幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

ご縁に導かれるということ

人はご縁に導かれて人生を歩んでいくものです。しかし実際に日常を生きていると、そのつながりを感じる間もないほどに多くの出会いがあり別れがあり日々は前進していきますから感じにくいものです。

例えば、ある出会いがないと次の出会いにつながらないということはみんな体験しているものです。不思議なもので、出会った人が次の出会いと深い関係性を持っています。それと直観のいい人は、感覚的に察知してご縁を大切にしていくのです。すると、早ければすぐに、遅くても数年後には一緒にそのご縁を活かしあうような出来事や物語とつながっていきます。

私は直観が鋭い方かもしれませんが、気になるご縁を先に感知していきます。何かその人との未来が実感するものがあるのです。頭では考えられないかもしれませんが、心が感応して不思議なご縁を感じていきます。このご縁は別に自分に対してメリットとかデメリットがとかではなく「ご縁がある」と感じるものです。

そう考えてみると、ご縁があるとはご縁に導かれ続けることに委ね続けるということでしょう。ご縁があるのはその時、その場所、その組み合わせでなければならず、まさに絶妙に一期一会にご縁を結び合うのです。それがお互いのいのちや魂に深い影響を与えてさらにこの世で大切な役割を果たすための触媒になっていくのです。

仏教でいう山川草木悉皆成仏というのでしょうか。みんなが触媒となってお互いに深い関係を結んでいくという世界。これが私たちのいのちの仕組みということなのでしょう。だからこそ、ご縁というものを感じることが何よりも大切なのです。自分が知らず知らずのうちに与えたご縁がその人にとっての深いご縁になり世界がまた変わっていく。逆に、与えられたご縁によって自分の世界が変わり、そのことを触媒としてまた別の世界に導かれていく。

だからこそ私たちはご縁を大切に人生を生き切る必要があるのです。

私も、この数年で出会う人も語り合う話も、具体的な関わりも大きく変化してきました。ここからまた新たなご縁が深まり始めています。二度とないこのご縁を大切に導かれていきたいと思います。

徳循環の社会実験

今週末はいよいよ徳積堂のオープンです。徳循環の社会を創造すべく、念願が叶いいよいよ「徳」を甦生させる活動を本格化していきます。今の時代の徳とはどういうものか、それぞれの時代で徳の大切さは語られてきましたがこれから新しい時代の幕開けに際しここから新たな徳の真価を発信していきたいと思います。

「徳」においての私の先生といえば、二宮尊徳です。私は二宮尊徳を非常に尊敬していて、30代の10年間はずっと二宮尊徳の遺した言葉や遺跡を歩き、またその言葉の意味をなぞるように学んできました。どの遺した言葉も私の魂に深く響き、それを社業にも反映させていきました。

例えば、「一円対話」というのは二宮尊徳の一円観を参考にしたものです。聴福人は、桜町陣屋の近くの親鸞上人の高田山でのメモ帳にあった言葉で閃いたものです。また今の時代の人たちが捨てるものを拾い集めて甦生するようになったのも二宮尊徳の生きざまから学んだものです。実は他にもこれから私が取り組むもののほとんどは、似たようなことを実行していくかもしれません。

金融に取り組むのも、積小為大からでもあり、至誠、分度なども今の会社経営だけではなく、あらゆる私の取り組みの根底を支えています。それはこの世の自然の真理を活かしたというところに深い信頼があるからだろうと思います。

いよいよ徳積堂を始動するにあたり、既存の価値観との融和するためにその土を醸成していきます。そのためにまず取り組むのは、「推譲」の真価です。

二宮尊徳に「譲って損なく、奪って益なし」があります。

言い換えるのならこれは、みんなで譲っていくことは徳になり、奪うのをやめば徳になる。徳の循環を実現するために、ここから温故知新した社会実験をスタートさせていきたいと思います。

塞翁が馬の会

故郷の旧庄内町(飯塚市)に「塞翁が馬の会」というものを新たに立ち上げました。これは、「結」といった日本の伝統的な互助の知恵を現代に温故知新して甦生させるためにはじめたものです。

この「塞翁が馬」という言葉は中国の有名な故事の言葉で正確には「人間、万事塞翁が馬」といいます。この塞翁は、人の名前ではなく国境の塞(とりで)付近に住む老父という意味でその馬のことを指します。

この故事の内容を日本語に現代語訳すると、「辺境の砦の近くに、占いの術に長けた老父がいた。ある時その人の飼っていた馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子どもが乗馬を好むようになったが、馬から落ちて大腿骨の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。」とあります。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。つまり禍福の本体とは一つであり、自分のものの見方と心の持ち方でどうにでも観えているだけということです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきた半生でした。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。かつて二宮尊徳は、余話の中で「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」といいました。それをこういう話で例えます。

「包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるのだ」と。

結局は、ここでも禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第であるといいます。つまり禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているということです。

私は「活かす」というのは「禍いを転じて福にする」ことだと定義しています。そして禍福を一円のように丸く融合させるとき真の平和が人々に訪れます。

「塞翁が馬の会」と名付けたのは、物事に対してそういう初心を忘れないで取り組んでいこうという気持ちからです。偶然に発足した会ではありますが、この会の生き方や心の持ち方が故郷の人々、そして風土、暮らしを甦生して日本、世界を平和に導いていけるように禍福を豊かに味わっていきたいと思います。

暮らしのリズム

暮らしのリズムというものがあります。これは単に、自分の生活リズムのことを言うのではありません。この暮らしのリズムは、自然と調和するリズムのことです。暮らしフルネスではこの暮らしのリズムを中心に据えています。

例えば、私は伝統的な高菜漬けをつくっています。高菜をつくるためには、まず種どりをしなければなりません。今の時期は、花が咲いています。菜の花ですが、高菜はその名の通り高く伸びて花を咲かせます。私の背丈ほどの高さまで伸びていき花が咲きます。

その花が梅雨前には種になり、その種を採取して秋の風が吹き始めるまで冷暗所で保存します。その後は、秋に種を蒔き冬の間に育つのを見守り桜の花が咲く前によく育った高菜を根っこだけ残して新芽が出る前に収穫をします。あとは先ほどの花が咲き種を取る分だけを残しておきます。

そこから高菜漬けに入るのですが、収穫したものをよく天日干しをし仮漬けをします。この仮漬けは塩をまぶして重しを載せて1週間ほど水に漬かるまで丁寧に漬物石と塩を調整します。その後は、本漬けといって杉樽にまた塩をまぶし、ウコンを混ぜて漬けていきます。すると秋前には漬かった高菜漬けを食べ始めることができます。冬の貴重な食糧であり、ご飯がとてもすすみます。

暮らしのリズムというのはこのように、自然のリズムに合わせること、そしてそれを具体的に私たちの身体に取り込んでいくリズムの和合によって成り立ちます。まず、土に触れ、植物の一生にかかわること。そのうえで、それを上手に取り込むために自然の生き物、ここでは発酵ですから微生物のめぐりにかかわること。それらの自然物との一生とつながりながら生きていくこと。

これが私の言う、暮らしフルネスでの暮らしのリズムを言います。

現代人は、暮らしのリズムがなくなってきました。簡単に買い、自然とも触れず、自分たちの都合でリズムを組み立てます。そうすることで、季節感もなくなり、巡りも歪になり、生活リズムも整うことがありません。これでは、自然の無限の恩恵を授かることができなくなりその分、またお金を使って無理をしてととのうための試行錯誤ばかりをしなければなりません。

ととのうのにサウナも流行っていますが、私はサウナはあくまで一時的にととのう環境を与えますが暮らしが整わなければ結局はまた同じことの繰り返しでお金と時間ばかりを使い調和することが難しくなります。

私が石風呂を使うのは、一時的に五感の調和をととのえるのですが本来はそこから暮らしに導入させていく必要があると思っているのです。暮らしのリズムをととのっていくためには、自然と一体になった暮らしの中に入りながら日々の人間社会での生活を味わう環境をととのえていく必要があります。

そこで私は「場」を用意し、暮らしフルネスの体験からそれに気づき改善する環境を提案しているということです。暮らしのリズムは、暮らしフルネスにとって大事な要素です。

引き続き、子どもたちが暮らしのリズムで生きる仕合せや喜びが実感できるように丁寧に自分のいるこの場を整え続けていきたいと思います。

 

ブロックチェーンと徳

現在、ブロックチェーンをつかって新しい取り組みをはじめています。世の中ではビットコインなどの暗号化技術に使われていることで有名ですがシンプルにいえば改ざんできない台帳というイメージが近いように思います。

用意に改ざんできませんから、それだけ信用や信頼を提供するものということです。これからこの技術を用いて何が生まれるかは、社会の変化に合わせてアイデアをそれぞれが出していきますから確かにこれからの未来に大きな影響を与える技術であることは間違いありません。

特に新しい経済の在り方においては、でこの技術が使われる可能性を秘めています。現在は成熟期に入っていますから、この辺でまた原点回帰していく必要があります。歴史は何度も原点回帰をしながららせん状に発達していきますから経済も社会もこれからまた原点回帰がはじまるのです。

例えば、通貨の原点回帰とは何か。もともと通貨が必要になったのは物々交換の中でその時に交換できるものがない場合に、のちの信用の証として貝を交換したことが通貨のはじまりともいわれます。そこから貝貨という貝殻を用いた貨幣が誕生しました。 特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラとハナビラダカラなどが使われました。

お祈りで私たちが手を合わせるのも、貝を合わせるところから来ているともいいます。日本でもハマグリなどが縁起物として使われますが、これも必ずぴったりと合いますから間違いない証として用いられました。

実は改ざんできないという意味は、このぴったりと合致するというところから嘘偽りのなく信用・信頼できますという証明の仕組みを顕しているのです。そこから、私たちは貝が紙幣に変わり今では通貨を用いて経済も社会も発展させていったのです。

しかし現代はどうなっているのか。

地球何個分が買えるほどの紙幣を発行し、今の世界は通貨であふれかえっています。これでもかと通貨を発行しては、嘘偽りの状態で事実と異なる状態で混乱を極めています。物々交換でいえば、交換できる資源がもうなくなっているのに貝殻だけはたくさん渡していつか交換すると先送りしているような状況なのです。

その貝殻がもしも証明できる価値がなくなってしまえば、物々交換はできませんからそこですべてゴミのように溢れかえります。現在の環境問題と同様に先送りして延命治療をするだけをしていてもいつかは必ず終焉を迎えます。そうならないように、私たちは原点回帰してもう一度、原初の初心に立ち返る必要があるのです。

私はそれをブロックチェーン技術を用い実現しようとしています。

具体的には、むかしの人たちの智慧の一つである「天の蔵に徳を積む」という考え方を用いるのです。これは私たちは等価交換という評価によって今の社会を動かしていますが、実際にこの世の中には等価交換できないものも同時に発生しています。

それが「陰徳」というものです。この陰徳は、私たちはお祈りをするのと同じで直接的には見返りがありません。しかし間接的に、また全体的にその祈りは別のかたちになって縁起を結んでいきます。つまり、そこで使われている対価は別の大きな場所へと転換されて移動していくのです。

むかしは蔵といえば、今でいう銀行です。銀行にはお金しかいきませんが、本来は天の銀行のようなものがありそこにお金では換算できないものが貯められているということを信じていました。

実は本来の信用・信頼の社会というものは、人徳というものが重要でした。信頼でき信用できる人だからこそ、その人に託したりその人の願いを適える絆を持ったのです。人は信用・信頼しあうことでここまで発展をしてきた民族です。その民族が、急速に欲望に負けてその徳を荒廃させていったのはこの通貨という道具を単なるモノとして扱っていったからです。もしくは使えなくなったものをゴミとして捨てるところが影響なのです。

私はブロックチェーンによって、徳循環の世の中を甦生させていこうと思い「BA」(ブロックチェーンアウェイクニング)を設立しました。先人の智慧と現代の最先端を用い、温故知新した原点貝貨としての役割を持つものをこれから発明していきます。

子どもたちの未来に、延命治療ではなく根源治癒が働くようにこの「場」から挑戦をしていきたいと思います。興味があり賛同する仲間をこの「BA」に集めていきたいと思います。

心の原風景と枯山水

現在、徳積堂カフェの庭園の枯山水に取り掛かっていますがここは甦生中の藁ぶき古民家で使わなくなった石を運んで配置し造園しています。この枯山水とは、日本庭園や日本画の様式のことをいいます。

枯山水は水のない庭のことで池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式となっています。具体的には白砂や小石を敷いて水面に見立ててます。橋が架かっていればその下は水が流れているという具合です。石の表面の模様で水の流れを表現しています。

聴福庵の庭にも、枯山水を参考に白川砂利をいれて落ち着いた川の流れを表現しています。これは心の世界をととのえて静寂を楽しむための工夫にもなっています。

この枯山水のはじまりは日本に中国から禅宗が伝えられ、鎌倉時代に本格的に広まり、日本に最初の本格的枯山水が京都の禅寺・西芳寺に禅僧・夢窓疎石(むそう・そせき)によってつくられたことで有名です。

様式には、平庭式といって平らな庭に造られた枯山水。準平庭式といって平庭式に小高い山を加えた枯山水。また築山式といって斜面を生かして作られた枯山水。枯池式といった石を組んで池を表現した枯山水。枯流れ式といった小石や砂で水の流れを表現した枯山水。他にも特殊な枯山水があります。

今回、私が手掛ける分は築山式と彼流れ式、準平庭式などを組み合わせた特殊な枯山水になります。

そもそも枯山水は、ある心の情景を石で表現します。石は変化の中で形が変わっていかないところから古代の人たちは普遍的なものや永遠・永久の存在だとして崇めてきました。

その石が創り出し、織りなす姿は心の原風景をこの世に顕現させるものです。

苔との相性がいいのもまた、悠久の時を共にある存在だからかもしれません。私は徳積堂は、徳を実践する場として建立しましたがこの庭にはその徳を実感できるものにしようと思っています。

時代が変化しても、変わらないものがある。

その変わらないものの悠久の歴史や偉大な存在に徳のもつ畏敬を感じます。子どもたちにその意味を伝承していけるように丹精を込めて取り掛かっていきたいと思います。

 

神さびた道の甦生

昨日、写真家のエバレットブラウンさんと一緒に英彦山の玉屋神社に参拝するご縁がありました。水害もあって参道はだいぶ傷んでいましたがかつての修験道の山伏たちが歩いた道ですから終始神さびた感じの神秘的な時間を過ごすことができました。

苔むしている巨石群、そして美しく清らかな水の流れとせせらぎ、神域を感じながらあるいているとそこにかんながらの道が続いていることを実感します。

法螺貝を立てては歩き、ただ自然の中に心を研ぎ澄ませていると悠久の時間の流れを感じるものです。そういえば、子どものころにこのような神秘的な場所で別の何か偉大な空間が今居る場所に存在していることを何度も実感したことがありました。

目に見える景色とは別の何か、心でしか観えない景色が同じ場所に広がっている感覚のことです。

例えば、私たちは人間中心の世の中に生きていて物事のとらえ方一つ人間の物差しだけで見えています。動物側からこの世をみたら人間はどう見えるのか、他にも虫たちや植物たちからみたらどう見えるのか。さらに古代からの時の流や先人たちから見たら今がどう見えるのか。自分からしかない主観の世界の逆は客観的な世界だけではありません。そこには絶対的な世界というものがあるように思います。

この絶対的な世界というものは、宇宙のようなものです。

私たちは宇宙の中に存在して宇宙の一部として暮らしています。その宇宙には私たちとは別の時空や次元をもっていて常に宇宙から見た世界が広がっています。その宇宙から見た世界から今ここを眺めてみると先ほどのような神秘的な神さびた世界が広がっているのです。

私たちは本来、その宇宙と交信をし宇宙からの智慧を授かってこの世に存在しています。そういうものを感受していたのがかつての山伏たちでもあり、修験の奥深さではないかと私は思います。

一つの体験をどの次元で味わうのか、そしてそれをどう感受し暮らしに活かすのか。

この道を学び知るのは、その絶対的な世界に触れるとこからはじまるように思います。現代人たちが目先の世界に囚われて忘れがちな本来の神さびた道を甦生させていきたいと思います。