いのちを磨く

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という諺があります。これは自分の命を犠牲にする覚悟があってこそ、初めて窮地を脱して物事を成就することができるという意味で使われます。

この「覚悟」を顕す言葉は、まさに人間の持つ決心や本気を示す諺でもあります。何かに取り組もうとするとき、全身全霊で取り組む人とそれなりに取り組む人がいます。

同じ一回の出来事でも、真剣である人はその場数は確実に自己を錬磨していきます。そうやって磨ききった人のことを百戦錬磨の人とも言われます。この百戦錬磨の「百戦」は数多くの戦いのことで「錬磨」は練り磨くことをいい、多くの戦いにのぞんで武芸を鍛え磨くことをいいました。

覚悟の力とは、この真剣勝負の場数によって高まり磨かれていくように思います。その覚悟の心は、身を捨ててこそということなのでしょう。自己保身や他人の評価を気にしたり、自分の初心を忘れたりしていては錬磨することができません。

どんな日々であろうが、どんな挑戦であろうが、やるからには身を捨てる覚悟で取り組む人には真剣や本気の凄みがあります。

先日、致知出版の巻頭言で坂村真民さんの詩を拝読して感じ入るものがありました。題は「鈍刀を磨く」というものです。ここに覚悟ある人の生き方を見てとれ、どんな場所でもどんな場数でもそれでも磨くことの大切さを語られていましたので紹介します。

『鈍刀を磨く』

「鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが 何もそんなことばに 耳を貸す必要はない せっせと磨くのだ 刀は光らないかも知れないが 磨く本人が変わってく つまり刀がすまぬすまぬと言いながら 磨く本人を光るものにしてくれるのだ そこが甚深微妙の世界だ だからせっせと磨くのだ」

ここでは光るかどうかではなく、真剣に磨くかどうかを語られます。そもそも真剣という意味は「本気で取り組む」という意味です。木刀や竹刀ではなく、いのちのやり取りをする真剣を使うという意味。

どんな場数であっても、それを木刀や竹刀のぬるま湯の危機感のない中でやる練習と、真剣勝負の覚悟や本気でやる練習では「磨く」という意味の本質が変わってきます。

つまり下位概念の磨くは、単なる訓練や練習のことを指しますが上位概念での磨くとはいのちを削り研ぎ澄ませていくということであることはすぐにわかります。いのちを削るというのは、本気で取り組むということです。

今の時代、マンネリ化しやすく別に本気でなくても本気風でやって無難であっても失敗しなければある程度の評価はされます。しかしそれでは、自己研鑽になっていくこともありません。

子どもたちに生き方を伝承していくためにも、覚悟を決めていのちを磨き続けることを味わっていきたいと思います。

 

バカになる

人間は生きていく上でたくさんの知識を経ていきますが同時にたくさんの偏見も持つものです。実際に人を見るときに、あるがままの人を観る人と、偏見からその人のことを観えなくなっている人がいます。

こんな人だろうと思い込めば思い込むほどに、その人の本当の姿が隠れてしまいます。人間はほとんどのことを思い込みで見るようになるのは、それを知識でカバーする術を持つことができるからです。

現代社会においては、本来の信頼や信用があるような立場の人物の不正や不祥事などのニュースが日々に流され、不安や不信からまたそれを別の知識で覆いかぶせようとする風潮もあります。しかしそれをよく洞察していると、果たして本当のことがどれだけ報道されているのだろうかと疑問に思います。

例えば、今回の災害でも被災地に行けば本当のことがわかります。しかし報道ではその一部の編集者の主観や、上司の方の偏見で判断されて報道されると私たちはそれを鵜呑みにしてしまいます。

実際には内容の大部分を編集をして短く要約される過程で編集者の主観が入り、さらに真実や本当のことがわからなくなってしまっています。現代は日々に入る情報が膨大な情報化社会ですから情報の本質を確かめるリテラシーを身につけなければなりません。しかしそのリテラシーは単に情報量や知識の判断を持てばいいということではなく、人間本来の「直観力」といった、目や脳だけに頼らない力が必要になると私は思います。

その直観力をどのように磨くかといえば、今までで身に着けてきた偏見や余計な知識を削り落としていくことです。あるがままにその人が観えることや、ありのままを受け取るというのの最大の邪魔は偏見と知識です。だからこそ経験を積めば積むほど、知識を増やせば増やすほどに今度はそれを削り落としていく努力が必要になるのです。

誤解を恐れずに言えば「バカになる」ということでしょう。

あるがままの自然を観たり、ありのままの自然で観えるには、頭で考えずに直観し、それを自然に照らして内省して真っさらにしてからもう一度、知識や言葉で説明する必要があります。

人間は言葉を使い、知識を持ちますからその本来の技術を正しく活かす必要もあります。だからこそ、私たちは日々に学びますが、その学び直しも同時に研鑽を積むことで本質や本物、真実を見極める力が備わるのでしょう。

今のような時代、そういう人物たちが世界で真実を語り合い本来あるべき世の中に原点回帰させていきます。子どもたちに新しい学び方や生き方を伝えていきたいと思います。

自分を生ききる

世の中には色々な人がいます。何かに突出した才能を持っているがいますが、その人は一部では障害だと分類され苦労もしています。何かに秀でればその逆に何かは削られていきます。それが才能ですから、人は目的に合わせて自分の才能を磨いていくうちにその人のオリジナリティが開花していくように思います。

しかし、その過程において協力してくれる人たちがいるかどうかはとても大切なことのように思います。自分の才能を活かすにも、その才能を活かすために支えてくれる人、使ってくれる人が必要になるからです。

お互いの組み合わせた、それぞれの能力の掛け合わせによって私たちは偉大なことができていきます。決して一人ではできないことも、みんなの持ち味や才能を合わせれば不思議なこともまたできるようになっていきます。

それは言い換えるのなら、それぞれの才能が磨かれ「徳」が出てきたともいえるのです。この徳というのは、自然界が創造する場のようにありとあらゆるものが調和していのちを開花させていくようにみんなの協力によって顕現していくものです。

誰もが真摯に自分を生ききり、それを助けてくれる存在があることを信じて生きていきます。花に蝶や蜂が飛来して花粉を繋いでいくように、太陽や雨がいのちを育むように自分を生ききると必ず誰かが手を差し伸べてくれます。

どんなに自分が周りと違うことで差別されたと思っても、周りを卑下したり、文句を言ったり、復讐心を抱いたりすることでは徳は出てくることはありません。徳は、自分自身を生ききることで次第に周囲と和合して顕れるものだからです。

自分を生ききるには、いのちへの感謝が必要ですが同時に自分を信じることが大切です。自分自身の才能を自分が信じ、周囲への感謝を忘れずに子どもたちに伝承していきたいと思います。

尖がるということ

私はよく人から尖っているといわれることがあります。この尖っているというのは、大辞林には① 先が細く鋭くなる。とんがる。 「 - ・った鉛筆」 「口が-・る」② 感じやすくなる。過敏かびんになる。 「神経が-・る」③ 声や表情が怒りで強く鋭くなる。と書かれます。

実際に私が使われている尖っているというのは、比喩的に他と比べて非常であることや偏って突出しているという意味で使われます。これは自分の得意なところを伸ばしてきたといっても過言ではありません。

自分の得意なところを伸ばすというのは、自分にしかない武器を磨いていくということです。自分の武器とは、自分の持ち味であり自分の持っている強みを磨いた先に出てくるものです。

どんな刀であっても、研いで手入れしていなければなまくら刀になってしまいます。自分の刀は自分で磨かなければなりません。そのためには何を砥石に磨いていくか、そしてどれだけ鍛錬を積み重ねて自分にしかないものにしていくかはその人の求めている志の高さや想いの広大さ、そして真剣に打ち込んだ場数が決めていきます。

そしてそれがある一定以上の極みまで達した時、その人の強みになるのです。その強みがはっきりすればするほどに周りはその強みを活かそうとします。その強みが世の中に対して明確に使われるものになるからです。強みを周囲が理解すれば持ち味も活かせるのは自明の理です。

しかし私はそれだけでは決して「尖る」まではないように思います。この尖るというのは、覇気が必要です。覇気とは、強い意志であり、本気の覚悟と行動と実行であり、積極的に取り組む意気込みのことです。

これが持ち味と重なったとき、人は自分にしかない武器を持つことができます。そしてその武器があれば、世界の一流の人たちと渡り合うこともできるようになるのです。

若いうちから尖がっている人は、自分を持ち、自分の意見を貫いてきた人です。そして自分が意見した以上、その言葉に責任をもって挑戦と冒険を続けてきた人です。私の同志も戦友もまた、一緒にこれをやり切ってきた人物です。

だからこそ今、一緒にいることで勝負できるようにおもいます。お互いにここまで切磋琢磨し合ってきたからこその今があります。夢の実現に向け、挑戦を続けていきたいと思います。

 

 

暮らしとは何か

暮らしという言葉の定義も時代と共に変わっていきます。現代は、かつてのような懐かしい暮らしは消失し、仕事の中に少しだけ暮らしの要素が残っているくらいです。本来は、暮らしの中に仕事があるのですが仕事が暮らしよりも優先されているうちに暮らしが失われていったように思います。

この「暮らし」という言葉にも会社の「理念」と同じように目的と手段があります。暮らすことが目的であるのか、暮らしは手段なのか。会社であれば理念が目的であるのか、それとも手段なのか。

さらにシンプルに言えば、何を優先して生きていくのかということが暮らしにも理念の言葉の定義を決めているのです。つまりは、単なる生活や生計ではなくそこには「生き方」があるということです。

暮らしをするというのは、生き方を優先して貫いて実践していくということです。同様に理念を実践するというのは、生き方を優先するということです。

私は、会社でも実生活でも常にその暮らしや理念を優先して生きています。働き方改革といわれ、様々な手段が世の中に横行していますが実際にその手段をやることが改革ではありません。

日本という国もまた働き方改革では日本は変わりません。本来の日本を変えるには、生き方改革をする必要があります。生き方改革をするには、それぞれに真の意味で自立していく必要があります。自立するためには、生き方を決め、生き方を変える勇気が必要です。そしてその勇気は、協力や思いやり、そして正直さなど社會そのものの徳をみんなが高めて磨いていくしかありません。

そのためにもまずは、自分が生き方を決めて実践していくことでそのような社會になるように努めていくことが世の中をよりよくしていくことになるように私は思います。

暮らしというものは、日々のことですから小さな日々の選択が必要です。生き方と異なるものをいちいち生き方に照らして取り組んでいく必要があります。ブレないで理念経営を実践するかのように、同様に生き方も磨き続けなければなりません。

しかしその生き方を磨き続けることで、人は真の意味で安心が得られ、穏やかで確かな自信に満ちた生活が約束されていくように思います。お金があるから老後が安泰なのではなく、権力があるから安寧でもない、自分自身を生きること、自立することでしか本当の安心立命は得られないということでしょう。

私たちは子ども第一義の理念を掲げていますから、日々の暮らしもまた子ども第一義の暮らしを社員一同、私も含めて目指しています。その具体的な手段が少しずつ顕現し、働き方も改革されていくのは心地よいことです。

流行を追わず、時代に合わせることは大切なことです。時代は私たちのいのちも含めて時代ですから、私たちが自立することで時代は創られていきます。日々に実践を深く味わい楽しんでいのちを使い切っていきたいと思います。

本質的な生き方

私は色々なことを深めては取り組みますから他人から多趣味な人といわれることがあります。しかし自分では色々なことはやるけれど、趣味でやっていると思ったことは一つもありません。もし趣味というのなら、炭くらいでしょうがその炭もまた子どものことを思ってはじめたものです。

そもそも目的をもって取り組んでいると、その手段が色々とあることに気づくものです。もしも手段だけで目的がなければそれは単なる趣味なのかもしれませんが、目的を最優先していくのならばそれは趣味ではなく手段の一つということになります。

私は子ども第一義という理念を掲げ、初心を忘れないように日々を過ごしています。そうすると、その理念や初心に関係する様々な出来事やご縁に出会い、それを深めていくと次第に様々なものに行き着きます。その過程で、伝統技術を学んだり、ビジネスを展開したり、古民家甦生をやったり、サウナをつくったり、むかしの稲作をやったり、ブロックチェーンをやったり、多岐に及んできます。それを周囲の方々はそこだけを切り取って多趣味といいますが、私は決して趣味でやっているわけではないのです。

しかしやる以上、全身全霊の情熱を傾けていく必要があります。なぜならそれが目的であり、それが理念であり初心の実践につながっているからです。仕事だからとか、生活のためだから取り組むのではなく、それが目的だから取り組む価値があるという具合なのです。

そして一旦取り組んだのならば、その取り組みの手段の意味が確かに実感できるまではしつこく諦めないで実行していくようにしています。なぜなら、手段は目的に達するための大切なプロセスであり、そのプロセスの集積が本来の目的の質を高めていくことを知っているからです。

目的を磨いていくためには、様々な手段によるアプローチが必要です。あまりにもジャンルが増えてジャンル分けできなくなり、気が付くとただの「変人」と呼ばれ始めますが、手段だけを見て変人と決めつける前に、この人の目的は本当は何かということを観る必要があるのではないかと思います。変人は須らく、目的に生きる人が多いように思います。

言い換えるのなら本質的な生き方を志す人ということでしょう。

自分に与えられた道を、オリジナリティを追求しながら楽しみ味わっていきたいと思います。

意味の存在

世界には様々な歴史があります。その歴史の中には、それぞれに大切な意味があり物語を継承しています。そしてその物語はこの今の私たちにつながりその意味は私たちが世界に伝承することで人類の発展に貢献しているとも言えます。

その物語の中には、人類としてどうあるべきかという挑戦と冒険が溢れています。ある人は、こう生きた、またある人はこう生きたというものが、様々な組み合わせによって遺ってそれを受け継いでいくのです。

これは人類に限らず、すべてのいのちに必然的に存在する使命でもあり生死を度外視して私たちは「どのような意味を存在したか」ということを試みているのです。

その意味は、目に見えて残っているものとすでに消失して目には見えなくなっているものもあります。しかし、その「場」で行われた歴史や意味は確かにその空間に時を超越して遺っているように感じるのです。それは生きている私たちが、無意識に伝承されているいのちの様相であり、いのちある限り様々な物語や意味はずっと続いているのです。

近代に入り、ありとあらゆる人種が融和し融合し混然一体になってきています。数々の意味がここにきて合わさってきているとも思うのです。その中で、伝統というものはそれぞれの意味を純度の高いままに保存してきた記憶媒体の一つでもあるのです。

これらに触れることで、かつての純度の高い精神や魂から確かな意味や物語を継承する人々がいます。彼らは、新しい時代を創造する人類の叡智を使いこなす子どもたちです。

私が伝統の継承にこだわるのも、いくら宗教とか言われても構わずに「場」を伝承しようとするのもまた意味の存在を守るためなのです。これは私だけではなく、いのちあるすべての生命がやってきたこと、人類の歴史を鑑みればなぜ大切なのかは必ず時間が経てばわかることだからです。

意味の存在を見つめることは、自分自身を深く見つめていくことです。残された時間、少しでも大切な意味の存在を伝承できるように伝道につとめていきたいと思います。

森の神様

昨日からフィンランド東北地方のクーサモ町にあるイソケンカイステンクラブに来ています。ここはサウナの本場、フィンランドの中でももっとも王道のサウナを提供するキングオブサウナと呼ばれる完全なるスモークサウナです。

フィンランドのサウナの品質を管理する協会「Sauna from finland」から、本格性、清潔性、リラクゼーション性などすべての項目をクリアした品質証明書も授与されているフィンの伝統のおもてなしを体験できる場でもあります。

私はここのサウナマスターからサウナの本質を学び、本物を体験するためにここまで来ました。サ道のタナカカツキさんにして、「ここが一番のスモークサウナ」であると紹介され遠路はるばると来てみるとまさにこれ以上のものがあるのかと心から感じ入りました。

確かに日本のサウナの聖地と呼ばれる「サウナしきじ」も湧き水と温度、利便性など日本人の水との邂逅に感動しましたがこのイソケンカイステンクラブはもう完全に異質です。

一言でいえば、「森の神様が宿る」サウナといってもいいかもしれません。

かつての私たち古来の日本人は、場に神聖なものを見出してきました。神社の清浄な場にいけば心が洗い清められます。同時にあらゆるものを五感で感じて、精神が研ぎ澄まされていきます。それを「杜」とも言います。そこには必ずご神木があり、私たちを永遠に見守ります。

ここの伝統のスモークサウナはまさに、杜で感じるものとまったく同じものがありました。美しい湖、この一帯がまさに神様の澄まう杜でありここで火や水、土や風、日や月、星々などが見事に調和されまさにその中心に「サウナ」があるのです。

大げさに思われるかもしれませんが、私は「場」を研究する場道家です。様々な場を学び、古来からのイヤシロチを創造することをライフワークにするからこそ感じるものがあります。

3年前に、この5つ星を超えた「7つ星」の場をここまで磨き上げたお父様がお亡くなりになり、今ではその娘さんたち2人の姉妹で家族運営されていますがお話をしているといつも身近に父の存在が見守ってくれているのを感じると仰っていました。

その遺志を継ぎ、ここに森の神様と共にフィン人の魂がキングオブサウナになって生き続けていると思うと不思議な奇跡を想い、とても有難く仕合せな気持ちになりました。

私も帰国後、日本人の魂が生き続ける浄化場サウナを建造しますがここでの貴重な体験を活かして先祖に恥ずかしくないように磨いていきたいと思います。子どもたちに、言葉ではなく心身精神すべてで伝承されていくような場を譲り未来への希望の糸を紡いでいきたいと思います。

ありがとうございました、ご縁に感謝しています。

 

苦労の本体

昨日、自然農で収穫したお米の稲架け(はさかけ)を行いました。これは古来からある伝統的な方法で現代では人工的に機械で乾燥させるため見かける機会も減ってきました。

稲刈り直後のもみは約20%の水分を含みますが乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少するため脱穀・調製やその後の貯蔵にとても効果があります。さらにこの稲架けの乾燥方式はお米の品質に及ぼす影響が大きいといわれ普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれています。

また「はさ」の意味は、 挟(はさ)むの意とされています。今回は、長い竹を切ってそれを木に吊るし、その竹に一束ずつ藁紐で縛った稲を真ん中から広げてそれを竹に挟んでいます。

以前、稲架けしたときに雀が大量に飛来してきて食べていったので今回は釣り糸を用いて対策をしています。

次第に乾燥して色合いが変化し、黄金色の稲になっていく様子は格別です。また田植えから草取りなどを仲間と一緒に苦労し合ったことが懐かしく思え、この稲架けをみるたびに心が豊かに満たされていきます。

現代の農法は、ほとんど機械を使って一人で大量に生産します。私の自然農は、機械は一切用いずに肥料も農薬も一切入れませんからすべて手作業です。この農法は実際にはかなりの手間暇もかかり苦労ばかりです。

しかし一緒に取り組んでくれている仲間との豊かな思い出や、見守ってくださっている協力者のお陰様を身近に感じ、食べ物の大切をさを学び、自然の仕組み学び、生き物たちの共生と貢献の姿に癒され、水や太陽の恵みに感謝し、季節のめぐりの有難さ、五感で味わうお米作りの喜び、心の安心と安堵感、生きていくための智慧、お米の持つ偉大な力、野生のしたたかさ、風の持つ価値、土の魅力、まだまだきりがないほど出てきます。

苦労というものの本体は、一体何なのか。

苦労とは、いのちの味わいを与えてくれるものかもしれません。いのちが何を味わいたいと思っているのか、そして味わったことで感じる自分のいのちの仕合せは何なのか。

私たちは活かされているということを結局は学び、生きることを味わうことをやりたいのです。人間や人類は、この世にきてとても大切なことを忘れないために存在している生きものなのかもしれません。

だからこそ、どのような生き方をするのかは生死を度外視しても必要不可欠なもののように思います。一瞬一瞬、一期一会にこのいのちを大切に苦労していきたいと思います。

ありがとうございました。

模様替え

先日、社内の模様替えをする話があがりました。日々に様々な仕事が変化する中で、片付けをしていくことや、整理していくこと、何が元の状態かを明確にすることは気持ちの上でも働くうえでもとても効果があるものです。

模様替えという言葉を調べてみるとコトバンクには『建物、室内の装飾、家具の配置などを変えること。「部屋を模様替えする」 物事の仕組み・方法・順序などを変えること。「組織の模様替え」』と書かれています。

この模様という言葉は、図柄や様子を現わす言葉でもありますが兆しを示す言葉でもあります。何かの変化がある際に、その変化に対応して環境を整えていくことは自分たちが変化するために効果があるものです。

人間はすぐに慣れ親しんだ環境の中でマンネリ化しやすいものです。マンネリ化は以前、ブログでも書きましたが次第に変化を嫌がり避けてしまうものです。変化というのは、本来は成長や変化をたのしむものでそれを可視化することで自分自身の暮らしの改善も確認できます。

そしてこの改善は「磨く」ことで、新しい自分の意識や今までにない自分の姿を環境から再認識することもできます。環境によって自分を変えることもできますが、模様替えに取り組むことで新たな変化を身近に感じることができるように思います。

むかしの家の間取りは、ハレの日とケの日によって模様替えを行いました。その都度、変化を味わい、そして平素に帰りました。このハレとケの行き来によって、日々の暮らしを味わい、変化や成長を深めていきました。

色々な模様がある日々を彩ることは、豊かな日常を大切にしてかけがえのない場をみんなで大切に守っていくことに似ています。

模様替えから新たな変化を楽しんでいきたいと思います。