人は志を持つことではじめて信念を持つことができます。信念というのは単なる想いや思い込みではなく、その人が一生涯かけて貫こうと決心した志のことです。
この志を勘違いする人も多いといいます。世間では一般的に志の定義は、人の為に何か高尚なことをしようすることを言います。しかしそれは単に世間でいう志の客観的な評価がそうなっているだけで本人の決心とは関係がありません。自分の心が決めたものでなければ志にはなりません。
もともと志とは、一生涯かけて死ぬまで已めないと決めている自分の人生の決心です。それは数週間や数か月や数年のことを言うのではなく、文字通り「一生」というものに照らして覚悟を決めるものです。ちょっとうまくいかないことがあれば辞めるや状況が少し変化したくらいで変更するようなものは信念でもなければ志でもありません。
自分がこの世において何を成し遂げるか、結果は度外視、生死は度外視してでも貫徹するぞと決めた心こそ志なのです。「志」という字を分解しても、「一生を一心に貫く」という字体になっているのが観てとれます。
高尚を目指していくことが志を持とうとすることではなく、志があるからブレなくなり信念があるからそれが他人から高尚に見られるだけです。何かこれを勘違いして知識をどこかから持ってくるようなやり方でいくら外側から志を纏おうとしてもそれは自分の志ではないのだからいつまでも持てるものではないと私は思います。
自分自身が何のためにこの世に生を受けたのか、そして自分の一生を条件に左右されずに何のために使うのか、それを使命とも言いますがその使命感があるからこそその人は自由自在に真心の人になることができるのです。
自分がないと悩む前に、志がどうなっているのかまずその心に確認することが何よりも先なのです。志を立てるには、一生涯という物差し、また生死を度外視してという物差し、また命を懸けるにふさわしい大義という物差しがあります。そののちに、百年から千年の物差し、子どもたちの行く末を祈る物差し、地球規模、宇宙観で考えていく物差しなどで精査していきます。そのうえでこの今のご縁を活かし、感謝のままにどのように日々の決心を実践するかが志の道になります。
自分の人生をどのように使うかは自分次第、惑うのは自分と向き合わないからです。迷いがあっても惑わない、それは志如何にあります。子どもたちが安心して志の道を継承していけるように数々の実践を容にしていきたいと思います。