ドイツ建築家にブルーノ・タウトがいます。この方は、第2次世界大戦のさなか、ナチスドイツから亡命のようなかたちで来日し、「日本美の再発見」などの著書を通して日本文化の価値を再発見し世界へ広げた人物でもあります。
この方は約3年半、日本に滞在する間に様々な日本文化に触れ工芸品の指導や一部の建築をおこないました。日本人というものがどのようなものであるか、日本文化とは何であるのかを鋭く洞察した内容には改めて感じるところばかりです。
色彩の建築家とも呼ばれたタウトは、その色彩についてこのような感覚で捉えていました。
「水面の波紋、氷塊の中の泡や結晶の生成、樹木の枝分かれや、その1つとして同じでない成長の仕方、葉芽が形成され一枚になる過程、滝の落水の装飾、雪の中の枯草、露の水滴の形成、木々の織りなすリズムに満ちた森、等等。自然の色彩は私を魅了して止みません。」
日本というものを洞察するときに、この色彩を使って見抜いたのかもしれませんがこの言葉の一つ一つからタウトの自然を観察する美しく見事なまでの表現に共感することばかりです。
そのブルーノ・タウトは「日本美の再発見」の中でこのような言葉を遺しています。
「日本の文化の特性とは、いわば芸術化された自然といえるでしょう。日本的なものの品質が問われた場合には、常に日本の古典芸術を特徴づけている簡素性への傾向が認められます。それは精神化された自然への感性にほかならないと言えます。」
この精神化された自然への感性という言葉に感動します。
私達日本人の先祖たちは、家屋をはじめ民藝品にいたるまで 自然美をそのままに取り入れて創意工夫し自然のままに活かしたものを作品にしてきたとも言えます。今、古民家再生をはじめ様々な古い職人たちが手掛けた道具に触れているとそれをいつも感じます。
目的が単に大量生産で使えればいいというものではなく、自然を敬愛し、自然への畏敬が道具に宿ると信じて精魂込めて造られてきたのです。こういう日本的な精神性、つまりは自然に対して純粋で無垢、いつも自然のいのちが観えているかのような子ども心が日本人には宿っているということを直感します。
日本文化の本質として大衆化して安易に便利に走り、目先の損得によって失われたものは魂の品質なのかもしれません。
ブルーノ・タウトは、桂離宮や伊勢神宮を絶賛します。
「泣きたくなる様な美しさ。永遠の美、ここにあり。われ日本文化を愛す。それは実に涙ぐましいまで美しい」と。
この泣きたくなる美しさとは何か、それは永遠の美を保つ魂の美。純粋なもの、いや、私の言葉にするならば「純度の高さ」こそが日本文化の本質であると信じます。如何に人生を研ぎ澄まし純度を高めていくか、それは日本人が日本人らしく生きていくための最大の要諦ではないかと私は思います。
純度の高い精神には、純度の高い生き様が宿ります。そこには単に道具や家屋だけではなく、そのいのちがそのものに投影し宿りいつまでも美しさを放ち続けるのです。
タウトが観察した日本とは、日本の魂、大和魂だったのかもしれません。これから古民家を温故知新していきますが、その大黒柱には常にこの真心を据えて取り組んでいきたいと思います。
引き続き、子ども第一義。子ども心を昇華して魂の純度を高め続けて先祖たちに恥じない生き方を実践していきたいと思います。