たった一つ

私の郷里、筑豊で育った人物に高倉健がいます。 高倉健のお父さんは炭鉱王・伊藤伝右衛門がつくった筑豊地場の炭鉱会社大正鉱業の労務課長でした。その当時の炭鉱の荒くれものたちとの調整役だったそうで、あの任侠の雰囲気はそのお父さん譲りだったのでしょう。

現在、古民家甦生でお世話になっている大工の棟梁も高倉健のことを大変尊敬しています。筑豊の川筋育ちの人たちは、その「筋を通す」生き方を貫く高倉健を風土の体現者として慕っている人が多いように思います。筋を通すとは、私の言葉では理念を優先するということです。その場その場の善し悪しを自分中心に仕分けるのではなく、理念や初心、志や生き方を優先して自分らしく自然体で居続けるということです。これは頑固ではできず、柔軟性が必要になります。私の尊敬するメンターもみんな同じように理念は守るけれどそれ以外のことはほとんど柔軟に対応する方々です。

これぞという大切なものを守るために全てを注力する、それだけは曲げないということが筋を通すということです。自分がどんなにみじめあろうが情けなくあろうが、大事な本質だけは譲らないという人間の美しさがあります。

高倉健がかっこいいのは、単に演技だけではなくその生き方から薫ってくるその生きざまかもしれません。高倉健から志を奪うことは誰にもできないという感じがします。この志を貫く生き方が美しいと感じるのは、維新の志士に限らず大義に生きた歴史上の人々はみんな同じです。

その高倉健の遺した言葉には、その筑豊の川筋気質の根幹があるように思います。

『何をやったかではなく、何のためにそれをやったかである。今それが大切に思えてきている。』

何をやったかではなく何のためにやっているか、それが大事である。まさに筋を通す本質が語られた言葉のように思います。その他にも、

「一番大事な自分より、大事に思える人がいる。不思議ですね、人間って。」

「人が心に想うことは、誰も止めることはできない」

「人間が人間のことを想う、これ以上に美しいものはない。」

人間の精神を観て生き方を見つめた方だったことも分かります。また自分に厳しく己に克つ実践もされていたことが言葉から伝わります。

「何色でもできますっていうカメレオンは、真の役者にはなれないんだよね。」

「僕の中に法律があるとしたらおふくろだよね。「恥ずかしいことしなさんなよ、あんた」って、いつもそればっかりですよね。」

「スタッフや共演の方たちが寒い思いをしているのに、自分だけ、のんびりと火にあたっているわけにはいかない。」

「人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ。」

自分は器用ではないという高倉健さんが、その不器用であるということの本質を語るのはそれだけ真摯に自分の信念や初心に生きようとしたからです。不器用さというのは、自分を持っているということであり、自分が何のために生きるのかということを最期まで遣り切ろうと覚悟があったからだと私は思います。

私は言葉はその人の生きざまと必ずセットではじめて輝くことを高倉健さんの後ろ姿から学びました。このブログの最後はこの言葉で締めくくりたいと思います。

『人生で大事なものはたったひとつ。心です。』

心を守る生き方を子どもたちに譲っていければとても仕合せなことだと思います。真の豊かさは心の中にこそあります。心を醸成していけるように日々に真摯に正対し理念を優先して生き切っていきたいと思います。

 

安心する環境

先日、自然農の畑で高菜の移植作業を行いました。今年は種蒔きから虫の問題、猪の問題、天候の問題など色々と大変でした。無事に育ってくれるかどうかを悩みましたが今ではその大変な困難を乗り越えて生き残った高菜はとても力強く生命力に溢れているように感じました。

うまくいかないのではないか、失敗したのではないか、育たたないのではないかと思うと焦る気持ちが生まれ心配ばかりが増えてきては、あれもこれもといった無理にでも育てようとすることを考えるものです。結果ばかりを心配するのは焦りが出て待てなくなっているということです。待てるというのは結果を度外視して信じるということですから、現象に左右されずに丸ごと信じて真心でやりきっていくのが善悪成否を抜けていけるように思います。

例えば高菜でいえば、手作業で一つ一つの草を除きつつ声掛けをして畑で高菜が安心して育つように場を整えていきます。また高菜に心を寄せて定期的に畑を見にいき、高菜が今、どうしているかを確認して見守ります。

大事なのは、高菜が安心できる環境に醸成されているかといったところをよく見直していきます。

農産物をつくる農家や百姓は、作物が育つ環境になっているからこそ作物が育ちます。今では人間都合で肥料や農薬、遺伝子組み換など環境よりもそのものを変えようとしますが、ますます自然から遠ざかっていきます。

信じるというのは自然と一緒にあるからこそその御蔭様を感じる生き方をすることでもあります。人間都合であまり結果ばかりみて変えようとばかりに躍起になっていると、ますます自然から遠ざかる方ばかりを選択してしまいます。

長い目で観て、私たちは自然の恩恵に上に成り立っているものですがその恩恵を感じて感謝のままに素直に謙虚でいることが安心する環境を醸成するように思います。

失敗するとか結果がどうかもありますが、信じる気持ちのままに深めて学び直していくことで結果を超えた御蔭様の姿が感じられたりもします。そう考えてみると信じることこそが尊いのであって、良いか悪いかはあまり関係がないのが自然だということです。

引き続き子どもたちを信じる自分を磨くためにも自然農を通して、自然の持つ絶妙な見守りを学びたいと思います。

 

広げると広がる~継続は力なり~

何か物事をはじめて取り組むとき、それが人々に情報として広がっていくことがあります。今のような情報社会の中で、如何に情報を広げるかはそれぞれの企画の会社が取り組む課題でもあります。しかし情報には、広がるというのと広げるという考え方があります。広がるのは自然発生的に広がるのであって、広げるのは意図的に広げるということです。

この「広がる」と「広げる」というのは、情報リテラシーを学ぶ上でとても大切な認識となります。

私たちの商品の一つにミッションページというものがあります。これは理念実践の発信を行うことですが、何か広報で広げようとするのではなく自ずから広がるまでそれぞれ全員で日々に積み重ねた実践を発信していきます。

人は情報が多い中でも本質的に「何のためにやっているのか」を確認しているものです。情報過多になればなるほどに、本質や目的はわからないまま判断できなくなりますがもっとも親切なのはその本質のままに本物であるのなら情報は迷うことはありません。今は本質よりも大きく見せたり、本物のように誇張したりと、実際の現実とは異なったもので注意関心を引き付けようとするから広げることが増えています。TVCMや雑誌の広告などもそうですが、如何に広げるかに躍起になっています。

広がるというのは、自然発生的なものです。

これは植物を育てるのと育つこととの違いに似ています。育てるのは人為作為的であるのに対し、育つのは自然自発的です。同じく広げるのは人為作為的であり、広がるのは自然自発的です。

この広がるというのは、道が広がるということにも似ています。無理に広げても広がらないものもこの世にはあります。それが生き方や働き方などもそうです。しかし実践する人たちが豊かに仕合せに楽しく取り組んでいる姿があれば、自然に自分もそうありたいと同じ道に入ってくる人たちが増えてきます。

そうやって同じ道を歩む人たちが増えてくれば、自ずから道は踏み固められその道を歩む人が増えれば道が広がってきます。今では道路工事などで無理に道路を広げていますが、かつては道は自ずから人が歩くことで広がっていったのです。

どうしても人は焦ると無理に広げようとしたり、広がらないことに悲嘆したりしますが、広がるのを待つ心があれば理念を実践を真摯に取り組んでいくことができるように思います。

イエローハットの創業者、鍵山秀三郎さんが一人から掃除をはじめて今では日本だけではなく世界にその掃除道が広がっています。これなどはまさに広げることとは異なり、広がるということの意味を証明しています。その鍵山さんの座右の銘に「十年偉大なり、二十年襲るべし、三十年歴史なる」があります。広がるのを信じるのなら、継続を怠るなということです。まさに諺「継続は力なり」の本質です。

継続を怠けようとする時こそ、無理に広げようとするのが人間です。そうではなく、自分の実践を継続することで広がるのを待つという心境を大切に焦りが出るときこそ真摯に心を込めた日々の実践に回帰することのように思います。

引き続き、初心を忘れずに広がるのを楽しんで待つ心境で日々に豊かに取り組んでいきたいと思います。

暮らしの体験

今週はずっと仲間と一緒に聴福庵で過ごしましたが、家も心も温まる素敵な暮らしをたくさん実践することができました。餅つきにはじまり、家の修繕、掃除、また明障子の張り替え、畳づくり、そのどれも貴重な暮らしの体験をすることができました。

実際に暮らしを体験していると、暮らしの合間に仕事をしている感覚がよくわかってきます。都会では暮らしそのものがなくなり仕事漬けになっていますが、本来は暮らしがあって仕事があるのです。それもまた今ではわからないくらい都会は便利で全てが揃っていてお金さえあればほとんどのことができるような環境になっています。

便利さというのは、かえって暮らしを遠ざけていきます。例えば、漆器や陶器など昔から大切にしてきたものを使えば食後すぐに洗って拭いて乾かすという行為がいります。しかし紙コップや使い捨てのものを使えばゴミにしてしまえばその労力は必要ありません。簡単便利の方を優先するのは楽ですが、その時大切な暮らしが失われていきます。

暮らしの中には、すべて感謝する機会があります。感謝する心や恩返ししたいという気持ち、御蔭様を感じる精神はこの日々の暮らしの実践の中に存在します。私たちは暮らしを通して感謝を学び、暮らしを通して生き方を直してきました。自分の我慾に打ち克ち、いつも平常心で本質からブレナイ生き方ができたのも暮らしがあったからです。

人間は人間の都合を優先すればするほどに暮らしと感謝する機会が失われます。そして同時に心の豊かさというものも消失していくのです。物が溢れ成功したけれど豊かさがなくなってきたという人は沢山増えてきた今の時代。なぜそうなったのかを突き詰めてみるとそこに「暮らし」が関係しているのは自明の理です。

私たちは物質的なものを有り余るほど増やしそれが自由に搾取できれば豊かさであると刷り込まれていますが、その豊かさは本来の豊かさの本質とは意味が異なっています。物が豊富にあれば豊かなのではなく、暮らしがあるから豊かなのです。暮らしが優先されていく中に、そこに暮らしを彩る道具も物も人もあればそれは感謝に包まれる幸福な日々が訪れる、その豊かさが本物の豊かさなのです。

国が富むというのは、自国を成功させようと必死になることも短期的には必要ですし確かに結果も大事です。しかし長期的に観れば同時に人間はただ生きながらえる生物ではなく、そのプロセスの思い出や体験こそが人生の生きがいと喜びになりますからそれを大事に積み重ねていくことで唯一無二の自分の人生を謳歌できますし国もまたその人材たちによって真に豊かに発展していきます。

私たちのやっている古民家甦生は暮らしの甦生です。

引き続き子どもたちのためにも、自分たちが実践して先祖の暮らしから気づいたことを伝承していきたいと思います。

 

い草道

昨日は、聴福庵にて畳づくりを畳職人と一緒に行いました。私たちが手伝ったのはほんの少しでしたが、い草の表を藁のクッションの上に敷きそれを加工し糸で縫い上げていきます。い草のいい香りがする中で、一つ一つの畳を丁寧に手作業で創り上げていくプロセスを一緒にすることで畳の持つ魅力となぜこれが日本文化とつながっているのかを再認識することができました。

また今回は、熊本の八代からい草の生産ではとても有名な草野さんご夫妻に来ていただきイグサのことや育て方、その生き方までお話をお聴きするご縁をいただきました。

聴福庵に導入されたい草の畳は丈夫で艶のある品種のい草「せとなみ」「涼風」の中から厳選され選り抜かれたい草のみで織り上げたものです。その風合いはまるで美しい草原が和室に入っているようなもので、その上に座りじっと佇んでいるとうっとりします。時間が経てば経つほどに好い飴色の雰囲気を醸し出すこの畳は私たちの暮らしにとても大きな豊かさを引き立ててくれます。

まず草野さんは「畳は工業品ではない、農産物です」という言葉からはじまり、「生物として生きているからこそ「いのち」を扱っていることを大切にしている。いのちがあるからこそ、畳の色も香りも変化してくる。喋らないから生きていないのではなく、植物も生きているということを忘れてはいけない」と仰いました。

私がお話の中で特に感動したのは、「自然の恵みを受ける農業は、自然から授かるのだからもっとも神聖なお仕事です」という言葉です。また続いて「自然は素直で必ず自分がやったことがそのまま帰ってくる。だからこそ素直な心で自然と向き合っていかないといけません。」

私も自然農を実践して6年目になりましたが、ここにも自然に寄り添い自然の道に学ぶ人がいて、草野さんから醸し出す雰囲気はとても謙虚さに溢れ優しく日本人らしい懐かしい精神を感じました。私が尊敬している自然人はみんな、同様に自然の畏敬を忘れずに自分自身を変え続けている人です。そして自然の御蔭様に感謝して楽しみ喜びの中で暮らしている人々です。

かつての日本人はみんなこのように優しくて素直な雰囲気を持っていたように思います。風土が育てた純粋な日本人はみな、このような無垢な自然体を持っていたように思います。今ではその日本の風土と異なった人間都合の生活の中で風土に合わせた生き方をする人たちがいなくなってきています。

草野さんは「自分がい草に寄り添いながら生きてそれを喜びにすることでい草を使ってくださる方の喜びをつくり、そして竟には社會の喜びにしていく」といいました。それを「共存共栄」と定義してその生き方が草野さんの理念になっていました。そのために「本物の製品をつくり続ける努力を怠らない」といいました。これは単にものづくりにおける精神ではなく、真摯に真心を込めて生き切る生きざまと生き方を感じてそういう方の畳とのご縁をいただき尊いご縁に有難い気持ちになりました。

そしてこれは私のこだわりではなく、当たり前であることと仰る姿に草野さんの道楽の境地を感じて私も精進していきたいと改めて学び直しました。

最後に草野さんの言葉です。

「子どもや孫たちにしてほしいことをやっているだけす。そうして自分たちが真から楽しく、喜びの真ん中にいればいい。よい思いは周りも変わっていくのだから。またこれは自分の生き方だから、それを子孫へ押し付けるつもりもない。どんな時も自分がどうありたいかが大事、まずは、自分の心が素直で真摯かどうか。それがすべて。そうはいっても自分の中に反発心とかもあるけれど、それでもやりきることが大切。イグサとも、そういうことをやっている。そして私の楽しくは、泣いても苦しくても楽しい。面白くで楽しいではなく、そういう思いでやっているのです。」

ここに私は「い草道」を感じました。

道を歩む先覚者たちの言霊はみんな同じ響きを持っています。有難いご縁に感謝し、このご縁を活かせるよう子どもたちにこの出会いを還元していけるように引き続き心の在り様を見つめて伝道していきたいと思います。

 

 

 

お餅つきの真心~初心伝承~

昨日は福岡の聴福庵でお餅つきを行いました。かつての暮らし、年中行事の復古創新のためにも色々と古来の習わしに従って最初から取り組んでいます。木臼は年代物でかつての「ちぎり」といった修復法でひび割れが修理され大事に何十年も使われてきたものです。そして杵はこれも100年以上前の蔵に眠っていたサルスベリの手作りの杵。また四段の蒸籠も数十年間ずっと大切に修繕されながら使われてきたものです。

これらの道具を昔の竈でじっくりと炭で蒸し、蒸しあがったもち米を石臼でよくつぶした後に木臼で「つく」という流れです。その後は、餅粉の上でみんなで出来立てのお餅を丸めていきます。また鬼おろしで大根おろしをつくり、それにつけて合間合間に出来立てのお餅を食べると美味しくて幸せな気持ちに満たされます。

皆でイキを合わせて一緒にお餅を「つく」という行為は、かつての私たちの先祖の暮らしを思い出させるようでとても懐かしい気持ちになります。この「懐かしさ」というものは、日本人の原点でありその原点があるから今の私たちが存在していることを思えばこの年中行事には常にそれを実感できるものが入っていなければなりません。言い換えればそれは「本物の行事」であり続けなければならないということです。

今では餅つきも簡単便利にできるよう機械化して、この臼と杵で「つく」ことがなくなってきましたし協働で手際よく力を合わせてお餅をつくり食べることもなくなってきたのは残念なことです。プロセスの中に懐かしさや原点があり、それだけを取り除いて結果だけあわせてしまうような取り組みには大切なものが入っていません。

昨日も私たちがお餅つきをしているところを通りすがりのお婆さんが、かつては20年前まではお祝い事があるたびにお餅をついていたと話をしてくださいました。節分や節句、田植えやお盆、お彼岸、結婚や出産、葬式の時、大切な節目にはいつもお餅をついていたといいます。今ではその光景も観なくなってきましたが、本来の日本人が大切にしてきた暮らしが消失することは私たちの精神や生き方が失われてきてしまっているということになります。謙虚に自然に寄り添って暮らし、人々と協働してお祝いを味わうという豊かさが経済の発展と共になくなっていくというのは、本末が歪んでしまうものです。

何のために生きて、何のために暮らすのかは、こういう人生の節目に周りの御蔭様があること、円満に和み笑うこと、こういうことが言葉に発していなくても年中行事の意味からみんな直観し伝承されてきたのでしょう。

御祝い事のハレの日とは、人生の節目の日であるということです。そのハレの日を「芽出度い日」としてご縁に感謝することを忘れないこと、お陰様を感じて生きてきたからこそそういう日々を慈しんで歩んできたのが私たちの先祖の真心だったのです。

引き続き大切な願いや祈りを子どもたちに譲っていけるように、先祖から続く一つひとつの暮らしを今に合わせて新しくしていきたいと思います。

 

教育改革

昨日から自由の森学園の音楽祭に参加しています。いつもながら子どもたちが活き活きと青春をし輝いている様子に学校の楽しさを感じます。どの学校も子どもが子どもらしくいられるような認められ尊重されている風土が醸成されている場は美しく明るく楽しいものです。

今の時代は、人口知能やロボットの出現から、いよいよ人間らしさが問われる時代に入り教育もアクティブラーニングをはじめ価値観が入れ替わってきた時代に入ります。この自由の森学園が堅持してきた思想が今や世の中方が同じ価値観になってきています。だからこそ自由の森学園の初心や理念が改めて見直されるような気がしています。

まずその自由の森の理念の支柱になっているのが日本の数学者、遠山啓の思想です。その遠山啓はこのような言葉をインスパイアしています。

「この宇宙のなかでもっとも複雑で知りがたい人間をいともお粗末なテストの点数などで序列づけることなどできるはずはない」

まずは人間というものを理解するのに点数と序列などは不要であるといいます。数学においてこのような数字の使い方と数字による序列などという考え方の無意味さをもっとも見抜いていたといえます。特に序列についてはさらにこう続きます。

「日本中の子どもはこの幻想のピラミッドを一段でも高くのぼるように尻をたたかれる」

「教師が創造的になることを妨げる最大の障害物は、教師の中にある内なる序列主義である。」

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

「『差がある』ということと『序列づけが可能』とのあいだには天地ほどのちがいがある。」

「教師にとってなによりも必要なことは、点数というメガネで子どもを見ないようにすること」

序列とは優劣を決めて順序を決めることです、これは言い換えれば個の能力によって個の優劣を決めるということです。本来、チームや仲間などで一緒に生きていくのであればこの序列は必要がありません。個の能力ではなく、集団の中での個の持ち味になるからです。しかしこれまでの教育は、そうではなく個の集団における優劣に終始したことで、歪んだ個人主義が蔓延していったように思います。さらにこう言います。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

これは思うところがあります。間違った教育とは、人間の序列と優劣です。これらの大人の刷り込みは競争比較社会の中でなかなか取り払われず、子どもの方が色濃く人類永続の智慧を持っている気がしています。理念の実践を通して、自分が変わっていくことで大人がそのモデルを示す必要を感じますが、子どものころからその智慧が守られれば将来に確かに大きな力を社會で発揮していくと思います。そして学校についてはこう言います。

「学校にいきたがらない子どもがひとりでもでたら、その学校にはもはや危険信号があるのだ、と考える必要がある」

「私は、現在の学校で、平凡なことで忘れられていることがあると思います。それは、『学校は楽しいところでなければならない』というだいじな原則が忘れられているのではないかということです。」

学校が楽しいのは、仲間と一緒に学びあう喜びに出会うからです。学問に師があり道ができ、友があればそれは最幸の人生です。人生において道を一緒に生きていくことができるようにするのが師の役割でもあります。

また自由の森学園の初代校長の遠藤豊さんは、この遠山啓さんの思想を受けてこういう言葉を遺しています。これは当時の先生ではなく、私たちの本業に対しても同感するものがあります。

「子どもといっしょに生きて、子どもといっしょに考えて、そして、自分自身を変えていく、ということが、まず、教育という仕事が成立する基本」

「子どもといっしょに考えたり、あるいは子どもが考えやすいようにしたりして、子どもたちが試行錯誤を経ながら自分自身の発見として一般化をなしとげるような授業をつくらないとだめ」

「それまでの自分の考え方やものの見方を打ちこわして、新しい世界を発見していくこと、そして、自分のなかに新しい考え方を生み出していくこと、そのことが学ぶということ」

私たちの実践も、そして一円対話をはじめ様々に取り組んでいる現場の改善もまた以上のことを実現するために行われているのです。そして最後にこの言葉で締めくくります。

「学校に教育がなくなってしまっていることをいちばんよく知っているのは子どもたちです」

子どもの声を聴いて、今何の改革が自分自身に求められているか、教育に関わる全ての人はもう一度そのことを見つめなおす必要があると私は思います。教育改革は、人類の甦生です。たしかな道が遺り続いている以上、布置を見出し自分はこう変わるというのを社業を通して示していきたいと思います。

一期一会~今~

四書五経の一つ「大学」の中で「苟日新、日日新、又日新」という言葉が出てきます。これは古代中国に殷という国の初代湯王が (まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)と毎日使う手水の盥(たらい)に銘辞を刻んで日日の自戒としたとされているものです。

これは自分の日々の垢を洗い清めるように、過去に発生したすべてのことを取り払い新しい自分でいようと磨き続ける、言い換えれば「今を生き切る」と弛まずに精進し続けたという証です。自分が過去に捉われないよう、自分が今に生き続けるようにと自戒したという生き方にとても共感します。

これを座右にした昭和の大経営者の土光敏夫さんがこのようなことを語っています。

「神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。
昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。」

今この瞬間に生き切るということは、自分のいのちを一期一会に使い切っているということです。私の座右も一期一会ですから、この生き方に共感するのです。時は過ぎ去っていくだけで過去の成功に縛られても仕方がないし、未来のことばかり憂いていても仕方がない。大切なのは、今どうにかできる今だけですから今に真摯に真心を盡していくことこそが人生を豊かに感謝で生き続けることになると思います。新しい自分とは、今の自分のことで古い自分も今の中に生きています。だからこそ古今は未来そのものです。

この殷の湯王の自戒には、もう一つ私が心から尊敬するものがあります。反省とはこういうもので、内省とはこういうものだという至高のお手本を示したものです。論語を学び、大学を学ぶものとしてこの殷の湯王は何よりもそのモデルになります。

最後にこの殷の湯王の自戒で締めくくります。

「希望あれば若く
燃ゆる情熱
美しいものへの喜悦
逞しい意志と情熱と
安易な惰性を振り捨てて
人は信念とともに若く
情熱を失うときに老ゆ
希望ある限り若く
理想を失い失望と共に老ゆ
心して暮らせ」

一期一会というのは、この信念と情熱と理想、意志と希望と喜悦によって真心を盡して暮らすことです。子どもたちのためにも、自分がその実践を体現して生き切っていきたいと思います。

本末樹立

学問には時務学と人間学というものがあります。これは人間が成長していく上で両輪であるとされます。時務学は末学といい、人間学は本学といいます。この本末をしっかりと調和させていくことが今を生きることになります。

例えば、どんなに新しい時代の道具や仕組みなどもその人物の人間力によって左右されます。これはIT技術などもそうですが、進歩していく技術は時が経てば発展していきます。しかしそれに対して道徳といった人間の進化が発達していかなければその技術は人間や自然を破壊するように使われるかもしれません。

本と末というのは、本ははじまり末は終わりという意味です。そしてこれが入れ替わってしまうことが本末転倒という諺にも出てきます。例えば、種があって花が咲くのであって、花があって種ができるわけではない。また幹があって枝葉ができるわけで枝葉があって幹があるわけではないということ。

これを人間に例えれば、人間が徳があってこそはじめて技術が進歩していくわけで技術が進歩することで人間ができてくるわけではないということです。

人間学を学び精進しながら本当の技術を伝道していく、これは私たちの会社のウェブも同じですが単に技術だけをやるのではなく、人間学を真摯に学ぶ人がどのような技術を使っていけばいいかを実践して示していくのです。こういう使い方が本来の姿であるということや、こういう事例は人々の徳を高めいくというように人間が進化していくのを見守っていくのです。

そのためにも、何が根幹であり何が枝葉であるかを決して忘れないことです。それは言い換えれば「何のためにやっているか」という本質は決して忘れずに「今」の技術を活用していくことです。

本質がなくなればその文字通り「本」が消失します。するとうわっつらの見せかけばかりに終始していつまでも本質に立ち返ることもなくなります。何のためにかを考える力は魂の力でもあるし、心胆力でもあります。常に理念に沿って初心を忘れずに自分が場数を踏んで働いているのなら、それは本から離れることはありません。その上で日々の日常業務などができる人、それを今の時代に合わせた仕事にしていける人物が本末樹立させていく人です。

しっかりと大地に根をはり、天に向かって大きく豊かに成長していくためにも本末樹立を大切に実践を積み重ねていきたいと思います。

できないことを頑張る努力~競争刷り込み~

人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。

私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。

しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。

実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。

しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。

協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。

だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。

働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。

子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。