心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

民家甦生

私たちは日本語を用いる日本人ですが、世界には様々な民族が存在します。その民族はその風土と歴史によって独自の文化を発展させ、それをそれぞれの個性として大事に守ってきました。

その中には衣食住をはじめ、宗教、精神、生き方に至るまでそれぞれの独自の価値観を持ち先祖たちの生きざまが私たちの生きざまに色濃く滲み出ています。現在はどこの風土であっても、均一に画一的に同じ環境を用意することで金太郎飴のようにどこでも同じ風景になってきました。それは衣食住に限らず人間の精神も価値観もまた同様に単一化してきています。

これはある文明がそれまでの自然を征服し、どのような自然環境であっても自分たちの文明が凌駕しているという価値観の証明でもあります。この一つの価値観のみで世界を包むというのは、その気候風土の多種多様さを無視して自分が頂点として支配しようという考え方です。支配というものは、一つの価値観にしてしまうということです。そこから人間の中にある差別もまた生まれ、戦争の種を蒔いていきます。

お互いを尊重するというのは、それぞれの価値観を尊重するということです。それは多種多様な気候風土を尊重し、その中で暮らしてきた民族の精神と生きざまを尊重するということです。

民族の個性というものは、支配の歴史で語るものではなく自然との共生で語られるものです。その自然が風土として顕現してきたその土地の民族、それは生物多様性がある豊かで仕合せな永続する社會の実現です。

地球環境においても生物多様性は、それぞれがお互いを認め合い尊重し合う中で生み出してきた「自然の恩恵をみんなで分かち合う自然の仕組み」です。「誰も損することもなく、誰も得することもない世界。」それはお互いが思いやり豊かに地球と共に永遠に存在していくための唯一の方法です。

文明と文化は丸ごと自然そのものとも言え、それは破壊と創造によって甦生していくものです。これは歴史が語るように、病気から回復し健康になり再び病気になるように常に繰り返しを已みません。調和は常に破壊と創造によって行われます。現在、人類の歴史で私たちが知っているのはまだまだ短いものですが、今は時代の転換期を控え長い目で観てもう一度色々とこれからどうなるのかを子どもたちのためにも見つめる必要があるように思います。

しかしそんなに遠い遠い先の将来のことを考えなくても、現在の多種多様な個性、また生物多様性が失われてくればそのうち絶滅の危機に瀕することは火を見るよりも明らかです。だからこそ自分の個性を大切にし、日本民族の個性を大切にし、大切な自分たちの風土を醸成し続けることを已めるわけにはいきません。

私が文化や暮らしを子どもたちに譲ろうとするその根底には、この時代の調和や転換期にどのように風土の歴史を伝承していくかということの一点に由ります。初心伝承とは、民族の初心の伝承です。

原点が失われればそれはもはや個性とは呼びません。

常に原点・初心を忘れず民家甦生を楽しみつつ転じて子どもたちにちゃんと受け渡したいと思います。

自分の道、自分にしか歩めない道

今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。

「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。

人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。

自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。

松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。

「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。

自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。

自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。

自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。

人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。

引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。

 

差別の本質

私たち人間は栽培をすることで自然の恩恵を多くいただいてきました。本来は野性にあったものを時間と愛情をかけて育てることで人間に恩恵があるように培養してきたとも言えます。

それは植物に限らず、身近な動物にいたるまで人間が一緒に生きる仲間を増やしては共に助け合い生きていくパートナーを育ててきた歴史であるとも言えます。栽培するといっても、そのものが望んでいるように、そのものが育つようにと見守るように栽培するのはお互いに尊重し合い生きていくという意味で道徳に適っています。

しかし今では大量生産大量消費によって植物に限らず身近な動物までそのものが望んでいないような成長をさせられ、効率優先に速成するように改良され、また抗生物質や遺伝子組み換えなどそのものの本来の姿がまったく別のものにさせられるように粗末にされています。

人間にとって都合が良いか悪いかが全ての判断基準になり、そのものにとっての意思は尊重されていません。これはそのうち人間同士においても必ず同様になっていくように思います。少し前の南北戦争の頃のアメリカでは奴隷制度があり、白人が特別で黒人は白人のための奴隷になっていた時代があります。人権も権利も与えられず、いのちも粗末に扱われていた歴史があります。白人と黒人と差別しお互いに尊重し合わないことで共に人間らしさが失われていくのはとても苦しいものです。

この差別というものの本質は、「自分だけを特別にする」ということです。先ほどの栽培であれば、植物も動物も自分たちのために存在させればいいという考え方です。相手も一緒に育つ存在ではなく、自分たちのためだけにあればいいという考え方。利己主義で自利のみを考える、都合が悪くならないようにそこは別のものとして差をつけるということです。

これは上下関係でも同じく、上と下を分けることで特別をつくるのです。この差別がなぜ問題なのかはお互いが尊重されなくなることでお互いの心が通じ合わなくなります。誰かが一方的に誰かを支配し、誰かが一方的に支配される。これが差別とも言えます。上下が問題ではなく、尊重し合わないことが問題なのです。

人間がごう慢になるか謙虚であるかは、この差別心のあるなしに由ります。

共に歩んでいく仲間で、いつも自分を手伝ってもらっている感謝の存在だからこそ大切に相手のいのちも自分と同じように尊重する。違うから別れるのではなく、お互いの違いを尊重して認め合えば自ずからお互いの持ち味を活かし合おうという境地に達して自然の恩恵を皆で一緒に享受していく仕合せな風土が顕現するのです。

改めてこの差別という刷り込みをどのように取り払いお互いが自由になるか、さまざまな風土改善の方法を深めながら仕法の開発に取り組んでいきたいと思います。

多様多彩

先日、仏教の子ども主体のある保育園で理念研修を行いました。もう十年以上一緒に理念に取り組み、一円対話やその他の私たちの社内と同じ実践を行っていますがその中での発見や気づきはいつも深い感動があります。目指している生き方を共にし、磨き合い高め合う関係は同志そのものです。

この園の保育の方針にはこう書かれています。

「この世界には山があり、谷があり、川があり、海があり、そしてそこにはたくさんの小さな薬草、中ぐらいの薬草、大きな薬草もあり、大きな樹木も、小さな木も、きれいな花も小さな花も、ありとあらゆる草や木があります。そこには、同じように太陽はあたり、雲が湧き、等しく雨が降り注ぎます。その雨はたとえどんな小さな花にも、大きな木にもあまねく平等に降り注ぎます。降り注ぐ雨は平等ですが、小さな花は小さいなりに、大きな樹木は大きいなりに、その受け取る量はまったく異なります。それでもそれぞれが自らの命を精一杯輝かせ、生き生きと成長していくのです。小さな花が大きな樹をうらやむ事も、大きな樹が小さな花を見下すこともいらないのです。仏さまのお慈悲は降り注ぐ雨のように、平等に注がれるのです。」

これは法華経の中にある仏陀の話、「三草二木のたとえ」から抜粋されています。これは私の意訳ですが、「どんな生き物も同じ自然の一部、その宇宙の下、お互いに尊重し合い、認め合っていこう」ということを仏陀が分かりやすく諭してくださっているように思います。

昔から見た目の違い、身分の差、持っているか持っていないかなど人間は自分の都合で違いばかりを見てはないものねだりをしていくものです。持っている人をうらやみ持っていない人を見下したりもします。比較と競争はこの世に争いを産み出していくものです。異質なものを受け入れず、単一で画一化されたものを良しとする風潮が世界に争いの種を蒔いているように私は思います。

今でも本来は異なるものを、みんなを平均化することでまるで同じものであるかのように教育を施しています。最先端の教育ではダイバーシティやインクルージョンの重要性が叫ばれてきていますがその根底には「お互いを尊重し認め合う」という人間として当たり前のことに気づこうとする原点があるように私は思います。

もちろん公平に分けるということは大切ですが、平等とは受け手が平等を感じることが平等ですから公平に分けてもそれは平等ではないのです。平等とは私の言葉では「認め合う」ということです。国の違いを超えて、生物非生物の違いを超えて、当然、大小や貧富、男女、そうやって二元化して分けてきたものを超えて本来は一つではないかと気づくことが平和になるということです。

人間が争わないで生きていく道は、この三草二木のたとえの実践を行っていくしかないように私も思います。自然はみんな異なっているのは、お互いを認め合っているからです。姿形が違うものは、それぞれにそれぞれでいいところがありそれを互いに尊重するから共存共栄の社會が存在していくのです。

最後に、かつて中国を訪問した時に御縁をいただいた慈覚大師円仁の句で締めくくります。

「雲しきて 降る春雨は分かねども 秋の垣根は おのが色々」

それぞれに己の命を全うしていく、その姿に慈雲慈雨はいつまでもあまねく降り注ぐ、そこにどんな命の姿が出てくるだろうか・・・命はその慈愛の真心にいつも偉大な見守りを感じています。私たちが見守ることが大切なのは見守られていることを自分自身がいつも忘れないためでもあります。

子どもたちが多様多彩に自分らしくそれぞれの命を燃え盡すためにも、引き続きこの世の刷り込みを一つ一つ丁寧に取り払っていきたいと思います。見守る実践を心新たに深めていきたいと思います。

 

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

道中日記

中国の格言に「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる。50年、神の如し。」というものがあります。これは決心したことをそのままに継続ができるのなら、以上のようになりますよという事実が説かれているものです。

これは力の本質を語る言葉ですし、すべての偉大は日々の偉小の積み重ねにおいて行われることを語るものです。二宮尊徳に積小為大という言葉もあります。日々の進歩や進化、改善や探求や実践が時を経てそれがすべてを動かす力の源であるということです。その力の源は「楽しい」ということです。

物事は日々に深めていると次第にそれそのものが楽しくなってきます。楽しいと思えるように本気で楽しいことに取り組んでいると次第に発見が多くなりもっとそれを探求してそのものに辿り着きたいと思うようになります。好奇心とも言いますが、飽きっぽいものは決して好奇心というものではなくそれは単に知識欲が旺盛ということで本当の楽しみは同じものを見ても毎日同じに見えないという「変化」を楽しむことができるということです。

日々に実践していくとそれまで知らなかったこと、わからなかったこと、わかった気になっていたことに気づきます。「おお、そうだったのか!」と驚きまたそのことがもっと知りたくなってきます。知ることが楽しくなっていくのです。そうすれば単にわかることが目的ではなく、もっと本当のことが分かりたいというまるで自然の妙味や宇宙の真理にも近づいていくかのようにドラマが生まれワクワクドキドキが止まらなくなるのです。

好奇心というものは、人が道を求め道を歩むときに必ず隣に有るもののように私は思います。

二宮尊徳は「知れたることを知って行ふは聖人なり、知らざることを知れというは小人なり」という言葉を遺しています。なんでも即席栽培のように速成をしようとする昨今の風潮がありますが、本来はじっくり醸成し凡事を非凡に徹底することの真価を身近な大人たちが示していることが大切ではないかと私は思います。

一つの道を極めていくのは、長い年月が掛かります。言い換えれば長い年月を掛ける価値はその人の日々の進歩に懸っているとも言えます。大きな目標ばかりを追い求めては今やるべき目の前のことには心を籠めないでは本末転倒です。

一つひとつの頂いた機会を如何に活かすか、それはその人がどれだけ日々の実践を徹底しているかに由ります。水脈にあたるまで井戸を掘り続け、山になるまで土を盛り続けるように弛まず諦めない根気がいります。

しかしその夢が大きければ大きいほど、周りの人には馬鹿にされるような小さなことをやり続けることになるものです。そういう真実に対して愚直に実践するものを私も聖人と呼びます。いつまでも知ってもやろうとしない人たちが変わらないのです。

目指す頂は壮大でとても自分一代では不可能だと思えます。しかしそれでも人類を愛し、人間を信じるからこそ諦めたくないと思います。

このブログも私にとってはその進歩を遠方の朋と味わう工夫であり楽しさを弘める道中日記のようなものです。

引き続き子どもたちのためにも、自然の恩恵の中で感謝報恩で生きていく仕組みを時中に合わせて開発していきたいと思います。

 

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

時間をかける

人は何に時間をかけるかで何を信じているかというものが顕れてくるものです。私の会社も子どもの憧れる会社を目指そうとしていても、それが1年や2年で突然できたのではなく十数年も時間をかけてそれが実現してきています。

言い換えるのなら、時間をかけたことで実現したとも言えます。この時間をかけるというのは、時間が応援してくれたということでもあります。初心や信念は時間という支援のもとに醸成されていきます。

それは例えば、まるで酵母が発酵してお酒を醸成するように、まるで種から芽が出て木が大きくなり花が咲き実がつくように時間をかけることで実現するのです。今ができないからとか、今がそうでないからと嘆く前に、何に時間をかけるかをまず定めることが理想を実現するシンプルな方法だと感じます。

時間をかけるというのは、信じて待つということです。この信じて待つというのは、理想を諦めずにその理想に向かって実践を継続していくということです。なりたい自分やありたい自分、何のためにという本質に向かって自分自身が信じ続けるということです。

世間では信じるということがよく理解されておらず信じるか信じていないかと二元論で語られ信じるということの刷り込みに分からなくなってしまうようにも思います。この時間をかけることが信じて待つことであるということに気づけば、後は天にお任せして人事を盡すという心境になると思います。

時間をかけることの価値は、自分の力ではなく多くの御蔭様、また他力の有難さによて事が成就していくという真実に現実を合わせていくことのように私は思います。自然農でも自然発酵でも、伝統においても共通するのはすべてはこの「時間をかける」ということにおいて実現しています。

一度きりの人生だからこそこの時間をかけるという価値に気づく必要があると思います。便利に思い通りにいくことが最良だと思われている昨今において効果効率を優先する思考が根付いてしまえば時間短縮が価値のように思われていますが本来の豊かさや価値は時間をかける中にあります。

これからも時間をかけて信じて待つことを子どもたちに譲っていきたいと思います。

学問求道の背中

先日、ある人から「やっている仕事がすごく楽しい」と言われ天職に巡り合えてよかったですねと答えました。その人はもう数十年も歯科衛生士として勤めている方で、色々と学んでいるうちに様々な場所や先生とまた技術や人ともお話ができて嬉しいと仰っていました。私も以前、患者として関わった時に色々とお話をしましたが雰囲気や表情などに丸みが出ており以前より和やかに楽しく働いている様子に居心地がよくなりました。

人が自分が求めていることが深まっていくというのは、自分の道を深めているということです。どんな山に登るか、どのように川を渡るかはその人の決めた生き方が左右してきます。結果云々ではなく、その道の歩み方に人生の生き方があるように思います。今いるところを深掘っていく人はその道を深めていく人です。どんな境遇でどんな場所にあろうが、自分から学びその意味や価値を深める人は常にその場所で必要なことを学びそれを自他のお役に立てていくことができます。

吉田松陰が野山獄で獄中にあっても『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み囚人達は互いに教え、学び合い、まさに楽しい学舎になりました。これも同じく道を深めている人の傍はいつも学ぶ楽しみや悦び、仕合せに溢れています。しかし同時に、学問の道を志していない人や感化されない人は自分の境遇を自分で憐み、結局は何も学ぼうとしません。獄中に吉田松陰があっても学ぼうとしない人もまた多くあったかもしれません。

通常であれば自分の境遇に嘆き心が腐るところをこういう境遇こそが自分を磨くという発想の転換ができるのは、吉田松陰は生きた学問をしていたからと言えます。王陽明による事上錬磨、また知行合一もまた体験こそを学びにして深く味わい意味をつけていくという実践を怠らない、つまりは本物の学問を志したからでしょう。

知識だけで学んだ気になっているのは学問をしているのではなく、学識をただ蓄えているだけです。至誠と実行というのは、理屈ばかりに人間になるのではなく世の中を動かす人物になれということです。

今では就職活動などもそうですが、就職することが目的になり、もしくはキャリアだけが目標になり、自分にマッチングするかで転職する人が増えているように思います。転職ではなく天職を全うするような生き方を示す大人も先輩もまた減ってきているのかもしれません。

若い人が自分の人生を迷わないように、私の尊敬するメンターのように学問を求道する背中を子どもたちに見せていきたいと思います。今いるところにこそ本当の先生があり、今いるところの足元の深いところに真実があることを自らの実践と内省により伝道していければと思います。