自然の理解~炭の実践~

炭の実践を続けていると、炭には多様の個性があることが分かります。それは木によっても異なりますし、作り手、また製造方法でも異なります。人は炭をみんな炭と呼びますが、実際に触れているとあまりにも個性が強い炭を単なる「炭」という言葉ではとても分類分けすることはできません。

同様に火も同じ火はなく、竹炭の火、備長炭の火、また薪の火、枯草の火と、その火の種類や個性も千差万別、あらゆる個性があります。そして燃焼の時間によってその温度の高さ、熱伝導の量もまったく異なります。炭には同じものは一つもないのです。これは香りも同じく、同じ香りがなく、そして同じ光もなく、同じ形もなく、一つとして同じものはないのです。

そしてこれが自然そのものの姿であろうと私は思います。

脳は物事を理解し、言葉で伝達するために本来個性があるものを一つの同じものであるかのような調整を行いました。しかし実際の現実では同じものは一つもないのだからそこに歪が出てきます。その歪が少なく精度が高くしたものを科学と呼び、大したもののように語りますが自然はそんなものではなく、不思議な調和の中で決して分類できないもののつながりや融和によって存在しています。

同じものがないと理解するのなら、同じように接している自分自身を見直す必要があると私は思います。それが自然の理解です。自然の理解の入り口は、まず自分の価値観の前提をひっくり返すこと。そして同じものを探して比較しようとする習慣を、もともと異なっているという接し方に換えた習慣を上書きしていくのがいいように思います。

みんな違ってみんないいという言葉であっても、その価値観の前提が歪んでいたらその意味の本質も変わります。それぞれの個性の尊重はまず自然そのものを観る力、自然に触れる力、自然を丸ごと理解する感性を暮らしを通して身に着けていく必要があると思います。

炭に触れれば触れるほど、自分の感性は磨かれていきます。炭と火が感性を磨く砥石になっているのです。

引き続き炭の実践を通して、自然の理解を深めていきたいと思います。

 

磨くことの意味

昨日は、高知から来ていただいた創業123年の竹材メーカーの経営者と一緒に古民家甦生の磨き体験を聴福庵で行いました。江戸時代の水屋箪笥や、建具の扉、また小物入れなど蜜蝋や米ぬかオイルを使い丁寧に磨いていきます。古民家の中では手入れして磨き上げられるものが多く、材料に事欠きません。

しかし現代の住宅では、表面上の掃除をモップや掃除機でできることはっても磨きあげるようなものはあまりありません。かつては学校も木造建築で廊下をはじめ椅子や机、様々な道具を手入れし磨き上げることで「磨けば光る」ということを語らずして学んでいました。今では鉄筋コンクリートで、さらには掃除の仕方も簡単便利な西洋の道具を用いることになりあまり掃除の価値も感じられなくなっているように思います。

昔から諺に「玉磨かざれば光なし」「瑠璃も玻璃も照らせば光る」などもあります。掃除には、単に片付けとしての掃除もありますが「磨く」という掃除もあります。掃除において大切なのはこの磨くことだと私は思います。そのものの価値をさらに光らせようとする、光るものを光るものだと気づかない自分の感性を掃除していくことで次第に色あせて澱んでくる自らの精神や心をいつも美しく保ち心を高めていくことで自分の観える世界が純粋に変化していきます。

この純粋な心は、磨くことで洗われ、手入れすることで維持されていくものです。日々の磨き直しは、心の手入れ、魂を磨くことであり、それは自分自身の持ち味や個性、天分の発揮、さらには自他を活かしていく力を高めることでもあるのです。

弘法大師空海はこう言います。

『人間は誰もが胸のなかに、宝石となる石を持っている。一生懸命磨いて、美しく光り輝く玉になる。』

この一生懸命に磨くということを教えてくれるのは、日本の伝統的民家の空間に息づく木造建築の中にすべて凝縮されています。それを磨くことで私たちは玉になる意味を学ぶのです。どんな人であっても、どんなものでも、どんな体験でも磨くことに意味があり、私たちは光ることでいのちを輝かせていきます。

中村天風さんはこういいます。

『「玉磨かざれば光なし」の歌にもあるけど、石も磨けば玉になることがあることを忘れちゃ駄目だ。「私なんか駄目だ」と捨てちゃ駄目だ。百歩譲って、いくら磨いてても玉にならないとしてもだよ、磨かない玉よりはよくなる。ここいらが非常に味のあるところじゃないか。』

誰かと比べて羨ましがり、見た目をコーティングしてもその一時的な光は必ず劣化していき崩れていきます。しかし磨く光は経年変化を繰り返し飴色のうっとりする色合いを持ち始めます。磨き続ける年月がそのものを光らせ、味わい深いものになる。磨く喜びは日々の過ごし方の在り方、その人のいのちの生きざまを育てていきます。

宇宙にあるすべてのものは必ず磨けば光るのです。ここに絶対安心を感じ、成長することの喜び、日々道場のある幸せを感じます。

子どもたちが憧れる生き方を追求していきたいと思います。

使い方の修行

道具というものは面白いもので使い方次第では、あらゆる可能性を秘めています。古民家甦生を通して、かつての古道具をリメイクしてそれを今の時代だったからどう活かすかと磨き上げていますが用い方によっては新たな発見や発明がありワクワクします。

かつて中心思想の常岡一郎さんは、『人間は生まれながらにして「使い方」の修行をするのだ』といいました。確かに、道具も使い方、そして道具を活かす人間自体も使い方、自分という人間も使い方、この様々な使い方の中に生きる哲学があり、その人の生き様があるように思います。常岡さんは心の使い方に注目しこう仰います。

「この世の中そのままがわれわれにとって道場であります。生まれて死ぬまで人間は修行してるものと思われます。それは「使い方」の修行です。身体の使い方、 心の使い方、 金の使い方、 力の使い方、 知恵の使い方、鮮やかさの使い方、正しさの使い方、 自然に添う使い方、 気持ちよい使い方、それを毎日修行する。そのための人生は心つくりの道場であると思います。」

心つくりの道場・・・自分がもしも天や神様の道具だとしたら、こうじゃなきゃ使われないと意固地に頑固に潔癖であったらその道具は使いにくいし出番も少ないように思うのです。

今、リメイクしている道具たちはこちらがこう使ってもいいかと聴くとなんでも受け入れて手伝ってくれます。ある時はテーブルに、ある時には蓋になり、またある時は扉になり、またある時は台になり、こちらの要望にあわせていくらでも変化して、しかもそれであってまるで最初からそうであったかのように馴染んでくれます。その道具もまた自分を新たに発見しその時代に活かされる歓びを感じているかのように活き活きと輝きます。

古民家の道具たちは、あらゆるものに変化し、使い手と協力関係を結びお互いを尊重して大切に相談しながら活かしあい互いに馴染み合います。そこには自然や偉大な調和を感じます。

その時、確かに使い手の使い方もありますが、使われる側にも使われ方というのもまたあるように私は思うのです。それは、「あなたがのぞむのならば私はどのようにでも使われますよ」といった天命を受け容れる心の強さ、柔軟性があるのです。

以前、マザーテレサが「私は神様の小さなえんぴつである」という言い方をされていたのを著書で読んだことがあります。マザーテレサはこう言います。

「鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。」

この無欲さ、捧げ切るという生き方、道具が活かされるには我執や固執があると活かせるものも活かされなくなるのかもしれません。

古い道具たちが時代を超えて私と一緒に今の時代に生き続けられるのは、みんな一緒に天命の赴くまま天意の思うままに生きているからです。そしてこれこそが変化の王道であり、成長の要諦であり、永続する自然のいのちの理なのではないかと私は思います。

「人生は使い方の修行である。」

とても含蓄のある言葉です。引き続き、来たものを選ばず自他一体に真心を盡していく日々を味わっていきたいと思います。

 

魂の実践に生きる

人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。

先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。

魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。

「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。

現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。

俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)

「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。

一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。

生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。

引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。

主人公の醸成

千葉の神崎にある伝統的な酒蔵に寺田本家があります。この酒蔵の23代目当主、寺田啓佐さんが「発酵道」というものを著書で書き記しました。この発酵道には、ご自分の体験を通して腐敗と発酵が醸し出すその価値が語られています。

腐敗もまた発酵であるといい、発酵するためには腐敗も必要と説きます。よくなるためにわるくなる、それも発酵であるといいます。その腐敗と発酵を繰り返すことで何を学ぶか、「うれしき たのしき ありがたき」といってなんでも楽しいものにしていく姿の中に本当に美味しいお酒が醸造できたといいます。

いくつかその寺田啓佐さんの言葉を引用してご紹介します。

「大事なことは、腐敗から発酵の方へ変わっていくと言うことである。否、発酵するために腐敗現象が起こると言ってもいいかも知れない。つまり、良くなるために悪くなると言うことである。いろいろな問題、災い、トラブル、病気など、良くなるために起きるのかも知れない。」

人は色々なことが起きます、自分にとって病気や災難はつらいものですがそれはすべて発酵のための腐敗現象かもしれないといいます。良いか悪いかではなく、発酵がはじまっていると思い腐敗と如何に調和して発酵させる状態にするかがはじまったということです。

そして寺田さんは微生物も人と同じであるとし、微生物から生き方を学びます。

「人間は脳を使えば使うほど自分のエゴに走り欲望と感情に巻き込まれてしまう。その原因を追求していくと過去の記憶にあるようなのです。ところが微生物はまさにあるがまま、目の前の今をどう心地良く生きていくかなのです。だから人間も過去にとらわれず、常岡先生の言うように手放して頭を空っぽにし、中心を取っていけばいいのです。でもそれも怖くてなかなか手放せない。自分はたまたま飛び降りるしかないというところまで追い詰められて、そして飛び降りたら「な~んだ、こんな世界があったのか」と気づいたのです。」

脳で考えるときは過去の記憶に囚われてしまう。原因は過去の何かに囚われて感情に巻き込まれて迷い苦しみが発生するといいます。しかし微生物は如何に今をどう心地よくして生きていくか、自分らしく、あるがままを受け容れて無理をせずに心地よく生きていくというのです。思い切って手放して諦めて流されるままに流れてみたら新たな世界に出会うといいます。

私の解釈では、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ともがくのやめてみれば次第に浮き上がってくるというのと同じです。そうしていると腐敗が発酵に切り替わり、ブクブクシュワシュワと楽しそうに微生物は醸します。そこには腐敗も発酵もどの微生物もつながっていてすべては発達のために必要だったという出会いがあります。発達することが発酵することですから、みんなそうやっていのちは終わることなく繰り返され今に受け継がれているとも言えます。

「発酵してくると、魅力的になる。自分が大好きになる。まわりの人が、あなたにまた会いたくなる。」

そのままの自分、あるがままの自分を好きになることは発酵することです。腐敗を否定し排除するのではなく、腐敗している自分を認め、その腐敗を許し、腐敗も発酵になることを信じてゆっくりと醸成していけば自分のことが大好きになります。そうやって苦労を糧にして忍耐を学び、成熟していく人には周りがその人を必要としていくからです。

本当の自分を取り戻す方法が、この寺田さんの生き方、「発酵道」の中には詰まっています。

最後に、私も発酵を学ぶ人間としてとても共感する言葉がありその寺田さんお言葉で締めくくります。

「松下幸之助も「愉快に生きると幸せになる」と言っている。これから我われは、本物の時代、魂の時代、心を洗って、魂を磨いていく時代に入っていく。そして「みんなもともと一つだ」と言う、ワンネスへと向う時代である。そんな時代に上手く行くコツは、決して「清貧の思想」という、清くて貧しい生き方をすることではない。清くても豊かに生きるという「清富の思想」で生きることである。それが実は、自然に生きると言うことである。

自然の正体は親心である。まさに慈しみと愛である。親の心と一緒である。自然に沿ったらうまくいくのは、自然が愛と慈しみで出来ているからである。だから、自然に逆らって、上手く行ったためしがない。一時は上手く行っても、また腐ってきてしまう。

自然の慈しみと愛を受けて、発酵すれば、人生でも、商いでも、みんなうまくいってしまう。それがこれからの魂の時代の生き方である。」

魂の時代の生き方である・・・引き続き、自然から学び、微生物から学び、本来の自分、主人公としての自分を醸成したいと思います。

暮らし~人生至高の錬磨~

古民家甦生を通して暮らしを実践していると「もったいない」の意識が変化していくのがわかります。例えば、それまでは日常の生活の中で「いのち」などを意識しなくても様々な道具も食材も建築物もそのまま頭の中の知識の一つとして無造作に扱っていましたが、実際に暮らしはじめていくと全ての生物非生物にいのちが宿っていることに気づけるようになります。

この日常の暮らしの実践というものは、私たちにいのちの存在に気づかせ、そのいのちをどのように活かしていけばいいかを学び直す人生至高の錬磨になります。

昔の人々は、建物にもいのちがあると考え、寺社仏閣にはご本尊があることが観えたといいます。それは太古の昔から、大きな樹や大きな岩、また滝や川、あらゆる自然の中に神や精霊を見出しそれを祀っていたのを観ても感じます。

こういうものを感じなくなってしまったのが現代であり、太古の昔はそれを身近にいつも感じて慎み深く恭しく謙虚に生活を営みました。この暮らしというものは、私たちはあまり議論にもしなくなりましたがそれまで観えていた世界を観なくなったというのが暮らしの消失でもあります。

如何に自分を磨いていくか、如何に自己を鍛錬していくか、人生修行、人生道場においての道場はこの暮らしの実践にこそあるように私には思えるのです。

同じもったいないというものであったとしても、ある人はそのものを別のものに見立てていのちの寿命を伸ばします。またある人は、そのものの手入れを怠らず何世代も活かし続けて甦生させていきます。

これはすべて暮らしの実践によって磨かれた人格であり、私たちの先祖はいのちをどのように活かすか、いのちをどのように伸ばすか、いのちをどのように甦生させるかといういのちと向き合ってきた民族であったのは明白です。

これらのいのちの暮らしがなくなれば、私たちはいともたやすく精神を損ない、魂が枯れ、心が疲れていきます。今の時代の忙しさの元凶は何か、魂が病んでいる人が増えたのはなぜか、精神が怠惰になってしまうのはなぜか、これは暮らしの喪失によって行われていることに気づかなければなりません。

日々の暮らしはいのちを学ぶ道です。

そのいのちを学ぶ至高の道場が家ですから、どのように家で暮らすかはその人の人生に多大な影響を与えます。家が先生であるという理由は、ここに極まります。

人生にとって一番長い時間は暮らしをしている時間です。この時間にどのような暮らしを実践するか、それを人生とも言います。経済優先、スピード重視、効率効果ばかりが叫ばれる自転車操業の世の中で人類は一度立ち止まり、自らの暮らしと向き合い見つめ直す時機に来ているように思います。

引き続き暮らしの実践を通していのちの甦生、人々の甦生、子どもに譲りたい未来のためにたゆまず磨き深めていきたいと思います。

 

道中

古民家甦生をやっていると、色々と周辺の人たちには何をするのかと聞かれます。直してどうするつもりかと尋ねられることはあっても、なぜ直しているのかとはなかなか聞かれることがありません。

私にとってはこの古民家甦生のプロセスの中に、日本人の生き方や民家の暮らしの尊さを学び直して自分を直しているのであり結果はその直した後に自然に出てくるように感じています。

直すというのは、こちらが直しているのか、それともこちらが直されているのかというものがあります。自然農も同じく、私が田んぼを作り直しているのではなく田んぼによって自分の方が直されていくのです。

相手が自然や伝統である場合、ズレてしまっているのは自分の方であることに気づきます。自分が不自然になっていないか、自分がつながりを見失っていないか、一つひとつの体験を通してそのことに気づいていくのです。

ある人にとってはこんなに田んぼを遊ばせてもったいないや、古民家をお店として利用しないでもったないなどと言われることもありますが、私にとってのもったいないというのはこの取り組んでいるプロセスがもったいないと感じるのです。

もちろん結果や収穫、家が完成するのもまたうれしいのでしょうがこの取り組んでいる最中こそが有難く、心豊かで仕合せを感じます。古民家甦生などは一年でよくもここまでやったなと周囲に言われますが、これは結果に対して焦っているから早く完成しているのではありません。

私にとっては自然農も古民家甦生も大変ですが取り組むたびに新しい発見があり楽しく、そして好きで好きで仕方がなく、やっていることで学問の悦びを感じます。周りからは急いでいるように見えても、私にとっては四六時中同じことを考えていますからそのどれもがかんながらの道に観えています。

道楽というのは、来たものを選ばずにそのどれからも学び続けている幸福の中にいるということです。

また仲間がいるから、家族があるから一緒に道を歩める仕合せがあります。

引き続き、子どもたちのためにも目的を大切にして結果を求めずに求道し続けていきたいと思います。

 

民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。