手間暇とプロセス~本物とは何か~

現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。

引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。

 

自分磨き

先日、いつもお世話になっている恩人の方々と一緒に古い木製品や古鉄の道具の手入れを行う機会がありました。蜜蝋や椿油を用い、一つひとつを磨いていくのですがそのものを磨くうちに無心になってきます。この無心とは何か、それは考えなくなるということです。考えなくなるというのは空っぽになること、それまでの知識や教養などを用いずにそのものと一体になっていくということです。

磨くという行為は、それまでの刷り込みや知識を捨て去っていくことに似ています。分類分けされた知識は、複雑だったものを単純にしましたが実際には自然と同じように複雑ではないものは何一つありません。天気一つとってみても、今は天気、曇り、雨、などで分類しますが一日とて同じ天候の日はありません。複雑に変化している気候を観るのは知識分類知を用いず、無心になって触れてみるしかないのです。

そして一緒に磨く面白さは心が通じ合うところにあります。一人で無心になるのも楽しいことですが、一緒に無心になるのはかえって考えない空っぽのところに自分たちを置き、その中で感じることを語り合いますから居心地がいいのです。

暮らしの中で共に生きるうちにお互いの本心に触れ合う気がして、その合間の寛ぎが心地いいのです。

人間は心を用いていくことで頭で考えてしまう知識を離れていきます。今は知識を用いてから心を使おうとしますが本来はそんなことはできるはずがありません。それは心ではなく知識なのです。心を使うのは、まず心を用いてそれに知識がついてくるのです。頭で考えた心配などなく、頭で考えた配慮などもなく、頭で考えた共感などはないのです。

だからこそ、心を用いる作業を一緒にやりながらその心を磨いていくことは感謝で生きてきた先祖との触れ合いになります。特に手作りで大切に扱われ、時代を越えて経年変化を続けている道具を触るとその時代から心を用いて大切に扱われてきた道具と人との関係性に触れます。道具によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで道具が磨かれるのです。

手入れというのは、頭入れとはいわないのはまずは手間暇をかけること、その労力と時間を用いることで心が入るということです。自分が労力をかけて苦労することが何よりも自分磨きになります。

引き続き、磨く仕合せ磨く喜びを体験しながらまた一緒に磨いてみたいと思います。

素直の能力

色々なご縁を辿っていると、あの出会いがまさかこうなるとはと人は感じるものです。その時、分からなかったことが後々に自明してくる、まさにご縁は縦横無尽に時を超越して結ばれてきます。

人が人と出会うのは、果たして自分の意思だったのかそれとも自然にそうなったのかと考えてみると私は後者の自然にそうなったのではないかと思います。これを天命といいます。

人は誰にしろ天命があり、その人の使命や定めというものがあります。その宿命はその人のいのちに決まっていますがそれをどのように感じるか、それをどのように味わうかはその人の選択になります。

素直に生きていく人はみんな自分は運が善かったと言います。これは来たものを受け容れてそれを感謝で味わっていく能力が高いということです。素直の能力とは、訪れたご縁に対して素直に謙虚で生きていく才能というものです。

その才能はどのように伸ばし磨くのか、それは日々に発生するご縁に対してどれだけ真摯に反省し、一つひとつを学び直していくかということです。直すというのは磨くということです。人格を磨いていくのは自分の間違いに気づき、その間違いを直していくということです。そして判断基準は自己を中心にするのではなく、いただいたご縁に感謝することを中心にしてもしも自分に感謝が足りず間違っている姿勢があればそれを素に直すということです。素は人間はみんな正直です。その正直な自分でいられるように人は感謝を学び謙虚を実践するのでしょう。

人は磨かれていくことで研ぎ澄まされ天命がはっきりと観えてくるように思います。日々の出来事の受け止め方、受け取り方こそがその人の素直の能力なのでしょう。

引き続きご縁を大切に、日々の学び直しを深めていこうと思います。

自信と誇りを持つということ

人が自信を持つというのは自発的に主体的に自ら何かを行ったときのみ得られるものです。他人からやらされたり、させられていると思ってやっていたりしても自信が持てないことはすぐにわかります。自分の力とは何か、それは自分の中の情熱を使って取り組むことですから人からの熱を利用していつもやっていたらそのうち自分の力を出さなくてもできることに慣れてしまうものです。

炭の実践をしていたらすぐにわかるのですが、炭には自燃性、可燃性、他燃性、不燃性があります。自燃性は、こちらがなにもしなくても少し火が入れば自ら燃え続けて燃え尽きるまできれいに燃え続けることができます。よく良質な炭というのは素直で密度の濃いこういう炭のことを言います。そして可燃性は、すぐに燃えはするけれどこちらが息を吹きかけなければ燃え続けることができなくなっていきます。その次の他燃性は、周りに燃えている炭がありその燃え続けている炭の火力があれば燃えることができるというものです。しかし燃えている炭から離してしまうとすぐに消えてしまいます。最後は不燃性、これはもう何をしても燃えることがありませんし無理に燃やしても周りの炭の力を全部奪い取ってしまいます。

これは炭だけのことを言っているのではなく、人間でも同じことが言えるといいます。人間には心に「熱」があります。それは熱量、情熱とも言います。この情熱をどれだけ燃やすことができるか。これはいのちを燃やすことも同じです。自分の決めた生き方を貫き、燃え尽きるまで一期一会に一日一生を生き切っていく。そういう自然性の人は周りの人たちを燃やしていきます。

そこで何よりも大切なのはこの自然性、つまりは自発性がいるということです。どんなに最初の炭が自然性があったとしても、一本の炭だけが燃えても周りがまったく燃えなければお湯を沸かすこともできません。だからこそみんながそれぞれに自分の炭を自分で燃やしてくれるからこそその火が集まって大きな熱量を発揮して物事を変えていくのです。

そのためには自分から動いて自分から燃えて自分から自発的に進んで様々なことに関わっていく必要があります。誰かから言われようがさせられようが、「自分がそうしたかったから」と自分からやっている人は自ずから自信と誇りに漲ります。良質な炭(人)はいつも自分から良質な炭になるために苦労を惜しまず燃え続けています。

人間のいのちや情熱は、自らが燃やすからこそ輝きますしその燃料は無限の如く体の奥から湧き上がってきます。毎日燃え尽きれば、翌日にはまた良質の炭が自分の中から産出されていきます。まるで石炭のヤマを掘り当てたように、真摯に自分の人生を言い訳もせず愚痴も言わず全身全霊で命がけで生き切るときその燃える原石を手にするのです。そしてそうして自分から生き切った後に遺るのが誇りなのです。

炭を使いこの聴福庵を実践する大切な理由の一つはこの筑豊という風土、炭鉱がぴったりと合う情熱的な人間性、その自然性。この地域の持ち味を活かすためにも炭を用いるのです。

いまいちど地域の心と誇りを取り戻すために自ら燃えて心熱くいたいと思います。

心の潤い~暮らしの中の仕事~

昨日、パートナーとして一緒に理念に取り組んでいる熊本の保育園に訪問する機会がありました。昨年のことを振り返りつつお互いの理念の実践を確認しあうことができました。

ここの保育園では「子どもたちの心のふるさと」を理念に掲げていますから新年から子どもたちと一緒に餅つきや門松作り、また獅子舞、また手漉き和紙を用いた年賀はがきの作成など数々の実践を楽しそうに行っていました。着実に目的に向かって一つ一つの実践を全員で積み重ねていく様子に大変嬉しくもあり、有難い気持ちになりました。

最近では、餅つきは不衛生だと禁止になり、除夜の鐘はうるさいからと昼間になり、歩きながら本を読むのは危ないから二宮金次郎の像を座らせたり撤去したり、お祭りは宗教勧誘だからと中止になり、祭祀や神事は人間都合で変更され、挨拶は不審者だから気を付けろと教え、その他言い出せばキリがないほど本質的ではない改造が行われ、様々なかつてからの日本の文化もまるで価値がないものに変わってきています。

かつては祖父母と一緒に暮らしていく中で子どもの頃よりその後ろ姿の実践から自然に学んでいました。毎朝早起きをして仏壇や神棚を拝み、掃き掃除や拭き掃除をして挨拶をし、家族で味噌汁とご飯を一緒に食べていました。感謝することを第一に、素直に謙虚に自然に暮らしを通して私たちは日本文化を伝承されていきましたが今ではその暮らしの伝承があちこちで途切れてきています。

子どもたちが暮らしから遠ざかるのは、その周囲の大人たちが暮らしを豊かに味わうことを忘れてしまってきたからです。日々にお金ばかりを気にして、時間に管理されギリギリいっぱいに結果に終始し膨大な作業に没頭してその本当の味わい深さや豊かさを感じる余裕が失われてきているからです。

それは単に仕事量を減らせばいいのではなく、本来の暮らしをしなければ取り戻すことはできないと私は思います。その暮らしとは、日本の生活文化のことです。私たちカグヤでは日本の伝統芸能や伝統文化を深めて実践するクルーたちが増えたことで日々の生活に「潤い」が出てきています。その潤いは「心の潤い」で、日々の生活の中に喜びや仕合せ、楽しさや感謝がどんどん増えていく豊かさが感じられていくということです。

この潤いがある仕事というのは、人々の心を豊かにしていく仕事になっていきます。人は何のために仕事のするのか、人類は日々に仕合せに暮らすために今まで苦労しても楽しく仕事をして生き残ってきたはずです。だからこそこの生活や暮らしの潤いが増えていくということは、それだけ真に皆で豊かな社會を創造したということになります。

取り組んでいる室礼の実践一つをとっても、日々の小さく大きな豊かさを感謝と共に暮らしに飾ります。するとその飾る室礼を見た人たちに心の潤いが伝わりよりお互いに心が瑞々しく若返っていくのです。

忙しい忙しいと自分のことばかりに忙殺されていく中で本当に失っているものは暮らしの豊かさの方なのです。だからこそ私は子どもたちが大人になった時に、暮らしのない世の中にならないようにと祈り願い、子どもたちの周囲にいる大人たちへと実践を弘めるために学び直し新たな仕事を開発しているのです。

もちろん仕事か暮らしかというわけではなく、暮らしの中に仕事があるのだから豊かな人が仕事をしていくと潤いがある質の高い仕事になるのです。その日々の心を籠めた丁寧で丹精を入れたものが本来の仕事の意味になり大切なお仕事になると思っているのです。

玄米クッキーをつくって持っていくご挨拶も、お手紙を書いてお渡しする写真も、手間暇かけて漬けたお漬物をお贈りするのもすべてはこの「心の潤い」を結びお届けするためです。

引き続き、何が大切で何を守るかの優先順位を間違えないように忙しくても忙しくしない、忙しくても豊かさは身近にあるように心を磨き、実践を深め、ニコニコ顔で命がけの真剣勝負の日々を楽しんでいきたいと思います。

竹と日本の心

日本の伝統家屋を深めていると必ず「竹」に辿り着きます。かつての伝統家屋を分解すれば床材から壁、天井、簾、あらゆるところに竹が使われているのを発見するからです。また、かごやざる、花器などの日用品から玩具だけでなく、日本文化を代表する茶道や華道の道具、笛や尺八などの楽器、竹刀や弓などの武道具などに用いられ常に日本の暮らしに欠かせないものになっています。

世界には1300種類ほどの竹があり、その中で日本には約600種類の竹が存在しています。竹取物語でかぐや姫が竹の中から出てきた話がありますが、生命力が強く神秘的な竹に古代の先祖たちは不思議な植物として崇め奉ってきました。竹を用いた祭事や神事が多いこともそのためだと言われます。

京都大学農学部教授であり「世界の竹博士」と呼ばれた上田弘一郎氏が「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ」 という言葉を遺しています。確かに植物や樹木などとは分類できない「竹」という存在に改めて私も魅力を感じます。

日本人はこの竹をこよなく愛し、竹と共に歩んできた民族です。最初の竹は縄文遺跡の中からも土器の模様などで見つかっているといいますから、如何に古代より竹が暮らしの中で重要な役割を果たしてきたのかがわかります。近年はその竹の存在があまり感じられなくなり、竹林も野放しになり日本の美しい風景を彩る竹林も消失されてきているように思うのは本当に寂しく残念なことです。

著書『日本事物誌』の中でチェンバレンは「竹のない日本人の生活は、バターを使わない練子菓子の如く、明るい部分のない風景画の如く、一言も不平をいわぬ英国人の如く、ほとんど想像のできない、ということを述べるだけで充分であろう。」といいます。

竹は常に日本人の身近にあって暮らしの中心だったということを思えばまさに竹こそ日本の文化の中心だったのではないかと私には感じます。それに私が竹に惹かれるのは、その竹の存在が日本史の歴史の中でずっと私たちの暮らしを助けてくれてきたことです。笹も枝も竹皮も、それに筍、根、竹稈にいたるまで竹は無駄なところは一切なく日本の風土とぴったり合わさり私たち日本人と共に歩んできた人生のパートナーでした。

この人生のパートナーの存在を忘れることは、私たちの身体をつくってくださってきた稲の存在を忘れることと同じくらい大事なことです。今まで私たちが生き残ってきた手段を失い、今まで共に助け合ってきた存在をなおざりにするということに非常な危機感を私は感じます。子どもたちに譲り遺していく存在を私たちの先祖が大事にしたように私たちも大事にしなければ生き残れないのです。私は稲と同じくらいこの竹を大切にしたいと思うのです。

引き続き今年は竹を深めて、日本人の心を探ってみたいと思います。

 

 

人類の叡智

昨日は、社内で今年初めの「磨き初め」を行いました。年始に今年自分が深めていくテーマを漢字一文字に託し、それを一枚の貝に刻み、紙やすりで磨き光らせるという実践です。今年は磨き合いといって、仲間と一緒に手を取り合って手のひらにのせて貝を磨き合うということも行いました。

相手の手をお借りして磨き合う、その後は相手の貝を自分が代わりに磨き合う、その一つ一つのプロセスはとても豊かで助け合い生きていく人間本来の姿を現しているようで仕合せな磨き初めができました。

私たち人間は本来、自然の中で生き残るためには協働しなければここまで生き残ることはできませんでした。弱肉強食というのは人間の刷り込みであり、本来、自然では生き残るものが強者であって力が強いものが強者ではありません。生き残るためには、お互いに助け合わなければ生きてはいけなかったのです。

今の時代は個人主義が蔓延し、税金を払えば国の社会制度によって守られるため協働しなくても個人で生きていけると勘違いしやすい世の中です。しかし人は決して一人では生きられず、誰かの助け、言い換えるのなら多くの人々の御蔭様によってはじめて生き残ることができます。

そして人間は我慾によって利己的になりますから、それぞれで己を磨き利他的になっていくことで生き残る力を守ってきたとも言えます。これは単に何かをやすりで磨けばいいということではありません。

仲間とつながり分かち合い助け合う能力を磨くということが、本来の「磨く」ということなのです。

あげるからもらうへ、もらうからあげるへ、御蔭様とお互い様に生きていく、、、これを二宮尊徳は推譲と分度という言い方をしました。本来の人間らしく生きていくためにも、お互いの絆を深めていくために思いやりの社會を実践していくこと、それは「つながる」チカラを守り続ける人類の叡智です。

そのつながり続けていくためにお互いが磨き合うのが叡智そのものなのです。だからこそ私たち人間は、仲間との絆を守って助け合って共存共栄する互恵恩徳社會であったことを忘れずにその叡智であった人類のことを信じ切っていることが何よりも肝心なのです。人類はそうやっていままで生き延びたのだからまたそうなるのは揺るがないというのは自明の理だからです。

引き続き、磨くことを通して「徳」を高めていけるようこの一年もまた精進していきたいと思います。

士魂商才~日本人の真心~

士魂商才という言葉があります。これは簡単に言えば武士の 精神と商人の才能を兼備することと言われます。かつて明治維新後、または戦後には侍のような商人がたくさん排出されました。いや商人に限らず、侍のような人物たちが各分野でそれぞれに志を立てて命がけで取り組んでくださったから今の日本はあるとも言えます。

私たちはその民族の血の中に、その士魂という誇りを持っています。日本的な精神とは、仁義礼智信を重んじ自反慎独していのちを懸けて理想のために生きる道です。つまりは生き方を大事にしていくというところに武士道があります。

今では生き方というよりも損得や利害ばかりを優先して、自分を守るばかりで自分以上に大切なもののために命を懸けるということもなくなってきているように思います。世界から尊敬される日本的な美しい生き方は、目に見えないすべてのいのちに対して感謝のままに恩返しをしていこうという真心の生きざまです。

士魂商才と言えば、出光興産の創業者出光佐三にこういう言葉が遺っています。

「生活を質素にしたり、われわれが経費を節約するというようなことは金を尊重することで、奴隷になることではない。それからまた、合理的に社会・国家のために事業を経営してそして、合理的に利益をあげる。これは金を尊重することだ。しかしながら、昔の商人のように人に迷惑かけようが、社会に迷惑かけようが、金を儲けりゃいい。これは金の奴隷である。それを私はとらなかった。
しかし、私は金を尊重する。昔の侍が金を尊重することを知っておったならば私の先生が私に書いてくださった額にあるように士魂商才 侍の魂を持って商売人の才を発揮せよ。この士魂商才が武士によって発揮されて日本の産業は、明治時代に外国のいいところを採り入れて、りっぱな事業家がたくさん出たと思うのです。 」

商人には利の道というものがあります。言い換えるのならどのように稼ぐのかに志が必要です。世の中が道徳的な経済が豊かになるようにその事業の在り方に徹底した哲学と理想の実践が求められます。それが相まってこそ侍の精神のままに生き方を貫いた日本人らしい生きざまが出てくるようにも思うのです。

人としてどうあるべきかという問いは、古来より私たちが当たり前に持っていた自然的な思想です。その自然的思想は、呼吸をするように、ご飯を食べるように、寝ることのように当たり前に私たちはそれを日常の暮らしの中で大切にしてきた民族です。

真心という言葉は、頭で行うものではなく生き方で証明するものです。

子どもたちに遺して譲りたいものとして、この士魂商才は何が何でも死守したいと思います。引き続き、今年の方針を見つめながら理念の実践を厚くしていきたいと思います。

心の友

人間は理想を掲げ純粋な心を守ろうと生きていけば様々な苦労が訪れるものです。流されて生きていくことを選ばずに本質を守り続けて生きようとすれば心は疲れます。しかしそんな時、道の途中で同じ志の戦友に出会い語り合えることは仕合せなことです。

純粋な心を亡くさないようにと心を守る守り人は、必ず志と伴にあり時折その苦労を分かち合う人たちとの出会いで勇気をいただき元気になるものです。私はこういう人のことを心の友と呼びます。

心の友と言えば、五輪真弓さんという歌手の詩があります。

「あなたから苦しみを奪えたその時
私にも生きてゆく勇気が湧いてくる
あなたと出会うまでは孤独なさすらい人
その手のぬくもりを 感じさせて」

同じ苦しみや分かってもらえていない本当の心や本心をわかってもらえる存在に巡り合えるというのは勇気が出てきます。人はみんな自分の本心を自分で守り続けてきました。それを守り通せる人たちは少なく、傷つくことを恐れては周囲に迎合したり周りを卑下したり自分が割り切ったりして自分らしくいることを諦めてしまうものです。

しかし本当の心には嘘はつけませんから、それを信念をもって守る時、人は周囲の誤解を受けたりします。その周囲の誤解があってもこだわりが強いと嫌煙されてもそれでも自分の信念を守ろうとするとき、心の友が顕れるのです。同じように心を守り続ける仲間は、唯一無二の友だちです。一生一笑の友達ができるというのは、道を歩んでいるからこそ顕れます。私の場合、子ども心を守っている人たちはみんな大切な「心の友」です。そんな心の友たちの子守歌(ララバイ)の続きです。

「愛はいつもララバイ
旅に疲れた時
ただ心の友と
私を呼んで

信じあう心さえどこかに忘れて
人は何故 過ぎた日の幸せ追いかける
静かにまぶた閉じて心のドアを開き
私をつかんだら 涙ふいて

愛はいつもララバイ
あなたが弱い時
ただ心の友と
私を呼んで

愛はいつもララバイ
旅に疲れた時
ただ心の友と
私を呼んで 」

心の友との出会いが旅を美しく明るく幸福を豊かにします。出会いや御縁が人生そのものを彩りますから、心の友はその美しい風景の大切な時めきです。引き続き、信念を見守り育て自分のやるべきことを自分のあるべき場所で遣り切っていきたいと思います。

野聖の道

二宮尊徳の道を深めていると如何に天地の経文を読み解き、その自然から学びそれを人類の救済のために活かそうとしたかという姿に畏敬の念を感じます。人にして人にあらず、まさに自然と一体になって実地実行の真心を盡す姿勢には聖人の気配を感じます。

私が尊敬する生き方もまたこの野聖であり、天地自然そのものと対話し本来の道を求め極めていくことです。その足跡が遺っていることに、有り難さと誇りを感じます。二宮尊徳は至誠と実行ということを何よりも重んじました。

「人生れて学ばざれば生れざると同じ 学んで道を知らざれば学ばざると同じ 知って行うこと能はざれば知らざると同じ 故に人たるもの必ず学ばざるべからず 学をなすもの必ず道を知らざるべからず 道を知るもの必ず行はざるべからず」

人は生まれても深めようとしないのでは生まれていないのと同じであり、深めても実践しなければ深めていないのと同じ。わかったからといっても、それを活かそうとしないようでは分かった気になっているだけで何の役にも立たないから人は必ず深めたことを実行しなければならない。そうやって真心で実行するものは道がわからないはずはない、だからこそ道が分かる人は必ず実地実行を已まないのである。

深めて実行すること、それを活かすこと、常にそれが学問であり道であるというのはそれが天地自然の理だからです。間違った学問は知識だけを増やし認識だけができても現実が何も変わるわけではありません。自分が知って気づいたのならば、それをすぐに行動に移して世の中に一つでも貢献していくために実行するのが本物の学問なのです。

天地の経文は嘘がなく、自然は素直そのものですから如何に謙虚にそこから学ぶかはその人の生き方に由るのです。

西郷隆盛は二宮尊徳を評して「尊徳に師なし。彼れは全てを活用して学んだのであって、故に彼の為したる事績は尽く活きたる学問である。いわゆる学問を活かして実際に応用したる人なり」といいました。

二宮尊徳にとっての師は、道そのものであり自然に発生するご縁から学びそれを活かしたということです。だからこそ二宮尊徳の遺したものはすべて活きた学問になっている。それを応用して人々を救済しているからこそ二宮尊徳は野聖なのです。

来たものを選ばずに活かそうとしても道はまだまだ遠大です。引き続き、日々の実地実行を怠らず精進していこうと思います。