今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。
「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。
人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。
自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。
松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。
「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」
自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。
自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。
自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。
自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。
人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。
引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。