共生の理

昨日も引き続き、自然農の畑に妙見高菜の種をまきました。畑の中にはありとあらゆる虫たちが営み生活をしています。都会に出ればほとんど見かけない虫も、畑に出れば虫を見かけないところがないほどに溢れています。

自然農にとっての虫というのは、畑にとっての大切な養分であり肥料にもなります。牛糞などで肥料を入れて肥やさなくても、虫たちの生活の中で出てくる糞や死骸が土に混ざり大切な養分になります。

そもそも自然の雑草地において、そこに畑を作ろうとしたのは人間です。それまで棲んで暮らしていた生き物たちの居場所を壊して私たちはそこに畑を耕作します。一般的にはその虫たちを薬で排除して、機械で攪拌して粉々にしたらそこにビニールハウスなどを設置して育てていくものですがそれではそれまで生きてきた生き物たちはみな生活できなくなってしまいます。

お互いに分け合い、お互いの居場所を尊重しながらお互いに生活や暮らしを営んでいこうとするのが自然農です。つまりは取りすぎず奪いすぎず、お互い思いやりを持って分け合い助け合っていこうとする農法です。

これは生き方も同じく、自分さえよければいいとし全部自分の都合でばかり動かしてしまうとその力の陰で苦しんで者たちが出てきます。しかし実際に生きていくためにはお互い食べ物を食べなければなりません。だからこそ互いにどうやったら折り合いをつけられるか、またどうやったら共生できるかを考えるのです。

自然というものはそうやって共生に沿ってお互いに助け合っています。お互いが戦いを避けて、お互いが争いがないようにそれぞれが厳しい環境へと移動していくのです。これは共生の理に生きているからであり、みんな生き物たちは戦略をもって広い地球の中で争わないでいいようにと移動し進化を経てきたのです。

今は、文化の進化よりも文明の進歩を優先し争いの方へ、奪い合いの方へと舵がきられています。共生をすれば広い地球の中で多様性を維持して永続できる暮らしが約束されていましたが人間が独占すれば地球は画一化しより狭くなり暮らしていくことができなくなるでしょう。

自分の代だけでいい、自分の生だけでいい、いまのツケは未来へ先送りとしてしまえば子どもたちがその代償を払わなくてはならなくなります。取り返しのつかない代償は、いままさにここで発生しているのです。

だからこそ、いま、ここを変えることは未来を換えることです。人ひとりの生き方の転換は人生を変えることです。そしてその一人の人生の転換があって未来は変わっていきます。

自然から学びなおすのはいつもお互いに思いやり助け合い、生きものたちと共に末永く一緒に暮らしていこうとする地球の存在です。引き続き、自然を身近に感じつつ生き方を転じて実践を積み重ねていきたいと思います。

心音のチカラ

昨日は妙見高菜の種まきのために畝を整え表土を削り草をかけたりと一日中畑作業をしました。バッタやコオロギなど秋の音楽が畑中に広がり、ススキやその他の夏草たちが命を全うする景色に季節の移り変わりを感じます。

地球にはリズムがあります。私たちは様々な音楽の中で暮らしを営み、全身全霊で地球で聴こえてくる音楽に耳を澄ませて心を委ねていきます。

夜になれば夜の音楽、朝になれば朝の音楽があります。

また風が吹けば風にのって響いてくる音楽が聴こえます。

土に手を当てて、土の中の音楽を聴けばそこにも地球の息吹きを感じます。

私達の呼吸一つ、私たちの暮らしの中には耳には聞こえなくても聴こえてくる脈動のような心音があります。この心音は心を澄ませたとき、響き渡ってくるものです。

頭で計算したり、人工的に計画したりをやめてただ地球の音に耳を傾けてみる。
そしてその存在が和合してつながりを持ち合っている波長にあわせてみる。

宇宙にはいつもぐるぐると回転している闇の音楽が鳴り響いています。

闇のチカラとは決して悪いものではありません。闇は私たちが自然から離れ忘れてしまった太古から流れる脈動です。

その脈動に耳を澄ませて心が音を感じることができるなら大きなやすらぎと平和が訪れます。

瞑想というものの本質はこの闇の音楽に耳を傾けることです。

引き続き自然をよく観察し、自然と和合し、自然を学び直して自らを変化させていきたいと思います。

持ち味の発揮

ブランディングという言葉があります。全てのものにはブランドといものがあります。ブランドという言葉の語源は、他人の牛から自分の牛を区別するために牛のわき腹に焼き印を押すという意味の「burned」が語源であると言われています。そこから転じて他と区別するという使われ方になっています。このブランドの意味について深めてみようと思います。

英語ではBRANDにINGがついてブランディングということになります。これは名詞ではなく動詞です。私はこのブランドは無機質ではなく生命であると思っています。目的や意志を持ち、生きるものには生命が宿るからです。そして私はこのブランディングの定義を持ち味であるとしています。なぜならこの持ち味は、その社會全体の中で存在するもので単体では存在できないものだからです。

例えば、他人によってはブランドを差別化戦略などという言葉を用いる人もいますが本来、何を使命にしているか、自分たちが何のためにという目的を明確に打ち出して取り組むかでそれぞれの持ち味は変わってきます。その組織やその人が明確な理念があるのなら、次第にそれはブランド化していくということです。人は無理に周りと比べて違いを出すのではなく、理念を優先する中で無私になるとき己の持ち味が引き出されて全体に感化していくのです。まるで自然界がそれぞれの植物たちが多様に共生するようにそれぞれは自然の理に沿って真摯に生き切っているだけですがその中で全体にとって必要な役割と持ち味が発揮され全体が循環していくのと同じようにです。

そしてブランドがINGが入り動詞であるというのは、社會の中での意義や理念がそれぞれに生き続けて時代の変化の濁流の中でも杭がしっかりと立っていることを証明します。

アメリカの広告会社TWBACEOのジャン・マリー・ドル―氏が「アップルは反抗し、IBMは答えを出し、ナイキは熱く語り、ヴァージンは啓発し、ソニーは夢を見て、ベネトンは抵抗する。 つまり、ブランドとは名詞ではなく、動詞だ。」と言いました。

ブランドというものは、それぞれの使命が社會の中で生き続けていることでありその生き続けるものが実践され顕現するほどに可視化されたとき周囲にそのものの目的が伝わりはじめるのです。

そしてその目的がたくさんの人たちに共感されることで、そのものの価値や持ち味が認められるのです。そしてこれは決して単に見せかけで見た目だけを誤魔化してできるものではなく、創業者をはじめ一緒に取り組む仲間たちが強烈に一つの思いのためにいのちを懸けて真摯に実践を積み重ねたうえではじめて味が出てくるのです。自己をなくすほどに渾然一体となった祈りや願いや行動は自我の色を超えて透過した存在になっていくのです。まるで空気のようなもので、ないようにみえてここにはなくてはならないそのものの持ち味があります。

つまり持ち味とは、自分の根源的な性質が引き出されることを言います。つまりは比較や数値などでは測れず、点数もつけられず評価もできないものが出てくるということです。つまりは存在そのものの意味や、自分を超えた存在が滲み出てくるということです。それは産まれながらに持っているものであり、地球の味や月の味、宇宙の味が出てくるのに似ています。そのもののもっているあるがままの価値がブランドとして顕現するのです。

ブランディングというのは日々の小さな理念の実践、その思いの積み重ねによって実現するものです。

一日一日はそのブランドが練り上げられる修練の日々でもあります。これは稽古と同じで、怠ることはできません。持ち味の発揮は無私による真心の実践ですから引き続き理念を省み真摯に挑戦していきたいと思います。

 

むすびと御祭り

御祭りを深めていますが、そもそも日本人の和の精神とは何か、和を実践するとは何か、そこから考えてみると改めて御祭りの本質が観えてくるように思います。

和というものは、言い換えるのなら「むすび」のことです。出雲大社の注連縄のように、一本一本が強く結びつき束になることで強固な絆が産まれます。何を大切にして生きていけばいいか、それは親祖の時から私たちに神社の姿として伝承されてきています。

稲作を通して、稲作の行事の在り方を学び、そこから顕れてくる様々なプロセスを伝承の仕組みにしていたのが先祖の智慧です。もっとも食べる主食は私達には欠かせず、それをどのように見守り育ちそして収穫し感謝するかはその一連の流れを通して私たちの魂に呼び覚まされ維持されてきたものです。

今では生活が一変し、生活が消失して暮らしから遠ざかり只管に労働することばかりが優先されて社會そのものがなくなってきています。

本来、社會とは結びつきによって存在するものです。その結びつきとは古来からの「むすび」のことで、結束のことです。結束していくことで社會が強く優しくなり安心して暮らしていける風土が醸成されていきます。

何よりもその風土を守っていくことが、私たちの先祖たちが人類に戒めたことでありその風土を破壊してしまうバラバラが結束を崩していきます。それぞれが我儘にバラバラになったら人類はとても弱く自然界では生きていけません。そういうことがないようにと、様々な暮らしを通して私たちが結束を確認することを行っていたのです。

御祭りも同じで、結束を確認し、結束を強くするために使われてきた伝統行事です。伝統というものは、理念であり初心のことです。それを継続することで継承するのが私たち子孫の姿です。

御祭りが続いていくというのは、御祭りの本質を守り続けていくということです。今の時代のように単なるお祭り騒ぎやイベントを御祭りにしていてもそれは結束を強くするものではなく娯楽の域を超えません。

大事なことは何のためにそれが行われるのかを忘れないことです。改めて継続しているからこそ、初心を忘れずに本来の目的を見落とさないように大切に改善を続けていきたいと思います。すべての行事は神事であり、私たちは先祖と一緒に結ばれていますからそのままの真心を大切に紡いでいきたいと思います。

御祭りに御先祖様と風土をお祈りしたいと思います。

 

練り歩く

先日、御神輿を担ぎ街中を練り歩きましたがこれは列になってゆっくりと歩くことだと言われます。しかしこの練るという言葉は、単にゆっくりと列になって歩くことだけを意味するのではなく混然と融け合ったり、こねて粘らせていくなどの意味もあります。

和を背負い、和を一緒にしていくというのは御神輿を担ぎながら一人ひとりが錬成していくということです。錬成とは、ねりきたえ立派な人に成ることをいいます。錬磨育成という言葉もあります。練り歩くというのは、練磨するということであり歩くことで心身や精神を磨いていくということです。

御祭りというものは、日々の暮らしの延長にあるものです。日々の暮らしは御蔭様に感謝し、自分自身を見守り支えてくださっているものへの恩返しとして御蔭様に貢献しようとする実践です。日々の年中行事もまたすべてはその御蔭様を忘れないために行っているものであり、目には見えないけれど自分をいつも陰ひなたから助けてくださっている存在への御礼として慎み執り行っているものの線上にあるものです。

この練るという言葉は「磨く」という言葉と同じ意味を顕します。つまりは磨き続けることで光り続ける、古民家再生で磨き直していても分かりますが古いものが新しくなり甦生するということです。

この甦生というのは、練り歩くことで実現します。練り歩くというのは磨き直すということで、常に日々に自分を磨き続けることで本質を維持し続けるということです。そしてそれを甦生とも言います。甦生は単によみがえることだけを言うのではなく温故知新していくということもあります。

本来の姿が、くすんでしまわないように、汚れて隠れてしまわないように、埃かぶって埋もれてしまわないようにと「練る」「磨く」のが甦生です。そしてこの御祭りの本質もまたこの甦生を意味します。

古くなっていくからこそ、磨き直す必要がある。自然の中においては自然が自然に戻そうと「回帰するチカラ」が働くからこそ、いつまでもこの世に遺しておこうと「維持するチカラ」を働かせるのです。

これが初心伝承の仕組みなのです。

御祭りを通して甦生を学び直しましたが、この甦生は単に町の甦生や人々の甦生に限らず、日本の甦生であり、魂の甦生にもなります。私たちが日々に生きている一日一日は御神輿を一緒に担ぎ道を練り歩いていることと同じです。何を実践することが御祭りなのか、その意味を間違うことなく本質を守り抜いていきたいと思います。

暮らしを祀る実践

御祭りの体験からいろいろと現代社会のことを省みる機会が増えています。都内だけではなく全国各地では年々御祭りに参加する人も少なくなり御祭りが次第に廃れてなくなっていくところが出ているともいいます。人口の減少、少子高齢、過疎、都市化、神社の荒廃と共に、お祭りができなくなっていくところや伝統の価値が消失し人気が失せて続けられなくなったところもあります。

かつて日本では御祭りというのは暮らしの年中行事であり、当たり前に実施されていたものです。お米づくりにはじまり収穫祭、その他の穢れを払う年中行事のなかであらゆる御祭りは神事として皆で大切に執り行われました。

今では御祭りはかつての伝統の神事としてよりも経済活動や一過性の地域活性化の企画としてイベント化しているところも増えています。イベントになってしまえば企画次第ではやったりやらなかったり、それまでの御祭りの本質を歪めてしまっています。

本来、先祖たちが当たり前に大切にされてきた感謝報恩の御参りやいつも心を澄まして周りと助け合い思いやりを和を優先していこうとした生き方などが行事を通して実践していたのです。しかし今日では、その実践することだけが失われてしまったということです。実践というものは初心を忘れないために行うものですから、実践しなくなればすぐに初心は失われてしまうのです。

そしてこの実践というものは一過性の経済効果や結果だけをみて一喜一憂すればいいというものではありません。実践は、初心を忘れないために続けていくことや省みること改善することを通してその体験は何だったかをそれぞれが自己の内面と深く対峙してその体験を積み重ねてその本質を磨き昇華していくことです。それは真玉磨きであり、魂を高め真魂を透明に澄ます日本民族の思想根本と繋がっているのです。

そして日本の御祭りにおいては更に「和」の心を尊び、自然に沿った道を歩んでいこうとあらゆる御祭り行われてきました。また穢れを払い、洗い清めれば和楽が訪れるという神話の歴史で語り継がれてきたような体験をいつまでも忘れないように実践で伝承し継承されてきました。

今ではその初心伝承をするためというよりも、集客力があり経済効果があるイベントとして主催者が一方的に行っているものになりました。御祭りは地域の人々みんなが参画して感謝のカタチをいつも見守り鎮守してくださっているその土地の神様に示すものです。

本来は御祭りは自分の暮らしにとても密着していたものです、暮らしが消失しているからこそ御祭りもまた消失していきます。政府は「働き方の改善を」と言いますが、実際に暮らしが仕事と切り離され、働くために仕事をする人ばかりになってしまった今日、かつての先祖たちのように暮らすために働く人がどれだけ増えるかは政治の在り方と人々の生き方に懸っています。

神事と共に暮らしていく豊かさというものは、御祭りを通して再認識できるものです。先祖たちが今まで私たちに繋いでくれたもの、今の自分たちを下支えしてくださっている存在、それまでのさまざまな御恩、暮らしはそういうものとつながって生きていく私たちの人生の実践であるのです。その暮らしは年中行事に顕れていますから御祭りはその「暮らしを祀る実践」ということになるはずです。

引き続き、何が日本人で何を実践するのが日本なのか。視野を広くして深めてみたいと思います。

時機を待つ

生き物は植物に限らず、人間も自己修養することで成熟していくことができます。例えば稲でいえば、種を蒔き芽が出て花が咲き実がなります。それはすべてにおいて時期があります。

時機というものは、そのものが最も育っている時です。そしてその機は発達のタイミングのことです。花が咲く時機に花が咲かなくては実にまではなりません。その自然のサイクルに従って如何に育つか、それはそのものが素直に健全に実力をつけるために体験が必要なのです。

そして生き物は実をつけます、実をつけるというのは種になるということです。しかしその実が青いままでは収穫しても種にもならず食べることも出来ません。如何にその実が熟すのを待つか、それは時機を蓄えるということです。いくら結果を先に求めても、実力が備わるまでは青いままです。これを熟す前の状態、つまり未熟と言います。

未熟と言えばよく未熟者と言われ、愚か者や馬鹿者のように揶揄されますが本来はまだ熟するところまで来ていないというところなのです。

だからこそ熟すためには自己修養を続け、自分を磨き続け謙虚さを持てるよう人格を高めていくしかありません。そして陰徳を積んでは、その陰徳が蓄えられ陽報が訪れる時機をじっと待つのです。

自分磨きと言うのは、つまりは自分の感情に左右されずに初心を実践していくことです。自分で決めた方の生き方を、自我欲や感情に流されずに優先することができるようになるということです。

稲には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺があります。成熟し完熟すればするほどに実がなります。実が種になり次世代へと繋がるのは、そのものの生が一生懸命に育ったことの証明でもあります。

人間は自分の代だけですべてが終わるわけではなく、必ず後人や後輩たち子どもたちがその後を続いていきますから自分の代でいい加減なことをすることはできません。引き続き、自己修養をして時機を待ち精進していきたいと思います。

先に進む~先人の本質~

リーダーという仕事、指導者というものはその道で誰よりも先に進んでいる存在でもあります。この先に進むとは何か、それは別に能力が高いからではなく知識があるからでもなく、権力があるからでもなく、立場が上だから進んでいるわけではありません。先に進むというのは、自己修養を怠らないということです。言い換えれば、道を歩むにおいて誰よりもサボらずに真摯に向き合って学びこんでいる人物とも言えます。

例えば、サボる怠けるというのは楽を選ぶということです。自分がしなくてもいい方法や、自分が苦労を避ける方法を、安易に体験しなくてもいい方法など、自分自身で愚直に体験をし自分自身を磨くためにその出来事を向き合い深め研鑽を積んだりするのをしなくなるということです。もしもリーダーや指導者がそんなことをすると皆と一緒に一つの目的に向かって一丸となっていくことがありません。

誰かがやってもらって自分が楽をするのではそんな人には誰もついていかないからです。そしてついてこないというのはやらせているだけで何も一緒にもやっていないということです。みんなと一緒に進む中で先に進む存在は、その中の誰よりも真摯に現実と向き合い理想の実現に励み、苦労を惜しまずに努力をしているから周りよりも先に進んでいるのです。

この先に進むの意味は、リーダーや指導者の本質であろうと思います。自分自身がそれを怠りサボり、怠けていたら道から外れてしまいます。道というものは万人に存在する道理であり、その道を歩むものたちが仲間になって一緒に人生を豊かにします。一緒に旅をするのにその旅の目的を忘れ、楽して目的地にいくことばかりを考えていたら大切なものを失ってしまうものです。

人生の旅路において、思い出深く豊かで学びが深いものはみんな苦労することばかりです。しかしそれでも楽しいと思えるのは挑戦し続けることであり、精進を怠らないからであり、怠惰な自分自身に打ち克って道を極めて達しようとする日々の実践次第によるものだと私は思います。

人間には運がありますから、もちろんどうにもならないこともありますがその運を育て磨くのはそうやって先を進み徳を積んでいくしかありません。日々の苦労を感謝に換えて、日々の出来事を思いやりに換えて、自分自身と向き合ったうえで楽観的に御蔭様に感謝して生きていくのもまた実践の一つです。

今の時代は恵まれすぎて怠け心の方が育っていきやすい環境にあります。何もせずに楽して得たものの方が得をしたとかラッキーだとか思い込んでいる価値観も蔓延しています。苦労して眠れない日々と矛盾が魂を鍛え、人間関係のトラブルで感情と正対し精神を鍛え、大変さや疲れと休息が心と身体を鍛え、先人はみんな鍛錬して徳を積んできたのです。そうやって有り難い体験の中から日々の当たり前に感謝して、恩恵を忘れず、御蔭様をみては御恩返しをしようと向き合って反省していかなければいともたやすく日々に流されて怠けてサボってしまうものです。

果たして自分は道を先に進んでいるか、まだまだ未熟な自分を受け容れることができないでいます。

自分自身にそういう楽をする気持ちが出てこないか、妥協しようとする気持ちになっていないか、常に自分の理念から心を見つめ学び直し改善を続けて誰よりも強い熱量をもって道を実践しているか、子どもたちのためにも日々を省みて先を進めるように精進していきたいと思います。

後世に糸を紡ぐ

聴福庵に布団を入れていますが、昔の懐かしい木綿布団をつかうことにしています。今ではほとんどがベッドでの羽毛布団が中心になりかつての馴染み深い木綿布団が消えていきました。私の小さい頃に、東北の母の実家で寝た木綿布団の感覚が忘れられません。確かに最初は冷たくまた重いのですが、布団に入ってから寝ているとなんともいえない心地よさに布団の有り難さを感じたものです。

今ではほとんどが布団は使い捨てになり、かつてのようなお仕立て直しや打ち直しというリサイクルや循環のシステムも一緒に失われました。安価でポリエステルなどの化学繊維が混ぜ込まれ次第に本物の木綿の品質も下がってしまいみんな木綿から遠ざかってしまいました。これは日本酒が純米酒から醸造アルコールになり発酵させずにアルコール添加に換えたことで次第に日本酒から遠ざかり西洋のお酒ばかりが人気になり昔ながらの酒蔵がなくなっていたのと同じ仕組みです。

大量生産大量消費、効率優先の社会では安くて大量に売れる便利なものを扱うことが価値があるような価値観に埋め尽くされています。数と量の論理ですから、少量生産少量消費、手間暇優先という昔から大事にされてきたものづくりの真心は全否定されてしまいました。

そうしているうちにかつての伝統まで絶滅に追い込まれ、後を継ぐ人もいなくなり技術も精神もまた品質も一緒に消えていきます。いくら物は今の技術で近づけても、かつての生き方は近づけることはできません。そろそろ豊かな社會の創造に向けて私たちはその生き方にお金を払う時代になってもいいと思います。

木綿の話に戻ります。

木綿というものは、アオイ科のワタのまわりにできる白い綿毛からとれるものです。このワタは古代からずっと人類が活用した道具で紀元前8000年くらい前の遺跡からも出てあるそうです。日本では799年に三河国へ漂着したインド人によって木綿布が伝来したと日本後記にでています。そして日本では戦国時代以降に急速に普及したといいます。

木綿が流通するまでは麻を使って着物などにしていましたが、麻は冬は不向きでこれを何枚も重ね着して寒さを凌いでいましたが木綿の御蔭で冬は暖をしっかりととれるようになったとも言えます。それに日本の風土は高温多湿でこの木綿はとても湿気を吸い取ってくれます。乾燥も早く日本の風土に適した繊維なのです。羽毛においては湿気をためる性質もあり、今のように気密性の高く空調が整備されている室内においては便利ですがかつての隙間の多い自然と一体になった家屋の暮らしの中では木綿がとても理に適った繊維だったのです。

その後、明治以降は輸入木綿が中心になり高度経済成長と共に日本国内の木綿は失われていきました。和布団もまた、畳や木造、和室の減少と共に次第に洋物に変わっていったとも言えます。

現在、古民家を通して暮らしの再生をしていますがかつて職人たちに手作りされたものはそのものの素材と対話しその素材の持ち味を活かし切っていました。今では大量生産し同じものを画一化してスピーディに効率よく機械で生産するようになってそのような持ち味や旬などと言った言葉も死語になってきました。

すべての自然素材には旬と持ち味があります。こういうものは同じく人間の個性にもあります。同じ人間を大量につくり大量に消費する、顔の見えない使い捨ての文化は決してモノだけにおきている出来事ではありません。自分たちが同じように扱われたくないものを自分がやっていては次第に自分の価値観もそのようになってしまうかもしれません。

古来からの素材を活かした大切な道具を、如何に今の時代でも活かして使っていくかはその人の生き方が決めます。伝統が大切だとか継承が大事だと色々といいますが、日々の暮らしの実践がどうなっているのか、自分自身の生き方をまず転換する必要を私は感じます。

引き続き子ども達に遺し譲りたいものを磨き直し、後世にその生き方の糸を紡いでいきたいと思います。

 

 

ハタラキ

自然には「ハタラキ」というものがあります。私たちの人間にも同様に働きがあります。これは動植物から無機質に至るまで存在している法理でもあります。

例えば、私たち人間でいえば動いているときには動いているハタラキがあります。それは各機能がそれぞれに活動して何かを成し遂げようとします。また同時に今度は休んでいる時にも休んでいるハタラキがあります。その両方とも大切なハタラキであり、一時も已むことがありません。

これは太陽や月、地球の運行なども同じです。昼は太陽、夜は月と動静を生き物たちは繰り返しますがそのどれも大切なハタラキがあり無駄などは一切ありません。つまりハタラキとはすべてのことに大切な意味があり、自分が動こうが動かざるが関係なく常にハタラキ続けている存在があるということです。

しかし人間は自分の都合でこれは働いたとか時間の無駄だったとか、休んだとかサボったとか自分勝手な判断をしてハタラキではなく単なる作業や業務のように 働きを勘違いする人もいます。

もちろん自分がやりたいことができたら充実した一日を送れ無駄ではなかったと思うのでしょうが、無駄であったと思った一日ですらその蔭に大切なハタラキがあったのです。

これらのハタラキは、一瞬たりとも已まずに常に偉大な他力と自力が合わさって全体の調和のために活動し続けます。これはカラダも同じく、常に何かをしてもしなくても私たちの身体は調和をとるためにいつもハタラキ続けています。心臓の鼓動も呼吸も、そして新陳代謝もすべて私たちのハタラキの中です。

そしてこのハタラキのことを私は「いのち」と呼びます。いのちの世界は常に已まずにハタラキますから私たちはこの世に来て活かされている存在になっているのでしょう。

だからこそこのハタラキそのものに感謝して、その恩恵の一部に自分があることを自覚することがいのちと一体になって生きることのように思います。太陽も月も地球も常にハタラキは感じられます。

いのちが輝き続ける姿をイメージすることで、ハタラキもまた観直に感じられます。引き続き、子ども達のためにもこのハタラキの存在を感じられるような環境を用意して見守っていきたいと思います。