恩顧地心

昨日、久しぶりに故郷で旧友に会いました。もう18年前に、故郷で創業し不可能と言われてきたことをやり続けている方です。私たちの郷里は炭鉱で有名な場所で、一時期は日本国内のエネルギーの半分以上を担っていたこともありましたが今では石炭の需要の減退とともに衰退したところです。

栄枯盛衰というものは、時代によるものでいつの時代もこれは繰り返されているとも言えます。しかしそこに住んでいる人たちが希望をもって温故知新していくのならその場所はまた発展を続けていくのです。

しかし実際はバブル経済の時と同じように、「あの頃はよかった」と昔の思い出に浸るばかりで今をみようとはしなくなるものです。昔を思い出して懐古することは悪いことではありませんが、それにいつまでもしがみつくのは温故ではないと私は思います。

よくよく考えると衰退していくというのは何が衰退するのか、それは希望が衰退しているとも言えます。それは心の持ち方次第で、何をやってもうまくいった右肩上がりのサイクルから何をやってもうまくいかない下がるサイクルの時もあるのです。それは山登りのように上がるときもあれば下がるときもある。本来は、山を味わい上がっても下がっても愉しめばいいのですが、実際に人は下がることを嫌うものです。

下がり始めれば何をやってもうまくいきませんから、そのうち「どうせ無理」と諦めてしまいます。特に上がっていく人たちを羨み、下がっていく人を同情し、比較をしては嘆き節では決して主体的に自ら前進することもありません。

温故知新は、新たに価値を再定義することでもあります。

本来、何もないと思っていたものがもう一度見渡してもう一度見直してみれば魅力はいくらでも発見できるものです。昨日、友人が郷里の善いところを見つめその郷里に育ててもらった話をしてくれました。改めて自分がこの郷里をもう一度見つめ直すことからやり直し、ここから恩顧していくことを決めました。

改めて自分が育ててもらったことへの御恩にどれだけ感謝しているか、環境にお世話になってその環境が良くなっていくことがどれだけ有り難いことか。教育に携わりながら育ち育てられる環境が大切かはいつも感じているところです。

町づくりというものや、町興しというのは其処に住む人たちの生き方が決めていきます。自分が成長し成功し発展すればするほどに、環境に育ててもらったことへの御恩を感じます。そして人はその環境への御恩に対して御恩返しがしたいと思うようになるのかもしれません。それは言い換えるのなら温故知新ではなく、恩顧地心があるから郷里は継承されていくのかもしれません。

場というものの中にある深い慈愛、場の中にある有り難い関わり、それらを大切にいただいている御縁に感謝しながら少しずつでも明るく謙虚に素直に進めていきたいと思います。

似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

まちがった教育~刷り込みからの脱却~

熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。

そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。

世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。

この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。

「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」

私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。

遠山氏はこう言います。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より

ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。

それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。

そして遠山氏はこう言います。

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。

「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」

如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。

最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。

教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。

引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。

道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

 

 

 

 

当主と家と暮らし

昔の古民家との対話について書きましたが、当主ということの意味やなぜ一家があるのかについても同時に深まってきています。そもそもその代の当主、特に初代当主ということが何を意味するか、それは家との対話を通してはじめて感じるものです。

家にはその家の持つ家風というものがあります。それは当主が何を大切にしてきたか、当主がどんな初心を持ったか、古民家の一つ一つをとって対話し深めていてもその家の主(あるじ)がどのような生き方をして何を大切にしてきたか、その生き様があちこちに遺っています。家との対話はその家の主との対話でもあります。その主がどのような人物であったか、その主が何を実践してきたか、それが家でもあります。それを代々守ることが当主の役割であり、代を重ねれば重ねるほどにその家の歴史が積み重ねられていきます。

そしてその当主と同じくする家人は、その当主の思想や生き様、生き方を通して自分たちも一家の一員としてそれぞれに大切に守るものを持ったり、それぞれに理念を優先してその家の歴史を清め、家格を盛り上げてきたとも言えます。その家の持つ風格や品格というものはその家に住む人たちが大切にしてきた思いの集積でもあるのです。そしてよく言われる「一家の恥」というのは、その当主や家人が代々大切にしてきた生き方や生き様、その連綿と続いてきた家人に対して恥ずかしいことをしたということです。それは道義に反した、言い換えれば「暮らしを壊した」ということです。老舗がなぜ老舗として何百年も続くのか、そこには暮らしが密接に関わっているのです。

当然その家に住ませていただけるというのは、感謝のままにその家の生き方を実践するということです。それをもって家の人になり、その家に住まうというのはその家を通して自分の人生を彩る場を得たとも言えます。そこで暮らす人々のことを家族といい、その家族の道が続いてきたことを家系とも言います。

一家の一員であるというのは、常にその家の主としてどう暮らすのかを示すことです。暮らし方が家の生き方ですから、日々の生活においてどのように暮らしたかを実践することが家人としての最大の務めでもあります。

カグヤではもっとも日本人らしい生き方、大和魂を実践しながら子ども達のために温故知新した新しい生き方と働き方を一致させようと試行錯誤しています。そのために一家にし、一家の主として当主となりました。しかしこの当主の重みは、ここで古民家を再生する中ではじめて深く感じ入っています。

「暮らし亡くして家はなく、家を亡くして暮らしもない。」そしてこの暮らしと家がないのに主があるわけがありません。当主というものはいかなる暮らしをする家を立てるか、その一点に全てが集中しその思想を宿していくのが最大の使命です。

家との対話は、暮らし方との対話、新宿でやっているこのカグヤの暮らしが何を意味しているか、改めて今回の機縁を通して見直していきたいと思います。

 

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

福とは何か?

幸田露伴に幸福の三説というものがあります。運が善いと言われる人にはなぜか運が善くなる生き方があり、それらが運を高め運を好転させ続けているということです。この運が善いというのは、実際には何よりも大事なことで物事は自分以外の周りが動くことで自分の布置が決まっていきますから運を敵にしない人はみんな運が善い人だとも言えます。

では運を敵にする人とはどういう人でしょうか、運を敵にまわす人は幸福を私物化する人のことかもしれません。言い換えるのなら、業を重ね業に沈む人といってもいいかもしれません。自分の徳性に気づかず、無駄使いをし疲弊していく感じです。せっかく天から与えられたものがあったとしても、それを何に使うのかということです。

自然は自分の徳性を活かすとき、そこに運を与えるように思います。それは何のため自分が産まれてきたのか、そして何のために人生があるのかと真摯に向き合うとき自分の中に具わっている徳の存在に気づきます。その徳を磨き、その徳を育て、その徳を高めるとき運が好転していくように思います。

しかしその徳に気づかず、もしくはその徳を私物化し自分の欲望や自分ばかりのために使ってしまえば福はすり減っていきます。福がすり減れば次第に運が悪くなっていきます。運が悪くなってしまえば、どこかで徳に気づくまでなんども同じ生き方をしてしまうものです。

この世の中は気が付けば自分中心、自分勝手に私物化してしまうような機会ばかりが多くあります。そういう機会や知識に打ち克って、自分の初心や理念、理念を貫くために徳業を重ねるとき人は運がさらに開けて好くなっていくように私は思います。

幸田露伴の幸福三説は、一つ目は惜福。自分に与えられた福を大切に惜しむこと。二つ目は分福。自分に与えられた福をみんなと分け合う事。そして三つ目が植福。長い目でみて福を育てて続けていくこと。これらが幸福の人たちが実践している福の徳目であると言います。

これらを鑑みるとやはり福を私物化していません。福とは天地自然の恩恵ですからないものねだりをしてないものばかりを求める心に福を感じるチカラはありません。むしろ足るを知り、あるものを活かそうとするときにこそ福は感じられるように私は思います。

そういった前向きな考え、物事の善い方をみる肯定的な捉え方、ポジティブ思考、自然と一体になった信じる心が幸福に気付く感性を磨いていくのでしょう。

福とは、自然に具わった徳のことです。

自分も自然の一部ですから徳を持っていますし、この世の中に徳がない人は誰一人として存在しません。だからこそその徳を見出すことが教育の醍醐味であり、その徳を伸ばしていけるように見守ることが保育の本質のようにも私は思います。

引き続き、幸福の三説の実践を味わいながら子ども第一義の理想に近づけるために精進していきたいと思います。