今回、韓国保育視察ではいろいろと学び直す好い機会になりました。改めて隣国、韓国でどのように質をとらえているか、何が優先されているかを観て日本の未来や行く末のことなども洞察することができました。
昨日は視察とは別に明洞や南大門など、お土産を買いに散策もしました。そこで鞄や洋服、時計などを販売している方がブランド品の「完璧な偽物がありますよ」と呼び込みをしていました。それを聴きながら完璧な偽物とは一体なんだろうと考えてみました。完璧こそ偽物であり、偽物は完璧を目指すことではないかと思うのです。
私はそれぞれにはそれぞれの天与の個性があり、あるがままであるときその持ち味は最大限発揮できると思っています。それを徳性と言います。この徳性が異なるからこそ、ダイバーシティが創造し、人類は発達と発展を永続していくことができるからです。
これは歴史が証明していて、人間においても多種多様な人たちや天才と呼ばれるような何かに特化した人物がその時代の歴史を塗り替えていきます。自然においても、秩序と混沌を繰り返し、変化に順応するために多様性を常に維持しながら原理原則に沿って営み循環を已むことがありません。
持ち味というものは均一なものや完璧を目指す中では出ては来ず、それはまるでロボットを目指そうとする生き方です。これからの時代はロボットが人間にとって代わるといわれています。人間にしかできないことが求められる中で、果たしてそのように人間の都合の良い人間だけをつくって豊かで仕合せな社會が築けるのでしょうか。
私たち人間は全体の中で循環する生き物ですから、如何に全体が好循環をするかを考える必要があります。そしてその循環は如何に自分の持ち味を活かし他を活かすかという共生と協働によって成立します。
ロボットになって技能や能力が高まっていくことはそれは文明の進歩かもしれません。しかしそれを優先し過ぎていたら本質的に時代が成長し変化できるかと言えば私はそうならないと思います。人間が進化するには、それぞれの持ち味を活かし一緒に成長していく渾然一体となった和合する力が求められます。世界は今、急速な勢いで距離が近まり多様な価値観が集合する時代になっています。これは人類の進化が求められている変化の時代になっているということです。
そんな時に、今のような子ども本来のあるがままの姿を保障しないような教育や保育が果たして時代に合うのかと疑問を感じます。子どもあるがままを理解するというのは、人間の本質を理解するということです。そのうえでどのようにしてその人間が愛を循環して未来を創りあげていくのか、それを信じて「見守る」ことが先を生きる私たちの本来の使命なのかもしれません。
その観点から改めて「見守る保育」の三省を振り返ってみると、
「子どもの存在を丸ごと信じただろうか」(子どもは自ら育とうとする力を持っています。その力を信じ、子どもといえども立派な人格をもった存在として受け入れることによって、見守ることができるのです。)
「子どもに真心をもって接しただろうか」(子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。偽りのない心で、子どもを主体として接することが見守るということです。)
「子どもを見守ることができただろうか」(子どもを信じ、真心をもつことで、はじめて子どもを見守ることができるのです。)
子どもという存在をどれだけ深く理解しているか、それは自然をどれだけ深く理解しているかということです。人間の都合での解釈ではなく、謙虚に子どもや自然から学ぶ姿勢にこそ本来の人間を見守っていることになると私は思います。
また見守る保育の原則に5Mというものがあります。
①もったいない(MOTTAINAI)
②むすぶ(MUSUBU)
③もてなし(MOTENASHI)
④めりはり(MERIHARI)
⑤めぐる(MEGURU)
これらの一つ一つに照らし合わせながらそれぞれが内省し、自分の在り方から生き方を見つめ謙虚に学び続けて学び直すことが原理原則からブレナイということでしょう。そういう原理原則をマスターした人たちが常に改善を続けて理念を実践していく中ではじめてそれぞれの天与の個性、つまりは持ち味が発揮されていくように思います。
大前提がズレてしまった保育や教育には、本物を維持する力がありません。引き続き、何を優先して生きるのか、保育は生き方、つまり道ですから道の大原則に沿って改心をし続けていきたいと思います。
色々と韓国から学び直すことがありました。アジアをはじめ世界の子どもたちのためにも自分自身の改革を緩めずに努めていきたいと思います。ありがとうございました。