道は一つ

ミッション(理念)とは生き方の事です。どのような生き方をするか、それを保つためにどのような経営をするか、理念経営とは、理念が優先であってそれに合わせて経営を工夫するということです。

よく経営を優先して理念があとでという事例を見ますが、これは理念経営ではないことはわかります。本来、何のためにやるのかが本であり、末にどのようにやるのかが決まります。本末が転倒してしまわないように、常に初心を振り返りどのように取り組んでいくのかをみんなで真摯に実践していくしかありません。

そしてそのミッション(理念)を砥石に、振り返りながら磨いていくことで生き方を高め生き様を伝道していくことができます。そうすることで、一つの組織がまるで生きもののように生き様を共にする人たちによって人格のような姿が現われてくるのです。

稲盛和夫さんはこういいます。

「リーダーの行為、態度、姿勢は、それが善であれ悪であれ、本人一人にとどまらず、集団全体に野火のように拡散する。集団、それはリーダーを映す鏡なのである。」

つまりリーダーの生き方、またその生き方を共にするスタッフたちがミッション(理念)を共有し生き方を実践すれば企業に格(社格)ができるというのです。

さらに稲盛さんは、「人を治めるには、権力で押さえつける「覇道」と仁、義などの「徳」で治める「王道」とがあります。私は、やはり人間性、人間の徳をもって相手の信頼と尊敬を勝ち取り、人を治めていかなければならないと思っています。」といいます。

もしも覇道になれば、ミッション(理念)を凶器のように使われて権力の一つの道具になります。しかしもしも、このミッション(理念)が徳で使われるのならスタッフが自分たちの魂を磨き、人格を高めるお守りのようになります。

私は後者のためにミッション(理念)を使っているのであり、私の提案する仕組み(智慧)は自然に徳が穏やかに沁み込んでいくように日々の内省を通して自己の精神性を洗い清め高め合いながら自立と協力を促していくようにしているのです。

それはミッションページやミッションリーフレットなど、ミッションとつく物はすべてこの「徳」による王道の智慧を活用したものです。

まずは自己の脚下の実践からということで、弊社ではミッションブログに始まり、内省、一円対話、讃給などあらゆる仕組みを実証しています。

覇道でいくのか王道でいくのかと対比されますが、本来の道は一つです。

人類は魂をどう磨くか、磨き方は自然から学び直すことが一番です。自然の徳に包まれ見守られて生きている私たちのいのちだからこそ、その徳に報いていきたいと思います。

時代を実践する

コロナのことで時代が大きく動いているのを感じます。最近は特に、本筋や本質的に取り組んでいることを理解できる人が急速に増えてきているのを感じます。もともと、真理やシンプルだったことがわからなくなっていた世の中でしたからコロナによって世界の現実を突きつけられ目が覚めてきたということでしょう。

人類の目覚めは、常に死生観と共に発生し、原点回帰をしながら更なる革新をはじめます。私たちの歴史を観たら、感染症によってそれまでの価値観が崩れ、もう一度、それまでの価値観を見直し、新たな価値観を創造していきます。

それは文化だけではなく、同時に文明も創造されます。

文化であれば、より連綿と続いてきたものを新たな時代に照準を合わせて革新されます。つまり、より自由に開放され心の世界が人間の目に映るようになります。ルネサンスの時も同様に、あらゆる心の世界が表に顕現していきました。そして、文明は科学技術を大きく発展させます。それまでにできなかったことが、心の世界の新たな顕現に合わせて大きく進歩します。つまり心の顕現と科学の顕現が同時に発達するのです。技術革新は、時代の先を見据えてその卵が羽化するように、また眠っていた種が芽吹くように発生していくのです。

私が取り組んでいる暮らしフルネスは、その文化と文明の発達を同時に実現する思想と実践によって創られています。

文化は甦生し新たな境地に入り、文明はその甦生した文化と融合して新たな価値に生まれ変わります。たとえばそれは日本文化の和とブロックチェーンの掛け合わせのような具合に時代を発端として開花します。

今は、私は時待ちです。

どこからはじめるか、何からはじまるか、じっと月を待ちます。

時代の大局を眺めては自然の中で高臥します。

雲の上からとても大きな風が吹いて降りてきます。

雲のようにそして風のように、存在がゆらゆらゆれて透き通りぬけていきます。

自然から様々なメッセージが入ってきたこの十年、コロナによって終焉を告げられ新しい鐘の音が響いています。同志や仲間たちを集め、それぞれの場所で一つになって時代を実践していきたいと思います。

ご縁が解ける

仏(ほとけ)という言葉があります。この語源を調べると、それぞれの辞書で内容は異なりますがブリタニカ国際大百科事典には「仏陀のこと。語源は,煩悩の結び目をほどくという意味から名付けられた,あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに,ほとほりけ,すなわち熱病が流行したためにこの名があるともいわれる。日本では,死者を「ほとけ」と呼ぶ場合もある。」とあります。

シンプルに言えば、執着を取り除いた姿が仏(ほとけ)の象徴とされたように思います。強く握りしめていたこうでなければならないというものを、手放し融通無碍に来たものの全てを受け容れて受け止めるときこの仏(ほとけ)に近づいていくということかもしれません。

小林正観さんの著書にこの仏(ほとけ)についてわかりやすい内容で紹介されています。

『執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、日本語では「ほとけ」と呼びました。それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。執着というのは、「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことです。それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。そうなるといいなあ」「そうなると楽しいな」「そうなると幸せだな」と思う。「こうでなきゃイヤだ」と思ったときに、それが執着になります』(だいわ文庫)

想いの強さは時として、それが執着になっていきます。情熱がありすぎると正義を振りかざしたり、自信がありすぎると思いやりに欠け過信にもなります。なんでも片方に過ぎることが時として調和を崩すことがあり、その都度、自己の執着を手放すようにと何か偉大な存在に見守られながら諭されていきます。

人生は誰もが一生涯修行であり、どんなときにも自分の中にある執着と対話してそれを手放すという修練が求められていきます。その中で、人は深いご縁ほどにつながりもまた深くなります。

一つ一つのご縁の中では、誤解もあれば了解もあります。しかしそのどちらも、いつの日か時が経てば解けていき真実が顕現していきます。未熟だった自分を反省し、改善していくことで人はさらに成長していきます。そういうご縁をいただいていること自体が感謝そのものであり、深くご縁に見守られていることを実感します。

子どもたちが憧れるような未来を遺していくためにも、今を直視して日々に弛まずに怠けずに逞しく嫋やかに実践し、思いやりを忘れず優しい心で歩を進めていきたいと思います。

結の甦生

藁葺のことを深めていると、むかしの相互扶助の共同体の「結」のことにつながります。今では金銭でなんでも解決するような生活になってきていますが、むかしは貸し借りを金銭ではないもの、つまりはお互いの義理人情のようなもので支え合っていました。

もちろん、今でも義理人情はありますがむかしは見返りを求めずに助け合うという根底には「徳」というものの考え方によって人々が助け合い支え合うという土着文化がその地域を安定させていたとも言えます。

例えば、先日の藁葺でもみんなに声をかけて集まってもらい集まった人たちで助け合いながら藁葺職人たちと一緒に屋根を修繕していきました。懐かしさを感じるのは、こうやって金銭ではなくみんなで助け合い支え合うところに暮らしの原点があるということです。

中部地方の合掌造りの茅葺屋根の葺き替えは「結」の制度があり、ウィキペディアによると今でも下記のような手順で藁葺を進めているようです。

「作業の3年以上前から準備が始まる。屋根の面積から必要な茅の量と人員を概算する。作業の日取りを決め、集落を回り葺き替えをいついつ行うので手伝って欲しいと依頼する。予め作業に必要なだけの茅を刈って保存しておく(そのための「茅場」を確保してある)。役割分担を決める(茅を集める者、運ぶ者、茅を選別する者、縄などその他道具を準備する者など)。上記は専ら男性の作業である。女性は作業に従事した者達への食事、休息時の菓子、完成祝いの手土産の準備を行う。屋根の両面を同時に吹き替えることはほとんど無く、片面のみを2日間で仕上げる。1日あたり200人から300人の人手が必要となる。100人以上が屋根に登るさまは壮観である。」

金銭であれば1000万以上かかるものを、無報酬で協力し合って村人たちで行われているといいます。

以前、この「結」のことである方に聴いたことがあるのは「むかしの人は自分が受けた恩義をいつまでもお互いに忘れない、それが先祖代々、「結帳」に記入してあれば子孫の代になっても口伝、もしくは記録しいつまでもその人たちのことを協力するという考え方があったことです。恩義を中心にして、無条件でお互いに支え合うというのは「徳」のつながりのことであり、私が取り組むブロックチェーンの概念と同様です。

貸し借りとは、金銭的なものだけを言うのではありません。等価交換できないもの、それもまた恩義でありそれは生き方が決めるものです。感謝し合う人格が磨かれた地域であれば、その地域の文化はみんなで恩義の質量を高めていくことができます。

つまりは徳を中心にした思想によって、相互扶助の豊かさを実現していくことができるのです。この豊かさといういうものは、現代のような物質的な豊かさではないことはすぐにわかります。

これはまさに人がこの世で安心して暮らしていくために絶対不可欠な安心基地を持つ豊かさの事です。そして見守り合い徳を分け合う暮らしは子孫たちの安心にもなり、先祖たちもその繋がりに恥じないよう、またいつでも顔向けできるようにと協力を惜しまずに恩送りをするのです。

等価交換できないものを持つというのは、心で繋がり深く結ばれていくということです。これが和の原点であり、結の意味でしょう。

「結」の甦生は、これからの時代の新しい真の豊かさにおいてかけがえのない大切な実践項目です。むかしの豊かさから学び直し、原点回帰していくことで日本人の甦生、日本の甦生、そして世界の甦生を促していきます。

これは現代を全否定するのではなく、あくまで原点回帰して本物や善いものは持続しながら文明を調和させていくということです。ブロックチェーンで私が取り組むことはこの新しい豊かさの甦生です。

引き続き、子どもたちのために志を磨いて挑戦をしていきたいと思います。

 

経営の要

有事と平時では求められるリーダー像は異なるように思います。たとえば、徳川幕府になってからのリーダーと戦国時代のリーダーではリーダーの人気も異なります。今の平和の時代に、戦国時代の織田信長のようなリーダーが国を率いたらこれはこれで不満が出てすぐに人気が亡くなり降ろされるでしょう。しかしもしもひとたび、戦争や困難があったならひょっとしたらみんなが求めるリーダーとして大人気になるかもしれません。

つまり時代がその時々の状況でリーダー像は変わるということで、その役割もまた変化するということです。

人間は社會を形成する生きものですから、社會の中で一つの人格というものを磨き上げます。この社会は、現在では会社単位で組織もできておりそこにはそれぞれにリーダーがいて社員がいます。

経済でも同様に、有事の時に活躍する会社と平時の時に活躍する会社があります。状況と時代の流れと環境に合わせて常に形を変えながら生きもののように組織は存続しているとも言えます。

そう考えて観ると、組織にも一つのリーダーシップがあるように思います。組織の人たちがみんな有事の人たちになっているか。いつまでも平時のことをやっていないか、これはとても大切なことだと感じるのです。

よく観察してみると、織田信長の有名な桶狭間の戦いであっても、ある瞬間にまずリーダーが馬で駆け出していますがそれに一緒に駆け出した家臣たちがいてはじめてあの戦はあったのです。

もしも時間外労働だから考えてくれや、怪我の保証はどうかとか、体調が万全ではないのでとかいう理由で家臣がついてこなければ負けていたはずです。つまり、有事の時のリーダーとは単に織田信長一人だったわけではなく、家臣一人一人が有事のリーダーとして活躍したということでしょう。

つまり、今がどういう状態なのかを知り、生き残るためにみんな必死で取り組んで乗り越えたということです。

そしてこれはある種、生き物が生き残る条件としてダーウィンがこういう言葉を遺しています。

「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化するものが生き残るのだと。」

つまりリーダーとは、変化するものであり全員リーダーシップを発揮するというのは全員で生き残るために変化するというものです。つまり有事のリーダーであるときは有事のリーダーとして変化し、平時のリーダーの時は平時のリーダーとして変化する。

その時々の自然環境の変化に応じて、適応できたものだけが生き残ったというものです。何をどう適応するのかは、0から1にしていく挑戦をするなかでわかってくるものです。

生きものは急な変化に適応するには、本当に大変な労力もエネルギーも使います。しかし、それでも変化しなければ生き残れませんから有事に備えて平時でも乱を忘れないものが生き残るのです。

今、どのような局面に入っているのかよく見極めつつ、経営の要を定めていきたいと思います。

 

心待ち

昨日は、聴福庵の箱庭にある紅葉などの剪定を行いました。つい冬の時期の剪定をするのを忘れてしまい、初春にして虫や葉などで大変になりますが今年は無事に剪定できました。

どの木々にも特性がありますから、タイミングを外さずに手入れをしていく必要があります。特にタイミングはどれも事前にというのが特徴ですから、四季折々の時機を見逃さずに如何に心を使って「待つ」ことを楽しめるか。

暮らしは待つことで豊かになりますから、現代のようなスピード社會において待つこと待てることは大切な暮らしの実践項目です。つまり「待つ技術」を持っている人ほど、仕合せを感じやすいということでしょう。

例えば、待つことでいえば神仏に拝むというものがあります。日本人は、予祝といって先に感謝をしてその時を待ちます。「おめでとうございます」という言葉もまた、先に待っている言葉です。

すでに素晴らしいことが起きている、偉大な恩恵をいただいている、だからこそないものを見ずにある方を観ることで「芽出度い」ことが誕生していることを知る心で待つのです。

焦ったり不安になったりすると人は待つことができなくなります。うまく待つためには、プラスの方、いただいている方、すでにある方を観る訓練が必要です。もうないと観るか、まだこんなにあると観るか、それは心が決めるからです。

日本の暮らしの中には「もったいない」という思想があります。これもまた、ある方を観ることで感じられる心持ちです。豊かさはその心持ちが決めます。物がたくさんあってもまだ足りないと増やす人と、すでにこんなにあると足るを知る人。同じ人間でも心持ち次第で別人になっていますからそれは暮らしの中に顕れてくるものです。

暮らしを充実させていくというのは、その心持ちを豊かにしていくということです。日々の小さな仕合せを噛みしめていくことや、待つことの喜びを暮らしの中に見出していくことだったりします。

先ほどの紅葉であれば、この時期は水が少なくなりますから葉を落として春を待ちます。乾燥する空気の中で水分を維持することが難しいから葉を落として枝だけで蓄えた水分で乗り切ります。水を多く含み、それを出すから夏場はお庭を清涼にしてくれます。

紅葉と一年を共にするとわかるのですが、春の新緑の瑞々しく初々しい姿に心癒され、夏の生い茂った深い緑に心が洗われ、秋の紅葉の美しく物寂しい姿に心が落ち着き、冬の枝に飛来した鶯や鵯が鳴いている姿に未来への心待ちを感じます。この豊かさは、「一緒に」共生しているからこそ味わえるものです。

真の豊かさはあらゆる生命と共生し合い、そこで貢献できる喜びを味わうときに実感します。人間が仕合せを磨くのは、自然と共に生きるときです。

子どもたちにも、自然が共にあるように先人の智慧と伝統と文化を伝承していきたいと思います。

先人の智慧

新年に入り、神棚や御守りに感謝し新しくしています。本来は、信仰のカタチですから信心していることが大切でありそれぞれの家ではそれぞれの信仰があるように思います。

古来からの書物や文化を深めていると、信仰の伝説や物語が地域地域にたくさん残っています。そのどれもが、私達に信仰することの大切な意味を問いかけるものが多く、まさに信じる者だけが救われるということを教え諭しているものです。

今日は、ちょうど正月三日目ですが平安時代に天台宗の座主を務めた慈恵大師良源という方の命日です。そこから元三大師(がんざんだいし)と呼ばれています。この方は角大師(つのたいし)と呼ばれていて、疫病を退散させる護符として有名です。

今のコロナウイルスのように永観2年(994)の頃も、疫病が猛威を振るいました。日本ではウイルスも神様の一つですから、その疫病神が角大師にとりついたときその疫病神の姿を鏡に写しその姿を弟子に描き写させて、お札にしたものが効果があると信じられ疫病よけの護符になって今でも家々に貼られているといいます。

科学的にはとても信じがたい話で、そのような護符に何の意味があるのかと思うのかもしれません。しかし、自らが疫病に罹りそれを退散させ人々の苦しみを一身に受け容れて引受け、人々を救済したいと祈る真心にその当時の人たち、またそののちの人たちも感動したのかもしれません。

そしてその真心に見守られていることに感謝していると不思議と免疫が高まったりする効果もあったのかもしれません。信仰や信心というものは、不思議なものがあり病気や治癒に大きな影響を与えることは科学で証明されなくても様々な実証事例で証明されています。

人間は自己免疫がありますから、免疫を高めるような暮らしを行い、運を善くするような日々を丁寧に用心深く紡いでいくのなら難を避け、禍を転じる力を得るように思います。

これは一つの智慧であり、知識では及ばないものです。

私たちは古来より智慧というものを大切にしてきました。その智慧は理屈では到底及ばない世界のものを奇妙な仕組みで道理に結ぶことです。智慧を得ることができる人は、先人の遺徳を偲び、真摯にその教えや導きに感謝して学び、実践によって心魂を磨き続けている人です。

智慧は知識ではないというのがポイントで、何回も何回も一生懸命に日々の実践を積み重ねて磨き続けている中で直観して感得するものです。そしてそれが信心や信仰の本質であり、その日々の実践が深い人ほど信心と信仰が深いということになります。

私のこのブログもまた、一つの信心や信仰のものです。子どもたちの未来のためにと、信じて続けて綴るだけです。いつの日か、この慈恵大師のように真心で磨いた智慧を子どもたちの未来を目覚めさせるようにできればと祈ります。

コロナウイルスはまだまだ猛威をふるいます。禍転じてどう福にするのか。私たち人類は真摯に歴史に学び、先人たちがどのように乗り越えて今があるのか。よく観察し反省し、これからの未来へ挑戦していく必要があります。

その自戒を籠めて、今年も実践を削っていきたいと思います。

育徳

先日、訪問したある学校の校庭に「育徳」という言葉を見かけました。これは四書五経の一つ、易経の中で使われている有名な言葉です。

「彖曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。」(山下に出(いずる)泉(いずみ)あるは蒙(もう)なり。君子もって行(おこない)を果たし徳を育(やしな)う。)の中にこの育徳があります。

文章の意味は直訳ですが最初に山から出てくる湧き水はとても小さくか弱いものでも次第に他の大きな流れが入ってきて合流し、それがやがて大河のようになり大海になっていくという意味です。大器晩成と似ていますが、時間をかけてじっくりと徳を涵養していくことの大切さを説いたものです。

この育という字は、子どもがお母さんのお腹の中にいる象形文字です。自然にお母さんの中で育っていきカタチになっていく。まさに小さな存在からあらゆる徳をいただき大きな存在になっていく、つまり自然に大人になっていくということです。

徳は自然に存在しているもので、空気や太陽な水のように私たちにとってはなくてはならない偉大な存在です。その存在の中で、私たちはじっくりとゆっくりと成長していきます。息を吸って吐いているだけでも私たちは徳によって育まれているともいえるのです。言い換えるのなら、まさにこの呼吸こそが徳のなすことの意味を顕しています。

何度も何度も丁寧に呼吸をすることで私たちはその空気によって徳が涵養する。だからこそ私たちは呼吸を日々にととのえて丁寧に暮らしを紡いでいく必要があります。空気が化学物質に汚染され、感染症でマスクをして、閉塞感がある息苦しい世の中だったとしても、敢えて丹誠を籠めて呼吸を整えて徳を養うのです。

私たちはこの世にいるだけで、徳を磨いています。なぜなら徳を磨くために生まれてきたのが私たちの使命の本懐だからです。そうやって徳は日々に育てられていますからどのような一日であったとしても、私たちは呼吸を已めるその日まで徳に見守られ育てていただいているのです。

この徳に見守られているこの世界で自分らしく自分のいのちを存分に心のままに生きていくことが恕されているのです。無条件に自然が私たちを育ててくれるように、この世は無条件に偉大な愛情を与えてくれます。その中で、いのちが「育つ」ということの側面に常に「徳」があるということなのです。まさに天の無限の慈悲慈愛を頂戴しているのです。

そしてこの天の真心は決して已むことはありません。この今も、私たちのいのちを支えて見守り続けてくださっています。だからこそその徳に報いていこうとするところに、私たちが人間として真に学び育つことができるのです。それが育徳の本質だと私は思います。また同時に徳を磨くというのは、徳に磨かれているということです。

畢竟、人は真に徳に感謝できる人になるとき、私たちの人格はある処の高みにまで磨かれたと言っていいかもしれません。

玉磨いて光るとき、徳もまた薫ります。

来年もまた、偉大な徳に見守られながら子どもたちを見守っていく一年にしていきたいと思います。

ありがとうございました。

心の鎮座

来年の歳神様をお待ちする室礼も無事に終え、聴福庵も場もすべて整って鎮まっています。あとは、後回しになっていた自分の書斎だけですがこの場もここ数日で清浄にしていくのがとても楽しみです。

今年は、場づくりに真摯に取り組んだ一年になりました。場づくりは土づくりと同じで、作物があろうがなかろうが、収穫があろうがなかろうが、丁寧に丹誠を籠めて整え続けていかなければなりません。

庭の草取りや、古い物の手入れのように、すぐに効果が出ないようなことであっても根気強く真心で取り組んでいく必要があります。それは心や気持ちの整理でもあり、そういう暮らしを通して人ははじめて人として落ち着いてくるものです。

この落ち着いた暮らしというものは、心の静寂と共にあります。聴福庵は私の人生の実践道場ですから特に凛とした空気がいつも流れていてそこには永遠の時が沈んでいます。この時の沈みとは、常に静寂を保っている時が場に深く鎮まっているということです。イメージでわかりやすくいえば、海の深いところに沈殿している動かない闇のようなものです。

先日、先祖が代々霊感の強い家系に生まれて貢献されてこられた方が來庵され「ここはまるで神社そのものであり神々が鎮座している場所でずっと鳥肌がおさまらない」と仰っておられました。そう考えてみると、今年は霊感の強い方がたくさん來庵され皆さんが一様に神々が鎮座されていると仰っていただいた一年でした。

私は特別何かのスピリチュアル的な活動をしているだけではなく、新興宗教をしているわけではありません。会社に神家総本家と和名をつけていることと、私に固定概念が少ないことから一部の人たちからは変人や狂人、怪しい教祖ではないかと言われたこともあります。

しかし、この神々の鎮座においては私が言っているわけではなく周囲が言っているだけで私本人は暮らしフルネスの実践を淡滔滔と続けているだけです。それが結果として心の静寂を場に投影させ、それが何かしらの存在や気配を感じさせその鎮まった場所で心が落ち着いて何かを感じられているように思います。

この「心の鎮座」というのは、本来は日々の暮らしの中でととのえていくものです。

心が荒廃し、乱雑になっていけば静寂はありません。静寂は、清浄と共にあり、場を清め続けることで鎮座します。人間は精神性を研ぎ澄ませていけば自ずからその真っ白で純粋な境地、また透明なセンスを身に着けることができるように思います。

冬の澄み切った夜空の月の光のように、私たちはその心を内面に持っています。その月を曇らせているものを取り払うことが私たちの暮らしの原点であり、暮らしを充実させていく原理原則なのです。

来年は、暮らしフルネスを知ってくださる方が増えていくように思います。どのように伝わり弘がっていくのか、日々に法螺貝を立てながらじっくりと静かに出る月を待ってみたいと思います。

徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。