できるできない刷り込み

今の世の中には「できる・できない」の刷り込みがあります。幼少のころから比較競争し能力を評価されていく経済社会の中で育てられそれに合うようにと教育を施されれば人はできるかできないかを基準に考えてしまうものです。

しかし、できるかできないかといった能力を中心にする考え方では本当の意味で持ち味を活かすことができません。例えば、自分が何ができるかを考えていけば努力次第ではなんでもできるということになります。しかし自分にしかできないことを考えてみるとできないことが何かをちゃんと取捨選択できるようになります。

人は一人でもしも生きていくのなら何でもできるにこしたことはありません。しかし実際の社會でオールマイティというものはとても弱いもので、お互いにできないものがあるから人は一緒に助け合い働くのです。

そう考えてみると、その人ができないというある種の「弱さ」の御蔭で人は人とつながっていくということになります。しかしできるできないの刷り込みが深い人は、自分からできないということを周りに公開することがありません。他人からできないことを指摘されても、それを自分でさらけ出すことはなく必死で隠そうとしたり、もしくはできたように見せかけたり、もしくはできないといわれないようにと頑なになり孤立します。そしてできるできないの刷り込みは、周りの人へ対しても同じような目線で観るようになります。あの人はできる人、この人はできない人で、できる人同士で組めばいいということになるとそのうち個人の利益を中心につながろうとしだします。簡単に言えばただメリットがあればつながるのです。

確かに競争の経済社会でそのように組んでメリットがなくなればすぐに他の人という考え方は効率的かもしれませんが、実際には会社や社會、組織ではそんな簡単に切ったりはったりなどはできません。なぜなら人は人間ですからいっしょに生きていく仕合せや豊かさも味わいたいからです。むしろ、人間が働くのは有史以前から人類がそうやって地球で豊かに暮らしてきたからであり、それが人間の本質だからです。

本来、チームや家族のような関係はできないことを補い合います。つまりできないことを補い合う方が協力になるからです。できないからこそ、助けてもらう、できないからこそ支え合う、つまりそこに思いやりや絆が生まれるということです。そしてそこには個人主義ではなく、皆のために貢献していこうとするみんなの中の一人という責任のある自分になります。

今のように個人主義が優先されれば、誰に頼ったらいいのか、誰に頼んだらいいのか、誰に任せればいいのか、次第に分からなくなって孤立するのは自分からできないことを安心してさらけ出せる組織ではなくなります。だからこそ、もっと組織においてはできるできない刷り込みを捨て去って一人でできなくてもいいという文化を醸成する必要があると思います。

それは能力がないのに努力しなくてもいいというのではなく、何のために努力するのかをみんなが理解しあっているということです。そうやって一緒になっていけば、本来必要な努力が何をすることかが必ず自明します。

引き続き、世の中が弱い人たちを断罪しないように、強い人たちばかりが頑張らないように、みんなが助け合う社會、多様性が活かされ続ける人類の至高の強みの境地、それを実現していきたいと思います。

今を生き切る

過去をひきずるタイプというものがあります。いつまでも過去の自分のことや、嫌だったことを思い出しては今の自分のことを認めることができない人のことです。人は誰しも過去があるのは、その時々で体験して今があるからですが今を生きないための材料になってはもったいないように思います。

日々というのは、毎日新しくなっていきます。当然、同時に人もまた新しくなります。その新しいというのは、過去ではなく今のことであり、新しい日々を生きるというのは、今を生きるということです。

自分を刷新していくのは、今に生き切るということで今に全身全霊を懸けているということです。過去をひきずる人は、過去の自分と比較し、過去の自分と競争し、過去の自分のことを忘れられません。例えばそれは決して過去の嫌なことだけではなく、過去の栄光や過去の成功など、自分がもっともよかった時代をいつまでも忘れないなどもそうです。バブルの頃を忘れられないや、自分が偉かった時代のことをいつまでも話したりします。

本来、私たちが生きているのは過去ではなく「現在」であり今だけです。この今此処だけに全力で盡していくことで比較の刷り込みが拭い去れ過去がすべて過去を含んだ「今」に転換されていきます。そして今があることが過去の御蔭様であることに気付ける生き方をしているのです。そういう今がある人たちは、すべてのご縁に感謝できるようになります。この今には、その人の生き方が出ているのです。

どんな人も「今を生き切る」というのは、一期一会の大切な自分の人生を生きていくための自戒だと思います。

色々なことがあったとしても、今があるのだからこの今に合わせて自分の方を換えていくことを変化といい、そして今に近づき合致していけばいくほどに成長したといいます。過去の自分と比較しての成長は成長ではなく、変化とも言いません。私たちが生きているのはこの今だけだからこそ、今どうありたいか、今の自分そのものを丸ごと認めていくことが今を感じることです。そうやって今に生き切るのなら今が仕合せになり、今の自分は変化し続けることになります。

誰しも変わらないでほしいと願うこともあります、しかし宇宙、地球、すべては万物流転し循環を已みませんから止まることはありません。自分から今を感じて生きているときだけ、その流れの中で万物の御縁と一緒に生きることになります。

まずは今の自分が好きになれるよう、今の自分が仕合せだと感じられるよう「今を生き切る」ことを大切にしていきたいと思います。

真の協力

昨日は、ある高校1年生のクラスの一円対話を見学する機会がありました。4月から関わり始め見守っていますが、あれから9か月ほど経ちそれぞれに背が高くなり、顔つきや様子も大人っぽくなり、著しく成長していく速さに驚くばかりです。

いまではとても仲が善くなり、とても素晴らしい場がクラスの中に発生しています。その一円対話に参加していると、如何にそれぞれがお互いに協力して助け合っているかの日常が伝わってくるのです。

世間ではよく仲が良いという言葉を使います。先日、別の学校でもうちのクラスは仲がいいととか、うちの職場が仲がいいとか聴きましたが実際に入り込んで個人面談をするとまったく正反対だったりします。そこでは、表面上問題が起きないように仲が悪くならないようにしているだけで決して協力したり助け合ったりを自然に行っているわけではないのです。

私が思う仲が良いとは「協力する風土ができている」ということです。それぞれが自分らしい自分であることを保障され、チーム全体やクラス全体のためにいつも心を開き、主体的に支え合い助け合いをしたいと思ってそれが自然体で行われている状態のことです。

しかし実際には、ほとんどの組織においてみんな自分のことばかりを考え、周りへの配慮が欠け、個々がバラバラに好き勝手になっているところがほとんどです。そして協力しなければ責任問題になるというような状況をつくり、手伝わないといけない状況になっているだけでそれを仲が良いと思い込ませたりしようとしています。

責任を押し付けたり立場を分けたり、罰則を与えたりする中での協力などは協力という言葉を使ってはならず、本来の協力の意味とは大きく異なっています。誰かによって操作された協力などは協力という言葉ではなく、それは協力風に見せかけても真の協力ではないからです。

真の協力とは、それぞれの人生を尊重しつつお互いに目的や理念に対して真摯に正対し、同時に一緒に生きていく仲間なのだから助け合い支え合い歩んでいこう、また思いやりの社會のために自ら参画するときにこそ発生すると私は思います。つまりは、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が実現しているということです。

だからこそ、常に主体的に自ら選択して理念を共有していくことを一人一人が実現していく必要があります。また全体が一人ひとりの人生を見守るためにも、目的を定めその目的が実現できるような環境をみんなで一緒に創造していく必要があるのです。自分の使命を自らが自覚して自分の人生に責任を持つのです。

子どものころから、子ども同士の中で子どもたちはお互いを認め合い支え合い生きていくことを学びます。言い換えれば人間社會を学びます。どんな人間社會にしていくかは、今の子どもたちの様子がそのまま将来の社會になります。今はいじめや不登校、その他、悲惨なことが学校でも起きていますが将来安心した豊かな人間社會を実現できるように私たち大人がまずそのお手本を示し、協力する風土を醸成していきたいと思います。

一人一人が幸福な人生を味わえるように、引き続き理念の実践を通じて人間の持っている徳を伸ばし、善心を引き出せるように聴福人の実践を高めていきたいと思います。

 

人は人に魅力を感じるのは、その人の根底にあるものに惹かれるからです。例えば、その人の人間性、義理堅さ、また信念、人柄、人格、生きざまや生き方など、つまり私たちは「人」をみて自分が一緒に着いていくかどうかを判断しているものです。人を観るとき、自分は自分の中にある大切にしているものを観ています。自分の中にある大切なものをその人も持っていてそこに共感するものがあるからこそお互いの存在価値を認め合えるのです。

昔、ずっと若いころ私は人が自分に着いてくるのは自分の能力が高く、才能があるから従ってくれていると思っていた時がありました。自分の存在価値は、自分が誰よりも周りの人と比較して能力が高く結果を出しているから人が着き従うのだろうと思っていたのです。その頃は、自分のできるところや能力の高さを周囲に認めさせようと躍起になり、失敗を隠し、できない自分を見せないようにし、完璧な存在であるように振舞っていました。さらには組織において人が言うことをきいてくれるのは、自分には立場や肩書があるからだろうと仮初の自分を構築してはその立場や肩書通りであるように演じていました。

他者評価ばかりを気にして、周りが着いてくるような人になろうとしていて頑張っていると次第に、周りが自分の何を認めてくれているのが分からなくなっていきます。自分に自信があるのならいいのですが、実際の社会では比較、競争、争い、評価と日々にそういう圧力の中に存在しますから周りの声が怖くて自分の自信が持てなくなっていきます。自信がなくコンプレックスばかりが増えれば増えるほど、より能力ばかりを頼ってしまうのです。そして能力が高まれば高まるほどに反比例して自分の存在価値の自信がなくなっていくのです。さらに悪いことに能力だけで人を判断する物差しが強くなればなるほどに、他人の評価も能力ばかりを重視するようになっていきます。言い換えれば、その人ができる人かできない人か、能力があるかないかを基準に見るようになるのです。そうしてしまうと、大きな勘違いがはじまり「人」を観なくなっていきます。人を観なくなり能力だけになればもはやその人は、単なる道具や機械のようになっていくのです。こんな人には誰も着いていきたいとは思わなくなります。なぜなら人と人にならないからです。

人間は人格や能力は生きていく上でどちらも欠かせません。それがバランスよく成熟するためには、お互いに理念を共有し理念を中心にしてそのどちらも磨き上げ、人格と能力を高め続けなければなりません。今、たとえ人格が追いついていなくても年を積み重ねて経験を糧に精進していけばそのうち人格は成熟していきます。能力もまた然りで、鍛錬していけばその能力もそのうち成熟し成果も出てくるのです。

だからこそ、すぐに完璧を求めるのではなくもともと完全であることを自覚し、人間はお互いに同じ目的を握り合って弱い自分、できない自分、人格的に未熟である自分を認め合い、互いに助け合って支え合っていくなかにこそ「人」である価値があるのです。

人がもしも「人」を観て選ぶのなら、その人は必ず時間の経過と共に成長し成熟していきます。その紆余曲折のプロセスこそが豊かなことであり、そういう豊かさを一緒に味わえるからこそ人生で出会える仲間や同志の醍醐味もまたでてくるのです。

人間の夢や志は、その豊かさを味わえるためにあるといっても過言ではありません。人が生きていくというのは、仕合せになることであり、仕合せになるというのは「人」になることであり、それが「人生」の幸福になるのです。人生の幸福は心の豊かさを得ることですから、人としてお互いに認め合うことが私たちの大切な人生目録なのです。

今から未来の人々の人生を豊かにしていくためにも、人の魅力に気づかせて人の魅力を引き出せる生き方をしていきたいと思います。子どもたちの憧れるような人を目指していきたいと思います。

道の徳育

昨日、GTリーダー研修が竹橋で開催されました。全国各地から見守る保育の理念で取り組む園のリーダーやベテランの保育者が一堂に集まりそれぞれで課題や問題を共有していきます。

今までの過去の保育を今の時代に適合させていくために、変えてはならずに守るものと変えていくものを真摯に向き合って話し合っていきます。子どもを守るといっても、何を守り何を守らないか、それは今を生きている大人たちが判断していかなければなりません。先日の神事と同じく、変えていいものと変えてはならないことを正しく理解しそれを実践していくことで未来への方向性を確かなものにしていくのがこの仕事の使命をいただいたものたちの責任であろうと思います。

藤森代表は、子どもを守るのは子どもの主体性を見守ることだといいます。つまりは私が言えば一人ひとりの発達を保障することですが、そのためには一人ひとりのことを一人の人格者として認め尊重した保育が実現しなければなりません。そのための手段として見守り方もあり、具体的な見守る仕組みも存在するのです。

講演の中でいつも気づきがあるのはこの見守る保育は、「見守られる子どもにしていく」という言葉です。見守られていると感じられる子どもは責任感を身に着けていきます。人は信じ認められることで自分が尊重されていることを自覚します。そうすると自信が持てて自分の役割を活かそうと考え始めるものです。原理原則として人間の幸福というものを保障するのが大前提にあり、そのうえで時代に合わせた変化を取り入れていくのです。

そして一人ひとりの子どもたちを見守るためには、まずは大人たちや先生同士が支え合い協力している必要があるといいます。その大人たちの姿を見て、子どもたちは子ども同士で同様に支え合い助け合い、協力していくことを学ぶといいます。

今の時代は子どもたちに色々と教え込みますが、かつての日本は身近な大人たちの姿を見て子どもたちは子ども同士で学んでいたのです。寺小屋なども同じく、地域の神事や祭りをはじめ様々な大人同士の関係性の中で子どもたちは協力していく大切さを学び、信じあうこと助け合うこと、つまりは道徳心を身に着けていったのです。

見守る保育が取り組んでいることは、道の徳育であり、その徳をどのように一人ひとりが身に着けていくか、それは大人も子どもも関係がなく一人ひとりの人間的な成熟、つまりは自立に結ばれているように私は感じます。

助け合い支え合い協力する、そういうものをもっとも醸成できる人物こそがリーダーではないかとお話をお聴きしていく中で実感しました。引き続き本日も研修は続きますが、それぞれの園での課題はまさに社會の課題そのものですからよく聴いて今後に活かしていきたいと思います。

自分とは何か

人は自己認識というものをどのように持っているかで自分というものの理解が異なってくるものです。今の自分を丸ごと認めている人は、自分にこだわりませんが自分の何かをいつまでも認めない人は今の自分のことがわからなくなるものです。

今の自分とは何かということです。

今の自分というのは、過去のある時の自分や、誰から評価されていたときの自分、自分の理想の自分など色々とあります。自己中心的な人ほど、自分というものを自分で設定する傾向が強く、またその自分像を周りに押し付けていくものです。しかし本来の自分というものは、今に徹することで顕現するものであり今、此処のすべてを自分だと感じない限りは本当の自分に出会えることがありません。つまりは自分は変わり続けていることを自覚できるということです。

人には思いがありますが、その思いがこだわりすぎるとその思いが真実をゆがめていくことがあるのです。

小林正観さんの著書「豊かな心豊かな暮らし」(廣済堂出版)にこういう言葉があります。

「自分の思いを持たなければ、生きることはそんなに大変ではありません。流れていくままに、流されていく生き方でいいのではないかと思います。」

よく思いを持てとかいう自己啓発本は出ていますが、この思いを勘違いしている人が多いように思います。ここでの思いは執着ですが、いつまでも自分にこだわると変化ができなくなるよということです。それよりも今の自分が置かれた環境で変わり続けている自分を認識できるかということです。そのためには、門前の小僧習わぬ経を読むの心境でなんでも新人になったつもりで挑戦し続けていくしかありません。小林正観さんはこう言います。

「自分でわからないことについては、とりあえず、「わかりました」と言って引き受けてみる。出来なかったら、「出来ませんでした。ごめんなさい」と謝る。そういう素直な自然体の心で生きていけばいいと思うのです。 思いを持てば持つほど、重くなります。思いが重いのです。」

この素直で自然体な心、それが今の自分を認識する唯一の方法なのです。素直になるというのは、自分勝手な執着を持たずに今の境遇に感謝して仕合せになるということです。こんなはずではないとかこんなはずではなかったとか、思い通りにいったとかいっていないとか、いつまでも自分に執着して今の自分を受け止めず受け容れないような心の態度ではその人は変わることができないのです。

変わるというのは、変わり続けている状態を言い、周りに役立てる自分、周りに活かされている自分、そして周りに感謝している自分になっていくことです。そのためには具体的な実践として「なんでもやらせていただきます」という今に対する生き方の覚悟がいります。これは自分の仕事ではないとか、これは自分には相応しくないとか、やりたくないとか、そういう自分の思いを持ってしまえば身体も心も重たくなります。そして次第に動けなくなって、そのうち周囲に心を開かずに閉じこもって病気になります。

そうではなく、変わり続けている今をたのしみ、どんな自分が本当の自分だろうかと今の自分を丸ごと味わい学び続けるとき、人は自分の本心と対話し、自分自身になっていくように私は思います。機会を活かす人はご縁に活かされるからです。

幼いころから誰かの目線を気にして嫌われないように演じたり、または評価されては比較され競わされ争ってきたり、または歪んだ愛情を押し付けられ条件で愛されようとしたりと自分が素直に自然体でいられなかったことがあったことで今が受け止められない人がいることも共感できます。

しかしいつまでもそんな日々は続くわけではなく、人は今を受け止めて受け容れて今を100パーセント愛していくことで未来も過去も許し認められるようになりますから執着を手放してみて身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと一度握っている自分を手放してみれば新たに観えてくる境地もあると私は思います。

同じように苦しんでいる人たちが沢山いて、その人たちが自分らしく生きていくためにも自分の方がさらりと変わっていく生き方が自他を素直に正直にしていくようにも思います。

引き続き子どもたちのためにも、今ここを楽しみ味わう生き方を実践していきたいと思います。

 

自然のセンス

日々に鉄瓶でお茶を沸かして飲んでいる炭実践をしている中で火について色々と深まってきています。火といっても一概に火とは呼べず、蝋燭の火、ガスの火、灯油の火、薪の火、炭の火、炭の火の中でも木炭、石炭、備長炭、竹炭などどの火も同じ火は一切ありません。さらに言うならその時の湿度や空気、季節やタイミングなどでも火は変わってきます。

火と一括りにして火と呼びますがこのような感覚が人間本来のセンスを鈍らせているようにも思います。同様に、空も水も同じものは一つもありません。無限に組み合わせがあり、同じものがないのに人はそれをただの空と呼び、それを水と呼びます。

頭や知識は、その物体を認識するために文字や言葉にして分類分けましたが実際は分類分けなどがまったく意味をなさないのが自然なのです。

火はその揺らぎ熱さ、温度、見た目、範囲、容、光、燃焼具合、燃える素材、燃える環境によってその火の姿が変わります。例えば、ガスの火はとても強く炭の人はまったく異なり近づくとトゲトゲします。石油の火はもっと強くトゲトゲしてまるで尖った岩山のように差し込んできます。

それとは逆に天然の植物油や、もしくは炭などはほんわかする軟らかく弱い火が出ています。特に備長炭などは周りを包み込んでくるような春の日差しのようなぬくもりが出てきます。

人間は感覚を研ぎ澄ませていけば、火は単なる火ではなくなり同様に水も空も単なる水や空ではなくなるということです。どれくらいのセンスで日常を過ごしているか、今は頭でっかちになってやれスケジュール管理だの、やれ衛生管理など、栄養管理など、人間の思いどおりにするように先ほどの分類された知識をフル稼働していますが本来の自然科学というものはそのセンスが前提にあっての科学であったはずです。人間主導の科学は理に適うこともなく本来の道理から反してしまい本末転倒です。

センスなき科学というものは、どこか限られた狭い世界のみで通用する知識のように私は感じます。センスは自然ですから、センスのセンサーを高めていくことで自ずから自然の科学は身につくように思います。

引き続き、五感、六感、いやすべての感覚を研ぎ澄ませ子どもたちのために今を見つめていきたいと思います。

和ろうそくの心

日本の伝統に和ろうそくというものがあります。和ろうそくが持つ「あかり」は懐かしく今でも暗闇に照らせば心が和みます。このあかりは60万年前から使われていたといわれますが、日本で和ろうそくがはじまったのは奈良時代に中国からはちみつを用いた「蜜ろう」というものが入ってきたことからです。その後、平安時代には松脂を使ったろうそくが開発され、その後室町時代から現在まで櫨(はぜ)の実を使ったものが和ろうそくの代表となっています。

手作りでしかつくれず原料も天然のものを利用した和ろうそくは高級品であり、庶民には手がなかなか出せず菜種油を使う家庭が多かったといいます。しかし明治時代になると、洋ろうそくが急速に普及し各家庭にろうそくが広がりました。今では電気が普及しほとんどろうそくは日常の生活から消えてしまっていますが、改めて和ろうそくの価値が見直されてきているとも言います。

和ろうそくと洋ろうそくの違いは、同じろうそくと言っても原料を含めてすべてが異なります。例えば、和ろうそくは世界の中で日本にしか存在しない天然の櫨の実の原料に対し、洋ろうそくは石油系のパラフィンという原料です。ろうそくの芯も、い草の髄から取れる燈芯を使うのに対して洋ろうそくは糸を使います。最も異なるのは、和ろうそくは手作りで一本一本作るのに対して反対に洋ろうそくは機械で大量生産することができます。そこからわかるように金額も和ろうそくは高価で洋ろうそくは安価です。

肝心なあかりはどうかと言えば、灯せばすぐにわかりますが暗闇を包み込むようなあかり、そして情緒がある揺らぎ、また炎の落ち着いた柔らかい様、そのほのかに燃えていくときの優しい音、和紙の燻る薫り、そのどれもが和の風情を醸し出します。

いつも私はこの和ろうそくを観るとき、いのちを完全に燃焼し尽くしてあかりの余韻を空間に遺すこの存在に尊敬の念を覚えます。

同じ燃えるにしても燃え方があり、燃え様があります。これが翻っていのちにたとえると、生き方と生き様です。和ろうそくには、日本人としての連綿と繰り返しつながり結ばれてきた姿があるように感じて灯すと先祖に触れる気がして懐かしくいつも心が揺さぶられ深く感動するのです。

今は時間にあくせくし忙しくて心をなくして自分を見失い、また魂が傷ついている人が多くいるからこそ、私はこの「和ろうそく」の火を用いて人々の心を癒したいと思うのです。

聴福庵は炭を用いているところばかりが注目されますが私の中では「火」が中心であるということを重んじているのです。暮らしの中の火は、いのちそのものですからそのいのちをどのように扱うか、どのようにつつみこみそのものを感じるかは火の姿によって物語るを読めばいいのです。火はいのちとの対話のつなぎ役なのです。

和ろうそくを用い、子どもたちの心にいのちの火を包み癒し灯し続けられるように実践を続けて深めていきたいと思います。

 

 

佇まいと庵

佇まいということを深めていると「場」ということがどのようなものであるのかを実感します。この佇まいと場とは必ず一体になるものであり、場があるから佇まいが存在します。空間の美というものは、この場の関係性によって仕上がり、そのつながりの中で私たちがしっくりと来ることで実感することができるものです。

この佇まいについて少し書いてみます。

例えば、私は和室や庭を構成するときその場に何を置けばしっくり来るのかを観ることにしています。明らかに、その物と物とがつながり調和するときそこには確かな佇まいができてきます。

この佇まいの意味は、大辞林には( 立っているようす。また、そこにあるもののありさま。そのもののかもし出す雰囲気。「家並みの佇まい」「庭園の落ちついた佇まい」 身を置くところ。暮らし方。また、なりわい)とあります。

この佇まいというものは、その本人のことではなく場が主体になっているのがわかります。つまりは、場というものはその関係性や共鳴性、共感性や響き合いなどといった物と物、物と人、その空間の中に何が発生したかという妙を観ているのです。そしてこの佇まいが落ち着いてくると、自ずから空間の中に余韻が出てきます。

今、古民家再生をしている庭園然り、和室然り、しっくり来るまでには様々なご縁を活かしきっていかなければそれは顕れません。それは人とのご縁は当然のこと、物とのご縁、そのほか、時間とのご縁、物語とのご縁、心とのご縁、導かれるご縁、神仏の御縁など様々なご縁を活かしきったときにこそ佇まいは顕現します。

まるではじめからそれがそこにあったかのようなもの、またお互いに一緒に一体になって自然になるようなもの、そのしっくりとくる場には確かな佇まいがあるのです。その佇まいは、すべてのご縁に活かされた場であり、その空間にはご縁が凝縮されて永遠にいのちが生き続けていきます。その空間に何を入れて、何を遺すか、そこには子々孫々まで真心を通じさせ、その場において伝承も継承も伝道も教育も行われていくのです。

なぜ日本家屋は場によって教育を行えるか、そこには佇まいがあるからです。その佇まいを活かすのは、その場で暮らした日本的人物、分を弁え謙虚に生きた生きざまと一体になって残存するのでしょう。私にとっての日本家屋はの場は庵です。

庵とは昔ながらの質素な佇まいの家のことを言います。「庵」は古くは「いほり」と読み、その古形である「いほ(庵)」が動詞「いほる」を生じ、その連用形「いほり」が名詞化したものです。そしてかつて人は岩穴に住んだことから「いほ」は「岩」に通じるともいわれています。

一家が暮らすその庵の中には、そこに暮らした人々の祈りや願い、そして信念や理念があります。そういうものをどれだけ子どもたちに譲っていくかは、場を主体にしてどれだけ学び磨き上げたかという一人一人の生き方が決めます。

日々の場は、すべて自分が創り出しているという自覚を忘れずに丁寧にじっくりと場を練り上げていきたいと思います。

 

間と点の中~懐かしい未来~

先日、高円寺の古着を見に行く機会がありました。数十店舗の世界各地から収集された古着が所せましと並んでいて、そのどれもが時間の経過があったものばかりでした。この古着の古いには色々な言い方があります、例えばレトロ・アンティーク・ヴィンテージ・クラシックなど様々なジャンルを分けて古さと使い分けています。

レトロは懐古主義、アンティークは100年以上のもの、ヴィンテージは20年~30年以上100年未満、クラシックは中世近世ヨーロッパの伝統形式などとよく定義されています。

実際には古いという一言で括れないのが古いというものであり、同様に新しいという一言で括れないのも新しいということです。温故知新などの古いと新しいの意味は、単に時間の経過だけをいうものではないことはすぐにわかります。それを少し深めてみようと思います。

古さというものは、先ほど書いた時間的な経過というものがあります。例え一度も箱から開けたことのないものであっても、100年も200年以上の前のものは古いと呼びます。それは時間的な経過があるからです。もう一つの古さは、その時代の価値というものがあります。それは時間的なものではなく、その時代時代の価値基準やその時点での思想、また芸術や生き方のようなものがあります。それに太古の昔と言えば、一つは時間の経過、もう一つははじまりの頃、今の私たちのルーツのことを指します。

つまりは、古いといっても時の「間と点」というものがあるということです。

私たちはこの間と点をつなぐことで歴史を認識します。実際には、止まることがない時間の経過の中で私たちはある時点にあった出来事を取り出して認識します。しかし繋がっている今の中では、言葉で切り分けてみても実際は已むことがありませんから私たちはこの「間と点」の中を感じて古さや新しさを感じ取るのです。

そして古いものには「懐かしい」というものがあります。これは原点のことで、心がその原点に惹かれるということです。人が懐かしいというとき、かつての大切にしてきた何かに心が惹かれます。それは単に古いから懐かしいではなく、自分たちが何を大切にしてきたかという意味での懐かしさに心が揺さぶられているのです。

そして未来というのは、その懐かしいままに今を生きることでいつまでも大切なことを忘れないで仕合せに生きていきたいという願いです。温故知新というものは、そういうことを時代時代の人々がつなぎ続けていくことを言います。

古いというものにある間と点の中には根元から結ばれる原風景が息づいています。そういうものを感じられる人物こそが、先祖代々から脈々と結ばれてきたつながりを持つ人物であり、そういう人物の生きざまには懐かしい未来がいつも存在します。

古さの中にある新しさとは、太古から流れてきた原点を忘れず今の時代にどのように暮らしていくかということです。私の言葉にするのなら、理念の実践と日々の改善、創意工夫です。

引き続き、古さから学び直し、色々な今を新しくしていきたいと思います。