場の魂

昨日はBAで地元の学生たちを中心にしたブロックチェーンの研修会を開催しました。コロナでオンラインばかりをやっていますが、久しぶりにみんなで集まり場で学び合えることに仕合せを感じる一日になりました。

人の持っている、真心や思いやり、おもてなし、そして情熱や感謝、好奇心など一見、形がないものは存在しないように思われますがそれは確実に「場」に顕現するものです。私たちは場の持つ、居心地の善さのようなものは心で感得しているものです。

例えば、綺麗に整えられている場や、美しく磨き上げられた場にいくと自然に背筋が伸びて清浄な心持になってきます。その場には、空間の中に目には見えないけれど心では観える確かな風景が存在します。その風景を、何か五感のようなもので私たちは感じ取りそれを感受して養分にするのです。

現在は、お金をつかって見た目だけを綺麗にする建物や空間ばかりになっていきました。一見、美しく見えるような場であっても時間がたったら次第に空きがきてしまいます。それは張りぼてであり、心はその張りぼてであることを感受するからです。

私は空間や場を用いるのに、真心を盡します。

よくそこまでこだわってと感心されることが多いのですが、それはこだわりではなく真心だからです。真心だから妥協しないだけで、実際には完璧なものなどはつくれないから諦めているところも多いのですが真心だけは盡せないことはありません。

真心で取り組んでいく中で、本物の場は醸成していくのです。

私たちは、日本の風土の中で真心を感受して暮らしをしています。四季折々の美しい自然や風景は、私たちの心を癒し人生を豊かにしていきます。その環境の中にある真心はまさに私たちの人生へのお手本になるのです。

古い物は決して古いものではありません、古いものは自然の篩にかけられても遺った本物のふるいものです。ふるいものに囲まれて磨かれた美しい空間の中で、次世代の未来を磨き上げていく。

場にはその魂が宿っています。

これからはじまる学生たちとの交流がとても楽しみです。この舞台でどのような即興劇を繰り広げて演舞するのか、人生を謳歌していく彼らを見守っていきたいと思います。

夢追人

人はそれぞれに夢というものを持っています。夢は自分から求めていくことで得られるものです。そして夢は、今あるところからもっと先の未来に向けて自分から引受けていくことでもあります。

言い換えるのなら、すでにあるものを活かしてもっと自分にお役目を引き受ける、責任感とは少し異なりますが純粋な自分がやってみたいと願うこと、本心の声を聴いて自分に正直になっていくような感覚です。

私たちは、何か与えられたものの中でやらなければならないことをやるかのように教育で仕上げられてきました。本心からというよりも、本心は我慢してその中でやりたいことをやるかのようなことを美徳のように言われてきました。

しかし子どもたちを観ていたら、そうではないことはすぐにわかります。

私たちの会社は、子どもの憧れるような会社を目指していますから子どもが先生です。子どもを先生にすれば、夢を見ること、夢に生きることがどういうことかはすぐにわかります。

子どもたちはワクワクドキドキしながら未来を生きています。過去の修正ばかりをしているのではありません、常に心は夢を観ています。その夢に向かって正直に生きているのです。だからこそ子どもたちに夢に希望や未来を感じ、そしてそれを見守ることで信じる世界を実現させていきたいとも願うのです。

私たちが見守る保育を信じるのもまた、子どもたちの未来を信じているからです。

改めてコロナのことで先行きがよく観えなくなってきているからこそ、敢えて子どものような好奇心と夢で生きる時代に入ってきました。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

子どもの憧れる未来のモデルになるように、挑戦を楽しみたいと思います。

未来志向

コロナウイルスがまた急速に広がりはじめ、また自粛ムードになってきました。当然、みんなで気をつけようとは心しますが同時に閉塞感というものが出てきます。疫病というのは、免疫をつけて免疫が落ちないように活発に心の状態をととのえておく必要があるものです。

なぜなら免疫が下がったら、どんな病気も予防できず感染したら抵抗するチカラもなくなっていくからです。そう考えてみると、免疫を落とさないことが優先でその上で自粛しようというところが本当のところのはずです。

しかし現在の自粛の雰囲気は、免疫が落ちていくような閉塞感を持たせる自粛のやり方のように感じます。ただ、自宅でじっとしていろといい、人に関わらないことをいい、一日中オンラインで同じ姿勢で部屋のなかで過ごすこと。こんなことをやっていたら体調も崩しますが、心身もととのわなくなっていきます。

本来、暮らしは自宅でするものでしたから暮らしを充実させていこうとする方が免疫はあがります。例えば、朝から気持ちよい朝日を浴び、畑や土いじりをし、洗濯や伝統的な保存食や料理を楽しみ、外で運動や散歩をして早めに就寝する。オンラインは時間を決めて、仕事は明確に何をするのかを決めてメリハリを持たせ、コロナの御蔭で日ごとできなかったことができることに感謝して新しい生き方を発見していく。

もちろん、経済状況が苦しくなればそんなことは言ってられないというのもありますがそうやってまた追い込むと余計に閉塞感が出てきます。みんなで閉塞感がでないように助け合い、支え合い、ゆとりを豊かさを増やしていくことで疫病に早めにいなくなってもらうようにしていく方が解放感があっていいと思います。

なんとなく息苦しさというのは、呼吸ができない状況のことです。水でいえば、流れなくなり澱んでいる状態です。呼吸を整え、水を流すように閉塞感を取り払っていく必要があります。

神道の清めたまえ、祓いためえという具合です。

この時代の姿に、先行きがみえないと嘆いてみせるばかりではなく子どもたちに明るい未来を示していけるように未来志向で生き方を磨いていきたいと思います。

曲木の椅子

徳積堂の椅子の一つに、1960年代につくられた曲木家具があります。この曲木家具は、その名の通り木を曲げてなめらかな美しい曲線と微細で緻密な調整によってつくられたものです。家具職人たちは、手作業であらゆるものを丁寧に仕上げていきます。

少しその曲木家具を深めてみたいと思います。

この曲木家具の曲木の技術を発明したのは、ドイツ人のミヒャエル・トーネット(1796年〜1871年)といわれます。トーネットが発明した曲木工法は、木が持つ可塑性(圧力を受けて変型したものが、そのまま元に戻らない性質)を利用して天然の無垢材を煮沸し、鉄の金型に沿って曲げ成型していきます。

そしてこの人物が仕上げた曲木の椅子が、モダンスタイルの原点として爆発的に世界に広がっていきます。特に1859年に発表されたNO.14は歴史に残る名作となり現在までに約2億脚製造されたといわれています。その時代に、2億脚というのはものすごい量です。

そして日本で唯一の曲木家具ブランドが立ち上がります。これを秋田木工といいます。この秋田木工は、秋田曲木製作所という名前で1910年に曲木に適したブナやナラの豊富な秋田県湯沢市に設立されます。

秋田木工は、理念に「木が木で立っていたときよりも立派に美しく」を掲げて熟練した職人の丹念な手作業で、曲木家具を生み出し続けます。また、日本を代表する剣持勇、柳宗理などのデザイナーとのコラボレーションも行い、数々の曲木家具がグッドデザイン賞に選定されています。その後は、粗悪な輸入品が横行し経営がたちゆかなくなり大塚家具に買収されたといいます。

現在では、大塚家具として曲木をつくり続けているようです。秋田木工という名前がなくなりましたが110年以上、丹誠を籠めて技術を磨き上げてきたものは常に本質的でシンプルです。この秋田木工の信念のハイチェアがまたこの場を磨いてくれると思います。

子どもたちに日本人のものづくりの心を伝承していきたいと思います。

学ぶ楽しさ、知る喜び

人は誰しも「知る喜び」というものを持っています。好奇心というか、新しいものに触れたり発見することはいのちが喜び輝き出します。幼い子どもたちの世界では、毎日毎時間、新たな発見に感動し驚き、学ぶ楽しさの中にいます。

本来、人間は新しいことを学ぶことで成長し、その学ぶ楽しみがあるから人生をイキイキと謳歌し輝かせていくことができるように思うのです。

それがある時から、知る喜びがなくなってきて好奇心が減退してきます。それは残念なことに現代の教育に問題があるのはすぐにわかります。

例えば、人間はお腹が空いたらご飯が食べたくなります。その時にご飯が出れば、喜んで食べると思います。さらに、あらゆる素材を手作りで育てて自分で料理すればその喜びは一入です。しかし、お腹も空かず食べたくもないのにただ大量に食べさせられたら人間は何も食べたくなくなっていきます。むしろ、どんなに美味しい料理を与えても何も興味もわかずしかも無理にでも栄養をとれと食べさせらるのだからもっと食べることに喜びを感じなくなるのです。

知識も同様に、大量の知識を一方的に詰め込まれ毎日膨大な情報量の中で生活をしていていると知ることがそんなに喜びではなくなっていくように思います。それを繰り返していると、学ぶことも次第に楽しくなくなっていくように思うのです。

当たり前のことですが、知る喜びは学ぶ喜びです。

私は毎日、このブログでもそうですが学びたいことが尽きず、知りたいことばかりで好奇心が尽きません。やりたいこともたくさんあり、経験したいことも山ほどあります。しかし時間が膨大にあるわけではないので、その中でも本心や初心を大切にして日々を大切に使っています。それは私の暮らしの中に、日々の発見や学びがあり、その学ぶ喜びや知る喜びがあるからです。

好奇心の原点は日々の暮らしの中にこそあり、その暮らし方を改革することでより一層、喜びを日々を歩んでいくことができるように思います。

真実を知る仕合せ、美しさを味わう仕合せ、そして全体快適や居心地の善い場がある仕合せ、これらは学ぶこと、知ることをより一層、楽しくさせます。

子どもたちは、現在、本当に学ぶ仕合せや知る仕合せを知っているのでしょうか?そして学校や先生は、何を教えることがもっとも学生たちにとって大切なのかを自分たちがやっているのでしょうか?

学び知ることの仕合せや豊かさは、人間のいのちが輝くための大切な道の一つです。場の道場の具体的な徳目として、何を目的に場を醸成するのか、改めてその原点から見直してみたいと思います。

 

道を拓く言葉

先日、京都の南禅寺の法螺師の指導を受けましたがその感覚がいつまでも心身魂に残っています。大変短い時間であったにも関わらず、心身魂に響いているのはそれが単に何かを教えたのではなく、伝承し合ったことであることは時間が経つにつれて沁みてきます。

私は今までの人生で、多くの師とめぐり会ってきました。もう何人かはお亡くなりになりましたが、いつまでも心の中で生き続けて励まして応援してくださっています。

その方々の特徴は、若輩で未熟な私に対しても丁寧に真心をもって真摯に接してくださり、私の求めているものを惜しげなく親切に与えてくださいました。今があるのは、その師の方々のご指導の御蔭であることに気づき、恥ずかしくない生き方をしたいと願い実践するばかりです。

先日、ある方から森信三先生の言葉集を送っていただきました。もう随分若い時から、森信三先生の本は読んでいましたがいただいた本の言葉に目を通していると、また異なる味わいがあり、その時々によって言葉と出会えることは仕合せなことです。

その一つの文章にこういうものを見つけました。

「真にすぐれた師というものは、門弟たちを遇するのに単なる門弟扱いをしないものです。すなわち卓れた師というものは、つねにその門弟の人々を共に道を歩むものとして扱って決して相手を見下ろすということをしないものであります。それは同じ道を数歩おくれてくる者という考えがその根底にあるからです。」(森信三)

師弟関係とは、本来、平等であり対等、同じ道を志す仲間ということです。たまたま生まれた時機や学び始めた場が異なっただけでそこには上下があるわけではなく、能力の差があるわけではありません。そこには、ただ同じ道があったのです。

私は歴史を刻むような仕事がしたいと心から思っています。それは私の尊敬してきた人たち、偉大だと感動して薫陶を受けた方々の後ろ姿がみんなそうであったからです。

変人や狂人だと思われようと、純粋な気持ちには嘘がつけません。子どもたちがいつまでも憧れるような心をもって、子どものために真摯に道を切り拓いていきたいと思います。

場とIT

インターネットの歴史を振り返すと、まだ100年も経っていないことがわかります。現在わかる起源は1960年代に米国国防総省が核による攻撃にも耐えうるコンピュータネットワークを必要とし、パケット交換ネットワークであるARPANET(アーパネット)の開発に着手したことが切っ掛けです。そこから1969年には接続実験が開始され、最初の広域パケット交換ネットワークであるARPANETが誕生します。その特徴は「分散型ネットワーク」「パケット通信」であり、これがインターネットの起源だそうです。

現在、私はブロックチェーンに関わっていますがベースになっている技術は今も変わりません。まだ60年くらいの歴史しかないこのITの技術は、まだまだ黎明期でありここから革新的に変化を続けていきます。

そういう意味では、まだまだ現在のIT企業は最先端といってもすぐに変わってしまう技術と向き合い何かの切っ掛けで構造が完全に変化する微妙な位置で研究開発を続けています。

このIT技術を産んでいる人が人間である限り、人間が考えられることしか発明することはありません。人間は人間を超える発明ができないのは、よほどの偶然が重ならない限り過去の経験や発想からしかものづくりをすることがないからです。

そして同時にその人間には、大きな可能性があることに気づきます。一つは、仏教を含め、神と呼ばれる世界観を持っているということです。つまりは神と呼ばれるチカラ(神通力)を人間はものづくりで実現しようとすることです。

例えば、仏教でいうところの神通力は瞑想によって悟りを得られると同時に獲得するといわれる6つのチカラがあるといいます。

1つ目は、神足通=自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。2つ目は、天耳通= 世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。3つ目は、他心通= 他人の心の中をすべて読み取る力。4つ目は、宿命通= 自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。5つ目は、天眼通=一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。漏尽通=煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

結局、人間が人間に真に近づくのは神のチカラを得ることですから人間はこれらの神通力をITのテクノロジーで産み出そうとしています。そしてそれを産み出そうとするからこそ、そこに関わるITのエンジニアたちは瞑想をし修行をする必要があるのです。

私が取り組む「場の道場」では、これらのことを実現するために心の修行や魂の錬磨ができるように「暮らしフルネス」を実現しています。世界の本当の最先端は、これらの懐かしい未来の調和の場によって顕現するのです。

世界がこの先、大きく変わるのは、人類がこの神の領域に踏み込むときです。そして神のテクノロジーを知るとき、人間ははじめて謙虚に自分たちが何が整っていないか、その世界がどのような平和で幸福な世の中であるのかに悟り、真実の豊かさ、善きご縁の繋がり、そして美しい暮らしを調和させていくことができるように思います。

科学が発展し心の世界に追い付けば追い付くほどに、心の世界も同時に発展していきます。それまでの間、私達人類は様々な困難や試練に出会いますが、必ず私たちは、対立概念ではなくそれを超えた真の調和の世界で生きて偉大ないのちを成長させていくのです。

子どもたちが、そのいのちを活かし、真の豊かさを生きられるように懐かしい未来の場を磨いていきたいと思います。

音の道

昨日は、有難いことに鞍馬山で法螺貝を立てるご縁をいただきました。まだはじめて間もないのですが、エバレットブラウンさんの御蔭で「音」について深く学ばせていただいています。

この音には感情というものがあり、その感情を見つめて感情を整えていく。まさに音の深い魅力と不思議な効能などを実体験を通して学んでいます。

思い返せば、音については興味がありましたがなぜか楽器をもって何かをするということまではあまり至りませんでした。中学校、高校の時、バンドを組んでいたのでその際にシンセサイザーにのめり込んだことがありました。

あの時は、電子音でしたがバンドのメンバーの楽しい思いや挑戦したり努力している音色が嬉しく、思い出の青春の一コマになっています。

今回は、また別の青春の一コマであり、音というものの持つ神秘的なチカラや山伏や修験道というものの本質や伝承なども学ぶ機会になり、このタイミングとこの年齢で音楽に再び出会う機会になりました。

何年か前にインディアンフルートの音色に興味を持ち、いつかインディアンフルートをやろうと思っていましたがなかなかご縁がなく、なぜか先に法螺貝になってしまいました。しかし、どこが音の道の入り口であるかと全体を改めて見直すときまさに今此処が音というものの本質に入る時であることに気づきます。

私はもともと選ばない生き方をしていて、来たご縁は素直に受け容れます。それはその方が豊かであり面白く、ご縁に生きることができるからです。昨日は、ある山伏の生き方を聴く機会があり、その方はどんなことでも「受けたもう」と引受けて生きておられるそうです。今を生きるというのは、今の中に自分のすべてを没頭させていくことです。そしてその境地こそまさに心から楽しいことに一体となっています。これは生まれてまもない子どもたちの童心であり、自然界のいのちそのものです。

いのちは常に無我や無心と共にあり、そこに自分のいのちの中心軸があることに気づきます。音は、まさに調律、調和をこの世にもたらす一つのいのちの姿ともいえるのです。

いつか私のいのちの音により、子どもたちの心が癒され浄化し調律をできる日がくるまで引き続き日々の呼吸をととのえ音の道を精進していきたいと思います。

暮らしフルネスの本

現代は、脳が中心で動いている世の中です。脳以外の部分、例えば五感などの感じる部分が減退しています。都市化された社会で、なんでも便利になってしまえば頭で考えて計算していくことが価値があるように価値観が変化していきます。

思い通りになることが是で、そうではないことが非になるのです。なんでも未来を計算し、計算することがなんでも先になってしまうと感じる力をまたつかわなくなります。これがいのちが弱っていく理由なのです。

私がいのちの甦生を手掛けるのの最初の一つ目が、感じる力を高めることです。暮らしは五感を整え、清浄な場があらゆる五感を研ぎ澄まさせていきます。

例えば、未来というものは誰にもわかりません。予測はついても、それは予測通りにしているだけであって1時間後にどうなるのかは誰にもわかりません。ひょっとしたら事故にあったり、何か大事な出来事が勃発することもあるでしょう。何に出会い、何が変わるかなども誰にもわかりません。

つまり未来は計算通りになっていないのです。自分が計算をしているだけで、未来という別個の空間と時間が存在していてそこはどうにもならない全体の出来事の影響を受けているのです。だからこそ、計算ばかりしていても意味がないということです。計算疲れというか、現代人は、脳をフル稼働するばかりでいのちを使っていません。そんなことをしていたら不安や不信が募るばかりでいのちがすり減っていきます。

いのちは使わなければすり減ります。物質文明の価値観だと、使うと減ると思い込んでいますがいのちは物質ではありませんから使えば使うほど磨かれて光っていくのです。私の言葉にすれば、いのちが甦り続けて永遠に生き続けていくのです。

これが生まれてきた仕合せであり、この世で修行をする目的でもあるのです。自分の生き方を磨いていくことは、いのちを使うこと、それは言い換えればもっと直観や五感を大切にして感じるままに心の声を信じて行動していくことです。それは計算ではなく、感じるものを優先して生きるということです。

そのためには五感を常に研ぎ澄ます必要があります。自然の中に入り他のいのちに倣い、いのちを磨く道具と共にさらにそのいのちを調和させていく。その中にこそ、いのちがイキイキと喜び、充実する時間を持てるように思います。私が現代になぜ暮らしフルネスが必要だと思う理由はここなのです。

現在、私の尊敬する方々が本を編集していただいています。この地球上で最高のパートナーたちであり、整理編集は余人に代え難い見事な人たちがやってくれています。

私の人生初の書籍は、内容がどうこうというよりも誰と一緒にやっているか、まさに一期一会、今ここ、この瞬間の奇跡が何よりもいのちの仕合せです。

同じ理想を持つ人たちと一緒に本に取り組めることに心から感謝しています。

 

歴史は繰り返す

高度経済成長が終焉を迎え、人口増の時代から人口減の時代へと入ってだいぶ経ってきました。人口減の問題は、もう随分前から提議されていますが現在の経済成長の仕組みは過去のままで歪は大きくなるばかりです。

今までのやり方をやめてしまうと経済も会社ももたないとなれば、未来を無視してでも今までのやり方に固執する。そういう生き方が結局は最後には限界がきて崩壊し変化せざるを得ない状況に追い詰められます。

歴史を省みても、そんなことばかりを人類は繰り返しており何回生まれ変わっても同じ様相です。これは人類のパターンなのかとも思いますが、地球環境や他の生物全体に多大な影響を与えるようになってきていますからそろそろこれもなんとかしないといけません。

マクロでは地球環境の改善ですが、ミクロでは一人一人の生き方の改善です。

環境問題は人類の意識が引き起こしていますから、人類が意識を改善していくしか変えようがありません。

人間は何かを変えようとするとき、それまでの過去のものを捨てるほどの覚悟が必要です。それは今までと同じことをしないという意識、もう一つは前に進み新しい未来を創造するための意識です。どちらにも覚悟力が必要です。

慣れ親しんだ日々や、得意になって同じ筋力や能力を使うことの方が人間は楽ができます。楽をしてしまうと、楽な方が正しいと思い込み、それが時代的にズレて正しくなくなったとしてもそれを変えることができないのです。

自分の都合の善いことを一つ一つ外していくのは、自分に打ち克つチカラが必要です、己に克つというのは、自分にとっては楽ではないけれどそれが目的のために捨てるのなら楽しいと、軸足を自分にせずに初心や目的に合わせて変えていくときにできるものです。

言い換えれば、自分にとっては都合が悪い方を選択していくという割にあわないことを実践することで変化を後押ししていくのです。これは人類も同じです、そして当然、それは個人一人一人の改革と己との正対によってしか実現しないのです。

生き方で存在を示す会社をやるというのは、一人一人がそのことに深く向き合いそれを実現するために惜しみない努力と生き方改革をニコニコ顔で命懸けで取り組んでいくという志事をしているということです。

そういう志事が仕事になるとき、世直し行は完成に向かいます。

子どもたちのためにも、理屈ではなく真心で、計算や下心ではなく正直で、言い訳ではなく素直な行動で示していきたいと思います。