BAの意味

自然農で高菜は種を蒔いた後は育てるというよりも育つのを見守るという具合ですくすくと元氣に育っています。環境さえととのっていれば、タイミングを間違えなければ不思議と元氣に育ちます。これはそのものの生命力がのびのびと発揮されているからだともいえます。

環境というのは、決して土だけではありません。天候全般であったり、またその年の温度や湿度、空気や虫の量などもあります。ある程度、場数を踏んでいけば対応できる技術も増えていきます。しかし、それでも霜に負けたりすることもあれば、ある時は猪に荒らされたときもあります。そこは人生と同じで、不意に思ってもみなかったことが発生して混乱することがあります。

それでもまた次の年に再度挑戦できるという意味では、一年間で四季を巡るというのは救いになるものです。つまり前回の反省を活かして次回を挑戦できるということです。

素直に物事が観えているのなら、何が我執だったのか、どう自然を読み違えたのかがすっと腹に落ちます。しかしその逆に、こんなはずではないと囚われれば捕らわれるほどに物事の真実や本質は掴めません。

場数というのは、自己反省を繰り返すことでもあり、よく聴き素直に自分を改善するのにとても役立つものです。この場数という言葉は、経験を積むという言葉にも似ています。つまりどのような経験を積み重ねたかで真実や本質と出会うということです。

人間は、何度も生まれ変わりながら同じことに挑戦していきます。大きな意味では文明や文化も同様でそれは歴史が証明しています。以前の経験よりも今回は改善できたか、素直になれたかで魂も磨かれさらに真実に近づいていきます。

私たちは「わかる」ということを求めてから、敢えて挑戦して理解していこうと繁栄を求めました。しかしわかったからといって、それが不自然ではあまりいい場数にはなりません。あくまで自然という砥石に磨いてもらいながら、何が不自然かがわかるようになることが真の意味で「わかった」ということではないかと私は思います。

分かった気にならないでいられるのは、自然と共生し、自然に磨いていただくからです。今の時代、最先端は便利さばかりが注目されます。しかし本当の意味での最先端とは、自然の智慧の活用をどう現代の技術で活かすかということです。

私が取り組むブロックチェーンアウェイクニングは、ブロックチェーンの思想を容どったものです。流行も大事ですが、その根、その土、その場に何があるかということです。

色々な展開がはじまりましたが、ブレずに場を守り場を整えていきたいと思います。

大恩

「大恩」という言葉があります。これは非常に偉大で深い御恩のことです。ことわざには、「大恩は報せず」という言葉があります。これは小さな恩義はすぐに気づいて報いることができてもあまりに大きな恩義はかえって気づくこともなく、報いることができないという意味です。

よく人生を振り返ってみると、私たちはこの大恩によって生かされていることに気づきます。小さな恩は、日々の関わりの中で実感し感謝して忘れませんが大恩となると気づいてもおらず、そのためなかなか御恩返しをすることができません。

この大恩に気づかせることができることが本来の徳積みではないかと実感するのです。

中江藤樹に、「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」という言葉があります。私というものを存在させてくれた恩徳は、比べようもないほどに高く深いものというものです。

例えば、私たちは身体がなければこの世で活動することはできません。この身体がある御蔭で存在しています。その恩徳は偉大であり、こんなに有難いものはないと思うものです。しかし実際に日々に生活していると、身体のことも気づかずにやりたいことをやっていてその時々の出来事に一喜一憂して恩を味わっています。

もっともの大恩は何かと思えば、まずこの世で生きていること、身体があることというのは当たり前です。当たり前のことに気づくことができるのは、この当たり前である大恩に気づいているということでしょう。

その大恩に報いるとは何でしょうか、なかなかそれはできないものです。食べるものがある、飲める水がある、家族があって友人があり、住める家もありと、本来は非常に有難い御恩も当たり前になってくると忘れがちになるものです。それが大きければ大きい存在ほど当たり前になり忘れていきます。太陽や月、地球や空気、歴史や文化も当然すぎて思い出しもしないのです。

本来の偉大な恩はこのいのちそのものの存在ということかもしれません。

だからこそ、大恩に報いる機会を思い出させることはとても大切な行為だと私は思うのです。それが徳に気づかせて徳を積ませる場を用意することや、お布施をする機会を見出し共に恩返しをする場をととのえることが恩徳に気づかせることになるのです。

人間が恩徳に気づけば、生き方が変わっていきます。恩徳の存在があることによって安心が生まれ、幸福な暮らしを味わっていくこともできます。子孫のために自分を活かして恩の一部に近づいていくこともできるように思います。

大恩はこの永遠につながっている無限の徳の循環です。

自然やお山に近づくのは、それを人々に伝えるためだとも感じています。子どもたちのためにも、本来の大恩や徳に気づかせていくような場を磨き上げていきたいと思います。

徳豊一致の泉

WELLという言葉があります。これは井戸や源泉が語源であるといいます。そして最近、WELLNESSやWELLBEINGという言葉もよく聞きます。これは健康な状態や幸福な状態のままというように私は解釈しています。

つまり日本語では日々の暮らしがととのい心豊かに健康に元氣で生きられる状態であるということです。これを私は「暮らしフルネス™」と名付けて実践を弘めています。

ウェルネスやウェルビーイングは海外から入ってきたものですが、本来、日本人は何がもっとも豊かで幸福であるかということはみんな実践できていた民族でした。貝原益軒の養生訓にもありましたが、私たちの先祖は長寿で健康、そして日々の暮らしの喜びに満ちたものでした。

改めて今の時代、人類は何を求めているのかという問いに対しての答えがはっきりする時代に入ってきたのかもしれません。成長と発展、繁栄の先にあると信じたものがなかったと思ったなら人類は大きな方向転換を定める時機です。

そこでこの「暮らしフルネス」こそ、私は世界に新しい人類の智慧を提案するものになると信じています。

私たちの生命は、偉大な何かを与えられて存在しています。すぐに分かるのは水や太陽、大地、空気など私たちが生存するためには与えられ続けている存在に頼っているのはわかります。私たちは与えられ、そして与える存在。つまり貢献し続けて共生しているから生きているともいえます。

この枯れない泉は、滾々と水を湧き出していのちを潤し続けています。この泉の水は何かということです。

英彦山にも湧き出ている清水があります。それが大きな川になり海になります。そのはじまりの水は流れ続けています。これを「徳」とします。この徳が湧き出ているからこそ、その徳を集めて私たちはあらゆる豊を積んでいくことができます。その徳を積むとき、泉は湧き出てきます。

つまり私たちはみんなで徳を積みながら真の豊かさを増やしていくのです。徳と豊かさは表裏一体であり、徳のあるところにこそ真の豊かさがあり、真の豊かさがあるところにこそ徳は積めるのです。

永遠という言葉は、この徳豊一致の泉にこそあります。

人類の目覚めは、「場」の道をととのえるところからはじまります。子どもたちのためにも私の使命を全うしていきたいと思います。

お滝場の甦生

昨日はお滝場の石風呂にはじめての火入れを行いました。関わってくださった方々の御蔭で無事に場が整いました。特に建築に携わった大工の棟梁や窯をつくりあげてくれた職人、お掃除して綺麗に守ってくださった人たち、また修行者の方との一期一会はとても心に残りました。

滝行というのは、冬季の寒い中での荒行のように思われますが実際には一人で行うのと仲間と行うのではその感覚は異なります。昨日は、背中から水をかけてくださる方、勤行を唱えて祈りを捧げてくださる方、また法螺貝を吹いてくださる方がいて、他の仲間が見守る中でお滝をいただきました。

滝行をする方々は信仰深く、滝ではなくお滝とも呼びます。

私たちはいのちあるもの、尊敬しているもの、大切なものには「お」をつけます。お花、お米、お母さん、お水なども同様です。お滝というのは、流れている水ですがそこに確かな何かの存在を感じるのです。

神道の大祓詞には、瀬織津姫という神様のことが書かれていてこの神様が滝場にいて色々な災厄を祓い清めてくれると記されます。祓いというのは、あらいが語源で、禊というのはすすぐことを言うといいます。つまり祓い清めるというのは、今でいう洗い流ししてきれいにするということでしょう。

このお滝の神様の瀬織津姫のほかに、速開都比売(はやあきつひめ)・氣吹戸主(きぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)という洗い流してきれいにする神様がいると祝詞には出てきます。川や渦、海などみんな洗い流してきれいにする神様たちの御蔭で私たちの汚れや穢れは取り除かれて自然に循環するというのです。

先人たちはこの自然の仕組みを知り、日々の小さな塵や垢のように心や魂などにつく汚れや穢れも洗いきれいにできる方法を発明したのでしょう。

今の時代、以前よりもスピードがあがり今までのように簡単に洗い流すことができなくなってきています。できればしっかりと洗い流しておかないと積もり積もるとそれだけ浄化に時間がかかってしまいます。

日々の暮らしの中で、私たちは禊をしますがこれからはますます必要になってくると私は確信しています。人間は集合意識によって社会を形成しますからそれが歪であればあるほどに地球や宇宙にも影響を与えてしまいます。量子のことが解明すれば、意識こそが世界に影響を与えていることはわかってくるはずです。情報化社会というのは、意識の社会ですから人間力を磨き高めていくことで未来の流れも変わることでしょう。

子どもたちのためにも、大切な智慧や伝統を活かしながら場を創造していきたいと思います。

 

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

人の一生には自然と同様に四季があるといいます。これは吉田松陰の遺書「留魂録」の中であり大河ドラマでも現代語で分かりやすいようにして紹介されました。そこにはこうあります。

「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。ひとにも同じように四季があります。ひとの命とは歳月の長さではない。それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。私は30歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。どうか一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」

これは人の寿命のことです。50歳で亡くなる人、10歳で亡くなる人、90歳で亡くなる人、20歳で亡くなる人がいます。そのどの人にも寿命があり、そこには春夏秋冬という人生のめぐりがあるというのです。

そして松陰は、人生で大切なの寿命の長さでないというのです。例えば、100歳まで生きている人がよくて10歳で亡くなる人はよくないではないというのです。通常は短い人生でと嘆きたくなります。吉田松陰も数え30歳で亡くなっています。しかしその中でも人生の循環があったといい、魂は春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄えることをやったというのです。そして収穫をして次の春の種となったというのです。

これはどういう意味か、それぞれに解釈はあると思います。

私は、もともと魂というものはこの世に身体を借りて顕現しているという見方を持っています。私たちは身体を借りて生活することで様々な体験を通して魂を磨いて光らせていきます。目的があるのではなく、まさにこの四時ノ循環をしている途上ということです。

その中で、一つの実をつけては次の種になっていく。繰り返し何千年も何万年も前から私たちはそのいのちのめぐりの繰り返しを続けて今に存在しています。これは普遍的な事実であり、農に関わる人なら種まきをして収穫をしまた種まきをすることを毎年繰り返しているのがわかります。

この世に生まれ出でてもっとも重要なのはそれを体験して全うすることだと私は思うのです。

しかしその周囲に生きる人は、その人ともっと長く過ごしたかったし別れがとても辛く寂しく感じます。その人が種として未来にまた次の場所で収穫をするのがわかっていても、目の前からいなくなる喪失感は大きいからです。

残されたものはその人の分まで、その人がやりたかったことを継いでいくことでその人と一緒にこの世にいる感覚を得られます。自分自身の与えられた天命や物語が続いているならまだ私たちも四時ノ循環の最中であり途上です。

その種を蒔くのは私たち残されたものです。

その人の分までよりよく生きて、自分も次の種になれますようにと祈りながら歩んでいきたいと思います。心からご冥福をお祈りしています。