循環の幸福

私たちは死んだら必ず土に還ります。いのちは地球から出てきて、私たちは地球のものを食べ、いのちを分けてもらいながらこの地上で役割を果たしていきます。そのいのちを充実させていくことを暮らしといい、死ぬと墓とかくようにいのちは地球の内部をまた循環していきます。

それなのに、この人類はこの地上を農薬などの科学物質で汚し穢し舗装をしては呼吸をできなくしていきます。温暖化というのは目くらましで、本来は地球の循環を止めていくことで人類が好き勝手にできる領域を増やしていくのがグローバリゼーションの本質なのでしょう。

人類の仮想空間とは、自然から乖離した人類だけが中心になり存在する世界を築くことです。今のAIの台頭もまた、進化により過渡期に入ったということでしょう。仮想の生命は電気がなくならない限り死ぬこともなく永遠ですから、これでついに人類の夢がひとつ叶ったと言えるでしょう。

しかしです、そこにいのちはありませんし循環することもありません。私たちは、仮想世界の密度が上がっていくことと同時に「いのち」の存在をはっきりと自覚するようになっていきます。それは人間には死があるからです。

地球の中で循環することは、私たちに本当の永遠をもたらしてくれます。それはその時々の深い人生の味わいを感じることができるからです。これらの感じる力は、いのちの充実によって行われます。

そしていのちが充実するのなら、そこには必ず循環の幸福があります。

いくら化学が進んでも、いくら文明が究極的なレベルに高まっても決していのちが充たされることはありません。そして必ず最期はその循環の幸福を求めるはずです。

自分たちが一体、どのような存在であったのか、知識量が膨大に増え頭がこれだけよくなった時代なのだから少し考えればわかるはずです。

子どもたちに循環の幸福が伝承できるように、暮らしフルネスを場で弘めていきたいと思います。

徳を積む人たち

最近、「徳」のことを聴かれ徳の話をすることが増えてきました。しかしこの「徳」という言葉、本来もっとも日本人に親しまれ日本で当たり前にあったものであるのは歴史を鑑みればわかります。

それが現代になり、「徳」という言葉をあまり耳にすることなく、字も書けない人が増えているといいます。それはなぜかということです。

これは私の洞察ですが、一つには自然から離れたからということ。その自然とは、単に人工都市か自然かということではなく、人間の思い通りにして自然を尊重することから離れたということです。

そしてもう一つには、先祖や先人の恩恵や真心に感謝する機会が失われたということ。これは単に、仏壇があるとか顕彰しなくなったということではなく、その先人からのつながりに感謝することをやめて目に見えるものばかりを信じるようになったことです。

またもう一つは、伝統文化という先人の智慧がプツリと切れたということ。これは単に伝統文化に興味がなくなったということではなく、新しく便利なものが価値があると信じて古いものは価値がないと捨てていくようになったことです。古いものは、何世代もかけて一生をつぎ込み実験実証をして子孫たちによりよいものを渡していこうと努力したいのちのリレーで出来上がっています。そのバトンを受け取らず、個人主義の名のもとに個人の人生を優先し、連綿とつながり人生を切ったことです。

実際には他にも大小はありますが、「徳」が観えなくなった背景にはこれらのような文化消滅の仕掛けが働いているようにも思います。文化がない国が、文化のある国を毀す、不易と流行は時代の常ですがまさかここまでかとその破壊力に驚くばかりです。

しかしどの時代も、それを小さくとも守り次世代へつなげてきた人たちがいます。徳を積む人たちです。そういう徳を積む人たちによって、私たちの暮らしは約束されてきたのもまた真実です。

子どもの仕事とは何か、幅広いように見えてしまいますが実際の子どもの仕事とはシンプルに言えば人類の子孫のために自分たちのいのちを使っていくことです。どういう世の中にしてほしかという思想は文化と共に存在します。

徳を後世に引き継いでいきたいと思います。

子どものため?

世の中には子どもの為といいながらまったく子どものためではなく、大人たちの都合のためということをやっている人たちがいます。実際に本当の問題を挿げ替えては、子どもを利用して自分たちの利益を得ようとします。

簡単にそれを見極める方法は、子どもの立場になって子ども自身が喜ぶことかと子どもに聴いてみれば一目瞭然です。子どもが何かの行動をするとき、必ずそこには理由があります。その理由を心を寄り添い耳を傾ければ次第にそれが伝わってくるものです。

しかし今の人たちは、忙しさを理由にしたり、経済状況を理由にしたり、世の中の常識を理由にしたりして子どもの声を聴こうとはしません。現在の環境問題でも同様です。

自然のためにといいながら如何に人間の都合のためにに溢れているか。本音と建て前を使い分けては、さも善いことをしているようにみんなで声高に発信して勘違いや思い込みによって当たり前の方を換えてしまいます。これを偽善とも言います。

実際に善か悪かをここで裁きたいというのではなく、本来の善いことのためにもう少しみんなで見極めるための議論を尽くしたいと思うのです。みんな人間は誰しもが善心をもって生まれてきます、特に赤ちゃんのときには誰もがその徳が備わり生まれてきます。

その時、私たちは何が真実であるかをいのちのハタラキから学ぶはずです。笑顔の価値や、信頼するものの価値、活かされていること、守られていることの意味を知ります。

私たちは自然の一部ですから、自然にそれらの徳が分かるようにできています。子どもの声を聴かなくなるというのはその徳を穢すことと同じです。そのためには今の大人がよく子どもの立場になって子どもを主人公としたときに、今のままで本当の善いのかとみんなで考えることです。

待機児童を解消することが本当に子どものためなのか、発達障害と診断し隔離したり排除したり抗うつ剤を飲ませることが果たして子どものためなのか。よく考えてみることです。

子ども第一義を理念にする私たちの本当の目的は、子どもたちのことを丸ごと信じて子どもの声を聴いて今の世の中を変革していくことです。まさに今は人類の過渡期であり、地球循環の変わり目です。

気づいた人たちと一緒にいのちを賭していきたいと思います。

 

ぬくもり

私たちは皮膚で温度を感じますが同時に「ぬくもり」というものを別で感じているようにも思います。このぬくもりとは、いのちの温度でありそれは単なる冷熱ではなくまさにその温度の超えた存在のぬくもりを五感で直観しているともいえます。

例えば、「手仕事のぬくもり」というものがあります。心を込めてゆっくりと丁寧に手を使ってつくりあげたものにはぬくもりを感じます。機械で簡単便利にさっさと仕上がったものではなく、一品一品丁寧に時間をかけて取り組んでいればいるほどそのものからぬくもりが出てきます。

このぬくもりは、一体何処から来るのか。私たちはこの不思議さに気づけるかどうかで暮らしの豊かさも変わってきます。そして何よりこの暮らしの豊かに気づくには何よりも先に「手入れ」というものをまず学ばなければなりません。

「手入れ」とは、そのもののいのちに触れて甦生させていくことです。つまり、そのもののぬくもりに直接的に触れることによってその「いのちのぬくもり」を味わうという一連の動作のことです。拭いてあげたり、磨いてあげたり、整えてあげたり、修繕してあげたりと直接的に触れて甦生させていくのです。

私は日々の暮らしの中で、手入れを楽しんでいますがこれはぬくもりを味わっているということです。

無機質で機械的に手仕事ではなく造られたものはあまりいのちのぬくもりを感じません。しかしそれも少しだけでも手を入れてあげれば、ぬくもりを感じられるようになります。具体的には、生け花を添えたり、手漉きの和紙を敷いたり、何か見せ方を設えてあげることでもぬくもりは現れます。

生きものたちはみんなそのぬくもりを感じることで、いのちの仕合せや豊かさを感じて自然と合一して心を平和にしていくのです。

今度、BAでは志半ばで斃れた友人の遺志を石に刻むことにしています。その友人は生前にこういう言葉を遺していました。

『頭でひねり出した理論的正しさだけではなく、コードを書くこの手の感性を信じること。それが、自分が書くコードと世の中をリンクさせ、ソフトウェア開発のダイナミックさを引き出す道だと思う。だから、どんな立場になっても、コードのそばにいるよ。』(高橋剛より)

この手の感性を信じるということは、「ぬくもり」を持って取り組んでいくことが何よりも大切なのだと私は受け取りました。そのいのちのぬくもりを感じながら、取り組んでいくことでいのちは様々な世界に融合し広がっていくということ。

自他を自然にして、「いのちの中に入る」ということが私たちは「この世で何かを産み出す」ということなのでしょう。

BAは間もなく開校しますが、有人の見守りをいつでも感じながら前進できるように石碑にその言葉の真意を刻みます。子どもたちに、先人の生き方が伝承できるよう私自身もぬくもりを大切にしながら取り組んでいきたいと思います。

仕事は生き方

先日、BAの打ち合わせ中に脳出血で倒れた左官職人さんが手術後の経過がよく麻痺もなく無事に回復しているというお知らせがありました。一緒に家をつくり、思いを込めて取り組んでいる間は心を通じ合わせていく仲間ですから急な出来事に大きなショックを受けたのを思い出します。

この左官職人の方は、人格が素晴らしく何よりも左官仕事を心の底から愛しています。以前、一人で黙々と朝早くから夜遅くまで取り組んでいる姿をみて一人でずっと何日も同じ作業をしていて辛いことなどないのですかとお聴きしたら「左官仕事が好きなので辛いと思ったことは一度もない」と笑顔で返されたのを覚えています。

あの時、好きな仕事ができる仕合せというものと同時にこういう人に仕事をお願いしたいと思ったものです。

仕事は生き方が現われます。

実際に、好きな仕事をする人と、仕事を好きになる人がいます。そこには目的意識を持っているかどうかが深層心理に隠れているように思います。

例えば、人生を一度きりとしたときにこの今の仕事もまた一度きりです。大切な人生の時間を愛おしむように使うのだから、自分を何に活かすか、自分をどう使うかは人生の貴重な今の集積になっていきます。

その今の心の持ち方をどのように正対して歩んでいくかは、それぞれにその人の人生の取り組み方や姿勢が深くかかわります。自分の人生を大切にしている人は、どんな出来事もご縁も自分の人生の充実や学びの糧にして発達し発展を楽しみ味わうことができます。人はすぐに仕事に優劣をつけたり、価値のあるなしをつけたり、評価をつけては損得などを言いますが本来の仕事にそんなものはないのです。

技能や技術、結果だけではないそこに生き方があることを忘れてはいけません。

最後に、倒れた時はなぜこのタイミングでこの場所でと悲しい気持ちになりましたがこうなってみてよく考え直してみると私と二人の時であったこと、私がすぐに救急車を呼んですぐに来たこと、その後、迅速に手術したこと、左官も一仕事終えて次の打ち合わせの時機であったこと、応急処置もスムーズだったこと、すべて運が善かったことの連続であったことに気づきます。

無事に祈りが通じて回復していく吉報を得て、人間万事塞翁が馬であることを改めて感じ直しました。

私の取り組む生き方は、この人間万事塞翁が馬そのものです。子どもたちにも私の生き方が仕合せにつながるように祈りながら歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネス

人は日々に色々なことを感じて生きています。しかしその生きることの深さや浅さはそれぞれの感じ方によって異なるものです。

ある人は、どんなに色々なことがある日々を過ごしていても微細な自然の変化に気づきとても心豊かに様々なことを感じ取っている人もいればまったく自然から離れて味わうことをしない人もいます。

同じ人間であっても、感じ方一つでまったくその味わうことの深さや浅さが異なるのです。

人は心がありますから、心は鋭敏かつ微細にほんの小さなことでも味わおうとしますそういう人は心の豊かな人であり、人生の意味を深めている人です。

現代は、頭で考えているばかりで味わうことを減らし過ぎたように思います。生きていくよりも不安を解消することや欲を満たすことばかりに知性を働かせすぎて、本来のいのちのハタラキやいのちの存在のことを忘れてしまっているようにも思います。

この今というものは、一期一会でありまさに此処が自分の生きている場所です。その場を味わい感じるというのは、人生の醍醐味を知るということです。

人生は一度きりだからこそ、心を充たすように生き、心豊かに生き、仕合せをみんなで分け合っていくことで心を高め心を磨いていけるようにも思います。

苦労もまた、心が豊かになる一つのご縁ですし、仕合せもまた心を豊かにする一つの暮らしです。

暮らしフルネスとは、一期一会の人生を深く味わうということです。

引き続き、新しい時代に人間にとっての真の豊かさとは何かを伝承し子どもたちの未来につないでいきたいと思います。

場の振り返り

人間は共感することでつながっていく生き物です。チームワークの在り方などいろいろな形ができてきますが、根本にはお互いに共感しあうことで絆を深めていくように思います。

人間にはそれぞれに「思い」があります。その思いがどんなものであるか、その思いに対して自分はどう思うか、それをお互いに傾聴し、共感し合い、そしてゆるしあうことで人は繋がりや結びつきを深めていくからです。

その共感は単に理念的なもの、思想的なものへの共感をすればいいというわけではありません。その人がどう感じたか、何を気づいたか、それをお互いに耳を傾けることで相手の気持ちを汲んでいくという思いの連鎖をつなげていく必要があります。

この連鎖とは、相手を慮る事、相手を思いやる事、相手を尊敬することでつながります。つまり、お互いに尊重し合う関係でない限り本当の意味で共感することはないのです。

カタチばかりの共感をしても、尊重し合っていないのだからそれはどちらかが一方的に共感風のようなことをしただけです。本来の共感は常に互いに平等であり尊重ですから「思いやりを通じ合わせた」時にこそ「共感」になっているのです。

では思いやりを通じ合わせるためにどうすればいいか、それはお互いの事を深く理解し合い、お互いが相手のことを深く思いやるという関係を築いていくことが最善であることは自明の理です。

そのために「場」を用意し、その場の醸成によってお互いのことを深く分かり合う時間を持つ必要があります。この時の場とは、人生の大切な時間を共有することであり共に生きている仲間のことを深く分かり合い信じあうという体験の場を創造するということでもあります。

チームというのは一朝一夕にはできません。なぜなら「一緒」になるためにも体験の場数を増やし、そのプロセスを積み重ねていく必要があるからです。どのような「場」をみんなで練り上げていったか、それはその時々の場の振り返りによって顕現してきます。

私が一円対話を実践する理由は、その場の振り返りを見極めチームの状態を理解し、善きチームに導くための場を醸成していくためです。子どもたちが、自分たちで善きチームを築き仲間の力を借りて共生と貢献の素晴らしさに気づき充実した人生が過ごせるように場をさらに高めていきたいと思います。

自然の徳

昨日は、BAの箱庭に苔をいれ整える作業を行いました。日本庭園には、石、苔、紅葉などの木、そして観音竹や灯篭があります。今回は、ブロックチェーンを祀る神社を建立するため御神前を清浄な空気で満たせるようにあらゆる工夫を凝らしています。

例えば、全体には大量の備長炭や竹炭を使い、また水の通り、風の通りがいいように配置し、また光が揺らぐように照明関連などを配置しました。

私は障害があるのか、小さな光でも眩しく感じます。それに光が揺らいだり、動いたり、また留まったりするのを感じます。それに暗闇の様子や陰翳を強く感じるタイプのようで、黒を感じる種類が多く、多種多様な黒を感じて使い分けることができます。

私が古民家甦生の中で相性がいいのは、その陰翳を自由に扱うことができるからです。今ですら、照明器具が発達し明々と一日中同じ明るさの中で過ごしますが私はそれが苦手です。

水から反射してくる光や、透明な風で揺られながら訪れる光は心を澄ませるだけではなく身体も癒されていきます。

日本庭園の素晴らしさは、この風、光、土、水、石、木、いのちの絶妙な組み合わせに自然の徳を実感するからです。

自然の徳が、人間の心身を癒していくように私の取り組む徳積みが人類を平和に導いていけるように挑戦を続けていきたいと思います。

石の徳

昨日は、BAに建立する留魂碑を故高橋剛さんのお父さんと一緒にノミで文字を手彫りで刻む作業を行いました。二人ともはじめての体験でしたが、石に文字を刻むことを通して故人の供養になったのではないかと感じました。

そもそも石に遺志を刻むというのは、なんとなく感覚で理解していましたが実際にノミをもって手彫りで刻んでいると、心が穏やかな気持ちに包まれてきます。石というのはどこかごつごつと固く、頑強なものというイメージを持っていましたがノミで彫っていると柔らかく静かで穏やかな存在であることに気づきます。

この穏やかになる気持ちはどこから来るのか、本当に不思議でかつての先人たちが仏像や石碑を彫刻したのは心を静めるためでもあったのではないかとも感じました。

石は、私たちのいのちよりもずっと永くこの世に存在しているものです。まるで永遠ともいえる悠久の時間をゆったりと過ごしています。その存在に触れていると、「時間」というものに触れるように思うのです。

悲しみが時が解決してくれるように、時間というものはその過ぎていく過程で様々なことを許し、また慈しみ、安らぎを与えます。同様に、石が持つ時間は私たちの心に深くそれらの時の徳を与えているのではないかと感じるのです。

私の直観では、石は時そのものを司る存在なのです。

時が石に刻まれていくことで、石がすべてを包み恕してくれます。私たちが石を身近において石に見守られていると感じることができるのは、その石の徳に感応しいのちが安心することができるからです。

次回は、今回刻んだ文字の仕上げを行います。一つ一つの物語を石と共に刻み、初心を次世代へ伝承していきたいと思います。

本当の暮らし

昨日は、聴福庵でブロックチェーンハッカソンを行いました。暮らしの場の中で働くことでどのような効果があるのか、実証実験も兼ねてでしたが非常に有意義な時間を過ごすことができました。

現代は、個人が優先されすぎてきて仕事とプライベートを分け過ぎてかえって日々の暮らしが貧しくなってきているように思います。仕事もプライベートも充実するというのは、本来、暮らしが充実するということです。

この暮らしとは、言い換えれば人生のことであり、人生の中に仕事があるのであって、仕事の中に人生があるのではないと言えばすぐにわかると思います。

どのような人生を歩みたいかを決めたなら、暮らしが始まります。その暮らしの中で、どのように働くのかと思えば当然幸福で充実した日々を送りたいと願うものです。

そして人生の豊かさとは、味わい深い今の集積によって満たされていきます。つまり、いのちの営み、いのちのハタラキを充分に実感する時間を味わって過ごしているということなのです。

この暮らしという言葉もそれぞれの人たちが色をつけては様々な定義で使われています。

しかし本当の暮らしのことは頭ではわからず、いのちで理解するものです。いのちの理解は、具体的にはいのちのハタラキと一緒に過ごしている時にしか感じません、それは丁寧に生きて、手間暇をかけて味わうという悠久の時間、また永遠の時間と共にあるときに感じるものです。

先人の暮しは、常に人生の意味を味わっているものばかりでした。

現代は特に忙しくなる仕組みが動いていますから、心の病を抱えたり、身体が不健康になったり、何か本当の仕合せなのかに気づきにくくなってきています。人生を救済するというのは、本来は先生や宗教の務めだったのかもしれませんが今の時代はそれも難しくなってきていますから本物の場の必要性を感じます。

子どもたちが、自分の人生の暮しを味わえるよう私がまず挑戦して実践で示していきたいと思います。