滝場の甦生

故郷の古の滝場周辺の山道を切り拓いています。ここは平安時代には、日本全国に知れ渡るほどの修験場でしたが現在ではほとんど誰も人が来ない場所になっています。少し入るだけで、現世とはかけ離れたような清浄な空気が流れています。

今までどれだけの数の山伏や信仰のある方々がここを守ってきたか、それを想うとこの場所が多くの方々の人生を潤し役立ってきたことがわかります。現在は、滝も枯れ、鬱蒼とした木々が生え、誰もそこにはいくことはありません。

それを今一度、甦生させようということで鬱蒼とした木々を取り除き、草を刈り、人が踏み入れることができるようにし、枯れ木などを片づけました。

改めて場所を整えていくと、その当時の様子が少しずつ甦ってきます。枯れた滝がどのようにこれから甦生するのかはわかりませんが大雨が降るとかつての状態に戻っていきます。

枯れた理由は、自然現象もあるかもれませんがほとんどが人為的なものです。滝の裏側に大きな工事現場があり地下水の流れが変わってしまっているのかもしれませんし、もしかすると過剰な植林によって水が吸い上げられてしまっているのかもしれません。上流でダムができて流れが変わったかもしれません。これからその理由を探索していきますが、古の水の流れが変わってしまえばその場所の持つそのものの価値も変わってしまいますから甦生はその一つ一つを丁寧に恢復させていくしかありません。

私の取り組んでいる甦生は、医者のやっていくことに似ています。それも自然治癒をする医者です。できる限り、元の状態に戻していく。しかし周囲の環境が変われば、いくらそのものを甦生させてもなかなか元通りになることはありません。

だからこそ、創意工夫して元よりも善い状態になるように負の現状を逆手にとってそれを甦生させていくのです。そうして甦生したものに人は感動し、さらに新たな人を目覚めさせていくことができます。

お金にもならず儲からず、誰もやろうとしないことでも子どもたちや未来の世界のためにやることはたくさんこの世には存在します。それを発見し発掘し、それを発信し、発心する人を増やすこともまた大切な志事です。

引き続き、古来の滝場の甦生を通して日本人の心もまた甦生します。

微生物から学び直す

私たち人間は微生物でできていますがこの微生物はまだまだ未知の存在です。宇宙空間の過酷な環境で数年間生き延びている微生物もいれば、極限環境微生物といって強烈な酸性、放射能、高熱高温、あらゆる極限環境でも生存しているのです。人間であれば、即死するような環境であっても微生物は生き延びていきます。

もともと私たちの生命はどこからやってきたのか、突然湧いたという説もありますがどこからの宇宙から飛来してきたという説もあります。これをパンスペルミア説(パンスペルミアせつ、panspermia)ともいいます。これはウィキペディアによると「生命の起源に関する仮説のひとつである。生命は宇宙に広く多く存在し、地球の生命の起源は地球ではなく他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものとする説である。「胚種広布説」とも邦訳される 。またギリシャ語で「種をまく」という意味がある。」とあります。

キノコのコロニーのように、小さな微生物たちが集まり形をつくり胞子を撒いて拡散していく。この仕組みで宇宙空間を漂い、あらゆる星々の間を移動しながら自分たちに相応しい生命環境の中で独自の進化を遂げていくというものです。

先日もカビのことを書きましたが、私たちの生活空間には常にカビや微生物が漂っていて根付けるところに定着してそこでコロニーをつくり育ち拡散していきます。同様に、宇宙でも一部は仮死状態になりながら漂い、また最適な環境下にうまく漂い定着できることができればそこで生命活動を活発にさせていくのです。

人間の体内は微生物でできていますし、小腸をはじめあらゆるところで私たちは微生物と感情などを調和していますから微生物が私たちの根源ということも直観することができます。

その微生物たちは私たちの知らない宇宙を知っていて、遠く離れた星からあらゆる銀河を漂い星々に散らばってやってくると思うと何ともいえない不思議なロマンを感じます。

このあらゆる極限状態でも生きられるとするならば、そこでコロニーをつくり定着したものが宇宙人ということも予想もできます。例えば、酸素のない環境下でも生きられる進化を遂げる私達みたいなヒト型のものもあるかもしれません。あるいは、苔や植物のような形で進化したものもあるかもしれません。地球のように水が豊富な環境ができれば、星々はひょっとしたら地球型の微生物群が増えていくこともあるかもしれません。

そんなことを考えていたら、私たちのルーツはどこからやってきたのか。そして多様性は何を根源に今に至るのか、そして進化とはいったい何かということも仮説を立てることができるように思います。

科学が進めば進むほど、宇宙の偉大さ、その設計の美しさ、素晴らしさに魅了されていきます。一緒に生きる存在、共に一つである生命は微生物たちから学び直せます。

子どもたちのためにも微生物の存在に目を向けて、微生物から学ぶ姿勢を忘れないようにしていきたいと思います。

信仰の原点

現在、英彦山の裏街道にあたる筒野権現の甦生に取り組んでいます。私の幼い頃に探検をしに来てからのご縁でその後はちょくちょくと何かがあれば来て参拝していましたがまさかここで深いかかわりになるとは思ってもいませんでした。

もともとこの筒野権現は、五智如来碑といって寿永2年(1182)勘進僧・円朝が建立した板碑があります。ここにある三基の板碑はそれぞれに梵字が刻まれ、一番大きな碑には5体の仏像が彫られています。平安時代のころには、全国に知れ渡るほどの英彦山に次ぐ一大修験場になり多くの山伏たちがここで修行をしていたといわれます。

この板碑の五智如来は、胎蔵界大日如来を中尊とし、無量寿、天鼓雷音、宝幢、開敷華王の五仏が列坐しています。そして五智如来の上方、円形の穴は金属製の鏡がはめ込まれていたといわれています。

今度、英彦山の守静坊の甦生をしますがそこでも祭壇には必ず上部に鏡を設置すると坊主の長野覚さんにお聞きしました。むかしからの信仰のかたちが、900年以上経ってもこうやって守られていることに信仰の神髄を感じます。

そもそもこの五智如来とは何かといえば、悟りの境地を示したものです。

具体的には、「宝幢如来」は東方(胎蔵界曼荼羅画面では上方 金剛界では西方が上方)に位置し「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を顕すといいます。「開敷華王如来」は南方(画面では右方)に位置し「修行」(悟りへ向かって努力を積むこと)を顕します。「無量寿如来」は西方(画面では下方)に位置し「菩提」(悟りの実感を得ること)を顕します。そして「天鼓雷音如来」は北方(画面では左方)に位置し「涅槃」(悟りが完成すること)を顕します。中央の大日如来は「虚空」(永遠の真理)を顕します。まさに宇宙の真理、万物の慈母ともいわれあらゆるものの原点を顕します。

これは私の解釈ですが、インドにはこれらの徳のあった人物が存在していてその人徳は5つの徳で顕すことができたということです。具体的な人物像として、この如来と呼ばれる人物たちがどのような境地を会得したかということを示すように思います。

大日如来はその四徳を兼ね備えたものであり、この五徳を会得してこそ真に魂が磨け、永遠という虚空の境地に入ることができるとしたのです。修行者は、その人徳を慕い、自らの心魂を錬磨し様々な行を実践して研ぎ澄ませていったのでしょう。その信仰の中心として行場があり、多くの導師や弟子たちがともに学び合ったように思います。

そしてその五徳の境地に入るためには、その心境の反対側の深い智慧を維持している必要があります。つまりは、空の境地に海の境地の和合のように相反するものを合一し一体化する智慧が守られている状態ということです。

徳の顕現した先ほどの五智如来には、同様に五大明王といって不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王があります。不動明王こそ、大日如来の化身といわれます。

不思議なことのように思いますが、その人物に徳が顕現するいうのはその根底には畏れや信心があるということです。これは地球の内部にマグマの躍動があって、私たちはこの地上の楽園を謳歌しています。そして大海原の潮流があってこそ、空の静けさと風があります。

このように私たちは森羅万象を通してこの世に徳を顕現する姿として人体もまた存在しているのです。徳を磨き、徳を顕現させていくことは、人類数千年の悲願でもあり、理想郷の一つです。

子どもたちのためにも、かつての信仰の原点を甦生させ未来へと結んでいきたいと思います。

本物の科学

私たちは今あるものをもう一度、科学で突き詰めていますが本来はそれは発見であって発明ではありません。私たちが発明したと思っているものは、すべてが既存にあるものの発見であって発明ではないのです。その証拠に私たちはいのちは科学でつくれませんが、いのちがどのように成り立つのかは発見することができます。

自然界、いや宇宙の真理というものを理解しても宇宙を創り出すことはできないということです。この道理に従っていえば、果たして今の科学的な進化は本当の進化であるのかと疑問を感じます。

道理から少し発見したものを、それをいじっては利用することでその部分は抜き出しても全体としては効果が失われていくものがあります。例えば、栄養なども同じですが一物全体で本来は過不足なくバランスよく心身の滋養になるものを一部だけ抜きっとサプリにしたらかえって全体の滋養が崩れてしまうという具合です。

私たちのわからない範囲にまで影響のあるものを、その一部だけを切り取って完璧であると思い込むところに人類の大きなミスが発生しているように感じます。本当の化学は、解明するよりも発見してその偉大さをそのまま活かすことではないかと思います。

むかしの人たちが、自然をそのまま活かすことを選択したように私たちも本当の意味で科学の真理に達して本来の活用へと原点回帰する必要があるように思います。例えばその活用の例は、漬物、天日干し、自然循環などの智慧も同様です。

これらの仕組みはまさに自然や宇宙の仕組みを活かしています。他にも、祈りの力や徳を積むことなども同様にこれは智慧の活用です。

自然に調和するようにと自然界は働きますからそれを邪魔しない、もしくはその循環を促進するようなものが活用であり本物の科学なのです。今の時代は、科学はわかる範囲だけを科学にしてしまい、活用も全体快適の方法ではなく部分最適ばかりで使われます。

人類がアップデートするというのは、原点回帰するということです。地球環境の変化が著しい今だからこそ、子どもたちのために勇気をもって舵取りをしていきたいと思います。

根源は免疫、原点回帰

私たちの身体には、免疫というものがあります。これは病原体・ウイルス・細菌などの異物が体に入り込んだ時にそれを発見し体から取り除いてくれるという仕組みのことです。そしてこの免疫には自然免疫と獲得免疫というものがあります。

まず自然免疫は、生まれつき体内に備わっている免疫の仕組みで元々古来から存在する機能です。これは発見した異物を排除する仕組みです。有名なものに好中球と、NK細胞、マクロファージがあります。このどれも、外部からのものをキャッチして食べて無効化していきます。

そしてもう一つの獲得免疫は、人生で病原体と接触した際に再び感染しても発病しないようにする仕組みのことです。この獲得免疫は、侵入した異物を排除するだけでなく記憶細胞という特殊な機能をもつ細胞に変化し記憶しています。そうすることで、いち早く発見し感染が進む前にキャッチして食べてしまうのです。T細胞とB細胞が有名です。

インフルエンザで例えると、ウイルスが口や鼻、喉、気管支、肺などに感染した場合はまず自然免疫のNK細胞とマクロファージ、樹状細胞などがウイルスをキャッチして食べて駆除しはじめます。そしてそれでも駆除できない場合は、B細胞、キラーT細胞という獲得免疫が今度は活動を始めます。具体的にはB細胞は抗体を作り、その抗体はウイルスにくっついて他の細胞に感染できなくなるといいます。

そうやって私たちの身体は自然免疫と獲得免疫の合わせ技で撃退してくれていたのです。無症状の人がいるというのは、この免疫系が働き無害化させているからということになります。免疫がきちんと働いているのなら、外部からの異物は正しくキャッチされ、駆除され記憶され、ずっと身体を守り続けてくれるのです。

これからコロナウイルスも様々な変異株が誕生してきますし、その都度、ワクチンを開発して対応ではいたちごっこです。私たちの身体は大量のウイルスに日々に晒されていますからやはり今まで生き残ってきた力を磨いていくのが一番です。

その方法は、食生活、運動、睡眠、精神や心の安静、という基本、また体質改善、生活習慣の見直しでできるはずです。つまり暮らしを整えていくのです。暮らしフルネス™は、これらのことを実践するためにも欠かせない智慧の仕組みです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを見直して伝承していきたいと思います。

天の蔵に徳を積む

むかしから「天の蔵に徳を積む」という考え方が日本にはあります。これは善行をして見返りを求めず、与えたものを後悔せず、自分が徳を積む機会をいただいたことに感謝をするという生き方でもあります。キリスト教にも、同様に「天に宝を積む」という考え方があるといいます。

古今、真理というものは経験を通して永遠の智慧として子孫に伝承しています。現代は、通常の銀行の貯金や金銭的な貯蓄の方は目に見えてわかりますが天の蔵といった天の銀行に徳が貯蓄されていくことはなかなか考えないものです。

本来、私たちが今幸福を味わえるのは天の蔵に貯蓄されたものが引き出されているという考え方もできます。例えば、短期的に積んだ善行ですぐに幸福を引き出すということもできますが長期的であればあるほどにその積んだ善行は利子がついて大きくなってきます。これは「積まれる」という性質の本体、別の表現では「磨かれて光る」という道理があるからです。つまり幸福を味わい引き出していくというのは、積むことで引き出すという喜びに出会うということです。

いのちが光り輝くというものもまた、いのちを使って自分を磨いていくことで得られます。研磨していくなかで次第にその本体が透明で光っていくことで、私たちは偉大な幸福感を味わっていくことができます。金銭で形だけ光らせたのと、自らが光ってくるのでは世界の観え方が変わっていきます。自分のいのちの磨き方一つで、この世は美しい楽園にもなり地獄にもなるからです。

先人たちは、徳を積むということを何よりも大切に生きてきました。今の私たちの、また日本の幸福はその徳を積んできた貯金を引き出してこれだけの物質的な豊かさを得たのです。しかしその天の蔵の徳は、いつまでもあるわけではなく減るのです。それは古いものを磨かなければくすんでくるように、鏡や窓が汚れて向こうが見えなくなるように穢れていくのです。それを取り払い続ける、洗い清め続けるような気持で私たちは徳を積み続けなければなりません。

陰徳は、徳を積む機会をいただけたことだけで感謝するものです。人はなかなか探しても身近にそんな徳を積む機会を得られるご縁は滅多にありません。特に陰徳ほどのものになれば誰にも見つからずに評価されないところでできるものなどさらに機会は得難いものです。誰かの目に見えた時にはすでにそれ以前の長い時間の陰徳が貯まり引き出されている最中だからです。

先祖が長い時間をかけて天の蔵に貯蓄したものは、子孫が長い時間をかけて幸福として引き出されていきます。自分の代で使い切ってしまわないように、子どもたちのためにまた徳を積み続けていくことが幸福が長続きしていく人類の叡智だと思います。

天の蔵に徳を積む実践を、真摯に取り組んでいきたいと思います。

場数の妙

私たちはバランスや調和の中で進化、変異を続けている存在です。これは昨日、ウイルスのことでも書きましたが何度も繰り返されるプラスとマイナスを組み合わせてゼロにしていく中で何回もしくは何億回に1度にだけ調和ミスが起こり形が生み出されていくのです。

広大な宇宙の仕組みと、この身近の最小の仕組みは原理と法則に従って同じことが発生しています。つまり私たちはどんなに分かれていると思っていても宇宙という空間の中で存在しているものですから当然、宇宙の原理原則の中にあるのです。

神話には、伊弉諾と伊弉冉の話で1000人をこれから黄泉の国に連れていくといったら1500人産み続けて増やし続けるという話がありました。もともとはこの世に死というものがなかったものが、このことで発生し、生死の数が微妙にずれるということになったのです。

現代科学でも、素粒子や原子や電子のことがわかってきています。もともと天文学的な回数の調和と破壊の繰り返しの中でのゼロが、ある時突然変異して形というものが出てくるということまでは解明されてきています。

これは私の仮説でもありますが、太陽系も銀河系も、この世の宇宙は基本的には規則正しく相対的なものが毎回、お互いの性質によって消しさってゼロになります。しかし物凄い回数か時間をかけて、ほんの小さな変化が誕生します。それはどちらかの性質がほんの少しだけ強いということでしょう。先ほどの神話であれば、生成するエネルギーの方が崩壊するエネルギーよりもほんの少しだけ強いということになります。

宇宙の本質は、無から生成発展していくということです。物を産み出す原理はこの循環の中で誕生する微細な変化が偶然にも奇跡的にも現れるということでしょう。発明もまた何度も何度も繰り返す中で、エジソンが電球を産み出したように誕生するのです。

そう考えてみるとき、私はこの「場」で誕生する「場数」というものが大きな意味を持つことを感じます。場は、現代科学では場の量子論というものが解明されてきています。場には、素粒子や波動がありまるで空間の中の無に意志が宿るように場が存在するというのです。

私は場の道場を運営し実践していますが、場は繰り返す中で場数が誕生し、その中で奇跡もまた発生してくるのを何度も見てきました。これを場数の妙と名付けています。私たちはこの宇宙の真理を語るのに、この「場」の存在がこれからは何より重要であり、場数とは人類が新たな困難を乗り越えるために必要な思想であり原理になるのは自明の理です。

子どもたちのためにも、場数の価値を伝承し場数を磨いていきたいと思います。

日本文化のメリハリ

今日はお盆の最終日で、送り火をしご先祖様たちの霊を見送り室礼したものを片づける日です。

もともとこのお盆は、正月と同様に霊魂が家に来て滞在する期間としておもてなしをする日本古来からの信仰のかたちです。正月は歳神様、御盆は御先祖様ということになります。一年に、一度、家に帰ってくると信じるというのは感謝を忘れないための行事としてもとても大切だと私は思います。

こうやって目には観えない存在をまるで居るかのように接していく心の中に、私たちは現実の中にあの世を観ることができます。私たちもいつかこの現世での暮らしを終え、あの世での暮らしになりご先祖様の一員になるのです。その時に、子孫たちがどのようにこの世で暮らしているのかを見守り続けるという先祖の心構えも学んでいるようにも思います。同時に、子孫たちが先祖の御蔭様を感じているかどうかということも学びます。

当たり前のことですが、今があるのは今までの連続をつないで結んできた存在があったからです。子孫のために、自分の一番大切なものを磨いてそれを譲ってきたから今の私たちがあります。

昨年からコロナウイルスのことがあり色々と深めていたら、今の私たちがあらゆる感染症の免疫があるのはそれは御先祖様たちがいのちを懸けてその免疫を身体に取り込み、対処法を遺伝子として学び、その子孫たちの私たちがその御蔭で感染しても死なずに済んでいるということを知りました。目には観えませんが、私たちはずっと先人たちに守られ続けている存在なのです。有難く、感謝を思い出すことは自分の存在が多くのいのちの連鎖であることを再認識していのちを輝かせていくのにもとても大切なことなのです。

話を迎え火と送り火に戻しますが、この迎え火はお盆の期間にご先祖さまが自宅に帰ってくる時に道に迷わないようにとおもてなしし、送り火はご先祖さまが道に迷わずにあの世に無事戻れるようにと送り出すためのものです。

正月も同じですが、その期間を過ぎていつまでも家にいると悪霊になったり禍が起きると信じられました。あくまであの世の暮らしがありますから、こちらにいる期間だけということでしょう。名残惜しくてもお互いにこの世やあの世での役割や使命があり、それも日本文化のメリハリということでしょう。

私たち日本人を形成しているものはこの風習や文化の中で色濃くでてきます。現在は西洋文明が入ってきて、目には観えないものをあまり重要視しなくなりましたが本来私たちを形成してきたものに接すると懐かしい何かを思い出し、悠久の記憶にアクセスでき私たちの原点やいのちが甦ってくるのです。

懐かしい暮らしの実践は、私たちの未来へ向けた希望の実践でもあります。子どもたちのためにも根気強く、辛抱強く、どんな時代であっても変わってはならないもの、変えていくものを見据えて暮らしフルネスに取り組んでいきたいと思います。

自然と離れず

気候変動が気になるニュースばかりが世界で放映されています。今年は作物をはじめ季節のあらゆるものが2週間くらい前倒しになっているのを感じます。また寒暖差も激しく、今までの緩やかさがなくなってきているようにも思います。

世界はコロナであまり話題になっていませんが、実は本当に深刻なことはこのコロナではなく気候変動から発生する様々な自然災害だと私は感じます。

自然災害といっても、大雨や地震などのほかにも緩やかな災害というものがあると思います。それは時間をかけて砂漠化していくものであったり、逆に水没していくような環境の変化です。他にも、動植物が変化に耐えられず死滅していくことなどもその一つです。

こういうことを話すと脅しているように感じたり、極端な意見という人もいます。しかし人間はもしもに備えるからこそ災害に対応できるのであり、その予兆を直観できなければ自然と調和して対応していくこともできなくなります。

都会的な生活は、自然環境を無視して存在します。もしくは自然を敵視し、徹底的に排除していきます。その生活が慣れてしまえば、自然への畏敬を忘れてしまい自然をなめてしまいます。そうなると、ほとんど対応がでずに思考停止してしまうでしょう。

そうならないように自然から半分は離れずに半分は寄り添う生活をしていくことが日本人の伝統的な暮らしの智慧であったのです。その証拠に、古民家は半分は自然で半分は人工的です。

これを今の時代も上手に調和させていけば、時代が変わっても私たちは自然と共生しながら人類の社会を永続的に発展させていくことができるように思います。

時代的に今は、大きな分水嶺を迎えています。暮らしフルネス™の実践にそって、これからの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。