いっぱいの愛

経年変化したものに触れていると、味わい深さに心が感応します。この感応は何に感応するのか、それはそのものがいろいろな生の体験をすることで得た思い出を味わっているのです。

物には「物語」があります。本来、土や木、石や鉄だったものが人のチカラを借りて姿かたちを顕します。そして物にいのちが宿ります。そのいのちは、新しく生まれたての赤ちゃんだったものが多くの環境を通して様々なものと共鳴しあい、そして使い手との物語を経て、そして今に遺ります。

今、このブログを書いている机も百数十年前のものですがきっとこの机が生まれたときは別の人が大切に丁寧に使っていたのでしょう。それが親から子へと譲り渡され、その後多くのご縁をつたってきて今私の処に来ています。それまで愛され大事にされているから捨てられずに今でも残っているのであり、丁寧に大事に扱ってきたからこそ今でも十分機能してくれて私の思い出の手助けをしてくれています。

こうやって一緒に過ごしてきた思い出、主人を何人も換えて何世代も超えても生き続けてお役に立ち続けている存在。最初に作った人はどのような気持ちでこの机のいのちを吹き込んだのか、それを思うと心が感動して胸にこみ上げてくるものがあります。

大事に磨き、ありがとねと御礼をすると道具もまた会釈してくるかのような感覚があります。ものは決していのちがない存在ではなく、すべての道具にはいのちがあります。そのいのちは思い出という養分を吸い上げて愛をいっぱい授かって育ち成長し続けていきます。

まだまだ何かのお役に立てると信じていきているのだから、そのいのちを見極めいのちを活かすのが人間のお役目の一つです。引き続き、いのちを大切にしながらいっぱいの愛を込めて味わい深いいのちを子どもたちへ譲っていきたいと思います。

義は勇なり

時代は変わっていく中で、誰かがやらなければならないことがあります。その最初の誰かになるのは大変なことですが、その誰かはただ待っていても顕れませんから自分がやるしかありません。

人は主体的に生きるといっても、その根底には道徳がなければならないように思います。道徳がある人は、積極的な人生を送ります。なぜなら先ほどの誰もやらないのなら自分がやると決意して行動することができるからです。

これは強い意志と、行動力が必要です。それに義憤や大義、守ろうとする優しさや苦労よりも理想のためにと自分を尽くしていくことでもあります。

組織においても同じことが言えます。誰かがやるのをいつまでも待っている人、誰かがやるまで何もしない人、誰かがやっていても自分はいつまでもやらない人、つまり炭でいえばいつまでも不燃しない燻ったままの状態ということです。なぜここに火が入らないか、なぜ燃焼しないかはそうやって自分の大切な人生を誰か任せにして生きてきた生き方が染みついてしまっているからです。

学校に入り、エスカレーター式に言われた通りにやってきて評価されてくると自分は自分という考え方が刷り込まれたりします。自分ばかりを守ることに意識を使っていては、さきほどの理想のために自分を使おうという勇気が湧いてきません。

この時代、問題がたくさんあったとしても誰かがその最初の一歩を踏み出し扉を開けて風雨に晒される覚悟がなければ大事なものを守ることができません。その時代時代のそういう大義に生きた人たちの生き方のお陰様で私たちはその大義に触れて道徳に回帰します。

いくら大事だとわかっていても、守る力がなければそれは存続できません。みんな誰もが自分にはできないと思っているものですが、自分の意識の中で見過ごせないと思うものがあるのならば論語の「義を見てせざるは勇なきなり」と自己発奮、啓発して天から与えられた使命があると信じて挑戦することだと私は思います。

そういう日々の連続こそが子どもたちに遺し譲りたい生き方になり、その真心は必ず同じ大義を持つ仲間や同志へ伝承されていきます。

引き続き、社業をまい進し自他一体、道徳一致に取り組んでいきたいと思います。

自然は真の営みの道

今回、1週間をかけてクルーたちと一緒に古民家再生をしながら暮らしを共にしましたが発見ばかりの日々で改めて古来の生き方を学び直すことができたように思います。

朝、炭火に火をいれて朝食をつくり布団干しや掃除、その他の家の手入れをしていたらすぐに昼前になり昼食を用意します。午後もまた、庭の草刈りや拭き掃除、夕飯の支度をしていたらすぐに夜になります。夕食後、炭でお風呂を沸かしお茶を入れて後片付けをしていたらもう寝る時間になります。

スイッチ一つの快適な生活には、時間が豊富にあり娯楽がありますがここでの古民家暮らしはまったく娯楽をする時間などが存在できません。暮らしの手入れをする合間に、休憩をして少し寛ぐことがあったとしても何もすることがないということがありません。

先日、家の前を通りがかったお婆さんが家の道具を見て「懐かしい」とクルーに声をかけてくださったそうです。その際、「昔の女性はやることがたくさんあって毎日が充実していた」と仰っていました。お婆さんの家にガスのキッチンが入ったのは昭和41年ころだたそうです。それからずいぶん便利になって炭を使うこともなくなったそうです。

確かに私たちは文明を進歩させ、いろいろなことが便利に楽になりましたが文明の進歩は人間の欲望の進歩でもありました。これは文化の進化とは異なるものです。文化の進化は悠久の時間をかけてじっくりと混然一体に周りと調和しながら自分自身を変体していきます。しかし文明の進歩は自分の方は変わらずに、周りを道具を使って操作して変化させていきます。

お婆さんが懐かしそうに昔の大変だったけれど充実した暮らしがあったという話を聴きながら人間の豊かさとは一体何かと今一度、考えさせられる思いです。自然から離れ人間にとって快適で怠惰な生活ができるようになり、死生観も失われ毎日は豊かになったと思い込んでいますが地球全体の循環や、先祖たちとの一体感も薄れある部分は急激に貧しくなったように思います。もったいなさというものが消えれば消えるほどに私たちは自然から遠ざかっていきます。

この1週間のここでの暮らしは確かに自然と生きるための営みに満ちていました、

自然と共に暮らすというのは、文化の進化と共に歩む道です。自然は真の営みの道なのです。

引き続き、文化発展の可能性を見直しながら温故知新し、今の時代に必要な本当の豊かさを学び直し子どもたちに先祖の生き方と生きざまをそのままに伝承していきたいと思います。

先祖たちの真心

昨日、大工さんたちによって110年の重みで傾いた古民家の柱を立て直す作業が実施されました。本来は土壁を剥がして瓦を降ろし、柱をすべて組みなおすことで解体し立て直すのですが今回はジャッキアップすることで対応しました。

現在は古民家の再生をする大工さんも少なくなり、昔からのやり方を伝承している人たちもいなくなってきました。現代工法というものは、洋式建築が中心に法律が改定され続けましたから昔ながらの建物の修理の技術も廃れていきました。

古民家は住んですぐにわかるのが、通気性です。ありとあらゆる場所や材料が呼吸しており、雨が降れば建具が湿気で重くなり、風が吹けばあらゆる場所から隙間風が吹いてきます。普段は感じない家の呼吸も、お香を焚いてみればすぐにゆらゆらと吸っては吐き、吐いては吸うといった家の呼吸を感じられます。

今回は立て直しにおいてすべての床を剥がして骨組みになりましたが、その下からは110年前の土が出てきます。今ではコンクリートで固めてしまって、下はまったく呼吸できなくしていますが土はもっとも呼吸する存在ですから水気が下から湧き出てきます。

この水気は、呼吸大学の宮本一住さんによれば縦の風といって下から上へと水分が蒸発していくときに呼吸する仕組みになっているといいます。確かに植物たちや木々は、下からの水分や水蒸気を浴びて呼吸を繰り返し成長していきます。

木造建築でできた日本家屋が何百年も維持できるのは、この自然の仕組みを上手に取り入れたからかもしれません。今ではこの土間をコンクリートで固めることで、気密性は高まりましたが傷みやすく長持ちしない家になってしまいました。

大量生産大量消費、効率優先経済効果ばかりをなんでも先にしてしまうと、それまでの先祖たちの知恵や恩恵、いわば宝ともいえるものを捨ててしまうことになります。そうやって数十年も経てばあっという間に技術も伝承も断絶してしまいます。

伝える仕事というものは、今ではあまり価値がないように思われていますがかつては伝承する人こそが国宝だったように思います。なにをもって国宝とするか、それは先祖恩人たちの道を継承して踏み歩く人々だと私は思います。

これから床下に、備長炭を埋炭していきますがこれも私が発酵から学んだ知恵です。土は炭を埋め、まくことで土着菌たちの安心した住処になります。そしてこの菌たちが木を活かし、土を活かし、そこに住まう人々の健康を守ります。

古民家は共生の住処です。

引き続き、古民家再生を通して先祖たちの真心に触れていきたいと思います。

 

独立自尊、禍福を転じる

古民家再生をしつつ、電気や水道周りなども自分で直しています。今までは専門業者でないと直すことができないと思い込んでいましたが、いざ家を修理すると覚悟を決めるとなんでもできるから不思議なものです。

自然農のときも、自然養鶏のときも、また古民家再生、これからはじめる風土報徳も、最初は一人で覚悟を決めます。何よりも自分自身がやると決心することは、何よりも大切なことでないものずくしのなかであっても自分がやると決めることで周りも動き出していきます。

人間は、この「決心」というものが何よりもハタラキを育みます。

そしてその後、その決心をみては助けてくださる人たちが出てきます。自分でやろうと決めた人を応援したいと思うのです。一人ではできないことを一人でもやろうとするのだから見ていられないことばかりです。人にはなさけ(情)があり、有り難いそのお情けを与えてくれます。

これは天のお情けも同じく、何とかしようとしている真心に加勢してくださるのです。お陰様も感謝もまた、そういう決心をすることで今まで以上に感じることができるようになります。

つまり独立自尊、まずは自分自身が自分の心と正対し折り合いをつけて言い訳を断つことで初心が固まりその行動が正直になり迷いが消えるのでしょう。

悩むことは迷いは同じではありませんから、「悩むけれど迷わない」というのが初心、決心をしている状態ということです。どんな結果になったとしても、自分自身で決めたことだからと清々しい境地を維持することができるのです。

そのために全体にとっていいか、未来にとっていいか、世界にとっていいか、地球にとってどうか、歴史をみてどうかと、あらゆる基準に照らしながら自問自答し悩み切ることは必要かもしれません。

どんな日々も、つながりとご縁の中の一期一会ですから一つの決断が次の今をつくっていきます。

独立自尊、禍福を転じつつ、楽しみ味わいながら歩みたいと思います。

五感と暮らし

暮らしの再生をするにおいて、何よりも大切なのは五感を使うことです。今の時代は暮らしが消失してきているといいますが、それは言い換えるのなら五感が消失してきているということです。

地球上のありとあらゆる生き物は五感を使って生活をしています。春夏秋冬や気温差、湿気、日差し、ありとあらゆるものを五感を研ぎ澄ませて実感しそれを活かして生活を営みます。かつての人間も同じく、頭で計算して生きていたのではなく五感をフル稼働して日々の生活を営みました。

今では、便利に機械や道具に囲まれ自分たちの五感を楽させては五感を使わないですむような生活にどっぷりとつかっています。頭で計算している世界というのは、五感を使わなくてすむ便利な世界です。そんな便利な世界の中では、五感は衰える一方で暮らしも衰退していきます。

五感が暮らしをつくるのは、少し体験すればだれでもわかります。例えば、私が実践する炭でいえば朝から鉄瓶に水を入れお湯を沸かします。その一つ一つが水の手触り、白い湯気、鉄が沸かす音、火の香り、茶葉の味わい、まだまだ並べるといくらでも書けそうなほどに五感を使っています。

他にも昨日は古民家で掃除をし柱を磨きましたが、磨けば磨くほどにそのものの味わいがにじみ出てきます。私たちは古いものを磨くことで刻とご縁を五感で直観しているのです。

古民家に住めばすぐにわかりますが、この古民家は常に五感を使います。五感を磨き続けています。それは別に五感を鍛えていたからこういう家を建てていたのではなく、暮らしが五感だったからなのです。五感を使わない暮らしなどは存在しなかったということです。

その五感を使うことが「豊かさの本質」であり、豊かになったというのは物が溢れたからそうなるのではなく、五感を活かした暮らしができているから豊かなのです。昔は今と違ってほとんど物がなく、今と比較すると貧しいと思われるでしょう。しかし実際は、物が溢れていなくても五感を使う生き方をすれば地球と混然一体になれ、その豊かさは何物にも代えがたい安心感と充実感を与えてくれるのです。

今の時代は大量生産大量消費のグローバリゼーションがとどまるところを知らず、このままでは必ず資源を食いつぶしてしまいます。もうほとんど手遅れかもしれません、しかしここでの転換は別の豊かさというものの発掘になるように思います。

人間が機械と同居するには、この五感を一緒に用いる仕組みにしなくてはなりませんし家屋においては五感を感じられる住まいを見直す必要があると私は思います。

子どもたちのためにも、大人たちが五感を使う豊かな暮らしのモデルを示していきたいと思います。聴福庵の復古創新から、かつての豊かな暮らしを味わい伝承していきたいと思います。

 

共生の理

昨日も引き続き、自然農の畑に妙見高菜の種をまきました。畑の中にはありとあらゆる虫たちが営み生活をしています。都会に出ればほとんど見かけない虫も、畑に出れば虫を見かけないところがないほどに溢れています。

自然農にとっての虫というのは、畑にとっての大切な養分であり肥料にもなります。牛糞などで肥料を入れて肥やさなくても、虫たちの生活の中で出てくる糞や死骸が土に混ざり大切な養分になります。

そもそも自然の雑草地において、そこに畑を作ろうとしたのは人間です。それまで棲んで暮らしていた生き物たちの居場所を壊して私たちはそこに畑を耕作します。一般的にはその虫たちを薬で排除して、機械で攪拌して粉々にしたらそこにビニールハウスなどを設置して育てていくものですがそれではそれまで生きてきた生き物たちはみな生活できなくなってしまいます。

お互いに分け合い、お互いの居場所を尊重しながらお互いに生活や暮らしを営んでいこうとするのが自然農です。つまりは取りすぎず奪いすぎず、お互い思いやりを持って分け合い助け合っていこうとする農法です。

これは生き方も同じく、自分さえよければいいとし全部自分の都合でばかり動かしてしまうとその力の陰で苦しんで者たちが出てきます。しかし実際に生きていくためにはお互い食べ物を食べなければなりません。だからこそ互いにどうやったら折り合いをつけられるか、またどうやったら共生できるかを考えるのです。

自然というものはそうやって共生に沿ってお互いに助け合っています。お互いが戦いを避けて、お互いが争いがないようにそれぞれが厳しい環境へと移動していくのです。これは共生の理に生きているからであり、みんな生き物たちは戦略をもって広い地球の中で争わないでいいようにと移動し進化を経てきたのです。

今は、文化の進化よりも文明の進歩を優先し争いの方へ、奪い合いの方へと舵がきられています。共生をすれば広い地球の中で多様性を維持して永続できる暮らしが約束されていましたが人間が独占すれば地球は画一化しより狭くなり暮らしていくことができなくなるでしょう。

自分の代だけでいい、自分の生だけでいい、いまのツケは未来へ先送りとしてしまえば子どもたちがその代償を払わなくてはならなくなります。取り返しのつかない代償は、いままさにここで発生しているのです。

だからこそ、いま、ここを変えることは未来を換えることです。人ひとりの生き方の転換は人生を変えることです。そしてその一人の人生の転換があって未来は変わっていきます。

自然から学びなおすのはいつもお互いに思いやり助け合い、生きものたちと共に末永く一緒に暮らしていこうとする地球の存在です。引き続き、自然を身近に感じつつ生き方を転じて実践を積み重ねていきたいと思います。

心音のチカラ

昨日は妙見高菜の種まきのために畝を整え表土を削り草をかけたりと一日中畑作業をしました。バッタやコオロギなど秋の音楽が畑中に広がり、ススキやその他の夏草たちが命を全うする景色に季節の移り変わりを感じます。

地球にはリズムがあります。私たちは様々な音楽の中で暮らしを営み、全身全霊で地球で聴こえてくる音楽に耳を澄ませて心を委ねていきます。

夜になれば夜の音楽、朝になれば朝の音楽があります。

また風が吹けば風にのって響いてくる音楽が聴こえます。

土に手を当てて、土の中の音楽を聴けばそこにも地球の息吹きを感じます。

私達の呼吸一つ、私たちの暮らしの中には耳には聞こえなくても聴こえてくる脈動のような心音があります。この心音は心を澄ませたとき、響き渡ってくるものです。

頭で計算したり、人工的に計画したりをやめてただ地球の音に耳を傾けてみる。
そしてその存在が和合してつながりを持ち合っている波長にあわせてみる。

宇宙にはいつもぐるぐると回転している闇の音楽が鳴り響いています。

闇のチカラとは決して悪いものではありません。闇は私たちが自然から離れ忘れてしまった太古から流れる脈動です。

その脈動に耳を澄ませて心が音を感じることができるなら大きなやすらぎと平和が訪れます。

瞑想というものの本質はこの闇の音楽に耳を傾けることです。

引き続き自然をよく観察し、自然と和合し、自然を学び直して自らを変化させていきたいと思います。

持ち味の発揮

ブランディングという言葉があります。全てのものにはブランドといものがあります。ブランドという言葉の語源は、他人の牛から自分の牛を区別するために牛のわき腹に焼き印を押すという意味の「burned」が語源であると言われています。そこから転じて他と区別するという使われ方になっています。このブランドの意味について深めてみようと思います。

英語ではBRANDにINGがついてブランディングということになります。これは名詞ではなく動詞です。私はこのブランドは無機質ではなく生命であると思っています。目的や意志を持ち、生きるものには生命が宿るからです。そして私はこのブランディングの定義を持ち味であるとしています。なぜならこの持ち味は、その社會全体の中で存在するもので単体では存在できないものだからです。

例えば、他人によってはブランドを差別化戦略などという言葉を用いる人もいますが本来、何を使命にしているか、自分たちが何のためにという目的を明確に打ち出して取り組むかでそれぞれの持ち味は変わってきます。その組織やその人が明確な理念があるのなら、次第にそれはブランド化していくということです。人は無理に周りと比べて違いを出すのではなく、理念を優先する中で無私になるとき己の持ち味が引き出されて全体に感化していくのです。まるで自然界がそれぞれの植物たちが多様に共生するようにそれぞれは自然の理に沿って真摯に生き切っているだけですがその中で全体にとって必要な役割と持ち味が発揮され全体が循環していくのと同じようにです。

そしてブランドがINGが入り動詞であるというのは、社會の中での意義や理念がそれぞれに生き続けて時代の変化の濁流の中でも杭がしっかりと立っていることを証明します。

アメリカの広告会社TWBACEOのジャン・マリー・ドル―氏が「アップルは反抗し、IBMは答えを出し、ナイキは熱く語り、ヴァージンは啓発し、ソニーは夢を見て、ベネトンは抵抗する。 つまり、ブランドとは名詞ではなく、動詞だ。」と言いました。

ブランドというものは、それぞれの使命が社會の中で生き続けていることでありその生き続けるものが実践され顕現するほどに可視化されたとき周囲にそのものの目的が伝わりはじめるのです。

そしてその目的がたくさんの人たちに共感されることで、そのものの価値や持ち味が認められるのです。そしてこれは決して単に見せかけで見た目だけを誤魔化してできるものではなく、創業者をはじめ一緒に取り組む仲間たちが強烈に一つの思いのためにいのちを懸けて真摯に実践を積み重ねたうえではじめて味が出てくるのです。自己をなくすほどに渾然一体となった祈りや願いや行動は自我の色を超えて透過した存在になっていくのです。まるで空気のようなもので、ないようにみえてここにはなくてはならないそのものの持ち味があります。

つまり持ち味とは、自分の根源的な性質が引き出されることを言います。つまりは比較や数値などでは測れず、点数もつけられず評価もできないものが出てくるということです。つまりは存在そのものの意味や、自分を超えた存在が滲み出てくるということです。それは産まれながらに持っているものであり、地球の味や月の味、宇宙の味が出てくるのに似ています。そのもののもっているあるがままの価値がブランドとして顕現するのです。

ブランディングというのは日々の小さな理念の実践、その思いの積み重ねによって実現するものです。

一日一日はそのブランドが練り上げられる修練の日々でもあります。これは稽古と同じで、怠ることはできません。持ち味の発揮は無私による真心の実践ですから引き続き理念を省み真摯に挑戦していきたいと思います。

 

むすびと御祭り

御祭りを深めていますが、そもそも日本人の和の精神とは何か、和を実践するとは何か、そこから考えてみると改めて御祭りの本質が観えてくるように思います。

和というものは、言い換えるのなら「むすび」のことです。出雲大社の注連縄のように、一本一本が強く結びつき束になることで強固な絆が産まれます。何を大切にして生きていけばいいか、それは親祖の時から私たちに神社の姿として伝承されてきています。

稲作を通して、稲作の行事の在り方を学び、そこから顕れてくる様々なプロセスを伝承の仕組みにしていたのが先祖の智慧です。もっとも食べる主食は私達には欠かせず、それをどのように見守り育ちそして収穫し感謝するかはその一連の流れを通して私たちの魂に呼び覚まされ維持されてきたものです。

今では生活が一変し、生活が消失して暮らしから遠ざかり只管に労働することばかりが優先されて社會そのものがなくなってきています。

本来、社會とは結びつきによって存在するものです。その結びつきとは古来からの「むすび」のことで、結束のことです。結束していくことで社會が強く優しくなり安心して暮らしていける風土が醸成されていきます。

何よりもその風土を守っていくことが、私たちの先祖たちが人類に戒めたことでありその風土を破壊してしまうバラバラが結束を崩していきます。それぞれが我儘にバラバラになったら人類はとても弱く自然界では生きていけません。そういうことがないようにと、様々な暮らしを通して私たちが結束を確認することを行っていたのです。

御祭りも同じで、結束を確認し、結束を強くするために使われてきた伝統行事です。伝統というものは、理念であり初心のことです。それを継続することで継承するのが私たち子孫の姿です。

御祭りが続いていくというのは、御祭りの本質を守り続けていくということです。今の時代のように単なるお祭り騒ぎやイベントを御祭りにしていてもそれは結束を強くするものではなく娯楽の域を超えません。

大事なことは何のためにそれが行われるのかを忘れないことです。改めて継続しているからこそ、初心を忘れずに本来の目的を見落とさないように大切に改善を続けていきたいと思います。すべての行事は神事であり、私たちは先祖と一緒に結ばれていますからそのままの真心を大切に紡いでいきたいと思います。

御祭りに御先祖様と風土をお祈りしたいと思います。