運気を磨く

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴する機会がありました。新著「運気を引き寄せりリーダーの7つの心得」のお話が中心でしたが共感するものが多く学ばせていただきました。

想えば20年以上前に東京で田坂塾でお会いしたのがはじめてでしたが、ほとんどお変わりなく一期一会に真摯に講義されるお姿に生き方を垣間見させていただき刺激もいただきました。

あの頃は、「メメント・モリ」という死を想うという生き様を実践する大切さを語られていました。今日が人生最期の日と定めて生きていくことの大切さ、当たり前ではない時間に気づいているかという問いを発して一期一会に生きることを伝えておられました。

そして今回は「運気」ということでしたが、運は決して宗教的技法の祈りではなく、科学的技法としての祈りであると定義しています。つまり単なる神秘的なものではなく、これは実証されているという事実であると。現代、量子論を含め科学がその神秘の世界を可視化してきています。その時、これは単なる偶然ではないということがわかってきているのです。

それをあらゆる角度から分析し、リーダーというものの真の役割について語れています。古今、リーダーはすべて「運がいい」ということが絶対条件だといいます。その理由は、リーダーを含めた組織全体を導いていく使命があるからです。運がよくないリーダーについていけばいくらその人が良い人でも組織は運を逃して悲惨なことになることもあります。

運のよさというのは、その人だけではなくその周囲も幸運に導いていきますのでリーダーはその運気というものへの心得を持つ必要があるということでしょう。

田坂先生のいう心得の詳細は、GROBISのサイトで拝見できます。

私もいつまでも実践と改善を積み重ねて、運気を高めて子どもたちを導いていけるよう徳を磨いていきたいと思います。

腸活を楽しむ~智慧食~

私たちの郷土料理の中の一つに「ぬか炊き」というものがあります。ぬか漬けの漬物を知っている人は多いと思いますが、そのぬかを使って料理して味付けをし煮込んだものがぬか炊きといいます。

そもそもこの「ぬか」は、玄米を精白する時に出る、胚芽(はいが)と種皮とが混ざった粉のことをいいます。それを壺や木桶などに入れて、塩水を加えて練れば「床」ができます。そのぬかの床ができるから「ぬか床」(ぬかみそ)とも呼びます。このぬか床は人間に有益な微生物や乳酸菌などの棲家になりそこでの発酵の循環で産み出されたものを摂取することで人間にとっても豊富なビタミンやミネラル、栄養価を得られます。

この微生物と人間との調和、そのものを「発酵」と呼び、私たちは伝統文化として暮らしの中に取り入れてきました。野菜等の保存食としても最適でもあるためこの智慧を伝承されてきたのです。今では冷蔵庫=保存するものになっていますが、自然界にはそんなものはなく微生物と共生することで私たちは生き残るための智慧を獲得してきたのです。この時の保存は単に傷まない腐らないための仕組みではなく、「永続的に健康でいられる仕組み」まで入っていたのです。

以前、確かこのブログでも書きましたがぬか漬けの歴史は奈良時代の「須須保利(すずほり)」という漬物がルーツだともいわれます。米糠のことも734年(天平6年)の正倉院文書の尾張国正税帳にあるといわれています。それだけぬかを使った暮らしには歴史があります。

その「ぬか」を使った「ぬか炊き」は一般的なぬか床のような漬物として使わずにぬか床を調味料にして青魚のサバやイワシをぬか床で長時間炊くのに使います。つまり「ぬか+炊く」から「ぬか炊き」ということなのです。このぬか床を長時間炊くことで保存期間が延びさらに青魚特有の臭みも消えぬか床のうま味が魚に入り絶妙な味わいが得られます。健康になる上に、寿命が伸びるという発明食です。福岡での伝統郷土料理としてのはじまりは小倉藩主の小笠原忠政公が前任の信濃国から保存食用としてぬか床を持ち込んだのがはじまりです。

今の時代、添加物をはじめいのちの入っていない便利なサプリや加工食品ばかりが広がっている中で腸内環境を整えるといった「腸活」が流行ってきていますが現代社会でも心身の健康恢復の救いになるのがこの「ぬか漬け」と「ぬか炊き」であることは間違いありません。日々の暮らしの中で如何に腸内フローラを活き活きさせていくか、それは暮らしの中の日々の食の智慧と工夫にこそあります。

つまり伝統保存食は単なる長期間腐らないものではないのです。本来の伝統保存食とは、健康な暮らしを維持継続させるための智慧食のことです。私たちは日々に心身が整っていけば、それだけで仕合せを感じます。日々の暮らしは、私たちの人生を美しく彩り、明るくしていきます。

「食」という字が、なぜ「人が良くなる」と書くのか。それは食によって人間が磨かれていくからです。そしてそれは「腸内環境」からというのはまさに的を得ていると感じます。

コロナウイルスのことで、暗く辛い報道も増えていますが、いつまでも子どもたちが安心して元氣で健康で幸せになれるように私も腸活を楽しんでいきたいと思います。

 

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

徳を掘り起こす

明日は、いよいよ徳積堂がオープンする日です。この日を迎えるまでかなりの時間をかけて準備してきましたが、無事に始動できることが仕合せです。もともと徳の循環をはじめるための実験の場として醸成していきましたがこれからどのような変化をこの場が築いていくのか楽しみです。

今回のオープニングイベントは徳の掘り起こしをテーマに古代から今までの歴史を学び直す機会にしています。そもそも歴史とはそのまま真実であり、どのような経緯で今ここまできたのかを明確に顕すものです。

時としてその時代の権力者が歴史を私物化して、真実を歪めていることもありますが本来の歴史はいくら歪めても最後には必ず正体がはっきりするものです。それはそこに「場」が遺っているからであり、その場にアクセスする人たちによって本当のことが次第に明らかになっていくからです。

例えば、日本の歴史では菅原道真公のように如何に罪人であるかのように時の政権が歴史を抹殺して功績をなかったことにしたとしても、その後、ご縁のある人たちや遺跡や文化財などの掘り起こしによってその徳が顕彰されていくのです。

いくら歴史を誤魔化して私物化しても、いつかは明るみになり返ってそのことでさらに歴史の真実や徳は人々に語り継がれるようになるのです。

歴史というものは、今まで歩いてきた軌跡でありこれから何処に向かっていくのかの大切な方針や初心を示すものです。私たちは個人の人生を生きてはいますが、大きな意味としては歴史を生きているのです。この現代もまた、古代から続く歴史の連続の一部であり未来もまた歴史につながり顕現してきます。

今の自分の布置を理解することは、今の自分に譲られてきた徳を理解することでもあります。

私たちが歴史を掘り起こす必要があるのは、自分たちが今までどのように歴史を生き抜き暮らしてきたか。そして先人たちの数々の人生での思いや祈り、願いを歴史とともにどのように暮らし生きていくのか、その遺徳を感受しなおすことで私たちが何を徳としてきたかを甦生させる意味もあるのです。

徳の甦生は、徳の循環のはじまりになります。

子どもたちが、自分たちの歴史やルーツを知ることこそ根のある暮らしを実践することであり、栄養豊富な風土から養分を吸い上げて世界や未来で活躍するための場の醸成になっていきます。

まずはこの時、この徳積堂から子どもたちに確かな未来を譲っていきたいと思います。

塞翁が馬の会

故郷の旧庄内町(飯塚市)に「塞翁が馬の会」というものを新たに立ち上げました。これは、「結」といった日本の伝統的な互助の知恵を現代に温故知新して甦生させるためにはじめたものです。

この「塞翁が馬」という言葉は中国の有名な故事の言葉で正確には「人間、万事塞翁が馬」といいます。この塞翁は、人の名前ではなく国境の塞(とりで)付近に住む老父という意味でその馬のことを指します。

この故事の内容を日本語に現代語訳すると、「辺境の砦の近くに、占いの術に長けた老父がいた。ある時その人の飼っていた馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子どもが乗馬を好むようになったが、馬から落ちて大腿骨の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。」とあります。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。つまり禍福の本体とは一つであり、自分のものの見方と心の持ち方でどうにでも観えているだけということです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきた半生でした。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。かつて二宮尊徳は、余話の中で「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」といいました。それをこういう話で例えます。

「包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるのだ」と。

結局は、ここでも禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第であるといいます。つまり禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているということです。

私は「活かす」というのは「禍いを転じて福にする」ことだと定義しています。そして禍福を一円のように丸く融合させるとき真の平和が人々に訪れます。

「塞翁が馬の会」と名付けたのは、物事に対してそういう初心を忘れないで取り組んでいこうという気持ちからです。偶然に発足した会ではありますが、この会の生き方や心の持ち方が故郷の人々、そして風土、暮らしを甦生して日本、世界を平和に導いていけるように禍福を豊かに味わっていきたいと思います。

思考を止めない

久しぶりに東京入りして明治神宮をゆっくりと散策する機会がありました。コロナの緊急事態宣言が解除されてから街中は人があふれています。3密を避けてといっても、駅の周辺やデパートなどは行列ができています。変わったのは、すべての人がマスクをつけていることくらいな感じです。

人間は、他人の様子に合わせて多数派の意見や誰か専門家や権力者の発言に依存すると思考停止してしまうものです。簡単に言えば、自分で考えることを止めてしまうという具合です。

本来、現状はコロナの問題は何の解決もしたわけではなくワクチンも接種したわけでもなく、さらに状況は変異株や感染数は増えて悪くなる一方です。しかしみんなコロナ前の日常に戻ってきています。ひょっとしたら自粛して解除までは我慢したのだからとその反動が来ているのかもしれません。もしくは、マスコミの情報を頼りすぎて自分の感覚で判断するのをやめてしまったのかもしれません。

どちらにしても、思考停止してしまえば悪い方の状況がそのうち常識になってしまい何が最善で何が本質なのかもわからなくなってしまうようにも思います。

自分の感覚を信じるというのは、自分で考え続けるということとイコールです。誰かの意見は参考にしても、大切なのは自分の感覚を大切にするということです。

人間は一つの災害に対応するだけでも精いっぱいで、二つ以上の災害に対応するのはほぼ不可能です。感染症が流行しているときに、他の自然災害などが発生すれば悲惨な事態になります。これは歴史を観ればすぐに理解できますが、地震などのあとに死者が増えるのはそのあとに感染症や飢饉などが発生するからです。

連鎖的に何かが発生する前に、何かしらの対処を早急にして次の災害に備えるというのが大切なことだという教訓です。

リスク分散、これは危機回避をするためにみんなで力を合わせて支えあう仕組みでもあります。ブロックチェーンは、DAOといって自律分散の仕組みです。何かあった時のために、いかにそれぞれが自律して支えあうか。お互いの役割を信頼を築いて協力して助け合い生き残る智慧でもあります。

私はコロナだから今の判断をしたのではなく、自分の感覚を信じてずっと今までやってきました。自分の嗅覚、聴覚、触覚などの五感、そして手と足と運を信じて歩んできました。その中で、今はこうすると自分の信じる道を直観して決断をしてきました。それは思考を止めないための工夫だったように思います。

刷り込まれていく世の中で、刷り込まれないことこそが生きるための本当の知恵だと今、私は確信しています。子どもたちが、いつまでもこの地球で仕合せに暮らしていけるように刷り込みを少しでも取り払い、刷り込まれない環境を創るために思考停止する世の中に暮らしフルネスの楔を打ち込んでいきたいと思います。

徳を磨くチャンス

徳積堂が間もなく始動するにあたり、初心を確認する機会が増えています。自己との対話を通して、改めて心の調整を丁寧に紡いでいく毎日です。

徳というものの正体は、なかなか現代では伝わりにくく構想だけを話すとすぐに感謝ポイントや恩返しシステムなどと脳が判断できるもので理解されていきます。私はもともと実践を重視するタイプですが、世の中に現代の言葉で甦生し、今なら何をすれば徳を積めるのかの具体的な事例を伝え、仲間や同志たちと一緒にその豊かさを伝道していきたいと取り組む中で様々な葛藤も生まれます。

特に親しい人や、尊敬できる人たち、また親切な方々になかなか伝わらないときは時機ではないのではないかや、これで本当に良かったのかと自問自答することもあり、その時は静かに元の場所に回帰して徳についてまた自分なりの整理をしていきます。

目に見えないものを語るとき、現代ではそれは宗教の類であると分類わけられます。しかし、この世の中はご縁も同様に目には観えない「つながり」によって存在や関係が結ばれているものです。そしてその空間的にも歴史的にも深く結ばれた縁起によって私たちは自分の道を体験していくことができています。

徳というものもまた中庸であり、実態はわかるようでわからないものです。今朝がた、また整理しているとふと常岡一郎さんのことを思い出しました。この方もまた、徳を積み、自分を磨き切った人生を送られた方でした。同じ福岡県出身の方です。こういう言葉があります。

「徳と毒はよくにている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒が薬ということばもあるではないか。毒になることでも、そのにごりを取れば、徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引きうけるなら辛いことほど徳になる。」

「とく」に濁点が入ることで、「どく」ともなる。多少の毒は薬になり、良薬苦しともいえる。何も毒がないものは徳にもならない可能性もある。大事なことは、その毒の濁りを洗い清め禊ぎ祓い、徳にしていけばいいのである。最初から毒だからと避けて清らかなところにだけいてもそれは徳にはならないものかもしれません。泥沼の中の美しい蓮のように、私たちにとって大事なことはただ清らかなところで善いことをすればいいのではなく、それがたとえ自分にとっては苦労であっても勇んで訪れてきたご縁に素直な心で取り組んでいくこと。やりたいことのためにやりたくないことを我慢するのではなく、やりたくないこともまた喜んで勇んで引き受ける。あらゆる我執をも手放して、濁った心を見つめてそれを磨いて光らせる正直な想いで引き受けて至善に転換していく。そういう取り組む姿勢や実践の積み重ねによって感謝と歓喜が湧いてきてこそ徳になるのだと。つまり、毒を自分の身体を通して徳にしようという祈りの心の中にこそ徳を醸成する要諦があるということなのでしょう。

これは私の意訳ですから文章をどうとるかは、それぞれの人の解釈ですが徳積みとは禍を転じて福にすることであり、故事の人間万事塞翁が馬のような生き方をするときに出会えるものだと私は思います。つまり素直さこそが明るさであり、その明るさによって濾過されたものが人々の幸福を増やしていくのです。

初心は常に子どもたちの未来のために取り組んでいますから、すべてのご縁を活かし徳を磨くチャンスに換えていきたいと思います。