運命をひらく

人間には運命があります。その運命は閉じているとそれを歩めず、ひらくことで伸ばしていけるようにも思います。その運命とは成長のことで、人間は成長するからこそ成熟し人になるようにも思います。

そして運命をひらくのは、苦しみや葛藤、油汗が出て眠れない夜を過ごしていくなかで培われていくものでもあります。そのひらくには、苦しみの中で何を見出すか、起きている出来事をどのように解釈するかということでもあります。

例えば、出会いと別れは表裏一体です。愛別離苦ともいい、出会いがあって深く愛せば愛するほどに別れの時は苦しくつらいものがあります。しかしそこで苦しくつらいことばかりを見てしまえば、出会うこともまた苦しくつらいものになります。

なぜ人はそれでも出会おうとするのか、それは別れのつらさや苦しさ以上に出会いの素晴らしさが大きいからです。出会い別れで発生する歓びと苦しみ、それを苦しみ以上に歓びが大きかったと感じるとき人はないものねだりではなくあるものを数えるように思います。

私がアニメのワンピースの中で心に残っているシーンがあります。それは主人公のルフィが兄のエースを目の前で亡くしたときに自暴自棄になっている様子を見守る恩人ジンベイの言葉です。ジンベイはルフィの苦しみに寄り添い、こう問いかけます。

『もう何も見えんのか お前にはどんな壁も越えられると思うておった「自信」、疑う事もなかった己の「強さ」それらを無情に打ち砕く手も足も出ぬ敵の数々…

この海での道標じゃった「兄」、、無くした物は多かろう。

世界という巨大な壁を前に 次々と目の前を覆われておる。それでは一向に前は見えん 後悔と自責の闇に飲み込まれておる。

今は辛かろうがルフィー・・・それらを押し殺せ

失った物ばかり数えるな 無いものは無い

確認せい お前にまだ残っておるものは何じゃ』

そしてルフィは残ったものやあるものを数え始めます。するとそこには航海を共にしている仲間のこと、約束していることを思い出します。すると自分を責めて過去の後悔ばかりをしていたルフィの我執を壊していきます。そして我執を手放したルフィは泣きながらいいます。

『仲間がいるよ』

そして仲間に会いたいと心の声が出てきて本来の自分を取り戻しまた立ち上がり前に進み始めます。運命をひらくというと、このシーンを思い出します。

人は自分の自責や後悔に入ると、運命が狭くなっていくように思います。運命は本当は大河のように大らかで悠久の時を流れているように思います。その大河の中で浮かんでいる小舟を人生に見立てるとき、狭い心はありません。ないものばかりを求めては悔いる人生ではなく、自分がいただいたものやあるものを数える生き方をするとき心は広くなり運命はひらくのです。

同時に発生する出来事の中で、いただいているものを数える力、それが感謝かもしれませんが運命を一つ一つそうやって数えて味わうことが一度きりの運命を幸せにいきるということかもしれません。

恵まれすぎていると感謝を忘れるのは人間の常ですから、それを忘れないように敢えて禍の種を蒔きそれを味わいたいという心もあるのかもしれません。すべてのことは意義があるとして、一つひとつを私自身はどのように数えるか、その数える自分の心を深く見つめて精進していきたいと思います。

始まりが肝心

何事も物事のはじめというのが肝心です。なんでそれをやるのか、何のためにそれをやるのか、それを決めるとき、その目的や向かう方向性が決まります。動き始めてから考えていると、その起点は動き始めている中で右往左往してしまいます。しかし動く前に行き先を決め、初心を固め、そして方向性を確認し、最初の一歩を踏み出せればそれは半分は終わったようなものです。

諺にも「始めが肝心」「始めが半分」、「始めに二度なし」、「始めよければ終わりよし」、「始めよければ半ば勝ち」 とあります。

如何にはじまりが物事の取り組みにおいて大切かと、先人たちが経験から語ったのです。この「始め」とは何かということです。

これは日々の仕事でも同じで、いきなり作業に入る人と本当は何かと取り組む前に準備して着手する人がいます。前者はやることばかり増えては、忙しくなりやっている価値や意味を感じる余裕もなくしていきます。しかし後者はどんな状態でも大事なものを大事なままに維持し、その価値や意味を味わい質の高い仕事をしていきます。

始めが肝心というのは、「物事を始めるときに心を入れよ」ということなのでしょう。どんなことをやるのにも、その目的や意味を考えよということです。本質からブレルなとも言えます。

どうしても人間は感情がありますから、その時々の出来事でいっぱいいっぱいになるものです。しかし着手するときに、目的と向き合い自分が何のためにどうしたいのかを考え抜くことで、その取り組む道しるべが観え続けます。

心を入れるというのは、目的を常に忘れないということです。始まりとは目的なのです。

引き続き、その目的を見失わないように常に内省を怠らず寄り添い導けるように精進したいと思います。

器と道

人には様々な運命があるものです。生まれてきてはこの先どうなるのかが不安で自分探しばかりをする人もいれば、時の流れに身を任せて安心して我執を捨てている人もいます。
すべての生き物には天命がありますから、どうにもならないこともあります。その中でどうにかなるとしたら、自分というものに囚われないことかもしれません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」これは和歌や川柳から出たことわざの一つです。そしてこれは平安時代の僧侶 空也上人(903~972)の作と伝えられています。
『山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』「空也上人絵詞伝」

これは山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだと詠まれます。

自分を大事と思って、いつまでも我に執着していたらなかなか道が開けないという意味で用いられます。この身を捨てては、我執を捨ててということですがこれが覚悟の本質であろうと私は常に思います。

何を大事に守るかという問いは、道を歩むことにおいては何よりも重要なことのように思います。迷いはどこから来るものなのか、それをじっと見つめてみることです。
私たちはいわば「器」です。

その器を自分でいっぱいにしていたら、何もその器に入れることも載せることもできなくなります。器は空っぽであるからこそ、その器は無尽蔵に活かされていきます。

我で満たされた器にしないように私たちは初心や理念を持つ必要があります。
そうやって初心や理念によって本当に大事なものが大事なままで維持されていくのです。

先ほどの「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は、自分を手放せば本当の自分が観えてくる、そして道が顕れるということを意味しているのでしょう。

何を優先して生きていくかは人生一生の課題です。

優先順位を間違わないように、常に大事なものを大切にした生き方を積み重ねていきたいと思います。

古民家甦生~時中した暮らし~

古民家甦生を続けていくと古い道具を用いますから技術や感覚は次第に磨き直されていきます。こちら側の都合では道具は使えず、道具の特性や弱さ、また持ち味や使い方を扱いながら学び直していきます。

慣れていないとすぐに壊してしまい、さらに道具もまた活かされないので生活や暮らしそのものを便利なものから不便なものへと価値観ごと転換していく必要もあります。特に今のように水道やガス、電気、家電製品や空調器具がある世の中で敢えて不便に戻すというのはとても勇気がいるものです。

先日もトイレは昔のものに戻すのか、風呂は、洗濯は、冷蔵庫はと矢継ぎ早に質問されました。全部排除してしまえば、それは山奥の隠者のような生活になるのではないかというのです。

確かに目的が、先祖返りのように過去に戻ることならばそうなるかもしれません。しかし時代は過去に戻ることは不可能であり、常に今を刷新し続けていくのが生きるということです。温故知新も復古創新も、決して江戸時代や縄文時代などに回帰しようとするのではなく、何を変え、何を変えないかをその時代の人たちが取捨選択してそれまでの初心や大切な伝統が守られるように継承していこうとするのは子孫である私たちの使命でもあります。

私の古民家甦生も、電気も水道もガスも空調設備もあります。それを全部排除しようとか排除しないとかいう考え方ではなく、長い先を観て大事なものは守り続けようということなのです。

そのためには、その近代に発明された便利なものも活かそう、そして昔から連綿とつながっている文化や智慧も活かそうという、古新を融和融合し、今の時代ならどう暮らすかということを提案しているものなのです。

子どもたちには選択肢が必要です。そしてそれが多様性でもあります。その多様な選択肢は、みんな新しいものに右へ倣えではなく、こういう選択肢もあるという生き方も見せてあげる必要があります。それは極端に右か左か、上か下か、富か貧かではなく、かつての古き善きものを取り入れながら今に活かすという時中した暮らし、生き方を感じてもらいたいということなのです。本来、どちらかに偏らないというのは中心を捉えた中庸でもあり、これはどちらかに偏るよりもずっと難しい挑戦なのです。

私が実践する古民家甦生は、まさに今の時代に古の智慧をどう活かすかという事例を伝道伝承しようとするものです。

引き続き、何を変え何を変えないかを自分の生き方を通して試行錯誤していきたいと思います。

心の甦生

ちょうど今から一年前、島根県石見銀山の帰りに郷里の古民家に立ち寄ったことで古民家甦生がはじまったのを思い出します。生きていると事あるごとに自分を育ててくださった故郷、自分を見守ってくださった風土、そして歳を経れば経るほどにその有難さに頭が下がる思いがしました。

私たちは当たり前に空気を吸い、当たり前に水を飲み、当たり前に食べ、当たり前に住まいを得ては生活していますがそれはその土地の風土がなければ実現しないものです。その土地の空気、水、環境は先祖代々大切に守られてきたもので、その恩恵を享受され私たちは安心して仕合せな暮らしを継続していくことができるとも言えます。

今では簡単に移転や引っ越しをして、遠くの土地に移動していきますが古来は自分の住んでいる場所は周りと共生関係を結びいのちの廻りを繰り返した処ですからその場所で循環をし好転し続けるように自分自身も協力して場所を活かし続けていくのが人の道です。

この一年、古民家甦生を通して郷里の誇りや自信を感じました。さらに、それまでに刻まれた歴史や物語、そして今に至るまでの偉大な恩恵を感じることもできました。自分たちのルーツを持つというのは、歴史を持つということでもあります。今の自分を知るには、その自分の歴史を知ることだとも言えます。自分の歴史と郷里の風土は切り離されることはありません。その偉大な恩恵を感じるとき、私たちははじめて暮らしの大切さを学び始めます。

暮らしというのは、現代では何か人間社会の生活のみで語られることがありますが本来は風土と一体になってはじめて暮らしは実現します。その暮らしは、それまでの歴史を伴い、生活文化としての暮らしを言うのです。文化を切り離しての生活は暮らしとは呼べないのです。その文化は風土自然と一体になっています。

私が恩返しで実践をはじめた民家の甦生は、暮らしの甦生でもあります。そして同時にそれは歴史の甦生、風土の甦生、自然の恩恵に感謝して生きる私たちの心の甦生です。

いよいよ古民家甦生も二年目に入りますが、ご縁を大切にし御蔭様のお助けに感謝し、初心を忘れずに実践を高めていきたいと思います。

伝承の豊かさ

先日、古民家甦生で聴福庵の囲炉裏の間に入っているくにさき七島藺の畳の生産者、淵野聡さんにお会いするご縁がありました。この『七島藺(しちとうい)』は、大分県の国東地方だけで生産されているカヤツリグサ科という植物です。

七島藺は350年の歴史があり、琉球畳は本来、この七島藺を使ったものを言っていました。かつては国東で2万戸の農家が生産していた七島藺も今ではその生産ができる農家が9戸のみになっています。畳表を製作しているところも見せていただきましたが、一日わずか2畳分しかできない手間暇をかけて作られているものです。

淵野さんは、この七島藺に魅せらせそれまでに勤めていた高速道路の仕事を辞め、この七島藺の生産と製造をはじめられたといいます。よき人、よき師匠に巡り合い、いい畳をつくりオリンピックの柔道畳に採用されることを目下の目標にし精進しておられました。

世の中では単に脱サラして転職したとか、いろいろと評する人がいますがこの方は道に入るといって導かれるままに天職に移ってこられた方です。不思議なものですが、本人が選んでいるようにも見えますが、実際は七島藺が人を選んでいるようにも見えます。これは出会いと同じで、いのちといのちの廻り合いは時や場所を超えて縁尋奇妙に結ばれています。何かが失われそうなとき、それを守る人が出てくる、諦めそうなとき、助けてくださる存在がでてくる、道の伝道に伝承者が顕れるように、ご縁の不思議さを感じます。お互いに我慾ではなく、真摯に真心を籠めて天命に従うとき、人は本物と出会うのでしょう。

また今回はちょうど苗を育てている時期だったので、水田の中で新芽を出している七島藺を拝見することもできました。これは真菰竹などと同じで、種ではなく苗を越冬させその苗から翌年のものを育てていくものです。

こうやって大切に株分けされたものを長い年月をかけて育てて農産物を大切に加工して生産していくことに大きな豊かさを感じます。自然と共に暮らし、自然からいただいたものを大切に自分たちの暮らしの中に取り入れていく。当たり前のことですが。これができる幸せは、単にお金で買えるものとは一線を画します。

豊かな暮らしというものは、先祖から大事に譲られてきた伝道をそのままに私たちが子孫へつなぎ紡ぐ伝承をするときに感じられるものかもしれません。

引き続き、未来の子どもたちの為にも日本の民家甦生を味わいながら豊かな暮らしを再生していきたいと思います。

自然の理解~炭の実践~

炭の実践を続けていると、炭には多様の個性があることが分かります。それは木によっても異なりますし、作り手、また製造方法でも異なります。人は炭をみんな炭と呼びますが、実際に触れているとあまりにも個性が強い炭を単なる「炭」という言葉ではとても分類分けすることはできません。

同様に火も同じ火はなく、竹炭の火、備長炭の火、また薪の火、枯草の火と、その火の種類や個性も千差万別、あらゆる個性があります。そして燃焼の時間によってその温度の高さ、熱伝導の量もまったく異なります。炭には同じものは一つもないのです。これは香りも同じく、同じ香りがなく、そして同じ光もなく、同じ形もなく、一つとして同じものはないのです。

そしてこれが自然そのものの姿であろうと私は思います。

脳は物事を理解し、言葉で伝達するために本来個性があるものを一つの同じものであるかのような調整を行いました。しかし実際の現実では同じものは一つもないのだからそこに歪が出てきます。その歪が少なく精度が高くしたものを科学と呼び、大したもののように語りますが自然はそんなものではなく、不思議な調和の中で決して分類できないもののつながりや融和によって存在しています。

同じものがないと理解するのなら、同じように接している自分自身を見直す必要があると私は思います。それが自然の理解です。自然の理解の入り口は、まず自分の価値観の前提をひっくり返すこと。そして同じものを探して比較しようとする習慣を、もともと異なっているという接し方に換えた習慣を上書きしていくのがいいように思います。

みんな違ってみんないいという言葉であっても、その価値観の前提が歪んでいたらその意味の本質も変わります。それぞれの個性の尊重はまず自然そのものを観る力、自然に触れる力、自然を丸ごと理解する感性を暮らしを通して身に着けていく必要があると思います。

炭に触れれば触れるほど、自分の感性は磨かれていきます。炭と火が感性を磨く砥石になっているのです。

引き続き炭の実践を通して、自然の理解を深めていきたいと思います。

 

磨くことの意味

昨日は、高知から来ていただいた創業123年の竹材メーカーの経営者と一緒に古民家甦生の磨き体験を聴福庵で行いました。江戸時代の水屋箪笥や、建具の扉、また小物入れなど蜜蝋や米ぬかオイルを使い丁寧に磨いていきます。古民家の中では手入れして磨き上げられるものが多く、材料に事欠きません。

しかし現代の住宅では、表面上の掃除をモップや掃除機でできることはっても磨きあげるようなものはあまりありません。かつては学校も木造建築で廊下をはじめ椅子や机、様々な道具を手入れし磨き上げることで「磨けば光る」ということを語らずして学んでいました。今では鉄筋コンクリートで、さらには掃除の仕方も簡単便利な西洋の道具を用いることになりあまり掃除の価値も感じられなくなっているように思います。

昔から諺に「玉磨かざれば光なし」「瑠璃も玻璃も照らせば光る」などもあります。掃除には、単に片付けとしての掃除もありますが「磨く」という掃除もあります。掃除において大切なのはこの磨くことだと私は思います。そのものの価値をさらに光らせようとする、光るものを光るものだと気づかない自分の感性を掃除していくことで次第に色あせて澱んでくる自らの精神や心をいつも美しく保ち心を高めていくことで自分の観える世界が純粋に変化していきます。

この純粋な心は、磨くことで洗われ、手入れすることで維持されていくものです。日々の磨き直しは、心の手入れ、魂を磨くことであり、それは自分自身の持ち味や個性、天分の発揮、さらには自他を活かしていく力を高めることでもあるのです。

弘法大師空海はこう言います。

『人間は誰もが胸のなかに、宝石となる石を持っている。一生懸命磨いて、美しく光り輝く玉になる。』

この一生懸命に磨くということを教えてくれるのは、日本の伝統的民家の空間に息づく木造建築の中にすべて凝縮されています。それを磨くことで私たちは玉になる意味を学ぶのです。どんな人であっても、どんなものでも、どんな体験でも磨くことに意味があり、私たちは光ることでいのちを輝かせていきます。

中村天風さんはこういいます。

『「玉磨かざれば光なし」の歌にもあるけど、石も磨けば玉になることがあることを忘れちゃ駄目だ。「私なんか駄目だ」と捨てちゃ駄目だ。百歩譲って、いくら磨いてても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなる。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。』

誰かと比べて羨ましがり、見た目をコーティングしてもその一時的な光は必ず劣化していき崩れていきます。しかし磨く光は経年変化を繰り返し飴色のうっとりする色合いを持ち始めます。磨き続ける年月がそのものを光らせ、味わい深いものになる。磨く喜びは日々の過ごし方の在り方、その人のいのちの生きざまを育てていきます。

宇宙にあるすべてのものは必ず磨けば光るのです。ここに絶対安心を感じ、成長することの喜び、日々道場のある幸せを感じます。

子どもたちが憧れる生き方を追求していきたいと思います。

使い方の修行

道具というものは面白いもので使い方次第では、あらゆる可能性を秘めています。古民家甦生を通して、かつての古道具をリメイクしてそれを今の時代だったからどう活かすかと磨き上げていますが用い方によっては新たな発見や発明がありワクワクします。

かつて中心思想の常岡一郎さんは、『人間は生まれながらにして「使い方」の修行をするのだ』といいました。確かに、道具も使い方、そして道具を活かす人間自体も使い方、自分という人間も使い方、この様々な使い方の中に生きる哲学があり、その人の生き様があるように思います。常岡さんは心の使い方に注目しこう仰います。

「この世の中そのままがわれわれにとって道場であります。生まれて死ぬまで人間は修行してるものと思われます。それは「使い方」の修行です。身体の使い方、 心の使い方、 金の使い方、 力の使い方、 知恵の使い方、鮮やかさの使い方、正しさの使い方、 自然に添う使い方、 気持ちよい使い方、それを毎日修行する。そのための人生は心つくりの道場であると思います。」

心つくりの道場・・・自分がもしも天や神様の道具だとしたら、こうじゃなきゃ使われないと意固地に頑固に潔癖であったらその道具は使いにくいし出番も少ないように思うのです。

今、リメイクしている道具たちはこちらがこう使ってもいいかと聴くとなんでも受け入れて手伝ってくれます。ある時はテーブルに、ある時には蓋になり、またある時は扉になり、またある時は台になり、こちらの要望にあわせていくらでも変化して、しかもそれであってまるで最初からそうであったかのように馴染んでくれます。その道具もまた自分を新たに発見しその時代に活かされる歓びを感じているかのように活き活きと輝きます。

古民家の道具たちは、あらゆるものに変化し、使い手と協力関係を結びお互いを尊重して大切に相談しながら活かしあい互いに馴染み合います。そこには自然や偉大な調和を感じます。

その時、確かに使い手の使い方もありますが、使われる側にも使われ方というのもまたあるように私は思うのです。それは、「あなたがのぞむのならば私はどのようにでも使われますよ」といった天命を受け容れる心の強さ、柔軟性があるのです。

以前、マザーテレサが「私は神様の小さなえんぴつである」という言い方をされていたのを著書で読んだことがあります。マザーテレサはこう言います。

「鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。」

この無欲さ、捧げ切るという生き方、道具が活かされるには我執や固執があると活かせるものも活かされなくなるのかもしれません。

古い道具たちが時代を超えて私と一緒に今の時代に生き続けられるのは、みんな一緒に天命の赴くまま天意の思うままに生きているからです。そしてこれこそが変化の王道であり、成長の要諦であり、永続する自然のいのちの理なのではないかと私は思います。

「人生は使い方の修行である。」

とても含蓄のある言葉です。引き続き、来たものを選ばず自他一体に真心を盡していく日々を味わっていきたいと思います。

 

魂の実践に生きる

人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。

先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。

魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。

「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。

現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。

俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)

「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。

一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。

生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。

引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。