主人公の醸成

千葉の神崎にある伝統的な酒蔵に寺田本家があります。この酒蔵の23代目当主、寺田啓佐さんが「発酵道」というものを著書で書き記しました。この発酵道には、ご自分の体験を通して腐敗と発酵が醸し出すその価値が語られています。

腐敗もまた発酵であるといい、発酵するためには腐敗も必要と説きます。よくなるためにわるくなる、それも発酵であるといいます。その腐敗と発酵を繰り返すことで何を学ぶか、「うれしき たのしき ありがたき」といってなんでも楽しいものにしていく姿の中に本当に美味しいお酒が醸造できたといいます。

いくつかその寺田啓佐さんの言葉を引用してご紹介します。

「大事なことは、腐敗から発酵の方へ変わっていくと言うことである。否、発酵するために腐敗現象が起こると言ってもいいかも知れない。つまり、良くなるために悪くなると言うことである。いろいろな問題、災い、トラブル、病気など、良くなるために起きるのかも知れない。」

人は色々なことが起きます、自分にとって病気や災難はつらいものですがそれはすべて発酵のための腐敗現象かもしれないといいます。良いか悪いかではなく、発酵がはじまっていると思い腐敗と如何に調和して発酵させる状態にするかがはじまったということです。

そして寺田さんは微生物も人と同じであるとし、微生物から生き方を学びます。

「人間は脳を使えば使うほど自分のエゴに走り欲望と感情に巻き込まれてしまう。その原因を追求していくと過去の記憶にあるようなのです。ところが微生物はまさにあるがまま、目の前の今をどう心地良く生きていくかなのです。だから人間も過去にとらわれず、常岡先生の言うように手放して頭を空っぽにし、中心を取っていけばいいのです。でもそれも怖くてなかなか手放せない。自分はたまたま飛び降りるしかないというところまで追い詰められて、そして飛び降りたら「な~んだ、こんな世界があったのか」と気づいたのです。」

脳で考えるときは過去の記憶に囚われてしまう。原因は過去の何かに囚われて感情に巻き込まれて迷い苦しみが発生するといいます。しかし微生物は如何に今をどう心地よくして生きていくか、自分らしく、あるがままを受け容れて無理をせずに心地よく生きていくというのです。思い切って手放して諦めて流されるままに流れてみたら新たな世界に出会うといいます。

私の解釈では、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ともがくのやめてみれば次第に浮き上がってくるというのと同じです。そうしていると腐敗が発酵に切り替わり、ブクブクシュワシュワと楽しそうに微生物は醸します。そこには腐敗も発酵もどの微生物もつながっていてすべては発達のために必要だったという出会いがあります。発達することが発酵することですから、みんなそうやっていのちは終わることなく繰り返され今に受け継がれているとも言えます。

「発酵してくると、魅力的になる。自分が大好きになる。まわりの人が、あなたにまた会いたくなる。」

そのままの自分、あるがままの自分を好きになることは発酵することです。腐敗を否定し排除するのではなく、腐敗している自分を認め、その腐敗を許し、腐敗も発酵になることを信じてゆっくりと醸成していけば自分のことが大好きになります。そうやって苦労を糧にして忍耐を学び、成熟していく人には周りがその人を必要としていくからです。

本当の自分を取り戻す方法が、この寺田さんの生き方、「発酵道」の中には詰まっています。

最後に、私も発酵を学ぶ人間としてとても共感する言葉がありその寺田さんお言葉で締めくくります。

「松下幸之助も「愉快に生きると幸せになる」と言っている。これから我われは、本物の時代、魂の時代、心を洗って、魂を磨いていく時代に入っていく。そして「みんなもともと一つだ」と言う、ワンネスへと向う時代である。そんな時代に上手く行くコツは、決して「清貧の思想」という、清くて貧しい生き方をすることではない。清くても豊かに生きるという「清富の思想」で生きることである。それが実は、自然に生きると言うことである。

自然の正体は親心である。まさに慈しみと愛である。親の心と一緒である。自然に沿ったらうまくいくのは、自然が愛と慈しみで出来ているからである。だから、自然に逆らって、上手く行ったためしがない。一時は上手く行っても、また腐ってきてしまう。

自然の慈しみと愛を受けて、発酵すれば、人生でも、商いでも、みんなうまくいってしまう。それがこれからの魂の時代の生き方である。」

魂の時代の生き方である・・・引き続き、自然から学び、微生物から学び、本来の自分、主人公としての自分を醸成したいと思います。

暮らし~人生至高の錬磨~

古民家甦生を通して暮らしを実践していると「もったいない」の意識が変化していくのがわかります。例えば、それまでは日常の生活の中で「いのち」などを意識しなくても様々な道具も食材も建築物もそのまま頭の中の知識の一つとして無造作に扱っていましたが、実際に暮らしはじめていくと全ての生物非生物にいのちが宿っていることに気づけるようになります。

この日常の暮らしの実践というものは、私たちにいのちの存在に気づかせ、そのいのちをどのように活かしていけばいいかを学び直す人生至高の錬磨になります。

昔の人々は、建物にもいのちがあると考え、寺社仏閣にはご本尊があることが観えたといいます。それは太古の昔から、大きな樹や大きな岩、また滝や川、あらゆる自然の中に神や精霊を見出しそれを祀っていたのを観ても感じます。

こういうものを感じなくなってしまったのが現代であり、太古の昔はそれを身近にいつも感じて慎み深く恭しく謙虚に生活を営みました。この暮らしというものは、私たちはあまり議論にもしなくなりましたがそれまで観えていた世界を観なくなったというのが暮らしの消失でもあります。

如何に自分を磨いていくか、如何に自己を鍛錬していくか、人生修行、人生道場においての道場はこの暮らしの実践にこそあるように私には思えるのです。

同じもったいないというものであったとしても、ある人はそのものを別のものに見立てていのちの寿命を伸ばします。またある人は、そのものの手入れを怠らず何世代も活かし続けて甦生させていきます。

これはすべて暮らしの実践によって磨かれた人格であり、私たちの先祖はいのちをどのように活かすか、いのちをどのように伸ばすか、いのちをどのように甦生させるかといういのちと向き合ってきた民族であったのは明白です。

これらのいのちの暮らしがなくなれば、私たちはいともたやすく精神を損ない、魂が枯れ、心が疲れていきます。今の時代の忙しさの元凶は何か、魂が病んでいる人が増えたのはなぜか、精神が怠惰になってしまうのはなぜか、これは暮らしの喪失によって行われていることに気づかなければなりません。

日々の暮らしはいのちを学ぶ道です。

そのいのちを学ぶ至高の道場が家ですから、どのように家で暮らすかはその人の人生に多大な影響を与えます。家が先生であるという理由は、ここに極まります。

人生にとって一番長い時間は暮らしをしている時間です。この時間にどのような暮らしを実践するか、それを人生とも言います。経済優先、スピード重視、効率効果ばかりが叫ばれる自転車操業の世の中で人類は一度立ち止まり、自らの暮らしと向き合い見つめ直す時機に来ているように思います。

引き続き暮らしの実践を通していのちの甦生、人々の甦生、子どもに譲りたい未来のためにたゆまず磨き深めていきたいと思います。

 

道中

古民家甦生をやっていると、色々と周辺の人たちには何をするのかと聞かれます。直してどうするつもりかと尋ねられることはあっても、なぜ直しているのかとはなかなか聞かれることがありません。

私にとってはこの古民家甦生のプロセスの中に、日本人の生き方や民家の暮らしの尊さを学び直して自分を直しているのであり結果はその直した後に自然に出てくるように感じています。

直すというのは、こちらが直しているのか、それともこちらが直されているのかというものがあります。自然農も同じく、私が田んぼを作り直しているのではなく田んぼによって自分の方が直されていくのです。

相手が自然や伝統である場合、ズレてしまっているのは自分の方であることに気づきます。自分が不自然になっていないか、自分がつながりを見失っていないか、一つひとつの体験を通してそのことに気づいていくのです。

ある人にとってはこんなに田んぼを遊ばせてもったいないや、古民家をお店として利用しないでもったないなどと言われることもありますが、私にとってのもったいないというのはこの取り組んでいるプロセスがもったいないと感じるのです。

もちろん結果や収穫、家が完成するのもまたうれしいのでしょうがこの取り組んでいる最中こそが有難く、心豊かで仕合せを感じます。古民家甦生などは一年でよくもここまでやったなと周囲に言われますが、これは結果に対して焦っているから早く完成しているのではありません。

私にとっては自然農も古民家甦生も大変ですが取り組むたびに新しい発見があり楽しく、そして好きで好きで仕方がなく、やっていることで学問の悦びを感じます。周りからは急いでいるように見えても、私にとっては四六時中同じことを考えていますからそのどれもがかんながらの道に観えています。

道楽というのは、来たものを選ばずにそのどれからも学び続けている幸福の中にいるということです。

また仲間がいるから、家族があるから一緒に道を歩める仕合せがあります。

引き続き、子どもたちのためにも目的を大切にして結果を求めずに求道し続けていきたいと思います。

 

民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。

 

個性を伸ばし、魅力を活かす

人間には誰にしろ欠点というものがあります。言い換えればこれは個性があるということで、その人にしかできないことが外に顕れているということです。

私たちの会社は個性が強い人たちがたくさんいます。みんな最初は今の日本の社会教育の中で揉まれてきていますから自分らしくいることを隠そうとしますが、安心してオープンな風土が醸成されている中に入ると自ずから自分の個性や特性が引き出されていきます。するといろいろな事件が発生してくるものです。

例えば、価値観の相違からくるトラブルであったり、一般的にはないような出来事を突然やったり、ちょっと変人だと思われるような言動があったりと、世間常識から少しずつ逸脱していくのです。

言い換えれば、最初はその人の欠点や短所が次第に出てきます。気になるところが増えていくのはその人の個性が出てくるからです。最初は気になるのは自分が変わらなければならないからで見方の転換時期が近づいてくるからです。そしてその人の持っている美点も同時に引き出されてきてその人のことが丸ごと理解できてくるのです。その時、その人の本当の魅力に出会えます。その人を単体で観て、その人を矯正しようと考えるのならばその欠点はない方がいいように思います。しかしそれをしてしまうと、その人は欠点が消えてきますが同時に美点も消えていきます。

美点も欠点も消えた人には個性がなくなってきます。個性がなくなってくればその人の魅力もなくなってきます。人間は欠点があるから助け合うことができるのであり、美点があるから尊敬し合うことができます。

本来、個人主義で個だけを完璧に仕上げていくという発想は一人で生きていくときのやり方です。しかし協働で協力し合っていくといった共同の中でみんなで生きていくときのやり方は個を完璧にするのではなく、個は完全であるという発想になっていきます。

つまりはその人のままでいい、あるがままのその人を活かすという考え方になっているのです。個がバラバラになって個だけが天才がいても、その天才を活かせる周りの人たちがいなければその才は活かせません。

しかしみんなで力を合わせて才を活かしあえばそれはみんなが天才になったと同じ意味になります。これを協力天才ともいい、集合天才とも言っていいかもしれません。衆知を活かすという考え方は、皆で協力すれば欠点は美点に、短所は長所になるということです。

そのためには、リーダーをはじめ仲間たちがないものを探すのではなく「あるものを活かそう」という哲学を身に着ける必要があります。同時に、自分自身に対してもないものを補おうという発想ではなく、「あるものを伸ばしていこう」という積極的で前向きな生き方への転換がいります。それは利他に生き周囲を活かす生き方に変わるということも意味します。

いつの時代も、物語もロマンも豊かな人生もそれはすべて道と友、仲間との暮らしによって得られます。何を大切にして生きていくか、、、その問は出会いの邂逅や天命の成就によって答えが出てくるものです。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方ができるように理念を優先して精進していきたいと思います。

時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。

あるがままの自分

人は自分自身をどのように受け入れているかによって、他者への態度が決まってくるものです。自分というものに期待し過ぎたり、自分というものを卑下しすぎたりする態度は、周囲の人へも同じように接してしまうからです。

あるがままの自分を受け容れるというのは、あるがままの自分で善いと思えること。そこには自信が必要で、その自信は等身大の自分自身を受け容れるところからはじまるように思います。

例えば、理想が高いと自分は本当はまだできるはずだといつも無理をしようとします。また反対に、自分はできないと不安を抱えていると同様に無理をしてしまいます。これはどちらも「本当はこんなはずではない」という自分が描いている自分像とかけ離れるときに起きる執着の一つのようにも思います。

過信と自信は異なり、過信はそうであってほしいという自分の欲望が変化したものです。自信は謙虚で素直な心の態度であり、自分自身を深く慎み受け止め、いただいているご縁に感謝して自らを少しでも高めていこうとするものです。

ごう慢さというのは、自分がこれでいい、間違っていないという自分の思い込みを優先し他人の話に耳を傾けないところから発生してきます。これであっているはずと過信して取り組むことは周りに迷惑をひどくかけとても乱暴なことです。しかし自分がひょっとしたら間違っているかもしれないと、常に周囲への配慮、耳を傾け謙虚に自分自身のままで学び続けている人は本当の自信を持っています。

結局は、自信を持つとは自分のままでいられることであり、あるがままの自分を受け止めそれを肯定して認め、同様に他者を認め無理をせずに自然体でいることのように思います。そのうえで、自分自身を自覚し周囲への配慮を忘れないということです。

不自然な姿が周りに不自然を作り出し、本来の自分ではない姿が周りに警戒心を与えたりするものです。自分以上のことは出せないし、自分自身であることが周囲への安心感を与えるのだからもっと自信をもって自分自身と対話し向き合い受け止めていくことを大切にしていきたいと思います。

引き続き、子どもの純粋な心を見守れる大人になるようにあるがままの自分を自覚し他者を認め自然体に近づいていきたいと思います。