聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

原初の仏陀

スリランカの訪問にあわせて改めて仏教伝来のことを深めています。もともと仏教には、南伝仏教と北伝仏教というものがあります。

南伝仏教は、アショーカ王 の子(一説には弟)のマヒンダが前3紀頃にセイロン(スリランカ)に伝えた仏教であるといわれます。この仏教を上座部仏教ともいいセイロンから東南アジア諸国へと広まり発展したものです。仏陀が亡くなってすぐからの伝来なので初期仏教とも言われます。それに対して、北伝仏教は西北インドからシルクロードに沿って、中央アジア、中国、朝鮮半島、日本へと伝来した仏教のことです。これを大乗仏教とも呼ばれます。紀元前1世紀ころにガンダーラからパミール高原をこえて紀元前後頃には中国西部に伝えられました。有名なのはこの経典を漢訳した5世紀の鳩摩羅什 (くまらじゅう)、また7世紀の玄奘 (げんじょう)です。言い換えればこの2人の仏教が今の日本の仏教の原初かもしれません。

仏陀は本来は名前ではなく「悟りをひらいた人」を意味する称号です。今の日本では仏像になったり神様になったりと人ではないものになっています。しかし原初の仏陀は、ゴータマ・シッダルタさんとして己を磨き修行をして執着を手放し人としてどう生きることが仕合せかということをあらゆる角度から究め盡した人物のようです。人間が持っているすべての感覚や欲望、感情などを見つめ、それが何であるか、どうあることがいいかを解きました。好奇心の塊のような実践者です。

現代では仏教は相当数の派閥や部にわかれてそれぞれに解釈が異なり、時には争いの原因ともなっています。また政治にも密接に関わっており、それぞれの権力者たちが採用して治世の役に立てました。私たち日本でも、聖徳太子の時代に仏教を取り入れ、その頃の神道や儒教などとぶつかった歴史があります。

教えというものは、言葉と似ていて二元論を持ちます。善か悪か、正しいか間違いかと、常に言葉が二つに分けていきます。もともと口伝を採用していた初期仏教はその言葉の性質を知っていたのかもしれません。私たちは、言葉という便利な道具によってあらゆる知識を便利に理解でき、そして新しいものを発明するための道具にしていきましたがそこには長所もありますが短所もあります。バランスを保つというのは、形にすればするほどに難しくなるものです。

本来、聖徳太子が理解した時のように分かれる前に回帰するというのがいいように私も思います。聖徳太子は、神儒仏習合や神儒仏混淆ともしました。そもそも一本の木が、根と幹と枝葉に分かれたように丸ごとを観ると一つの木であるというのです。

私もこれは全くの同感でそもそもが一つの木でできていると捉えると分かれていることでそれと敵対することがありません。また、一本の木が成長と捉えたら全体最適であることが分かります。

先ほどの上座部仏教と大乗仏教の違いであれば己自身が悟ることと、大勢の人々を救い助ける利他に生きることは一本の木が成長する過程と同じです。新芽が出て、真摯に生きていけば周囲を活かします。そしていつか花を咲かしたくさんの実をつけ種になれば周囲を救います。別々のものではないということでしょう。

スリランカには、ゴータマシッダルタさんが生身で生きていたころと同じ暮らしをし、具体的にその人物に会った人たちの子孫がいます。その子孫が、何を感じ、何を学び、何を守ってきたのかを感じることが私にとっては原初の仏陀の痕跡になります。

因果の法則を解いた仏陀の御蔭さまで、一期一会の氣づきとご縁でスリランカと結んでくださいました。丁寧に原因と結果の間を辿りつつ、未来の子どもたちのために学び直してきたいと思います。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

地域の宝徳

昨日は早朝より庄内中学校の有志の生徒たちが100人以上が集まり飯塚市の桜の名所の一つでもある鳥羽池周辺の清掃とゴミ拾いを行いました。地域代表としてお手伝いに参加してからもう3年目になります。最初は生徒会で実験的に取り組んでみて、その後は部活動の生徒たちが参加し、今では全校生徒で有志が集めいつも100人以上の参加するほどになりました。

庄内中学校は、校内にあるメタセコイヤの大木にイルミネーションをつけて地域を明るくする活動や、その資金調達にクラウドファウンディングに取り組むなど、実社会に基づいた社会への参画を色々と挑戦しています。またブロックチェーンの講義を受けたり、コロナ後の地域のお祭りに新たに積極的に参加したりとこの数年は特に目覚ましい活躍です。学校行事も次々と生徒が主体的に自由に取り組んでいるのが拝見でき、素晴らしい教育と大勢の見守りのある学校だと改めて母校の変化に感銘を受けました。

この鳥羽池の清掃では、初年度のゴミは恐ろしいほどの量で粗大ゴミや産業ゴミなどとても中学生の手におえないほどのものが出てきました。池の水が少なくなるこの冬の時期に誰かが捨てたものが池の中から出てきます。この場所は、夜は住宅が少なく人目につかないからと捨てに来る人がいるのでしょう。それを真摯に靴も泥だらけになり汗をかいて拾っている子どもたちの姿を見たら捨てられるはずはありません。

またゴミのほとんどを分別すると、ビールやコーヒー、ジュースの空き缶とペットボトル、それにお菓子や弁当などの袋、プラスチックや発泡スチロール、それに釣り道具などです。自然には容易に分解されないゴミばかりが池の周辺や池の中に大量に出てきます。同じ場所に吸い殻や同じ空き缶があるところは、同じ人がそこで捨てているのかもしれません。

この取り組んでから3年間、毎日散歩している人が拾ったり、ゴミ箱を設置してあってもゴミは1年に1度、生徒たちで清掃すると同じくらいの量が出てきます。しかもゴミ袋30袋以上の大量のごみです。これは一体なぜでしょうか。

一つには金融構造や欲望優先の消費経済、他にもシチズンシップや家庭教育の問題などいろいろとあるでしょう。以前、ゴミ処理場を運営している経営者にゴミ処理場を経営したら日本という国がどういう国かがよくわかると教えていただいたことがあります。ゴミの処分の仕方、ゴミに対する政策の内容、そしてゴミの種類や捨て方などにすべてが日本という国のありのままの姿が出ているからというのです。

以前、イエローハットで掃除道で有名な鍵山秀三郎氏から「足元のゴミ一つ拾えない人間に、何ができましょうか」という言葉を聴いたことがあります。そして著書でこう続きます。「『ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる』私の信念を込めた言葉です。ゴミを拾っていて感じることは、ゴミを捨てる人は捨てる一方。まず、拾うことはしないということです。反対に、拾う人は無神経に捨てることもしません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れてきます。人生はすべてこうしたことの積み重ねですから、ゴミひとつといえども小さなことではありません。」と。

これは徳を積むことも同じです。地域の代表として私からはみんなに「コツはコツコツ」の話をしました。コツは一つだけではなく、継続しコツコツとなることで非凡になると。ゴミ拾いというのは、継続と凡事徹底を學ぶ智慧にもなり、徳を磨き、己の心を育てるための素晴らしい教育になるということです。これは私の徳積財団の活動や丁寧な暮らしや社業の実践でいつも話していることです。

私がこれを改めて皆さんに発信したいと思ったのは地域の人たちに庄内中学校の生徒たちが真摯にキラキラと心を磨きお掃除をする姿を伝えていきたいと思ったからです。地域を守ることは、一人一人がコツコツと心をみんなで磨いていくことだと私は思います。

日本人は元々、来た時よりも美しくという精神を持っていて世界では試合後のゴミ掃除の姿がとても尊敬されています。正々堂々として清らかであろうと、荒んだ心を調えて和を尊ぶ国民性がある人たちといわれます。

都会に出て地域に子どもが少ないとか人口減少で過疎化しているとか不平不満ばかり並べる前に、凡事徹底して地域の宝や徳を磨き、それを未来へと大切に見守っていけるような日本人でありたいと思います。

 

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

心のふるさと

家庭教育というものがあります。そもそもこの家庭教育はいつからはじまったかといえば、人類が始まった時からとも言えます。その時から代々、その家の家風や文化が産まれていきました。それは色々な体験や経験を通して、大切なことを親から子へと伝承していくのです。

つまりは家庭教育の本質は、伝承教育ということでしょう。

その伝承は暮らしの中で行われてきました。これを徳育ともいいます。私たちは徳を暮らしから学び、その徳が伝承していくことで代々の家は守られ持続してきました。私たちが生きていく上で、これは生き残れると思えるもの、自然界の中で許された生きるための仕組みを智慧として取り込んできたのです。

これは人間だけに限ったものではありません。鶏がもつ秩序であったり、虫たちがもつ本能であったりと、見た目は違ってみえてもそれぞれに家庭教育がありその一つの顕現した姿としての今の生きざまがあるのです。

人類は、その家庭教育をそれぞれの小さな単位の家からその周囲の家にまで広げていきました。親子で伝承してきたものを、その地域で伝承していくようになりました。善いものの智慧は、善いものとしてみんなで分かち合ったのです。助け合いの仕組みもまた地域の伝承の一つです。地域ぐるみでみんなで伝承してきたからこそ、その地域が豊かに発展し、存続してきたともいえます。

それが現代は破壊されてきています。地域の共同体も歪んだ個人主義により失われ、家庭教育も核家族化などによって環境が劣化していきました。今だけ金だけ自分だけという空気を吸い、家庭教育は学校任せです。こうなってくると、人類は今まで生き残ってきた力を失っていくことになります。

つまり生きる力の喪失です。生きる力が失われることは、私たちは心のふるさとを失うことでもあります。心のふるさとは、この代々の伝承のことでありそこをいつまでも持っているから故郷の心も守られます。

次世代のことを思うと、今の環境を変革すべきだと危機感を感じます。そしてそれは何処からかといえば、家庭教育の甦生からというのは間違いありません。家庭教育を国家などに任せず、それぞれが暮らしを丁寧に紡ぎ、地域の方々と一緒にかつての先人たちや両親、祖父母からいただいたものをみんなで分け合い守り続ける活動をしていくことだと私は思います。

私が故郷で行っているすべての事業もまた、その心のふるさとを甦生することに関係しています。保育という仕事に関わってきたからこそ、到達した境地です。

子どもたちのためにも、保育の先生方を支えるためにも信念をもって家庭教育を遣りきっていきたいと思います。