と続く中で、如何にそれが大切であったかに気づき先人たちに向けて頭が下がる思いを持ったに違いありません。

何世代も先のことを真摯に考え、質の高い生き方を選んでいくということが結局は洗練された人類を産み出したということでしょう。縄文時代のような人たちは決して古代の何もできない原始人だったわけではなく、もっとも質を追求した先人の姿だったのかもしれません。

だからといって今更原始人に戻れというのは乱暴な話ですから今と向き合って今なら何が質を高めたことになるのかということを暮らしを通して提案していかなければなりません。

私が考える「暮らしフルネス」とは、人類の原点回帰でもあり子孫へ向けた智慧の伝承でもあり、また人類の質の追求でもあります。あらゆるものを混然一体にしつつも原点だけは見逃すことがないように丁寧に初心を忘れずに取り組んでいきたいと思います。

サイコロジカルキャピタル

現在、先進国では知識労働者の生産性を如何に高めるかということが注目されています。20世紀は肉体労働者ばかりの生産性に注目されましたが、これだけ時代がIT化され仮想経済が拡大すればするほど働く場の現場は知的現場に移行していくはずです。

その上で、働き方改革として生き甲斐や幸福感などの調和、持続可能で有意義に豊かに働くための仕組みや取り組みが注目されてきています。

人間は、ただの働く機械ではありませんから何のために働くのかという目的があります。その上で、働く中に如何に喜びや意味や仕合せを感じるかでその人の人生が充実しているかどうかが決まるとも言えます。

組織においては、故人のパフォーマンスをどれだけ発揮できるかというのはとても重要なことです。組織の中でパフォーマンスを発揮しモチベーション高く楽しく学習し続けられるためには、お互いに安心できる環境が必要になります。その安心をどうそれぞれが個々で確保できるか、そこに私は働き方改革の要諦があると思っているのです。

私がBAを創造したのもまた、今までの見守る保育の経験から如何に子ども同士が自律し自立し、協力し合い主体性を発揮していけるかということを研究し続けてきたからです。

最近、私が考えていることに似ている仕組みでポジティブ心理学から派生したサイコロジカルキャピタル(心的資本)というものを知りました。これは人間資本の中で分類した4つの資本、経済資本(エコノミックキャピタル)人的資本(ヒューマンキャピタル)、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)、そして「心理的資本(サイコロジカルキャピタル)」といわれるものの一つです。

その最も基礎で基本、その人間の土台にあるのがこのサイコロジカルキャピタルです。そしてこの心理的資本は、Hope(希望/将来への自信)、Efficacy(効力感)、Resilience(レジリエンス・立ち直る力)、Optimism(楽観主義・やりきる意欲)から形成されます。

私たちの保育の仕事の領域はまさにこのサイコロジカルキャピタルであるのは自明の理です。そしてそれを獲得するためにも安心できる「場」が大きな役割を果たします。安心できる場を創造するというのは、その心の資本を充実させていくためには必要です。

改めて世界はこの保育の価値を再認識する時代に入ったと私は直観しています。これからの新しい時代、私たちの場が世の中を変えていくことを信じて取り組みを磨いてたいと思います。