地球の一部

当たり前のことですが私たちは地球の一部であり、人間だけが地球から離れている存在ではありません。地球を守るとか言いますが、それは刷り込みでおこがましく本来は地球に守られているのが私たちの存在です。

気候変動やマグマの活動、地震活動や海流の変化はすべて地球の生成によって行われます。いくら原子力があろうが、宇宙船をつくろうが、そんなものは地球規模の活動においてはまったく意味をなしません。人間は地球から離れて地球の一部であることを忘れれば忘れるほどにごう慢になってきます。

例えば、絶滅種を守ろうとかエコ活動をしようとかいいますがどれも人間都合で考えられるものです。本来の地球の一部として謙虚にいるのなら、御蔭様に感謝しつつ畏敬の念をもって地球の一部として暮らしていくものです。

この先、どのようなことが起きるとしても地球の一部であればまた時間が経てば再生して地球と共に変化成長を続けていきますがそこから離れているのであれば再生することはありません。

私たちは生き死にをゴールだと設定しようとしますが、本来は継続していくことにゴールを設定しなければなりません。それは人間や自分を中心にするのではなく、地球の一部であることを謙虚に受け止めているからです。

長い目で観た時、私たちの存在は一瞬です。その一瞬を生き延びようとすることが大事なことではなく、永遠に生きるために如何に地球と共に発展していくか、地球と一緒一体に暮らしていくか、その適応を求めていく必要があります。多様性も然り、協調性も然り、全ては地球の一部として存在するための叡智なのです。

人間だけが世界でもなく、人間の生きているところだけが全てではない。いくら火星にいこうが月にいこうが、そこから地球を観れば自分たちが地球から離れることができないことを人類はただ悟るだけです。

地球というものと一緒に歩もうとするものには、心の安らぎと魂の救済があるように私は思います。引き続き、先々のことを予見しつつ今はただ磨くことのみですがその生き方を未来のために定めていきたいと思います。

伝主伝道

人は心を感じる生き物です。たとえばあるものを購入する時でも、それを誰から購入したいかというものがあります。どんな人がどんな思いで取り扱っているのか、その心を感じているとも言えます。その心を心のままに思いを合わせて伝えてくださるとき、人は心が感動するように思います。

先日も、畳を生産する人の心を畳を加工していく人がしっかりと受け止めてその心を合わせてそのものの思いを伝えてくださいました。するとその畳には思いが詰まっており、今でもその畳はキラキラと家の中を照らしています。これは何が照らされているのかといえば、その心によって空間を照らしているのです。

人の思いというものは、目には観えませんが思いや物語の中にいつまでも遺っています。何を買うかも大切ですが、誰から買うかというものはもっと大切なものです。何をするかも大切ですが、どのような思いであるかはもっと大切なのです。

ただそのものの商品説明を聞いても心は入ってきませんし、その人が思いを汲むことができない人であれば物語は生まれてきません。物語を聴いて感動するのが人間ですから、何よりも伝えることはその心の方なのです。

心が伝わると人は一生それを忘れません。また思いが入っていることを知れば、いつまでもその思いが残存していることに気づけます。心や思いが入るからこそ、自分の一挙手一投足に真心を籠める必要があるのです。電話一つ、挨拶一つ、おもてなし一つ、お祈りひとつ、そのものに心と思いを入れるのです。

心や思いはつながり、ご縁の中に確かに弘がっていきますからその伝播が伝承を育て子孫へと生き方が伝承されていきます。常に自分が伝主であることを忘れずに、心と思いをしっかりと感じて伝道していきたいと思います。

生業生成~本物の仕事~

生業という言葉があります。これは「なりわい」や「せいぎょう」とも呼ばれます。生活を営むための仕事という意味でもあり、暮らしをするためのものとも言えます。

今ではあまり使われなくなったこの生業という言葉ですが、とても大切な価値を持っています。世間では一括りに仕事といい、就職と書いて職に就くといいます。そのうちプライベートと仕事を分け、本来分かれていなかったはずの人間の暮らしが消失していくのは残念なことです。

この生業というものを改めて定義し深めてみようと思います。

そもそも生業というものは、自然におけるあらゆる生き物たちはすべて持っているものです。さらにいうのなら、地球の活動は生業の中心とも言えます。その地球の活動は、マグマの活動や気候変動、宇宙との調和にいたるまで休むことはありません。

そして自然では、その地球の生成と共に生き物たちも一緒一体になって生成を已みません。私たちの身体はその宇宙や地球の一部として機能しており、生きていくためには自然と共生していかなければ生きていくことすらもできません。たとえ地球をロケットで脱出しても私たちは地球の営みで行われた食べ物や着物、道具を使わなければ宇宙に存在していくこともできません。つまりはそれが生業(生成)というものです。

生業を勘違いしてただ生活のためで価値が低く、仕事は世の中のためで価値が高いということを言う人がいますがそれは刷り込みだと私は思います。生活とはすべての生物たちの根本でありもっとも尊いものです。いのちが生まれて死ぬまでに私たちは生成を已みません。その生成をどのように行っていくか、それは自然に沿って暮らしていく人と、自然から離れてしまい暮らしを亡くしていく人がいるだけです。

私たちはこの暮らしを通して生成されているのだから、もっとも大切なのはその生業生成をどのように生きていくか、つまり生き方と働き方は分けることなど不可能なのだから暮らしを通して自分たちがどのような仕事をしていくかの両輪をちゃんと組み立てなければならないのです。

私は会社生活において様々な暮らしの実践を行いつつ、遊んでいるように働いているといわれますが本来、暮らしとは自然に寄り添いながら文化を味わいその生成を活かし続けることにあると私は思います。私たちは生業の背景にある生き物たちの生成の御蔭様をいただいて生きて活かされていることを決して忘れてはなりません。

そしてこの生業のことを私は神業と定義しています。

この奇跡のような日々の中でどのように生き活かされていくか、それは本来の生業にどれだけ自然から学び直し近づいていくかによります。引き続き、自然淘汰の中で遺る文化と寄り添い、自然農や自然養鶏、様々な自然との暮らしを味わい、自然生業のなせる神業に近づいて本来の仕事、本物の仕事を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

本物の佇まい

本物には本物だけが持つ佇まいというものがあります。例えば、自然物でそのいのちが壊れないように丁寧に丹精を籠めたものはそれを手に持つと独特の佇まいが出てきます。他にも、神社仏閣であっても古来からの技術や祭祀をそのままに守り徹底して厳修されているものにもまた独自の佇まいが出てきます。

この本物が持つ佇まいとは何かということです。

例えば物事には本質というものがあります。何のためにそれをするのか、なんでそうなるのかということを透徹するまで磨き上げその本質に辿り着くとします。それを守るためにありとあらゆる手間暇と真心を込めていくと自然にあったかのような雰囲気が出てきます。そこに人工的なものがなく、まるで自然のものになるのです。言い換えるのなら無心であるそのものが顕れます。

こういうものは我が入っておらず本質そのものになっています。本物というものはこういう佇まいを放つのです。つまりは本質や本物には人間の我や慾をどれだけそぎ落とされたものであるか、どれだけ純粋であるかということと同じであるのです。

人は知識を持てば、その知識によってある程度のところを狙っては妥協していくものです。もしくは自分のことを中心にその知識や認識で考えているうちに自然から遠ざかってしまうものです。自然とは何かすらわからない状態では、本物が何かも分からないのです。

自然物というものは誰がつくったのか、それは自然にできたものです。誰かがではなく、自然の御蔭で出来上がっているのです。そういう御蔭様をもって自然に本物は顕現します。

自然の力を引き出すのも、自分の持ち味を引き出すのも、その中心には何のためという本質に由ることが本物であることです。本物の佇まいとはつまり自然体であるということです。

引き続き、自然と本物を深めて近づいていきたいと思います。

手間暇とプロセス~本物とは何か~

現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。

引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。

 

自分磨き

先日、いつもお世話になっている恩人の方々と一緒に古い木製品や古鉄の道具の手入れを行う機会がありました。蜜蝋や椿油を用い、一つひとつを磨いていくのですがそのものを磨くうちに無心になってきます。この無心とは何か、それは考えなくなるということです。考えなくなるというのは空っぽになること、それまでの知識や教養などを用いずにそのものと一体になっていくということです。

磨くという行為は、それまでの刷り込みや知識を捨て去っていくことに似ています。分類分けされた知識は、複雑だったものを単純にしましたが実際には自然と同じように複雑ではないものは何一つありません。天気一つとってみても、今は天気、曇り、雨、などで分類しますが一日とて同じ天候の日はありません。複雑に変化している気候を観るのは知識分類知を用いず、無心になって触れてみるしかないのです。

そして一緒に磨く面白さは心が通じ合うところにあります。一人で無心になるのも楽しいことですが、一緒に無心になるのはかえって考えない空っぽのところに自分たちを置き、その中で感じることを語り合いますから居心地がいいのです。

暮らしの中で共に生きるうちにお互いの本心に触れ合う気がして、その合間の寛ぎが心地いいのです。

人間は心を用いていくことで頭で考えてしまう知識を離れていきます。今は知識を用いてから心を使おうとしますが本来はそんなことはできるはずがありません。それは心ではなく知識なのです。心を使うのは、まず心を用いてそれに知識がついてくるのです。頭で考えた心配などなく、頭で考えた配慮などもなく、頭で考えた共感などはないのです。

だからこそ、心を用いる作業を一緒にやりながらその心を磨いていくことは感謝で生きてきた先祖との触れ合いになります。特に手作りで大切に扱われ、時代を越えて経年変化を続けている道具を触るとその時代から心を用いて大切に扱われてきた道具と人との関係性に触れます。道具によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで道具が磨かれるのです。

手入れというのは、頭入れとはいわないのはまずは手間暇をかけること、その労力と時間を用いることで心が入るということです。自分が労力をかけて苦労することが何よりも自分磨きになります。

引き続き、磨く仕合せ磨く喜びを体験しながらまた一緒に磨いてみたいと思います。

素直の能力

色々なご縁を辿っていると、あの出会いがまさかこうなるとはと人は感じるものです。その時、分からなかったことが後々に自明してくる、まさにご縁は縦横無尽に時を超越して結ばれてきます。

人が人と出会うのは、果たして自分の意思だったのかそれとも自然にそうなったのかと考えてみると私は後者の自然にそうなったのではないかと思います。これを天命といいます。

人は誰にしろ天命があり、その人の使命や定めというものがあります。その宿命はその人のいのちに決まっていますがそれをどのように感じるか、それをどのように味わうかはその人の選択になります。

素直に生きていく人はみんな自分は運が善かったと言います。これは来たものを受け容れてそれを感謝で味わっていく能力が高いということです。素直の能力とは、訪れたご縁に対して素直に謙虚で生きていく才能というものです。

その才能はどのように伸ばし磨くのか、それは日々に発生するご縁に対してどれだけ真摯に反省し、一つひとつを学び直していくかということです。直すというのは磨くということです。人格を磨いていくのは自分の間違いに気づき、その間違いを直していくということです。そして判断基準は自己を中心にするのではなく、いただいたご縁に感謝することを中心にしてもしも自分に感謝が足りず間違っている姿勢があればそれを素に直すということです。素は人間はみんな正直です。その正直な自分でいられるように人は感謝を学び謙虚を実践するのでしょう。

人は磨かれていくことで研ぎ澄まされ天命がはっきりと観えてくるように思います。日々の出来事の受け止め方、受け取り方こそがその人の素直の能力なのでしょう。

引き続きご縁を大切に、日々の学び直しを深めていこうと思います。

自信と誇りを持つということ

人が自信を持つというのは自発的に主体的に自ら何かを行ったときのみ得られるものです。他人からやらされたり、させられていると思ってやっていたりしても自信が持てないことはすぐにわかります。自分の力とは何か、それは自分の中の情熱を使って取り組むことですから人からの熱を利用していつもやっていたらそのうち自分の力を出さなくてもできることに慣れてしまうものです。

炭の実践をしていたらすぐにわかるのですが、炭には自燃性、可燃性、他燃性、不燃性があります。自燃性は、こちらがなにもしなくても少し火が入れば自ら燃え続けて燃え尽きるまできれいに燃え続けることができます。よく良質な炭というのは素直で密度の濃いこういう炭のことを言います。そして可燃性は、すぐに燃えはするけれどこちらが息を吹きかけなければ燃え続けることができなくなっていきます。その次の他燃性は、周りに燃えている炭がありその燃え続けている炭の火力があれば燃えることができるというものです。しかし燃えている炭から離してしまうとすぐに消えてしまいます。最後は不燃性、これはもう何をしても燃えることがありませんし無理に燃やしても周りの炭の力を全部奪い取ってしまいます。

これは炭だけのことを言っているのではなく、人間でも同じことが言えるといいます。人間には心に「熱」があります。それは熱量、情熱とも言います。この情熱をどれだけ燃やすことができるか。これはいのちを燃やすことも同じです。自分の決めた生き方を貫き、燃え尽きるまで一期一会に一日一生を生き切っていく。そういう自然性の人は周りの人たちを燃やしていきます。

そこで何よりも大切なのはこの自然性、つまりは自発性がいるということです。どんなに最初の炭が自然性があったとしても、一本の炭だけが燃えても周りがまったく燃えなければお湯を沸かすこともできません。だからこそみんながそれぞれに自分の炭を自分で燃やしてくれるからこそその火が集まって大きな熱量を発揮して物事を変えていくのです。

そのためには自分から動いて自分から燃えて自分から自発的に進んで様々なことに関わっていく必要があります。誰かから言われようがさせられようが、「自分がそうしたかったから」と自分からやっている人は自ずから自信と誇りに漲ります。良質な炭(人)はいつも自分から良質な炭になるために苦労を惜しまず燃え続けています。

人間のいのちや情熱は、自らが燃やすからこそ輝きますしその燃料は無限の如く体の奥から湧き上がってきます。毎日燃え尽きれば、翌日にはまた良質の炭が自分の中から産出されていきます。まるで石炭のヤマを掘り当てたように、真摯に自分の人生を言い訳もせず愚痴も言わず全身全霊で命がけで生き切るときその燃える原石を手にするのです。そしてそうして自分から生き切った後に遺るのが誇りなのです。

炭を使いこの聴福庵を実践する大切な理由の一つはこの筑豊という風土、炭鉱がぴったりと合う情熱的な人間性、その自然性。この地域の持ち味を活かすためにも炭を用いるのです。

いまいちど地域の心と誇りを取り戻すために自ら燃えて心熱くいたいと思います。

心の潤い~暮らしの中の仕事~

昨日、パートナーとして一緒に理念に取り組んでいる熊本の保育園に訪問する機会がありました。昨年のことを振り返りつつお互いの理念の実践を確認しあうことができました。

ここの保育園では「子どもたちの心のふるさと」を理念に掲げていますから新年から子どもたちと一緒に餅つきや門松作り、また獅子舞、また手漉き和紙を用いた年賀はがきの作成など数々の実践を楽しそうに行っていました。着実に目的に向かって一つ一つの実践を全員で積み重ねていく様子に大変嬉しくもあり、有難い気持ちになりました。

最近では、餅つきは不衛生だと禁止になり、除夜の鐘はうるさいからと昼間になり、歩きながら本を読むのは危ないから二宮金次郎の像を座らせたり撤去したり、お祭りは宗教勧誘だからと中止になり、祭祀や神事は人間都合で変更され、挨拶は不審者だから気を付けろと教え、その他言い出せばキリがないほど本質的ではない改造が行われ、様々なかつてからの日本の文化もまるで価値がないものに変わってきています。

かつては祖父母と一緒に暮らしていく中で子どもの頃よりその後ろ姿の実践から自然に学んでいました。毎朝早起きをして仏壇や神棚を拝み、掃き掃除や拭き掃除をして挨拶をし、家族で味噌汁とご飯を一緒に食べていました。感謝することを第一に、素直に謙虚に自然に暮らしを通して私たちは日本文化を伝承されていきましたが今ではその暮らしの伝承があちこちで途切れてきています。

子どもたちが暮らしから遠ざかるのは、その周囲の大人たちが暮らしを豊かに味わうことを忘れてしまってきたからです。日々にお金ばかりを気にして、時間に管理されギリギリいっぱいに結果に終始し膨大な作業に没頭してその本当の味わい深さや豊かさを感じる余裕が失われてきているからです。

それは単に仕事量を減らせばいいのではなく、本来の暮らしをしなければ取り戻すことはできないと私は思います。その暮らしとは、日本の生活文化のことです。私たちカグヤでは日本の伝統芸能や伝統文化を深めて実践するクルーたちが増えたことで日々の生活に「潤い」が出てきています。その潤いは「心の潤い」で、日々の生活の中に喜びや仕合せ、楽しさや感謝がどんどん増えていく豊かさが感じられていくということです。

この潤いがある仕事というのは、人々の心を豊かにしていく仕事になっていきます。人は何のために仕事のするのか、人類は日々に仕合せに暮らすために今まで苦労しても楽しく仕事をして生き残ってきたはずです。だからこそこの生活や暮らしの潤いが増えていくということは、それだけ真に皆で豊かな社會を創造したということになります。

取り組んでいる室礼の実践一つをとっても、日々の小さく大きな豊かさを感謝と共に暮らしに飾ります。するとその飾る室礼を見た人たちに心の潤いが伝わりよりお互いに心が瑞々しく若返っていくのです。

忙しい忙しいと自分のことばかりに忙殺されていく中で本当に失っているものは暮らしの豊かさの方なのです。だからこそ私は子どもたちが大人になった時に、暮らしのない世の中にならないようにと祈り願い、子どもたちの周囲にいる大人たちへと実践を弘めるために学び直し新たな仕事を開発しているのです。

もちろん仕事か暮らしかというわけではなく、暮らしの中に仕事があるのだから豊かな人が仕事をしていくと潤いがある質の高い仕事になるのです。その日々の心を籠めた丁寧で丹精を入れたものが本来の仕事の意味になり大切なお仕事になると思っているのです。

玄米クッキーをつくって持っていくご挨拶も、お手紙を書いてお渡しする写真も、手間暇かけて漬けたお漬物をお贈りするのもすべてはこの「心の潤い」を結びお届けするためです。

引き続き、何が大切で何を守るかの優先順位を間違えないように忙しくても忙しくしない、忙しくても豊かさは身近にあるように心を磨き、実践を深め、ニコニコ顔で命がけの真剣勝負の日々を楽しんでいきたいと思います。

竹と日本の心

日本の伝統家屋を深めていると必ず「竹」に辿り着きます。かつての伝統家屋を分解すれば床材から壁、天井、簾、あらゆるところに竹が使われているのを発見するからです。また、かごやざる、花器などの日用品から玩具だけでなく、日本文化を代表する茶道や華道の道具、笛や尺八などの楽器、竹刀や弓などの武道具などに用いられ常に日本の暮らしに欠かせないものになっています。

世界には1300種類ほどの竹があり、その中で日本には約600種類の竹が存在しています。竹取物語でかぐや姫が竹の中から出てきた話がありますが、生命力が強く神秘的な竹に古代の先祖たちは不思議な植物として崇め奉ってきました。竹を用いた祭事や神事が多いこともそのためだと言われます。

京都大学農学部教授であり「世界の竹博士」と呼ばれた上田弘一郎氏が「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ」 という言葉を遺しています。確かに植物や樹木などとは分類できない「竹」という存在に改めて私も魅力を感じます。

日本人はこの竹をこよなく愛し、竹と共に歩んできた民族です。最初の竹は縄文遺跡の中からも土器の模様などで見つかっているといいますから、如何に古代より竹が暮らしの中で重要な役割を果たしてきたのかがわかります。近年はその竹の存在があまり感じられなくなり、竹林も野放しになり日本の美しい風景を彩る竹林も消失されてきているように思うのは本当に寂しく残念なことです。

著書『日本事物誌』の中でチェンバレンは「竹のない日本人の生活は、バターを使わない練子菓子の如く、明るい部分のない風景画の如く、一言も不平をいわぬ英国人の如く、ほとんど想像のできない、ということを述べるだけで充分であろう。」といいます。

竹は常に日本人の身近にあって暮らしの中心だったということを思えばまさに竹こそ日本の文化の中心だったのではないかと私には感じます。それに私が竹に惹かれるのは、その竹の存在が日本史の歴史の中でずっと私たちの暮らしを助けてくれてきたことです。笹も枝も竹皮も、それに筍、根、竹稈にいたるまで竹は無駄なところは一切なく日本の風土とぴったり合わさり私たち日本人と共に歩んできた人生のパートナーでした。

この人生のパートナーの存在を忘れることは、私たちの身体をつくってくださってきた稲の存在を忘れることと同じくらい大事なことです。今まで私たちが生き残ってきた手段を失い、今まで共に助け合ってきた存在をなおざりにするということに非常な危機感を私は感じます。子どもたちに譲り遺していく存在を私たちの先祖が大事にしたように私たちも大事にしなければ生き残れないのです。私は稲と同じくらいこの竹を大切にしたいと思うのです。

引き続き今年は竹を深めて、日本人の心を探ってみたいと思います。