練り歩く

先日、御神輿を担ぎ街中を練り歩きましたがこれは列になってゆっくりと歩くことだと言われます。しかしこの練るという言葉は、単にゆっくりと列になって歩くことだけを意味するのではなく混然と融け合ったり、こねて粘らせていくなどの意味もあります。

和を背負い、和を一緒にしていくというのは御神輿を担ぎながら一人ひとりが錬成していくということです。錬成とは、ねりきたえ立派な人に成ることをいいます。錬磨育成という言葉もあります。練り歩くというのは、練磨するということであり歩くことで心身や精神を磨いていくということです。

御祭りというものは、日々の暮らしの延長にあるものです。日々の暮らしは御蔭様に感謝し、自分自身を見守り支えてくださっているものへの恩返しとして御蔭様に貢献しようとする実践です。日々の年中行事もまたすべてはその御蔭様を忘れないために行っているものであり、目には見えないけれど自分をいつも陰ひなたから助けてくださっている存在への御礼として慎み執り行っているものの線上にあるものです。

この練るという言葉は「磨く」という言葉と同じ意味を顕します。つまりは磨き続けることで光り続ける、古民家再生で磨き直していても分かりますが古いものが新しくなり甦生するということです。

この甦生というのは、練り歩くことで実現します。練り歩くというのは磨き直すということで、常に日々に自分を磨き続けることで本質を維持し続けるということです。そしてそれを甦生とも言います。甦生は単によみがえることだけを言うのではなく温故知新していくということもあります。

本来の姿が、くすんでしまわないように、汚れて隠れてしまわないように、埃かぶって埋もれてしまわないようにと「練る」「磨く」のが甦生です。そしてこの御祭りの本質もまたこの甦生を意味します。

古くなっていくからこそ、磨き直す必要がある。自然の中においては自然が自然に戻そうと「回帰するチカラ」が働くからこそ、いつまでもこの世に遺しておこうと「維持するチカラ」を働かせるのです。

これが初心伝承の仕組みなのです。

御祭りを通して甦生を学び直しましたが、この甦生は単に町の甦生や人々の甦生に限らず、日本の甦生であり、魂の甦生にもなります。私たちが日々に生きている一日一日は御神輿を一緒に担ぎ道を練り歩いていることと同じです。何を実践することが御祭りなのか、その意味を間違うことなく本質を守り抜いていきたいと思います。

暮らしを祀る実践

御祭りの体験からいろいろと現代社会のことを省みる機会が増えています。都内だけではなく全国各地では年々御祭りに参加する人も少なくなり御祭りが次第に廃れてなくなっていくところが出ているともいいます。人口の減少、少子高齢、過疎、都市化、神社の荒廃と共に、お祭りができなくなっていくところや伝統の価値が消失し人気が失せて続けられなくなったところもあります。

かつて日本では御祭りというのは暮らしの年中行事であり、当たり前に実施されていたものです。お米づくりにはじまり収穫祭、その他の穢れを払う年中行事のなかであらゆる御祭りは神事として皆で大切に執り行われました。

今では御祭りはかつての伝統の神事としてよりも経済活動や一過性の地域活性化の企画としてイベント化しているところも増えています。イベントになってしまえば企画次第ではやったりやらなかったり、それまでの御祭りの本質を歪めてしまっています。

本来、先祖たちが当たり前に大切にされてきた感謝報恩の御参りやいつも心を澄まして周りと助け合い思いやりを和を優先していこうとした生き方などが行事を通して実践していたのです。しかし今日では、その実践することだけが失われてしまったということです。実践というものは初心を忘れないために行うものですから、実践しなくなればすぐに初心は失われてしまうのです。

そしてこの実践というものは一過性の経済効果や結果だけをみて一喜一憂すればいいというものではありません。実践は、初心を忘れないために続けていくことや省みること改善することを通してその体験は何だったかをそれぞれが自己の内面と深く対峙してその体験を積み重ねてその本質を磨き昇華していくことです。それは真玉磨きであり、魂を高め真魂を透明に澄ます日本民族の思想根本と繋がっているのです。

そして日本の御祭りにおいては更に「和」の心を尊び、自然に沿った道を歩んでいこうとあらゆる御祭り行われてきました。また穢れを払い、洗い清めれば和楽が訪れるという神話の歴史で語り継がれてきたような体験をいつまでも忘れないように実践で伝承し継承されてきました。

今ではその初心伝承をするためというよりも、集客力があり経済効果があるイベントとして主催者が一方的に行っているものになりました。御祭りは地域の人々みんなが参画して感謝のカタチをいつも見守り鎮守してくださっているその土地の神様に示すものです。

本来は御祭りは自分の暮らしにとても密着していたものです、暮らしが消失しているからこそ御祭りもまた消失していきます。政府は「働き方の改善を」と言いますが、実際に暮らしが仕事と切り離され、働くために仕事をする人ばかりになってしまった今日、かつての先祖たちのように暮らすために働く人がどれだけ増えるかは政治の在り方と人々の生き方に懸っています。

神事と共に暮らしていく豊かさというものは、御祭りを通して再認識できるものです。先祖たちが今まで私たちに繋いでくれたもの、今の自分たちを下支えしてくださっている存在、それまでのさまざまな御恩、暮らしはそういうものとつながって生きていく私たちの人生の実践であるのです。その暮らしは年中行事に顕れていますから御祭りはその「暮らしを祀る実践」ということになるはずです。

引き続き、何が日本人で何を実践するのが日本なのか。視野を広くして深めてみたいと思います。

時機を待つ

生き物は植物に限らず、人間も自己修養することで成熟していくことができます。例えば稲でいえば、種を蒔き芽が出て花が咲き実がなります。それはすべてにおいて時期があります。

時機というものは、そのものが最も育っている時です。そしてその機は発達のタイミングのことです。花が咲く時機に花が咲かなくては実にまではなりません。その自然のサイクルに従って如何に育つか、それはそのものが素直に健全に実力をつけるために体験が必要なのです。

そして生き物は実をつけます、実をつけるというのは種になるということです。しかしその実が青いままでは収穫しても種にもならず食べることも出来ません。如何にその実が熟すのを待つか、それは時機を蓄えるということです。いくら結果を先に求めても、実力が備わるまでは青いままです。これを熟す前の状態、つまり未熟と言います。

未熟と言えばよく未熟者と言われ、愚か者や馬鹿者のように揶揄されますが本来はまだ熟するところまで来ていないというところなのです。

だからこそ熟すためには自己修養を続け、自分を磨き続け謙虚さを持てるよう人格を高めていくしかありません。そして陰徳を積んでは、その陰徳が蓄えられ陽報が訪れる時機をじっと待つのです。

自分磨きと言うのは、つまりは自分の感情に左右されずに初心を実践していくことです。自分で決めた方の生き方を、自我欲や感情に流されずに優先することができるようになるということです。

稲には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺があります。成熟し完熟すればするほどに実がなります。実が種になり次世代へと繋がるのは、そのものの生が一生懸命に育ったことの証明でもあります。

人間は自分の代だけですべてが終わるわけではなく、必ず後人や後輩たち子どもたちがその後を続いていきますから自分の代でいい加減なことをすることはできません。引き続き、自己修養をして時機を待ち精進していきたいと思います。

先に進む~先人の本質~

リーダーという仕事、指導者というものはその道で誰よりも先に進んでいる存在でもあります。この先に進むとは何か、それは別に能力が高いからではなく知識があるからでもなく、権力があるからでもなく、立場が上だから進んでいるわけではありません。先に進むというのは、自己修養を怠らないということです。言い換えれば、道を歩むにおいて誰よりもサボらずに真摯に向き合って学びこんでいる人物とも言えます。

例えば、サボる怠けるというのは楽を選ぶということです。自分がしなくてもいい方法や、自分が苦労を避ける方法を、安易に体験しなくてもいい方法など、自分自身で愚直に体験をし自分自身を磨くためにその出来事を向き合い深め研鑽を積んだりするのをしなくなるということです。もしもリーダーや指導者がそんなことをすると皆と一緒に一つの目的に向かって一丸となっていくことがありません。

誰かがやってもらって自分が楽をするのではそんな人には誰もついていかないからです。そしてついてこないというのはやらせているだけで何も一緒にもやっていないということです。みんなと一緒に進む中で先に進む存在は、その中の誰よりも真摯に現実と向き合い理想の実現に励み、苦労を惜しまずに努力をしているから周りよりも先に進んでいるのです。

この先に進むの意味は、リーダーや指導者の本質であろうと思います。自分自身がそれを怠りサボり、怠けていたら道から外れてしまいます。道というものは万人に存在する道理であり、その道を歩むものたちが仲間になって一緒に人生を豊かにします。一緒に旅をするのにその旅の目的を忘れ、楽して目的地にいくことばかりを考えていたら大切なものを失ってしまうものです。

人生の旅路において、思い出深く豊かで学びが深いものはみんな苦労することばかりです。しかしそれでも楽しいと思えるのは挑戦し続けることであり、精進を怠らないからであり、怠惰な自分自身に打ち克って道を極めて達しようとする日々の実践次第によるものだと私は思います。

人間には運がありますから、もちろんどうにもならないこともありますがその運を育て磨くのはそうやって先を進み徳を積んでいくしかありません。日々の苦労を感謝に換えて、日々の出来事を思いやりに換えて、自分自身と向き合ったうえで楽観的に御蔭様に感謝して生きていくのもまた実践の一つです。

今の時代は恵まれすぎて怠け心の方が育っていきやすい環境にあります。何もせずに楽して得たものの方が得をしたとかラッキーだとか思い込んでいる価値観も蔓延しています。苦労して眠れない日々と矛盾が魂を鍛え、人間関係のトラブルで感情と正対し精神を鍛え、大変さや疲れと休息が心と身体を鍛え、先人はみんな鍛錬して徳を積んできたのです。そうやって有り難い体験の中から日々の当たり前に感謝して、恩恵を忘れず、御蔭様をみては御恩返しをしようと向き合って反省していかなければいともたやすく日々に流されて怠けてサボってしまうものです。

果たして自分は道を先に進んでいるか、まだまだ未熟な自分を受け容れることができないでいます。

自分自身にそういう楽をする気持ちが出てこないか、妥協しようとする気持ちになっていないか、常に自分の理念から心を見つめ学び直し改善を続けて誰よりも強い熱量をもって道を実践しているか、子どもたちのためにも日々を省みて先を進めるように精進していきたいと思います。

後世に糸を紡ぐ

聴福庵に布団を入れていますが、昔の懐かしい木綿布団をつかうことにしています。今ではほとんどがベッドでの羽毛布団が中心になりかつての馴染み深い木綿布団が消えていきました。私の小さい頃に、東北の母の実家で寝た木綿布団の感覚が忘れられません。確かに最初は冷たくまた重いのですが、布団に入ってから寝ているとなんともいえない心地よさに布団の有り難さを感じたものです。

今ではほとんどが布団は使い捨てになり、かつてのようなお仕立て直しや打ち直しというリサイクルや循環のシステムも一緒に失われました。安価でポリエステルなどの化学繊維が混ぜ込まれ次第に本物の木綿の品質も下がってしまいみんな木綿から遠ざかってしまいました。これは日本酒が純米酒から醸造アルコールになり発酵させずにアルコール添加に換えたことで次第に日本酒から遠ざかり西洋のお酒ばかりが人気になり昔ながらの酒蔵がなくなっていたのと同じ仕組みです。

大量生産大量消費、効率優先の社会では安くて大量に売れる便利なものを扱うことが価値があるような価値観に埋め尽くされています。数と量の論理ですから、少量生産少量消費、手間暇優先という昔から大事にされてきたものづくりの真心は全否定されてしまいました。

そうしているうちにかつての伝統まで絶滅に追い込まれ、後を継ぐ人もいなくなり技術も精神もまた品質も一緒に消えていきます。いくら物は今の技術で近づけても、かつての生き方は近づけることはできません。そろそろ豊かな社會の創造に向けて私たちはその生き方にお金を払う時代になってもいいと思います。

木綿の話に戻ります。

木綿というものは、アオイ科のワタのまわりにできる白い綿毛からとれるものです。このワタは古代からずっと人類が活用した道具で紀元前8000年くらい前の遺跡からも出てあるそうです。日本では799年に三河国へ漂着したインド人によって木綿布が伝来したと日本後記にでています。そして日本では戦国時代以降に急速に普及したといいます。

木綿が流通するまでは麻を使って着物などにしていましたが、麻は冬は不向きでこれを何枚も重ね着して寒さを凌いでいましたが木綿の御蔭で冬は暖をしっかりととれるようになったとも言えます。それに日本の風土は高温多湿でこの木綿はとても湿気を吸い取ってくれます。乾燥も早く日本の風土に適した繊維なのです。羽毛においては湿気をためる性質もあり、今のように気密性の高く空調が整備されている室内においては便利ですがかつての隙間の多い自然と一体になった家屋の暮らしの中では木綿がとても理に適った繊維だったのです。

その後、明治以降は輸入木綿が中心になり高度経済成長と共に日本国内の木綿は失われていきました。和布団もまた、畳や木造、和室の減少と共に次第に洋物に変わっていったとも言えます。

現在、古民家を通して暮らしの再生をしていますがかつて職人たちに手作りされたものはそのものの素材と対話しその素材の持ち味を活かし切っていました。今では大量生産し同じものを画一化してスピーディに効率よく機械で生産するようになってそのような持ち味や旬などと言った言葉も死語になってきました。

すべての自然素材には旬と持ち味があります。こういうものは同じく人間の個性にもあります。同じ人間を大量につくり大量に消費する、顔の見えない使い捨ての文化は決してモノだけにおきている出来事ではありません。自分たちが同じように扱われたくないものを自分がやっていては次第に自分の価値観もそのようになってしまうかもしれません。

古来からの素材を活かした大切な道具を、如何に今の時代でも活かして使っていくかはその人の生き方が決めます。伝統が大切だとか継承が大事だと色々といいますが、日々の暮らしの実践がどうなっているのか、自分自身の生き方をまず転換する必要を私は感じます。

引き続き子ども達に遺し譲りたいものを磨き直し、後世にその生き方の糸を紡いでいきたいと思います。

 

 

ハタラキ

自然には「ハタラキ」というものがあります。私たちの人間にも同様に働きがあります。これは動植物から無機質に至るまで存在している法理でもあります。

例えば、私たち人間でいえば動いているときには動いているハタラキがあります。それは各機能がそれぞれに活動して何かを成し遂げようとします。また同時に今度は休んでいる時にも休んでいるハタラキがあります。その両方とも大切なハタラキであり、一時も已むことがありません。

これは太陽や月、地球の運行なども同じです。昼は太陽、夜は月と動静を生き物たちは繰り返しますがそのどれも大切なハタラキがあり無駄などは一切ありません。つまりハタラキとはすべてのことに大切な意味があり、自分が動こうが動かざるが関係なく常にハタラキ続けている存在があるということです。

しかし人間は自分の都合でこれは働いたとか時間の無駄だったとか、休んだとかサボったとか自分勝手な判断をしてハタラキではなく単なる作業や業務のように 働きを勘違いする人もいます。

もちろん自分がやりたいことができたら充実した一日を送れ無駄ではなかったと思うのでしょうが、無駄であったと思った一日ですらその蔭に大切なハタラキがあったのです。

これらのハタラキは、一瞬たりとも已まずに常に偉大な他力と自力が合わさって全体の調和のために活動し続けます。これはカラダも同じく、常に何かをしてもしなくても私たちの身体は調和をとるためにいつもハタラキ続けています。心臓の鼓動も呼吸も、そして新陳代謝もすべて私たちのハタラキの中です。

そしてこのハタラキのことを私は「いのち」と呼びます。いのちの世界は常に已まずにハタラキますから私たちはこの世に来て活かされている存在になっているのでしょう。

だからこそこのハタラキそのものに感謝して、その恩恵の一部に自分があることを自覚することがいのちと一体になって生きることのように思います。太陽も月も地球も常にハタラキは感じられます。

いのちが輝き続ける姿をイメージすることで、ハタラキもまた観直に感じられます。引き続き、子ども達のためにもこのハタラキの存在を感じられるような環境を用意して見守っていきたいと思います。

自分の選択

人生というものは選択と決断によって今を切り拓いていくものです。今というものを振り返ってみるとそれは過去の一つ一つの自分の選択の結果が今にあるということです。あの時、違う選択をしていたらどうなったかそれは今を見れば想像がつくと思います。今が幸せかどうかというのは、過去の決断が今になっていいことになった、いや「善いことにしたか」というそれまでの自分の決断に伴う努力、その生き方や生き様が問われています。

人は一つの人生において自分ではどうしようもないことも発生します。また自分が思っていること以上のことが起きて自分の判断ではどうしようもないこともあります。そういう時、考えを超えて心の声に従うことや、魂の疼きに従うというような決断があります。

人は自分というものを考えるときに、自分の中にはたった一人の自分がいると思い込んでいますが自分の中にはもう一人の自分というものがあると私は思います。言い換えるのなら、心や魂といった生死を度外視して全体と繋がっている自分。それと自我や感情などと欲求や欲望を持っている個としての自分我です。このひとつのカラダの中に同居する自と分があるから人は悩み苦しみ迷い、常に今の選択をしていくなかでシーソーのように自己との対話が発生するのです。

自然界の野生の生き物たちにはこの自と分は分かれてはいません。そのものとして丸ごと一つになっているからおかしな行動も選択もありません。それは自然体のままであり、あるがままです。しかし人間は教育によって自我を持ち、自然とは「分かれて」自分というものを認識させられ持つようになります。それは本来なかったものです。先住民族や言葉を持たない文明とかけ離れた暮らしをしている人間たちはそういうものがありません。名前も持たず、上下もない、自然に地球に習い家族を形成し助け合って暮らしています。

私達はこの「個」というものを知り、人間文明を独自に創りあげてきました。それは過去の自分たちが選択をすることで今の社会を築き上げてきたとも言えます。時は流れ、時は進み、加速度的に私たちの選択した文明は地球全土を覆いました。今は、大量生産大量消費の中で誰もブレーキをかけることもなく自転車操業のように走り続けている世の中であって選択をする自由すらも失われてきつつあります。

人は心の声や魂の疼きを体験することで、自分ではどうにもならないような運命や宿命、そして定めのようなものを直感することができます。時代や時に関係なく、そのものが地球全体の循環の中でどんな役割を持っているかを自然とのつながりによって実感するのです。

人間が地球と一体になり風土に原点回帰しその中で文明を弁え生きることが出来たのならば、この今の人間文明の終焉の姿を変えてしまうことができるかもしれません。人間が本当に人間らしく生きる世の中というのは、頭でっかちになり個がバラバラに生きていく世の中を広げることではなくそれぞれが心でつながって共に生きていく世の中を広げていくことです。そうすれば無理にこぎ続ける自転車の回転を古来の水車のように緩やかに回転させる日も来るかもしれません。

人類は今、大きな選択を迫られています。

この今の選択が未来の今を創造するからこそ、自分が今選択し決断することを後悔したくないと思います。子ども達の未来は、今の私の決断と選択が決定づけます。常に選択を誤らないよう、本当の自分自信、あるがままの自然体になって世の中で自分の役割を全うしたいと思います。

適合適応

以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。

これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。

人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。

本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。

自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。

いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。

もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。

豊かな社會の創造

先日の藤森代表の講演で「自立は助けてもらうこと、協力してもらうこと」とありました。世の中では自立は助けてもらわないこと、独りでできることと教え込まれて刷り込まれていますが依存と自立が間違ってしまっている人が大勢いるように思います。

いつまでも持ち味を活かせないのは自分自身がいつまでも自立を勘違いしているからです。間違って歪んだ自立の刷り込みをどのように取り払うかが最初の関門になってくるように思います。これは「助けてください」と自分から言えるかどうか、また自分からいつも周りに損得を考えず積極的に尽力しているかどうかだと私は思います。

プライドが高い人や頑固な人、言い換えれば自立したいと刷り込みが深い人ほど人に助けを求めません。格好つけては助けを求めようとはしません、しかし助けを求めなければ周りとのつながりができません。人は他人に迷惑をかけている生き物だから、迷惑をかけないことを望むよりも迷惑をかけて感謝することの方が大事なのです。

そして迷惑をかけていることを自覚しているからこそ、御蔭様に感謝し御恩返しをしようと自分が周りに協力していこうとするのです。迷惑をかけている自分が、周りの迷惑を自ら引き受けるようになるのです。それが御恩返しになり、御互いの絆が深まり繋がりができ社會が形成されていきます。

今では、自分は問題を起こさずにキチンと仕事さえできて結果がでていれば迷惑をかけていないと思い込み、今度は周りが迷惑をかけるのを過度に嫌い迷惑をかける人を罵倒したりさげすんだり、いつも自分のことばかりを優先する人が自立している人などと勘違いしている人もいます。人が人に迷惑をかけていないことなどは一切ありえず、自分の知り及ばないところで本当に多大な迷惑をかけているのが人間です。

そういう存在だと自分から自分で自覚することが助けてもらい協力してもらうことが善いことであると納得することにつながっていくように私は思います。何もできない存在が価値がないではなく、何かできるから価値があるのではなく、自分の持ち味を活かして周りに貢献できているのが人間の本当の価値です。

先日、新潟での理念研修の中で重度の身体障碍者の方がお店の店長をしていた映像を見ました。車イスで動けないのですが、ひとつ商品がお客様に買ってもらえるととても嬉しそうで仕合わせな笑顔をしてくれます。社員たちはその笑顔を見たいからもっと商品を売ってはその店長に報告にいきます。

これは重度障碍者で笑顔しかできないではなく、その人の持ち味を活かしているのです。人は他人の善いところを見出しては、それを活かせばそれはその人の持ち味として周りに貢献できます。

如何に貢献できるようにするかは、その人が仕事が周りと同じくらいできるようになればいいのではなく、自分が思い込んだ結果を人並みに出せればいいのではなく、その人の持ち味を周りに使ってもらい、いつも周りのためにと尽力し続けて貢献すれば自ずから自分の持ち味を発見し社會の中で自立することになるのです。

依存というのは言い換えればいつも自分のことばかりに執着し自分勝手に我儘で周りを省みることもない状態になっていることです。感謝や恩返しなどもなく、御蔭なども忘れている状態です。社會の一員として如何に迷惑を善いものへと転換しているかは、自分勝手なことよりも周りと一緒に成長したいという豊かな社會の創造なのです。

引き続き、刷り込みを取り払うために具体的な仕組みを開発していきたいと思います。

万人共通の理念と智慧

GTサミットが無事に終了することができました。毎年この時期に、全国から集まり理念を共有したり新たな一年の方針を確認することは明日への活力になります。昨日は、来年改定される保育所保育指針についての解説と改定のポイントについて藤森代表より話がありました。

昭和40年に制定された保育指針は、平成20年にこれまでの局長通知から厚生労働大臣による告示になり遵守すべき法令として示されたものです。これは保育園においては何よりも優先されるルールであり、この保育指針に沿って保育をしているかどうかが何よりも重要だとされています。

告示化されたものをどれだけの人たちが真摯に捉えているか、全国の保育現場をみていたらまだまだその重要性を理解していない人たちが多い様に思います。同様に遵守するものとして子どもの権利条約というものがあります。

これは1989年に国連で採択され、1990年国際条約として発効 しました。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効されました。しかしこれもどれだけの教育機関や施設が重要性を理解しているかを見ているとあまりこれも理解していない人が多い様に思います。

子どもが自分らしく育つ権利というものは、世界中で認められているものです。そして子どもが自分らしく発達することを保障されていることもまた同じく日本としても国家としても何よりも守っていこうと法にまで昇華されたものです。

しかしその法律を違反するような保育や教育が行われていて、好き勝手に大人の都合で子どもの子どもらしく育つことを邪魔されたのなら子どもの人権というものは蔑ろにされてしまいます。子どもが施設で犠牲になる報道が増えてきましたが、もう一度、この当たり前のルールに沿って保育を実践するということの意味を見直す必要があるように私は思います。

そしてこの子どもの権利を守る組織は、職員の権利を守られる組織であり、組織のリーダーだけではなく保護者、関係者も含めて守られる組織になります。子どもの権利条約は大きくは4つに構成されています。

この4つは、「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」です。お金や経済ばかりを優先するあまり、当たり前ともいえるこれらの人として安心して暮らしていける権利を奪っていくという組織になってしまうのは、この大前提としての子どもの権利条約や保育所保育指針を遵守しなくなるところからはじまっています。そして保育所保育指針は子ども一人ひとりの発達を見守る保育をするということに尽きます。

何を拠所にして保育を実践するかはそれぞれの施設の方針があるのでしょうが、私たちはその前に世界で共通する理念や、人類が共通する智慧をもっと大切にしていく必要を私は感じます。

今の私たちが生活できているのは、このように世界が人間の生き方を大切にし、人類が先人からの智慧を大切に守ってきたからです。それを言語化しているものが、これらの子どもの権利条約や保育所保育指針であるのを忘れてはならないと私は思います。それが何のために行うのかの源泉であり、まさに万人共通の理念と智慧の結晶だからです。

引き続き、私たちもミマモリングを展開する事業者として保育所保育指針の重要性やその真価をしっかりと現場に伝えていきたいと思います。