私の郷里、筑豊で育った人物に高倉健がいます。 高倉健のお父さんは炭鉱王・伊藤伝右衛門がつくった筑豊地場の炭鉱会社大正鉱業の労務課長でした。その当時の炭鉱の荒くれものたちとの調整役だったそうで、あの任侠の雰囲気はそのお父さん譲りだったのでしょう。
現在、古民家甦生でお世話になっている大工の棟梁も高倉健のことを大変尊敬しています。筑豊の川筋育ちの人たちは、その「筋を通す」生き方を貫く高倉健を風土の体現者として慕っている人が多いように思います。筋を通すとは、私の言葉では理念を優先するということです。その場その場の善し悪しを自分中心に仕分けるのではなく、理念や初心、志や生き方を優先して自分らしく自然体で居続けるということです。これは頑固ではできず、柔軟性が必要になります。私の尊敬するメンターもみんな同じように理念は守るけれどそれ以外のことはほとんど柔軟に対応する方々です。
これぞという大切なものを守るために全てを注力する、それだけは曲げないということが筋を通すということです。自分がどんなにみじめあろうが情けなくあろうが、大事な本質だけは譲らないという人間の美しさがあります。
高倉健がかっこいいのは、単に演技だけではなくその生き方から薫ってくるその生きざまかもしれません。高倉健から志を奪うことは誰にもできないという感じがします。この志を貫く生き方が美しいと感じるのは、維新の志士に限らず大義に生きた歴史上の人々はみんな同じです。
その高倉健の遺した言葉には、その筑豊の川筋気質の根幹があるように思います。
『何をやったかではなく、何のためにそれをやったかである。今それが大切に思えてきている。』
何をやったかではなく何のためにやっているか、それが大事である。まさに筋を通す本質が語られた言葉のように思います。その他にも、
「一番大事な自分より、大事に思える人がいる。不思議ですね、人間って。」
「人が心に想うことは、誰も止めることはできない」
「人間が人間のことを想う、これ以上に美しいものはない。」
人間の精神を観て生き方を見つめた方だったことも分かります。また自分に厳しく己に克つ実践もされていたことが言葉から伝わります。
「何色でもできますっていうカメレオンは、真の役者にはなれないんだよね。」
「僕の中に法律があるとしたらおふくろだよね。「恥ずかしいことしなさんなよ、あんた」って、いつもそればっかりですよね。」
「スタッフや共演の方たちが寒い思いをしているのに、自分だけ、のんびりと火にあたっているわけにはいかない。」
「人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ。」
自分は器用ではないという高倉健さんが、その不器用であるということの本質を語るのはそれだけ真摯に自分の信念や初心に生きようとしたからです。不器用さというのは、自分を持っているということであり、自分が何のために生きるのかということを最期まで遣り切ろうと覚悟があったからだと私は思います。
私は言葉はその人の生きざまと必ずセットではじめて輝くことを高倉健さんの後ろ姿から学びました。このブログの最後はこの言葉で締めくくりたいと思います。
『人生で大事なものはたったひとつ。心です。』
心を守る生き方を子どもたちに譲っていければとても仕合せなことだと思います。真の豊かさは心の中にこそあります。心を醸成していけるように日々に真摯に正対し理念を優先して生き切っていきたいと思います。