内省の実践

人はどうありたいかを決めたら実践し近づいていくしかありません。自分の理想とする自分に近づくことは夢をカタチにしていくことでもあります。その時、もっとも大きな課題は自分に打ち克つことができるかということになってきます。

自分自身の心情のコントロールができるようになることが実践の意義のようにも思います。例えば、したくないなと思うことを敢えてやることや、先延ばしできることを今やること、また面倒だなと思うことを丁寧にやること、こういう一つ一つの実践の中に実践の醍醐味があるとも言えます。

先日、理念の話の中で忙しくなって余裕がなくなると理念から離れてしまうという相談を受ける機会がありました。その際、理念ができるかできないかよりも忙しいけれど忙しくしないことや余裕がないけれど余裕がないようにしないことが実践であることを話しました。

つまりは、「ふり」をすることも大切な実践であるということを言いました。この「ふり」というのは「振る舞い」のことです。これは先ほどでいえば忙しくないふりをすることや余裕があるふりをすること、他にも愉しそうなふりをしたり、笑顔を絶やさないふりをすること、この振る舞いは行動のことであり、実際の心情とは異なっていても行動の方を変えてみることです。

実際に自分の心情に嘘をつかないとそのままであればそれが自分の目指す姿から遠ざかったり周りに悪影響を与えることがあります。そんなときは振る舞いを直して自分自身、己との対話をして己に打ち克つしかありません。そうやって振る舞いという行動を変えていくことが実践であり、これらの実践を積むことで次第に日常の自分自身も次第にその振る舞いの心情になってきて平常心が醸成されていくように思います。

そして実践を続けてたら、自ずから自分自身の振る舞いのおかしさに気づき、「ふり」を正すことができます。それが続けば、「他人のふり見て我がふり直せ」という 工夫ができるようになります。人は結局は己自身との向き合いによって変化するものだから、みんな自分自身と正対していくしかなく、そこに実践することの必要性が出てくるのです。

また我がふり直す内省を通して己自身の中に感謝の心や御蔭様を忘れていたことを知り、反省して振る舞いを変えていきます。振る舞いが変われば心情も変わり、次第に謙虚で素直な自分に近づいていきます。

実践の大切さは、我がふり直す内省に気づけることです。

子ども達のためにも引き続き、内省の実践を積み重ねていきたいと思います。

奥ゆきのある暮らし

「奥ゆき」という言葉があります。奥ゆかしいという言い方もしますが、これは表から奥までの距離が深いときに使われるものです。またこれを人に例えると、知識・思慮・人柄の奥深さで使われます。この奥ゆかしさというのは、慎み深さになり日本人の大切にしている心とされてきました。

この奥ゆかしさというのは、町家の再生を通して何度も感じ直します。特に町家は、繊細なつくりで奥行きがあります。今、復古創新している聴福庵も間口を入った隣から部屋から一列に三室あり、その奥に庭がある造りになっています。奥に光が差し込み明暗が織り連なる様子はまるで神社の杜のように物静かで落ち着きます。

この「奥ゆかしい」とは何か、少し深めてみたいと思います。

この奥ゆかしさの「ゆかしい」は、「行く」の形容詞化したもので心がそちらにひかれるさまを言います。他にも慕わしく心ひかれるさまにも使います。決して派手ではなくても深み懐かしさを持っているさまの意で人にも自然や感覚的事象などにも用いられる表現です。

この奥ゆかしさというのは、穏やかという言葉と共に用いられることが多く人柄や雰囲気の中に和の心があるということでしょう。この穏かで奥ゆかしい人とはどのような人物であるか、それは謙虚な人物ということだと私は思います。

つまり徳を磨く精進を怠らず、克己復礼に自らを高め続けている人物とも言えます。そういう人物は自ずから次第に品格というものが備わってきます。そこから上品であること、謙虚であること、慎み深い穏かな人物像が出てきます。世間では、控えめで出しゃばらないことを奥ゆかしいと勘違いしている人もいますが、実際の奥ゆかしさとは隠れた日々の鍛練と実践によって磨かれて薫るものです。

この町家の中の奥ゆかしさは、日々に家を手入れし怠らず日々の暮らしを丁寧に生きている人たちの情緒深さ、また奥にいけばいくほど魅力があることを感じます。表面上ばかりをよくみせて中身がない建物というものは、奥ゆかしさを感じません。それよりも表面はシンプルで質素であっても、中に入ってみたい、奥行きを感じてみたい、好奇心から奥がどのようになっているのかを知りたいと感じられることが奥ゆかしさの価値だと私は思います。

そしてそのように奥ゆかしさを引き出すことができるのは、その人物や家に「思いやり」があるからです。表面上の対話ではなく、深く相手を思いやっている人はその思いやりの中に奥行きがあります。聴福庵の目指す聴福人の姿もこの奥行きのことで、対話を通して「きっとこの方にも私には分からない何か大切なことがあるんだろう」と傾聴すること、そしてきっとまだ奥があると共感し受容すること、最後はその真心に感謝するということを実践目録としています。

奥ゆきのある暮らし、奥ゆきのある人々、奥ゆかしい生き方を子ども達には譲っていきたいと思います。引き続き、復古創新をしつつ日本人としての暮らし方を観直していきたいとおもいます。

お祭りの真価

昨日、地元の神社の宮司からお話をお聴きする機会がありました。現在、過疎化や高齢化が進み神社での活動を維持することが難しくなってきています。かつては氏子という神社のある地域で暮らしていた人々が地域の発展に貢献し、祭祀を神職の人々ともに執り行ってきました。

例えばお祭りなども祭祀の一つで、日本では古来よりお祭りを通して地域の人々の心の穢れを祓い清め、仲睦まじく暮らしていくことを実践していたとも言えます。これは海外でいうイベントではなく、日本伝統的に古来より伝承した神事です。

このイベントというものは、主催者がいて新しく始めるものであり、それに対し祭りは昔からの風習であったり何かを祀るものがある際に使われる言葉であるといいます。なぜ今はイベントになってしまうのか、それは経済効果を狙って企画者がイベントサービスを通して提供者と受給者が分かれてしまうところに由ります。しかしお祭りは本来地域の人々と一緒一体になって行われるものであり、そこに提供者と受給者が分かれません。

つまりは皆が主体的に自発的に参加するからこそお祭りになるのであり、そのお祭りを通して人間関係を円満に保ち、先祖たちや祖霊への感謝の心を取り戻し己に負けないようにみんなで精進してきた実践でもあります。

今では神社でのお祭りも宗教だとされることもあり、宗教の自由を名目にお祭りを廃止させたり参加を禁じたりする人もいるとのことです。

昨日、宮司の言葉でとても印象的だったのが、「地域の神社の荒廃こそが、その地域の荒廃そのものになる。祭りがなくなれば地域がなくなる」と仰っていたことです。地域の祭りがあればコミュニティが発生し犯罪率も下がっていくという統計があります。祭りが地域を繋ぎ、祭りが助け合いの文化を醸成するのです。

今年は祭りを深めていますが、祭りの持つ本来の意味を考え直してみたいと思います。古来から私たちの先祖は祭祀を通して謙虚であること、素直であることを優先していこうと皆で助け合って暮らしを実現してきました。

暮らしが消失してきている今では、次第に地域での祭りも失われてきています。イベントは長続きせずその場限りで終わってしまいますが、人々の心の中にある感謝の心が祭りを継承し伝承させていきます。

もちろん地球温暖化とか、世界経済の悪化とか世界に目を向けることも大切ですがその足元にある地域のことを考えずに世界を語ってもそれは本質的に改善改革をしているわけではありません。

地域の文化、町並み風景などから切り離され繋がりや絆がなくなると人々は生き甲斐を失い急速に衰えていくといいます。今の日本がどこか元気がなくなり、挑戦する気風が衰退するのは地域が弱っているからではないかと私は感じました。

暮らしの再生は地域の再生でもあります。

目に見えない価値が分からなくなってきている今の時代、損得勘定では測ることができない徳の価値を再定義し、目に見えない価値を可視化していくことは私たちが古来から安心し勇気づけられた付加価値に気づき直すことです。

引き続き、子ども達のためにも何を伝承していくのか真摯に向き合い見つめていこうと思います。

 

 

省みること歩むこと

人は振り返ることで歩みを進めていく生き物とも言えます。この時の振り返るとは、単に再び思い出すという意味ではなく「省みる」ということです。日々というのは大きな変化の中で過ぎ去っていきます。その情報量は自分が思っている以上に膨大なものが入ってきており、その情報量を処理することも難しい時代になっているとも言えます。

しかしそのまま情報を処理しないままでいると心が忙しくなり、目の前のことしか見えなくなってしまいます。そうなってしまえば自分が何のためにそれを行うのかや、何の意味があって今こうしているのかなどの価値も感じなくなってしまうものです。また周りの人たちとの御縁や、自分の影響力なども気にならなくなってしまいます。

そういう時こそ、自分のやったことを一度省みることが何よりも重要だと思うのです。そうやって省みることではじめて、本当はどうしたかったのか、本来はどうありたかったか、また自分自身の改善と修養につとめようと思い直すのです。

江戸時代の儒者、伊藤東涯に「君子はおのれを省みる。人を毀(そし)る暇あらんや。」があります。(立派な人間になろうとする人はまず己自身を省みるものです。他人の文句や批評などをしている暇などはあるはずもない)といいます。

また論語にも「曾子曰わく、吾(われ)日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(とも)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」があります。

これは味わい深い言葉で、いつも内省をするときに自分自身はどうであったかと思うと未熟な自分が恥ずかしくなり改善しようと思い直すのです。これらの省みるということは、停滞していた自分自身を前に進めることであり、現実の今をあるがままに受け止め自分自身がどう変わっていこうかと感じることでもあります。

人は自分が変わることで、流れに身をゆだねていくことができます。それはまるで清流の中のたまりにつかまってしまっている落ち葉を水が押し流すように、朝靄の真っ白な景色が風によって吹き流されていくように、ふたたび歩みがはじまり時が進んでいきます。

忙しい時だからこそ敢えて省みることや、大変な時だからこそ内省を怠らないことこそが己に負けず己を活かす克己の工夫になっているように私は思います。

引き続き内省することの価値や大切さを、実践を通して周りを感化できるように日々に怠らず取り組んでいきたいと思います。

 

 

永遠の物語~魂の綴り~

加速度的にスピードが増していく時代、それは何でも捨てていく時代だとも言えます。一体何を捨てているのか、それは物語を捨てていくということです。日々の暮らしも永い目で観てどのように暮らしていくかを省みるのではなく、刹那的な目でその場しのぎでこの一瞬さえ乗り切ろうとすることを繰り返しているようにも思います。

本来、今立っている場所をよく観直すと今まで久しく紡いでくださった時間の重みを感じるものですがそれをも感じることがないくらい目の前のことに追われていく日々を人々は送ります。

この目の前に追われていく忙しい日々になったのはなぜか、今の心の問題や社会問題もここに集約されている気がします。

昨日、クルーのみんなと一緒に福岡県八女市の福島地区を見学する機会がありました。その中でかつてのものをかつてのままに修復し修繕しながら町屋を再生していく姿を観ました。

簡単に新しいものに換えてしまうのは歴史がなくなってしまうからと、本物のままに遺そうと工夫を凝らしてパッチワークのように古材を活かしながら修理をしていきます。これは単に古いものを守ろうとしているのではなく、物語を守ろうとしているのだと感じます。全ての”もの”には記憶があります。それは一緒に暮らしていく中で、関係性や御縁の中で同じ時を共にした大切な思い出の存在だとも言えます。

だからこそその物は単なるモノではなく、その物には掛け替えのない一期一会の物語があります。物語があるということは無機質の存在であってもいのちが宿っているとも言えます。例えば何百年も前からある柱に子ども達がせいくらべをした痕跡があったり、屋根裏に隠した落書きがあったり、道具一つにはその時代を共に生きた人たちの魂の痕跡があります。その痕跡と共にあるものは、その痕跡の御縁に今も結ばれているとも言えます。

そうやって愛し愛されたものの思い出は時代を超えて今に伝承されていきます。そのものの物語を新しくその物語の続きを綴るのが私たちの存在そのものでもあります。

昨日の振り返りで特に印象深かったのが、今の時代ではもう素材が手に入らず修理できないまま壊れているものがあるという話です。それをどうするのですかとお聴きしたら、「材料がないからこのままにする、後は来世の楽しみにとっておく」と仰っていたことです。

今世でそのものを修理できなくても、来世生まれ変わったら修理してあげたいと願う心。思い出を大切にして何度もその思い出と触れていきたいと、いつまでも感じる心の中に魂の邂逅と勿体なく生きている人間と先祖たちの生き様が観えてきます。

来世もあるからこそいい加減な関わりは持つまい、そして捨てるのではなく大切に物語を紡いで綴りたいと感じるのです。この魂の綴りこそ時を超越して悠久の中でご縁に活かされる豊かで仕合わせな暮らし方の証明だと私は思います。

勿体ないという言葉、おもてなしという言葉、真心という言葉、それは全ての中心に「物語」があるということです。物語がないものがないからこそ、どんな物語を温故知新していくかは自分の生き方次第です。

悠久の時の流れの中にある今の御恩に報いられるよう、また来世の子ども達のためにも全ての機縁から学び直して紡ぎ直して永遠の物語を語り続けていきたいと思います。

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

歴史との対話~先祖になること~

古民家再生を手がけていく上でいつも感じるのが先人たちの暮らしを感じることです。現在は文字を使って文章で物事を伝えようとしますが、先祖たちはそのほとんどを文字ではなくそのものと対話をして伝承し続けてきました。

例えば、古民家であれば家の柱と対話し先人がどのように組んだのかをその意味を感じ取りメッセージを感受しました。他にも生活の道具一つであっても、大切に使われてきた道具が何に使用されたのか、どのように物と接してきたかのメッセージも感受しました。

この感受したというのは、その物との対話をして直感していくものです。現代は、そのものとの対話をしないですぐに理解しようとします。説明書やマニュアル、文章がなければ使い方が分からないとしすぐに投げ出してしまいます。これは生き方の変化であり、そのものと対話をして感受感得し深めるということなしに簡単便利に誰でもわかるようなものが人気があります。勉強をするのもさせるのも速効性があり、すぐに誰でも平均化できるものがよく売れています。

しかし本来、その物の由来はかつての先人や先祖の恩徳そのものでありその方々がどんな真心や思いでそれを遺し歴史を紡いできたかというものを伝承するのが子孫の勤めでもあります。

それは決して簡単便利に平均化されたものを単に使えばいいのではなく、そのものの真価に触れて今の時代ならその真価をどのように再定義して活かそうかと温故知新することが今を生きる私たちの本来の使命だろうと私は思います。

そうやって伝承されていくのが文化であり、文化のない単なる文明の利便性だけを追求するのなら歴史と対話することがなくなってしまいます。なぜ歴史が必要かということが分からないで今を生きているというのは誠に滑稽な話です。この歴史というのは、そもそも先祖と対話をするために遺すのです。私たちは歴史に触れることで今を感得し、今の自分があることの意味を知ります。知識だけが膨大に増えて何でも分かった気になり知ったかぶってみても、その本質を感受感得していないのはスキルだけが上塗りされる中身のない薄っぺらなものです。

歴史を学び直すのは、歴史と対話していくことです。そして歴史と対話することは、先祖になることです。

先祖の暮らし方に触れ、先祖たちは子ども達を深く愛している真心や愛情を感じない日はありません。先祖たちが子ども達のためにと実践してくださったこと、里山然り、古民家然り、自然に逆らず福を惜しみ少しでも子孫へ渡せるようにと気遣ってくださった姿に恩徳を感じます。

子ども達である私たちが歴史と対話し感受感得するものは先祖たちの恩徳であるべきでしょう。

私も先祖の一人として、先祖として子ども達に生き方を譲り恥ずかしくないような暮らしを実践していきたいと思います。子ども第一義は、実践躬行にこそありますから引き続き家から生き方を立て直していきたいと思います。

 

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。

 

家とは何か

昨日からクルーのみんなと一緒に新潟の弥彦村に来ています。弥彦神社に参拝し、宝物館をはじめ百年以上続く古民家を見学したりと「いにしえのえにし」を直感しながら過ごすことができました。

私は初代当主を名乗った数年前から「家」とは何かと考え続けています。歴史を鑑みて代々家が繁栄し続いていくところと、すぐに家が廃退してしまうところがあります。その違いは一体何か、それを見極めるためにも古きよきものに触れ学び直しています。

今回は少し今まで気づいたところまでをまとめてみようと思います。

永く続く家というものは、徳がある家とも言えます。代々、徳を高め徳を譲り徳が遺るものが永く続く家の特徴です。家が廃退するというのは、目にはみえない徳が廃退することに似ています。如何に自らに与えられた徳に気づき、その徳を活かすか、そしてその徳を伸ばしていくか、それはその代の生き方に懸っているとも言えます。

そして今の自分の徳を思うとき、その徳はどこから来たものか、それは先祖の丹精であることに気づきます。ご先祖様の皆様が、その代その代をもって一生懸命に世のため人のためにと自分のいのちを周りに役立てていたとも言えます。その苦労がみのり、今の代に種から芽が出て花が咲くように繁栄が訪れているとも言えます。

以前、幸田露伴の幸福の三福のことをブログで書きました。徳とは福のことで、福を如何に使い切らないかということが書かれていました。同じく徳を如何に使い切らないか、言い換えるのなら如何に自分が日々に徳を積み続けていくかということです。そういう徳を重んじる生き方、二宮尊徳はこれを報徳とも言いましたが先祖の御恩に感謝し、先祖の徳に報いるように自分の代を盡していくことが継承していく真理であろうと思います。

そして家とするとき、もっとも大切なことは「火を絶やさない」ということだと私は思います。その火とは何か、火は一つのもので謙虚と傲慢を顕します。人が己に負け傲慢になるとき、その欲望が業火の如く顕れ焼きつくしてしまいます。しかし人が己に克ち謙虚になるのならその火は、世の中を光り輝かせ照らす美しい火となり心を癒していきます。

比叡山延暦寺の国宝根本中堂に1200年絶えたことのない火があると言います。常に菜種油に4~5本の芯をつけ火が灯り続けています。この油を一瞬でも絶やせば火が消えることから ”油断するな” という語源が生まれたそうです。

この「油断するな」とは、いったい何を油断するなということなのか。

それは初心に対する情熱を決して絶やすなということだと私は思います。家の存続は、この「油断するな」の一言に尽きると私は思います。どんな時も、理念や初心を忘れずに日々に実践し続けることを怠らなかった家は何百年何千年と火が絶えません。

火は己自身ですから、その火を消すのも灯すのも自分次第です。

家を守る人は、どんなことがあってもその火を守り続けていくのでしょう。血筋がどうこうではなく、火を守れるかどうかが当主の資質です。未来の子ども達のためにも、1000年、10000年と続く家を興せるように真摯に今生と向き合っていきたいと思います。

人間同士の自然とは

古民家の再生を行いながら今の時代が便利な道具によって価値観が変容していることに気づくものです。昔は手間暇かかることを良しとしたのは、その方が豊かで仕合わせであることに気づいていたからです。

例えば古民家は夏は涼しいのですが冬はかなり寒いものです。今のように気密性が高く、断熱材を入れているような部屋ではなく、隙間風も多くまた壁もとても薄いものです。これでは冬は風がしのげるくらいで寒さは外と変わらないほどです。しかし、ひとたび誰かが来ると火鉢に火をいれ、豆炭で行火を用意し、半纏をそっと肩からかけてあげることができます。また温かい御茶と、やわらかいぬくもりの表情と言葉をかけてあげれば次第に心はあたたまってきます。

もちろん今の時代のように、暖房をつけ部屋全体を温かくする方法があります。しかしこの方法だと先ほどのようなおもてなしをする手間暇はスイッチ一つで完結してしまいます。もちろんおもてなしは暖房だけではありませんが、昔は心のぬくもりを感じられる人たちと、心のぬくもりを味わう人たちが多かったとも言えます。敢えて自然から離れず、自然に寄り添っていきていくことは決して便利なことではありません。しかしその分、謙虚に自然と共生しながら人間同士の中にある「自然」とも心で触れ合うことができたのでしょう。

人間にとっての自然とは私は「つながり」にあるとおもいます。そしてその人間のつながりにどのような心の触れ合いを見出していくか、そこに真の豊かさがあるように思うのです。

人間関係も同じく簡単便利にスイッチ一つで完結させていいものかと思います。今ではすぐに御縁に対しても切ったとか切るとか簡単にいいますが、本来の御縁は切っても切れないものです。その一つ一つに手間暇をかけるのは、心の触れ合いを味わうことです。

古民家再生をしながら、これは決して家や道具だけの話ではなく「もったいなく」生きていく生き方の再生だと感じます。

心を触れ合せていくことは、自然の姿です。どんなものとでも、どんな人とでも心を触れ合せながら大切にしていけるよう、暮らし方を学び直し改善していきたいと思います。