石碑の本質

明後日からBAで、志半ばで斃れた友人の遺志を石に彫り込む作業がはじまります。友人のお父さん一緒に、ノミを使って手彫りで言葉を彫っていきますがはじめての取り組みですから準備を進めています。

私のルーツは、石工だったそうでこういう機会がないと石を彫ることなどありませんでした。ノミを使って、石に刻んでいくということがどのような意味があるのかこれから実践を通して学び直していきたいと思います。

そもそも石碑とは何かと定義すると、ウィキペディアにはこう書かれます。

「石碑(せきひ、英語: stele, stela)とは、人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。 」

風化もせず安定した石材に、後世の人たちに伝えたいもののために石碑にしていることが多いように思います。それは例えば、悲劇であったり、もしくは勇気であったり、また自然の偉大さを伝えるものであったり、神様や仏様が見守っていることを知らせるものであったり、用途は様々です。

しかし石碑には同時に「思い」というものも共に存在しているように思います。

人の思いは生き続けますから、その思いが生き続けていますよというものを伝えるものではないかと私は直観的に感じています。

私もまたその思いが集積した存在として今を生きています、私の原動力はすべて先人たちの遺志の延長線上に存在しているからです。私を動かしているのは私ではなく、私を動かすのは遺志であり、思いなのです。

遺志が石に刻まれるということが、石碑の本質なのでしょう。

BAでの伝説の幕開けを楽しんでいきたいと思います。

 

庭石の意味

現在、建設中のBAの中庭には立石があります。この庭石は、日本庭園では重要な役割を果たしています。むかしから水は海や川や滝、植物は自然らしさを表現し、石は山岳を表現し、石は不変であることから「永遠」という意味があるといいます。

その石の産出場所としては、山、海、川があります。

山石はゴツゴツした角のある石で山間部などの地表面に露出しているものや地中に埋まっているものを掘り起こしています。山さびがつきやすく植物の根が入り込んでいるものがあります。今回のBAのメインの立石は、植物の化石のようなものが石と合体して永遠の時間を感じさせるものです。また川石は丸みが出て趣のある庭石で最も庭に合うといわれます。そして海石は波の力によって表面の変化に富んでいてよく貝が付着しているといわれます。

庭に据えられた立派な庭石は、どっしりとした見ごたえがあります。そして石の風化作用を見ることで独特な侘びや寂びの感情が表現されていきます。

庭石は日本人の心の静けさを取り戻すのにとても役立つかもしれません。今回は、この庭石の周囲に苔や観音竹などの植栽を入れ、山水の風景を表現します。そしてその周囲を炭が囲むことで、宇宙に浮かぶ庭園をイメージします。

まさにブロックチェーンアカデミーに相応しい庭になるでしょう。子どもたちに、日本の文化が伝承できるようにつながりを大切に丁寧に進めていきたいと思います。

徳の貯金の経済学

銀行に貯金通帳があるように、私たちの人生には徳の貯金通帳というものがあります。また経済にも同様に、道徳という貯金通帳があります。人生の中で生きていくうえで、私たちは知らず知らずのうちにこの徳の貯金通帳を使っているとも言えます。

それに気づいている人は、長い目で見て子孫たちのために自分の人生を徳積みに活かしていきます。その反対に、気づかない人はその先祖からの徳を全部自分の代で使い切ってしまいます。

この徳は、通常では損得を含めて考えますがそもそもこの損得とは自分にとっての損得であって本来の自然や宇宙には損も得もありません。天地自然の運行のようにある生きものにとって都合が悪いことが損になっても、同時にそれは全体で長い目で観ると他の大きな生命にとっては善いことになっているからです。

先日、ある人から台風が来ると人間は都合が悪くても海の生命にとってはかき混ぜてくれることでサンゴが甦り魚が潤うというお話をお聴きしました。これらのように損得を超えた徳は常に循環をして私たちの根底の暮らしを支えているとも言えます。

これらの仕組みをそのままに暮らしに活かしたのが里山とも言えます。自然を活かし、自然の循環を邪魔しないように自然の一部としてその徳を循環させていくためにも徳を積んでいくという生き方。面倒でも手間暇かかっても、少し損をみんながすることで徳を積み重ねていくのです。その方が、心が豊かになり、仕合せも増えていくのを知っていたのです。

徳の貯金は、いわば心の貯金でもあります。

心の豊かさは、単にお金持ちになれば豊かになるのではありません。心の豊かさは、むしろ徳を積む人のこそ豊かになるのです。

これからの時代、昔の人たちが当たり前に観えていた目に見えなくなってしまった徳の貯金という経済学を学び直す必要があるように感じています。そうして新しい徳の経済を積んでいくことで未来への心豊かな伝承が広がっていきます。

私は決して大金持ちではありませんが、本当に幸運にいつも恵まれています。有難いことにこれもまたご先祖様からの徳の恩恵をいただいているからです。その恩徳に報いていけるよう、私自身も徳を磨いていきたいと思います。

BA開校の意義

かつて人間は様々な技術革新を起こして歴史を換えていきました。その技術革新はこの100年を省みても、様々なものが産まれてきたのがわかります。核融合、インターネット、ナノ技術、遺伝子組み換え、もはやキリがないほどに革新が行われてきて時代が変わってきています。

最近でも、IOTやブロックチェーン、AI、量子コンピューターなど次々に新しい技術が創造されています。

歴史的に見ても人類史の中でもっとも加速度的に技術革新が続いている世紀を私たちは生きているとも言えます。同時に、かつての技術が消えていく時代に生きているとも言えます。

新しい技術がすべて万能というわけではありません、古い技術の中でしか実現できなかったものもあるのは確かです。それをどう温故知新して調整するかは、技術者だけではなくそれを活用する人物の思想や哲学、そして生き方や決断が必要になります。

それだけ新しい技術革新の時代には、それに相応しい人材が求められてくるのです。人間の教育は果たして技術革新に追い付いているのか、それは大きな疑問を感じます。

人間には様々な我欲があります。その欲があるからこそ、技術革新もまた産まれます。しかしその欲が果たして平和に基づくものか、それとも戦争や支配に基づくものかは人間が決めるのです。

いくら技術が進んだとしても、その高度に洗練された技術に相応しい人格がなければその技術は台無しになります。

だからこそ、本来、あるべき古い伝統的な思想と最先端の技術を融合させることで人類の初心を学び、その初心を忘れないで技術革新を続けていく努力が必要なのです。

私がBAを開校するときに、もっとも技術の学問として大切なのはこの取り組む姿勢を磨いていくことだと私は思います。医者であれば、医道があり、保育であれば、保育道があり、政治であれば、政治道があり、それぞれに生き方といった道があります。

道を学ぶことが、本物の技術者を育て、人類にとって本当に大切な技術として広がっていきます。このような時代だからこそ、このような学問や学校は志ある人たちで立ち上げてなければなりません。

この先の展開がどうなるかわかりませんが、まずはブロックチェーンがかつての日本的精神によって平和活用できるところからはじめていきます。引き続き、私にしかできないことで人類の技術革新に貢献していきたいと思います。

不便の徳

現代は、様々な理由から体調を崩し精神を病む人が増えています。生活環境はますます便利になり、なんでも思い通りに快適になりましたがそれと反比例するかのようにあらゆる病気が増えているように思います。

人間は、便利になればなるほどにそれまで必要不可欠であった自然の道理から離れていきます。時間をかけて手間暇を惜しまず、心を寄せて何かに取り組んでいくということも、忙しい現代においては最初に省かれる項目に入ります。

不便なものは悪のように語られ、便利さこそが価値があるかのように評価されます。人間においても同様に、不便な人よりも能力の高い便利な人の方が重宝されやすくなっています。物の扱い方もまた、便利なものがたくさん売られ不便なものはすぐに捨てられていきます。

自分の五感をフル稼働させ時間をかけて習得するのではなく、誰でも簡単に平均的に時間を短縮してできる道具を求めてきたから今ではAIやロボット、さらに便利な存在に近づいていこうとしています。

しかしよく考えてみると、これは誰にとって便利なのか、誰にとって都合がいいのかということです。

楽して栄養をとれる、楽して自動でできる、楽して時間が節約できる、これらは自分にとって利があるから便利を優先します。しかし実際は、その楽して栄養をとれているように見えて健康を害していき、楽して自動でやっているうちに仕組みや修練、能力を磨くこともないから応用ができなくなり、楽して時間を節約しているうちに味わい深い関係や思い出をなくしていたりします。

結果ばかりを求めて、自分に利があるかどうかばかりを追求すればするほどに不自然が増えていき気が付くと本質的に不便になっていることに気づく日が来るのです。

むかしは、里山のように、または暮らしの中で、自分だけが利することをせず、敢えて不便であっても全体最適であるように努めていきました。手間暇も労力もかかり不便であっても、それを善として、周囲への思いやりのためにと楽よりも苦を選びその分、楽しくなるように、仕合せになるようにと発想を転換して喜びに換えていました。

例えば、お酒造りも、漬物作りもも、今の時代は、化学的なアルコールを添加したり、漬物も化学合成調味料を塗り込むだけですが本来は時間と労力と手間暇をかけて丁寧につくりこみました。お酒は、苦労の中でも醸し唄のようなものをみんなで歌いながら苦労してつくり、漬物も手でかき混ぜながら声がけしながらつけていきました。

しかし五感や体は、自然であることが分かるようにそのものを食べると美味しいと感じるものです。不便であることが美味しさをつくり、便利であることが不味さをつくるのです。

これは人格形成においてもまた同様のことが発生するように私は思います。教育の本質とは何か、それは地球の平和が続くよう人格を高め道徳的な社會を形成していくためにあるように思います。

だからこそ人間がどうあるべきか、それは生き方に出ますから便利な教育ばかりを施していたら便利な世の中になり便利な人になっていくでしょう。だからこそ今の時代の教育の中に私は不便さが必要であるように思います。

子どもたちに不便の徳を伝承できるように、実直に誠実に伝統の初心を継承していきたいと思います。

一所懸命の今

人間は、「今」というものにどれだけ真剣に打ち込んでいるかはその人の生き方を顕すものです。畢竟、人生とは何かといえば「今の集積」であり、終わりの時は今の集大成なのですからこの今に打ち込めないというのは生き方が定まっていないということです。

仕合せの青い鳥はいつも脚下にこそあるというのもまた、この「今」に対する心構えのことを示しているように思います。

経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏はこういいます。

「現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えではどこの職場に変わっても決していい仕事はできない。」

「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」

どうしても心が離れてしまうと今からも離れてしまうのが人間です。今から離れないように今に真剣に打ち込む人は、心が今から離れることがありません。つまり「今、此処」に生きています。今、此処というのは、過去と未来がつながる処でありそれは心の在る処です。

以前、「今でしょ」という言葉で有名な林修さんの記事を拝見したことがありました。そこに「今」というものに対する哲学が書かれてあり、そういう意味でもあったのかと感じ入ったことがあります。「今やる人になる40の習慣」林修著にこう書かれてあります。

「例えば、あなたがパン屋さんで、朝早くからパンを焼く日々を送っている、とします。その場合、あなたの焼いたパンを買うお客さんにとって、あなたが楽しそうに焼いたか、あるいはつまらなそうに焼いたか、パンを焼くことが好きなのか嫌いなのか、実はそんなことはどうでもいいことなのです。大切なのは、あなたの焼いたパンは美味しいのか、それともまずいのか、それだけです」

・・

「嫌いなことをやってお金をもらっているのに、いい加減なことなんてできるはずがない。そう考えて、いつもできる限りの準備をして授業に臨んできました。そうまでしてこの仕事を続けてきたのは、世の中に数多くの仕事があるなかから、自分で選んだんだし、嫌いではありましたが適性はあると感じており、また実際にいい結果がずっと出ていたからです。もちろん、自分の仕事が好きな仕事をしているという人は、それはとても幸せな、しかもめったにないことなんですから、わざわざ嫌いになる必要はありませんよ」

 

いい加減なことをしない、自分本位ではなくお金をもらっているのだから真剣に喜んでもらう、パンで言えばどのような美味しいパンを食べてもらうのか。今でも活躍の場を広げているのは、この方の「取り組みの姿勢」が素晴らしいからでしょう。

私も営業から今に至るまで、どのような仕事であっても好き嫌いかどうかという自分の感情ではなく、本気で善い仕事をしようと真摯に取り組み、自分がやる以上、自分の設定した質の高さを維持しようや、前回よりももっと成長した仕事にしようや、子どもたちのためにも一切妥協しないで心から打ち込もうというようにどの仕事にも誠心誠意全力を尽くしてきました。そして今があります。

一所懸命という言葉もあります。

これは今、自分が与えられた場所で本気で命懸けで取り組んでいくという生き方です。そもそもこれは中世(鎌倉時代の頃)の武士たちが将軍から預かったり先祖代々伝わっている所領を命懸けで守ったことに由来してできた言葉です。この「一所懸命」がその後は「命懸けで取り組む」という意味になり「一所」が「一生」と間違われて「一生懸命」となり、発音も「いっしょけんめい」から「いっしょうけんめい」に変わったのです。

今に一生のすべてをつぎ込むことの集積こそが、自分の人生を真に切り拓いていくことができるのです。選ばない生き方というものは、この今に真剣に生きるということ。まさに私の座右の一期一会の実践をするということなのです。

最期にマザーテレサの言葉です。

「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」

どんな仕事であってもやるからには常に真剣に本気で心を籠めて取り組んでいくこと。まさに真剣勝負の生き方こそ、一所懸命という日本古来の武士道であり根源的な在り方なのです。

子どもたちのお手本になるような歩み方を、今に正対しながら取り組んでいきたいと思います。

岩石の徳

BAのサウナのことを深めていく中で、岩石について調べています。世界には多種多様の岩石があり、様々な効果が持っています。遠赤外線を放射する石、微生物を殺菌する石、水を浄化する石、私たちが一般的に石ころと呼んでいるものでもその石が形成されるまでのあらゆる物語を秘めています。

特に、石の寿命は長く何億年、何千年は当たり前です。そして地球を中心に循環し、時には宇宙から隕石が飛来してきて地球の内部でまた混ざり合い新しいものに生まれ変わります。

その石の形成は様々で川で体積するものもあれば、プレート付近で圧力でできるものもあれば、マグマの高温によってできるものもあります。そのどれも大変長い時間と偉大な力を受けて出来上がっていることは間違いないことです。

私は幼いころから石が好きで、たくさんの珍しい石や相性のよいもの、偶然に出会ったものを持ち帰り大切にコレクションしていました。ある程度、増えてくると部屋が石だらけになるので庭に飾ったり、お気に入りの場所に隠したりしていました。

今ではその当時のようなコレクションはしていませんが、人生の節目で一期一会に出会ったものを宝石として大切に身近においてお守りにしています。

私は料理を炭でしますが、時折石をプレート代わりにして焼いて食べることがあります。むかしは土器を用いて、石を温めて料理したことが遺跡からも遺っています。私たちは石を温めることで、身体が癒された記憶があるようにも思います。

今回のサウナは、炭を使いますがその炭との相性のもっとも素晴らしい石と出会うためにこれから3か月かけて実証実験を行う予定です。どのような出会いが待っているのか、今からワクワクしています。

子どもたちに好奇心や夢、子ども心が伝承できるように私なりに岩石の徳に学び、自分のオリジナリティを追求していきたいと思います。

縁起とは

昨日は、天赦日ということもありBA(場)のご祈祷と引っ越しを行いました。この天赦日(てんしゃび)は天赦日とは「日本の暦上での最も最高な吉日」といわれ、新しく何か物事を始まるときのに選ばれる大吉日といわれます。この日は「百の神が天に昇り天が万物の罪を赦す(ゆるす)」という意味であり、六曜(ろくよう・りくよう)とは、暦に記載される日時や方位などの吉凶やその日の運勢を占う暦注の一つのことです。

天赦日の決め方は、立春から立夏の前日の戊寅(つちのえとら)の日、立夏から立秋の前日の甲午(きのえうま)の日、立秋から立冬の前日の戊申(つちのえさる)の日、立冬から立春の前日の甲子(きのえね)の日になっています。

日本人はむかしから縁起を大切にしてきました。この縁起とは、ウィキペディアには「縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す」とあります。仏教からのものですが、吉凶を占うものとして中国からの思想も入っています。

縁起というものは、兆しを観るということでもあります。

兆しが分かるというのは、タイミングが分かるということです。私にしてみれば、農家が種蒔きの絶妙な時機がわかるようにそれは一期一会の瞬間を逃さない仕組みだとも言えます。

自然の力をお借りするということは縁起を担ぐということでもあるのです。私たちは自分だけの力で物事を動かしているのではありません。そこには他力といった不思議な自然の恩恵を受けています。天赦日というものは、四季折々の中でもっとも自然の恩恵を受けやすい時機であるということでしょう。

時機時期に自分を合わせていくことは、かんながらの道を実践する私にとっては大切な初心の確認でもあります。子どもたちのためにも、確かな伝承を磨き続けていきたいと思います。

 

好きをつなげる

人は生きていく中で大切な何かに気づくものとです。その大切な何かとは、自分の人生の中で特に優先順位の高いもののことです。それはその人にしかない体験であり、その体験があるから自分自身の使命を感じるものです。

例えば、ある事故にあって人生が変わる人もあれば、ある人に出会って人生が変わる人がいます。それは一つのご縁ですが、その出来事によって大切な何かを悟るのです。

私の人生を振り返ってみたら、その連続であったように思います。今でも日々に出会う人によって自分自身が気づきによって変わっていきます。この気づきの連続が私を育て私を創ります。

人は自分というものを知るために旅をします。その人生の旅は、日々の気づきによって味わい深いものになっていきます。つまり気づくためには、その大切な何かをいつも求め続けなければなりません。自分を深く掘り下げて、日々の出会いの意味を掴み、日々の行動を省みて日々の生き方を磨き続けなければなりません。

自分の好きなことに専念するというのは、好きになる努力をし続けるということです。人生のすべての出来事を、大切な何かのために努力し続けるという実践が必要です。

どんな出来事であったとしても、大切な何かと常につながっています。一見意味のないようなことでさえ、後になってそれが大切な意味を持っていきます。ある人の傍で手伝い学んだこと、ある人の生き方から薫陶を受けたこと、ある人の行動から気づかされたこと、それもまたご縁と出来事によって大切なものを得ていくのです。

出会いを大切にする人は、一期一会に出来事も大切にする人です。

好きになるほどの努力をしたか、努力を忘れるほどに好きになったか、それは自分のいのちをどれだけ本気でつぎ込んだかという自分の人生への責任かもしれません。

自立ということを子どもたちに伝承するためにも、大切な何かのために好きをつなげていきたいと思います。

 

地域の甦生

世界というものはそれぞれの地域が集まってできています。日本でもほんの小さな地域が、合体して村になり、町になり、群になり、県になり国になります。そしてアジアになり世界になるという具合です。

そう考えてみると、私たちの世界への出発点は地域ということになります。その地域をどのように発展させていくかは、地域に住む人たちの命題でもあります。現在は、グローバリゼーションが席巻し、ほんの小さな地域まで覇権の対象になったり大企業チェーンなどの収益源になっています。

そして地域の姿が次第に消え去り、地域と共にあった歴史や文化もまた消失していきます。高齢化が進み地域がなくなっていくのではなく、それまでの地域の価値観や定義が換えられ、地域の価値がなくなってきたことが地域がなくなる原因なのではないかと私は感じます。

地域の定義をはっきりさせ、地域で活動する人たちののそれぞれの役割を明確にしていくことでどのような地域にしていこうかといった理念がコミュニティを活性化し、その地域の文化を創造し伝承を促していきます。

地域といっても、その地域に住む人たちの地域愛が深いところはやはり居心地の善い温かさがあります。地域で仲たがいし、関係が悪く地域愛が薄いところはどこかそこにいくと居心地が悪いものです。

地域というものは、その地域に住む人たちの生き方が集積され集合されたものですから一人一人がその地域に対してどのようにかかわるか、そしてみんなで何を大切にしていくかということが優先されなければ地域という言葉そのものの定義から見直す必要があるように私は思います。

私も3年半前に故郷で古民家甦生に取り組み始めましたが、その取り組みを通して多くの素晴らしい方々や魅力のある方々、地域愛が深い方々とお会いしてきました。大切なのはそういう人たちを「つなぐ」ものを甦生していくものです。コミュニティを繋ぐものの中に哲学が入ることで、みんな地域とは何かを思い出すことができます。

改めてこれからの地域甦生と子どもたちの住みやすい世界のために自分にできることで貢献していきたいと思います。