多様多彩

先日、仏教の子ども主体のある保育園で理念研修を行いました。もう十年以上一緒に理念に取り組み、一円対話やその他の私たちの社内と同じ実践を行っていますがその中での発見や気づきはいつも深い感動があります。目指している生き方を共にし、磨き合い高め合う関係は同志そのものです。

この園の保育の方針にはこう書かれています。

「この世界には山があり、谷があり、川があり、海があり、そしてそこにはたくさんの小さな薬草、中ぐらいの薬草、大きな薬草もあり、大きな樹木も、小さな木も、きれいな花も小さな花も、ありとあらゆる草や木があります。そこには、同じように太陽はあたり、雲が湧き、等しく雨が降り注ぎます。その雨はたとえどんな小さな花にも、大きな木にもあまねく平等に降り注ぎます。降り注ぐ雨は平等ですが、小さな花は小さいなりに、大きな樹木は大きいなりに、その受け取る量はまったく異なります。それでもそれぞれが自らの命を精一杯輝かせ、生き生きと成長していくのです。小さな花が大きな樹をうらやむ事も、大きな樹が小さな花を見下すこともいらないのです。仏さまのお慈悲は降り注ぐ雨のように、平等に注がれるのです。」

これは法華経の中にある仏陀の話、「三草二木のたとえ」から抜粋されています。これは私の意訳ですが、「どんな生き物も同じ自然の一部、その宇宙の下、お互いに尊重し合い、認め合っていこう」ということを仏陀が分かりやすく諭してくださっているように思います。

昔から見た目の違い、身分の差、持っているか持っていないかなど人間は自分の都合で違いばかりを見てはないものねだりをしていくものです。持っている人をうらやみ持っていない人を見下したりもします。比較と競争はこの世に争いを産み出していくものです。異質なものを受け入れず、単一で画一化されたものを良しとする風潮が世界に争いの種を蒔いているように私は思います。

今でも本来は異なるものを、みんなを平均化することでまるで同じものであるかのように教育を施しています。最先端の教育ではダイバーシティやインクルージョンの重要性が叫ばれてきていますがその根底には「お互いを尊重し認め合う」という人間として当たり前のことに気づこうとする原点があるように私は思います。

もちろん公平に分けるということは大切ですが、平等とは受け手が平等を感じることが平等ですから公平に分けてもそれは平等ではないのです。平等とは私の言葉では「認め合う」ということです。国の違いを超えて、生物非生物の違いを超えて、当然、大小や貧富、男女、そうやって二元化して分けてきたものを超えて本来は一つではないかと気づくことが平和になるということです。

人間が争わないで生きていく道は、この三草二木のたとえの実践を行っていくしかないように私も思います。自然はみんな異なっているのは、お互いを認め合っているからです。姿形が違うものは、それぞれにそれぞれでいいところがありそれを互いに尊重するから共存共栄の社會が存在していくのです。

最後に、かつて中国を訪問した時に御縁をいただいた慈覚大師円仁の句で締めくくります。

「雲しきて 降る春雨は分かねども 秋の垣根は おのが色々」

それぞれに己の命を全うしていく、その姿に慈雲慈雨はいつまでもあまねく降り注ぐ、そこにどんな命の姿が出てくるだろうか・・・命はその慈愛の真心にいつも偉大な見守りを感じています。私たちが見守ることが大切なのは見守られていることを自分自身がいつも忘れないためでもあります。

子どもたちが多様多彩に自分らしくそれぞれの命を燃え盡すためにも、引き続きこの世の刷り込みを一つ一つ丁寧に取り払っていきたいと思います。見守る実践を心新たに深めていきたいと思います。

 

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

道中日記

中国の格言に「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる。50年、神の如し。」というものがあります。これは決心したことをそのままに継続ができるのなら、以上のようになりますよという事実が説かれているものです。

これは力の本質を語る言葉ですし、すべての偉大は日々の偉小の積み重ねにおいて行われることを語るものです。二宮尊徳に積小為大という言葉もあります。日々の進歩や進化、改善や探求や実践が時を経てそれがすべてを動かす力の源であるということです。その力の源は「楽しい」ということです。

物事は日々に深めていると次第にそれそのものが楽しくなってきます。楽しいと思えるように本気で楽しいことに取り組んでいると次第に発見が多くなりもっとそれを探求してそのものに辿り着きたいと思うようになります。好奇心とも言いますが、飽きっぽいものは決して好奇心というものではなくそれは単に知識欲が旺盛ということで本当の楽しみは同じものを見ても毎日同じに見えないという「変化」を楽しむことができるということです。

日々に実践していくとそれまで知らなかったこと、わからなかったこと、わかった気になっていたことに気づきます。「おお、そうだったのか!」と驚きまたそのことがもっと知りたくなってきます。知ることが楽しくなっていくのです。そうすれば単にわかることが目的ではなく、もっと本当のことが分かりたいというまるで自然の妙味や宇宙の真理にも近づいていくかのようにドラマが生まれワクワクドキドキが止まらなくなるのです。

好奇心というものは、人が道を求め道を歩むときに必ず隣に有るもののように私は思います。

二宮尊徳は「知れたることを知って行ふは聖人なり、知らざることを知れというは小人なり」という言葉を遺しています。なんでも即席栽培のように速成をしようとする昨今の風潮がありますが、本来はじっくり醸成し凡事を非凡に徹底することの真価を身近な大人たちが示していることが大切ではないかと私は思います。

一つの道を極めていくのは、長い年月が掛かります。言い換えれば長い年月を掛ける価値はその人の日々の進歩に懸っているとも言えます。大きな目標ばかりを追い求めては今やるべき目の前のことには心を籠めないでは本末転倒です。

一つひとつの頂いた機会を如何に活かすか、それはその人がどれだけ日々の実践を徹底しているかに由ります。水脈にあたるまで井戸を掘り続け、山になるまで土を盛り続けるように弛まず諦めない根気がいります。

しかしその夢が大きければ大きいほど、周りの人には馬鹿にされるような小さなことをやり続けることになるものです。そういう真実に対して愚直に実践するものを私も聖人と呼びます。いつまでも知ってもやろうとしない人たちが変わらないのです。

目指す頂は壮大でとても自分一代では不可能だと思えます。しかしそれでも人類を愛し、人間を信じるからこそ諦めたくないと思います。

このブログも私にとってはその進歩を遠方の朋と味わう工夫であり楽しさを弘める道中日記のようなものです。

引き続き子どもたちのためにも、自然の恩恵の中で感謝報恩で生きていく仕組みを時中に合わせて開発していきたいと思います。

 

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

時間をかける

人は何に時間をかけるかで何を信じているかというものが顕れてくるものです。私の会社も子どもの憧れる会社を目指そうとしていても、それが1年や2年で突然できたのではなく十数年も時間をかけてそれが実現してきています。

言い換えるのなら、時間をかけたことで実現したとも言えます。この時間をかけるというのは、時間が応援してくれたということでもあります。初心や信念は時間という支援のもとに醸成されていきます。

それは例えば、まるで酵母が発酵してお酒を醸成するように、まるで種から芽が出て木が大きくなり花が咲き実がつくように時間をかけることで実現するのです。今ができないからとか、今がそうでないからと嘆く前に、何に時間をかけるかをまず定めることが理想を実現するシンプルな方法だと感じます。

時間をかけるというのは、信じて待つということです。この信じて待つというのは、理想を諦めずにその理想に向かって実践を継続していくということです。なりたい自分やありたい自分、何のためにという本質に向かって自分自身が信じ続けるということです。

世間では信じるということがよく理解されておらず信じるか信じていないかと二元論で語られ信じるということの刷り込みに分からなくなってしまうようにも思います。この時間をかけることが信じて待つことであるということに気づけば、後は天にお任せして人事を盡すという心境になると思います。

時間をかけることの価値は、自分の力ではなく多くの御蔭様、また他力の有難さによて事が成就していくという真実に現実を合わせていくことのように私は思います。自然農でも自然発酵でも、伝統においても共通するのはすべてはこの「時間をかける」ということにおいて実現しています。

一度きりの人生だからこそこの時間をかけるという価値に気づく必要があると思います。便利に思い通りにいくことが最良だと思われている昨今において効果効率を優先する思考が根付いてしまえば時間短縮が価値のように思われていますが本来の豊かさや価値は時間をかける中にあります。

これからも時間をかけて信じて待つことを子どもたちに譲っていきたいと思います。

学問求道の背中

先日、ある人から「やっている仕事がすごく楽しい」と言われ天職に巡り合えてよかったですねと答えました。その人はもう数十年も歯科衛生士として勤めている方で、色々と学んでいるうちに様々な場所や先生とまた技術や人ともお話ができて嬉しいと仰っていました。私も以前、患者として関わった時に色々とお話をしましたが雰囲気や表情などに丸みが出ており以前より和やかに楽しく働いている様子に居心地がよくなりました。

人が自分が求めていることが深まっていくというのは、自分の道を深めているということです。どんな山に登るか、どのように川を渡るかはその人の決めた生き方が左右してきます。結果云々ではなく、その道の歩み方に人生の生き方があるように思います。今いるところを深掘っていく人はその道を深めていく人です。どんな境遇でどんな場所にあろうが、自分から学びその意味や価値を深める人は常にその場所で必要なことを学びそれを自他のお役に立てていくことができます。

吉田松陰が野山獄で獄中にあっても『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み囚人達は互いに教え、学び合い、まさに楽しい学舎になりました。これも同じく道を深めている人の傍はいつも学ぶ楽しみや悦び、仕合せに溢れています。しかし同時に、学問の道を志していない人や感化されない人は自分の境遇を自分で憐み、結局は何も学ぼうとしません。獄中に吉田松陰があっても学ぼうとしない人もまた多くあったかもしれません。

通常であれば自分の境遇に嘆き心が腐るところをこういう境遇こそが自分を磨くという発想の転換ができるのは、吉田松陰は生きた学問をしていたからと言えます。王陽明による事上錬磨、また知行合一もまた体験こそを学びにして深く味わい意味をつけていくという実践を怠らない、つまりは本物の学問を志したからでしょう。

知識だけで学んだ気になっているのは学問をしているのではなく、学識をただ蓄えているだけです。至誠と実行というのは、理屈ばかりに人間になるのではなく世の中を動かす人物になれということです。

今では就職活動などもそうですが、就職することが目的になり、もしくはキャリアだけが目標になり、自分にマッチングするかで転職する人が増えているように思います。転職ではなく天職を全うするような生き方を示す大人も先輩もまた減ってきているのかもしれません。

若い人が自分の人生を迷わないように、私の尊敬するメンターのように学問を求道する背中を子どもたちに見せていきたいと思います。今いるところにこそ本当の先生があり、今いるところの足元の深いところに真実があることを自らの実践と内省により伝道していければと思います。

 

地球の一部

当たり前のことですが私たちは地球の一部であり、人間だけが地球から離れている存在ではありません。地球を守るとか言いますが、それは刷り込みでおこがましく本来は地球に守られているのが私たちの存在です。

気候変動やマグマの活動、地震活動や海流の変化はすべて地球の生成によって行われます。いくら原子力があろうが、宇宙船をつくろうが、そんなものは地球規模の活動においてはまったく意味をなしません。人間は地球から離れて地球の一部であることを忘れれば忘れるほどにごう慢になってきます。

例えば、絶滅種を守ろうとかエコ活動をしようとかいいますがどれも人間都合で考えられるものです。本来の地球の一部として謙虚にいるのなら、御蔭様に感謝しつつ畏敬の念をもって地球の一部として暮らしていくものです。

この先、どのようなことが起きるとしても地球の一部であればまた時間が経てば再生して地球と共に変化成長を続けていきますがそこから離れているのであれば再生することはありません。

私たちは生き死にをゴールだと設定しようとしますが、本来は継続していくことにゴールを設定しなければなりません。それは人間や自分を中心にするのではなく、地球の一部であることを謙虚に受け止めているからです。

長い目で観た時、私たちの存在は一瞬です。その一瞬を生き延びようとすることが大事なことではなく、永遠に生きるために如何に地球と共に発展していくか、地球と一緒一体に暮らしていくか、その適応を求めていく必要があります。多様性も然り、協調性も然り、全ては地球の一部として存在するための叡智なのです。

人間だけが世界でもなく、人間の生きているところだけが全てではない。いくら火星にいこうが月にいこうが、そこから地球を観れば自分たちが地球から離れることができないことを人類はただ悟るだけです。

地球というものと一緒に歩もうとするものには、心の安らぎと魂の救済があるように私は思います。引き続き、先々のことを予見しつつ今はただ磨くことのみですがその生き方を未来のために定めていきたいと思います。

伝主伝道

人は心を感じる生き物です。たとえばあるものを購入する時でも、それを誰から購入したいかというものがあります。どんな人がどんな思いで取り扱っているのか、その心を感じているとも言えます。その心を心のままに思いを合わせて伝えてくださるとき、人は心が感動するように思います。

先日も、畳を生産する人の心を畳を加工していく人がしっかりと受け止めてその心を合わせてそのものの思いを伝えてくださいました。するとその畳には思いが詰まっており、今でもその畳はキラキラと家の中を照らしています。これは何が照らされているのかといえば、その心によって空間を照らしているのです。

人の思いというものは、目には観えませんが思いや物語の中にいつまでも遺っています。何を買うかも大切ですが、誰から買うかというものはもっと大切なものです。何をするかも大切ですが、どのような思いであるかはもっと大切なのです。

ただそのものの商品説明を聞いても心は入ってきませんし、その人が思いを汲むことができない人であれば物語は生まれてきません。物語を聴いて感動するのが人間ですから、何よりも伝えることはその心の方なのです。

心が伝わると人は一生それを忘れません。また思いが入っていることを知れば、いつまでもその思いが残存していることに気づけます。心や思いが入るからこそ、自分の一挙手一投足に真心を籠める必要があるのです。電話一つ、挨拶一つ、おもてなし一つ、お祈りひとつ、そのものに心と思いを入れるのです。

心や思いはつながり、ご縁の中に確かに弘がっていきますからその伝播が伝承を育て子孫へと生き方が伝承されていきます。常に自分が伝主であることを忘れずに、心と思いをしっかりと感じて伝道していきたいと思います。

生業生成~本物の仕事~

生業という言葉があります。これは「なりわい」や「せいぎょう」とも呼ばれます。生活を営むための仕事という意味でもあり、暮らしをするためのものとも言えます。

今ではあまり使われなくなったこの生業という言葉ですが、とても大切な価値を持っています。世間では一括りに仕事といい、就職と書いて職に就くといいます。そのうちプライベートと仕事を分け、本来分かれていなかったはずの人間の暮らしが消失していくのは残念なことです。

この生業というものを改めて定義し深めてみようと思います。

そもそも生業というものは、自然におけるあらゆる生き物たちはすべて持っているものです。さらにいうのなら、地球の活動は生業の中心とも言えます。その地球の活動は、マグマの活動や気候変動、宇宙との調和にいたるまで休むことはありません。

そして自然では、その地球の生成と共に生き物たちも一緒一体になって生成を已みません。私たちの身体はその宇宙や地球の一部として機能しており、生きていくためには自然と共生していかなければ生きていくことすらもできません。たとえ地球をロケットで脱出しても私たちは地球の営みで行われた食べ物や着物、道具を使わなければ宇宙に存在していくこともできません。つまりはそれが生業(生成)というものです。

生業を勘違いしてただ生活のためで価値が低く、仕事は世の中のためで価値が高いということを言う人がいますがそれは刷り込みだと私は思います。生活とはすべての生物たちの根本でありもっとも尊いものです。いのちが生まれて死ぬまでに私たちは生成を已みません。その生成をどのように行っていくか、それは自然に沿って暮らしていく人と、自然から離れてしまい暮らしを亡くしていく人がいるだけです。

私たちはこの暮らしを通して生成されているのだから、もっとも大切なのはその生業生成をどのように生きていくか、つまり生き方と働き方は分けることなど不可能なのだから暮らしを通して自分たちがどのような仕事をしていくかの両輪をちゃんと組み立てなければならないのです。

私は会社生活において様々な暮らしの実践を行いつつ、遊んでいるように働いているといわれますが本来、暮らしとは自然に寄り添いながら文化を味わいその生成を活かし続けることにあると私は思います。私たちは生業の背景にある生き物たちの生成の御蔭様をいただいて生きて活かされていることを決して忘れてはなりません。

そしてこの生業のことを私は神業と定義しています。

この奇跡のような日々の中でどのように生き活かされていくか、それは本来の生業にどれだけ自然から学び直し近づいていくかによります。引き続き、自然淘汰の中で遺る文化と寄り添い、自然農や自然養鶏、様々な自然との暮らしを味わい、自然生業のなせる神業に近づいて本来の仕事、本物の仕事を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

本物の佇まい

本物には本物だけが持つ佇まいというものがあります。例えば、自然物でそのいのちが壊れないように丁寧に丹精を籠めたものはそれを手に持つと独特の佇まいが出てきます。他にも、神社仏閣であっても古来からの技術や祭祀をそのままに守り徹底して厳修されているものにもまた独自の佇まいが出てきます。

この本物が持つ佇まいとは何かということです。

例えば物事には本質というものがあります。何のためにそれをするのか、なんでそうなるのかということを透徹するまで磨き上げその本質に辿り着くとします。それを守るためにありとあらゆる手間暇と真心を込めていくと自然にあったかのような雰囲気が出てきます。そこに人工的なものがなく、まるで自然のものになるのです。言い換えるのなら無心であるそのものが顕れます。

こういうものは我が入っておらず本質そのものになっています。本物というものはこういう佇まいを放つのです。つまりは本質や本物には人間の我や慾をどれだけそぎ落とされたものであるか、どれだけ純粋であるかということと同じであるのです。

人は知識を持てば、その知識によってある程度のところを狙っては妥協していくものです。もしくは自分のことを中心にその知識や認識で考えているうちに自然から遠ざかってしまうものです。自然とは何かすらわからない状態では、本物が何かも分からないのです。

自然物というものは誰がつくったのか、それは自然にできたものです。誰かがではなく、自然の御蔭で出来上がっているのです。そういう御蔭様をもって自然に本物は顕現します。

自然の力を引き出すのも、自分の持ち味を引き出すのも、その中心には何のためという本質に由ることが本物であることです。本物の佇まいとはつまり自然体であるということです。

引き続き、自然と本物を深めて近づいていきたいと思います。