純粋とは何か

物事の実相が素直に観える人は、心が澄んでいます。心が澄んでいるというのは、あるがままを感じることができるということです。言い換えれば、純粋な心のままということを言います。しかしこれはどのようなものか、改めて純粋ということの意味を深めてみたいと思います。

まず純粋という字を辞書でひくとまじりけがなく、邪念私欲がなく、一途さやひたむき、打算や駆け引きがないことなどが書かれています。そしてこの字の生い立ちを見て見ると純はたばねた髪飾りをつけた幼児の象形でまじりけのない美しさの意味を表します。そして粋も完全に精米した米の意味から、まじりけがないの意味を表します。これらはまじりけがない存在のことを純粋としています。つまり全体から感じるイメージは「まじりけがない」ことが純粋さのことであろうと思います。

しかしまじりけがないとは何か、何がまじることなのかということです。まじるというのは不純物が入ることと思われます。しかしちゃんとまじるものこそが純粋とも言えます。それは混然一体のまじりけこそが純粋そのものなのです。つまり何でも素直に受け容れることができる、それが純粋でいうところのまじりけがないということだと私は思います。つまりまじりけがないということは、すべて丸ごと混じらせることが出来るという意味です。

だからこそ純粋な人とは、素直で寛容な心を持つ人だとも言えます。さらに心が開いているオープンな人でもあります。これは言い換えれば、子どもの純粋さと同じです。子どもに善悪はなく、こどもに正否はありません。心のままにあるがままにありとあらゆることをそのままに感じる素直なままの存在です。それが大人になると次第にその心が閉じていきます、閉じないためにはあるがままの全てをあるがままに受け容れて味わっていくことで子ども心は維持されていくのです。一円対話の妙味も其処に尽きるとも言えます。

詩人で書家である相田みつおさんにこういう詩があります。

「あなたの心がきれいだから なんでもきれいに見えるんだなぁ」

これはきれいをきれいと感じている人の純粋さを語っているようにも感じます。つまり心がきれいかどうかもありますが、そう味わっているんだと思えるということです。

他にも「雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を」があります。これも同じように自然のままに純粋に味わっている姿があります。「体験してはじめて身につくんだなあ」などもあります。同じく詩人坂村真民さんは「万巻の書を読んでもその姿勢が正しくなかったら何の価値もない 大切なのは人間を見る眼の人間に対する姿勢の 正しさにある 真実さにある 純粋さにある」と言います。このお二人のどの詩にも物事の実相のことが素直に語られています。

このありのままのことをあるがままに感じる感性、それを素直さとも言い換えてもいいと思いますがこれを磨いていく人こそが純粋性を保つ人のように思います。いちいち味わうことをしないために知識で塗り固めていたら、大切なものを感じる素直な心も次第に消失していくものです。どんなことも丸ごと受け容れる、どんなことも善いことだとして受け容れる、そういう味わい深い生き方の中にこそ純粋さはあるように私は思います。

子どもを守る仕事、子ども心を見守るのだから大人になっても老人になっても一生涯常に自らを素直に省みて万物渾然一体自然一円観に純粋な日々を歩んでいきたいと思います。

素から直す~陽明学~

日本に影響を与えた人物に中国の王陽明がいます。王陽明の生き方や思想、その生き様は日本では中江藤樹や吉田松陰をはじめ様々な人たちが影響を受けてその学問を深めていきます。

王陽明の思想は、「心即理」であり私の解釈では心とは知良致であり、明徳であり、直毘霊であり、大和魂であり、現代の解釈では素直であるということです。王陽明は、「抜本塞源」という言葉があります。これは「根本から誤りを是正しなければ意味がない」ということです。「素直」という字も、「素から直す」と書きます。そもそもの中心になっているものを見直し、原点回帰しなければ直るものも直らないということです。そしてそれは素直になることであり、素直の能力を磨くことでしか本来の心は出てこないと言い切るのです。

そのために必要なのは、「事上練磨」という日々の実践をどう磨き己に克ち続けるかと言います。素直を磨くために境遇に一喜一憂せずに只管に真心を練磨していくための実践を行うことだと言います。学問のための学問ではなく、まさに自分の真心を盡すために生きることを言います。それを吉田松陰は「至誠」と解釈し、環境や状況に有無を言わずただ一心に真心を盡すのみと人生を生き切ります。この生き方こそが王陽明と同じであり、陽明学の真髄はこの至誠に尽きるようにも思います。

王陽明という人物は、文人としても武人としても立派な人であり荒廃した村に学校をつくり人々を導き徳のある村にしたり、戦では一滴の血を流さずに戦争を終結させたり、政治がとても乱れて賄賂も横行していた慾に乱れた世の中においても私財をなげうって貧しい人たちに寄り添い続け義を貫いた生き方を実践しました。

陽明を慕う人々は、何よりその純粋な生き方をみて感じ入るものがあり素直に生きること、心のままに行動し実践することの美しさを感じるように思います。今の時代、美しく生きるということが難しくなってきていますが本来の先祖たちが目指した生き方はこの「心即理」に適っていたように思います。

ではその心が理から離れるのはなぜか、それを王陽明は山中の賊になぞらえてこう例えます。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

自他の中に賊あり、その賊が邪魔をして素直な心はかきけされていきます。たとえ山にいるような山賊を倒すのは容易でも、心の中にある賊を倒すのは難しいということです。実践を通じて自分がブレていることに気づきそのたびに根本に回帰し、素から直すことを繰り返しながら、本来の心のままでいるための克己の工夫をどう磨いていくか、日々は事上練磨ですから今日も真心を盡して素直のままの心を育てていきたいと思います。

 

素直の能力を使うとは何か

人は最も分かっていないのが自分のことだとも言います。他人から指摘されてはじめて人は自分のことが分かります。自分でいくら分かった気になっていても知らず知らずのうちに自分のことを思い込み勘違いするものです。そしてその自分の価値というものを歪ませていくものです。人間にはそれぞれに価値観というものがありますから、価値観を自覚していないまま自分を知ったと思っていてもその価値観自体を見つめることなしに自分を分かるということはないのです。

しかしこの価値観を見つめるには、価値観を超えたものの見方ができるようにならなければ価値観に縛られてしまいます。私が伝えている聴福人の実践、「人の話を素直に聴ける能力」も、そのために必要な自己修養の要なのです。この素直さというものは能力ですから、使う人と使わない人がいるだけです。このもって生まれた素直さという能力を活かす人はその素直の能力を使って話を聴くことができます。そこで自分の価値観を超えた見方を知るのです。素直の能力があるのに使わないというのはもったいないことですから常に自分を見つめるためにも素直の能力を使いその力を伸ばしていくといいと思います。

しかしその素直になれないのも自分の価値観に固執するからです。その固執した分、周りとの軋轢は発生します。自分の存在価値をどのように捉えているか、そこに価値観の固執から抜け出すヒントがあると私は思っています。アメリカの実業家で著述家にジェリー・ミンチントンがいます。その人の言葉の中に存在価値のことが分かりやすく解説しています。

「生まれつき価値のある存在なのだから自分の価値を他人に証明する必要はない。」

人はそもそも生まれつき存在価値があるものです。何かができるとかできないとか、成功とか失敗とかでその人の存在価値が変わるということはありません。いちいちそれで存在価値を変えていたら面倒なことになります。人の存在価値とは生まれつきのものです。しかし周りを見渡せば、存在価値ばかりを気にして自分ができなければ存在価値がないと思っている人も沢山います。自分が存在価値がないと思っている人は、同じような人のことも存在価値がないと見なすものです。これも一つの「価値」観念ですがそこに気づくことが最初の入口かもしれません。

他にもジェリー・ミンチントンは、自分の価値観を正しく知りその価値観を超えた見方をするための言葉を記しています。ここでは価値観のことを「思い込み」と認識するといいと思います。

「何かが真理であると思い込むと、それが実際に真理であるかどうかは関係ない。私たちはいったん思い込みにとらわれると、まるでそれが真理であるかのようにふるまうようになる。」

「私たちは知性、善悪の判断、倫理、道徳、正義、善良さ、礼儀作法などの面において、自分が他人よりも優れていると思い込んでいる。自分のやり方が正しく、他人のやり方は間違っているというわけである。もしそう思い込んでいないなら、自分が他人を評価できる立場にあるという無神経で独善的な思い込みはしないはずだ。」

思い込みというのは、自分を正当化していくものです。しかしもしも謙虚であれば、ひょっとしたら間違っているのは自分ではないかと素直の能力を活かして振り返れるものです。そしてその姿勢になってはじめて人の話が聴ける自分、価値観を超えたところで物事の実相に気づく境地に入るとも言えます。思い込みが外れないのは、価値観に固執し感情に呑まれるからです。その理由は自分の正当化に他なりません、自分を正当化するからこそ周りを変えようとするのです。

「私たちが他人に向かって、『あなたのせいですごく腹が立つ』と言うとき、実質的には『あなたのせいで私はすごく気分が悪いのだから、あなたは変わる必要がある』と言っているのだ。しかし、たとえ他人が私たちの感情的な問題の責任を受け入れてくれても、満足のいく解決策にはならない。症状を取り除いても原因がそのままである限り、同じような問題がまた発生するからだ。」

「自分の気分が悪いことを他人のせいにすることは便利だが、他人にそんなに大きな力を与えてしまうと、自分の立場が弱くなるだけである。そうなると、私たちは他人が親切にしてくれるを期待しながら、生きていかなければならなくなるが、そんなことは実際に期待できるはずがない。」

「注目すべきことは、私たちが他人を変えようとして、様々なテクニックを駆使することではなく他人の不快な行動を変えさせるために私たち自身がかなり不快な行動をとっているという事実である。」

そしてこうも言います。

「現実を直視しよう。変えることの出来ない現実は、受け入れる以外に方法はない。」と。

今、起きてることの現実を受け容れないところに問題があるのでありそもそも問題は自分の価値観から発生してくるものです。なぜならある人にとっては造作もないことでも、ある人にとってはトラウマと向き合うほどのこともあるからです。現実の直視もまた素直の能力が必要です。しかし問題は決して悪いことではなく、問題があるから物事の本質に気づき直すこともできます。結果ばかりを心配してプロセスを味あわなければ気づくことができません。

人は気づくことで初心を思い出しますし、気づくことで改めて自分の何を変化させていけばいいかを発見しますから価値を自分で勝手に決めてはならないのです。

そしてジェリー・ミンチントンはこう勇気づけます。

「かなりひどい過ちも含めて、過ちを犯すことはきわめて正常である。私が犯した過ちは、私の知性や人間としての価値とは関係ない。」

「私たちはどんなに愚かな過ちを犯しても、それをすすんで認めるべきである。私たちは死ぬまでつねに過ちを犯しつづける存在なのだ。過ちを犯しつづけるかぎり、自分がまだ生きて学んでいることの証である。」

失敗や成功がその人の値打ちを決めるものではありませんし、その人ができる人かできない人かがその人の存在価値を決めるものでもありません。その人の存在価値は、何もしなくても何もできなくてもそのものが価値なのです。それが存在するということであり、その存在そのものが価値であることに気づくことが本当に自分を知ることなのです。

今の時代は、かつての教育を刷り込まれその課題で苦しんでいる人たちがたくさんいます。しかしこれも気づくための善い最良の機会と捉え、一緒に歩んでくれる人たちや信頼する人たちともに新たな価値に気づき素直の能力を磨いていく砥石にしていけばいいと思います。

分からないことがあっていい、知らないこともあっていい、そしてできないことがあっていい、あってもなくても両方善いのが一円観です。引き続き、聴福人の実践を味わい盡していきたいと思います。

福の修行

昨日から新潟の春日山に来て、上杉謙信を深める機会がありました。春日山神社、毘沙門堂、その後、林泉寺に参拝しました。上杉謙信の生き方や思想は、この地に多く遺っています。上杉謙信の「謙信」は、法号であり戒名を不識院殿真光謙信と言います。そして林泉寺には「第一義」という謙信の座右が山門の入口に掲げられています。この法号のはじめにある「不識」というのは禅の達磨大師の言葉です。

「不識」には林泉寺HPにこう紹介されています。

『仏道修業に励んでいた謙信公は、林泉寺八代目の益翁宗謙大和尚「達磨大師の言った不識とはどういう意味か」と問いました。苦修練行数カ月の末、ついにその本旨に達しました。不識の中味に合致した生涯を見出した謙信公は、自ら「不識庵」という号を名乗りました。不識というものの意味は、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉です。不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」ということです。』

自ら毘沙門天を志し、戦国時代に生まれ義を貫くことを覚悟し生きた謙信にとってこの「不識」というのは人生の大きな課題だったように思います。何がもっとも善いことなのか、何を信じて生きるのか、その時、経典の中にあった良し悪しをも全て忘れ、無心に私我を手放し捨て去っていく中に「第一義」があったように思います。私も理念で「子ども第一義」としていますが、この第一義はそのまま、あるがままという意味があります。つまりは、子どものままを貫くともいい、子ども心のままともいい、常に子どもの側から物事を観続けるという意味でもあります。

また毘沙門天というのは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」と言います。言葉としては「全て丸ごとを聴く」という意味を表しています。そして毘沙門天は七福神の一人に数えられています。私が実践を重んじる「聴福人」というのはこの毘沙門天の生き方、つまり如何に全てを聴いて信じて福に転じるかを徳目に実践するということです。

「義」というのは、古来から続く日本人の生き方を貫くときに顕現するものです。そのあるがまま、自然、かんながらの道の上には義は燦然と輝き子孫たちへの道しるべとして風土の彼方此方に文化として継承されていきます。

毘沙門堂で四方の自然を感じながら毘沙門天を念じ続け、神人合一しようとした謙信の祈りが聴こえてくるかのような感じがしました。人間の世界での筋道もありますが、人間よりも先に自然の筋道というものがこの世には存在します。その人間の小我を手放し、自然の大我を悟るというのは第一義の実践によって実現するように私は思います。

常に自然を優先しているという意味が、「謙」でありそれを「信」じるものとして自然あるがままであったその生き方に私は「義」の本質をいつも感じます。義と言えば、日本には義将と呼ばれる風土自然を顕現した武将たちの生き様や真心がいまでも語り継がれています。

古来から大切にしてきた忠義という言葉も、今の時代は色あせて別の意味で使われます。そのうち自分の価値観に囚われて思い込み、忙しさに流されて大義を忘れて自分をも亡くしてしまっている人も増えたように思います。

こういう時代だからこそ毘沙門天から福の徳目を学び直し、もう一度「第一義」を座右にしていくことが必要になってくると思います。引き続きカグヤは「子ども第一義」を掲げ、この時代に温故知新した福の修行を積み重ねていきたいと思います。

 

 

表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

自然の暮らし

神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。

今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。

人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。

しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。

最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。

言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。

自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。

私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。

その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。

刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。

 

祭り部発足

昨日、社内の今年の取り組みとして「祭り部」ができました。昨年は「駅伝部」ができて、朝練をはじめ各地の駅伝に参加したり現地の志ある会社を訪問したり、その地域の歴史や生き方、人々や場に触れたりして愉しみ学びを深めましたが今年は「お祭り」を通じてまた新たな社内での実践を象っていくことになりそうです。

先人たちが遺してくださった叡智や智慧に触れることは、自分たちの歴史やアイデンティティがどうなっているのかを自明することにもなり、子ども達に先人たちの願いを繋いでいくことにもなります。今の時代を生きるものとして、何を遺し何を譲るか、それを先祖に学ぶことは何よりも大切な使命のひとつです。毎年、その時々で必要なテーマが降りてくるということはそれだけ前年のテーマが充実していたということです。そうやって哲学や思想がはっきりと明確になり、その明確になったものがテーマになりそのテーマによって人は創造や革新が促されます。

今年は「祭り」になりましたが、祭りというものが何か少し整理してみます。

古事記に本居宣長が祭りとは何かをこう言います。

「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」

他にも中国の漢字を分解するとこの「祭」という漢字は夕(肉)と又(右手)と示(神示)から成り立ち、右手の肉を持って神にささげる意味です。祀は示(神)に巳(シ)を付けた字で、祭・祀はどちらも神様にささげるという意味になります。

古語辞典「字訓」を書いた白川静氏はこう言います。

「神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。」

古代の神道は、祭政一致であり人々は日々の暮らしを神様に委ね神様の声を聴きながら生活を営みました。神様の声を聴けるというのは、いのちを常に感じてそのいのちを活かしていたからこそ話ができたとも言えます。その一つの神事として「お祭り」があり、お祭りを行うことで穢れを祓い清めたとも言えます。

この「祭り」を「待つ」と同源の語であると言います。私も待つことは信じ切ることで、丸ごと信じていることですから待つことで出づるのを静かに待つという心境は神様を奉る依代としての御役目として必要なことのように思います。

同時に神様が訪れるのを待つ、しかしそれをどのように待つのか、そこに待ち方というものがあると思います。その待ち方こそが祭りの本質であり、ただ待てばいいのではなく神様が顕れるのをどのような姿勢で待つのか。つまり自分たちの中から神様が出てくるのを静かに待つのです。古来、私たちは八百万の神々であり、一人ひとりが魂と命を持っています。だから親祖や先祖の神様たちは自分たちのことを「尊」をつけて尊称するのです。

その尊が出てくるのを待つのに、善いところを観る、信じて観る、素直に明るく、清らかな心になっていくようにして自分の中から出てくる神様と同じ心が顕れるのをみんなで「祭る・祀る・待つ儀式」を行ったのではないかと私は思うのです。

私たちが実践している一円対話においても、御互いが認め合い尊重し受容して清浄で無邪気な場が出来上がると神がかっているような言葉が発言者から出て来ます。これも一つの「お祭り」であり、そのことで人々が素直になり本来の真心や初心を思い出されるのです。

人が初心を思い出すためにお祭りがあり、お祭りを通して一体自分たちは何を大切に生きていけばいいかを反復して理解していく。単なる西洋からきたイベントではなく、日本のお祭りはとても精神的な意味や生き方を観直す内省的な意味を持っているのではないかと感じています。つまり神人合一していくところに、その本質があったのではないかと私は思います。

今年はそれを改めて学び直し深めていく機会をいただけそうです。引き続き、本業であり志業である子ども第一義の理念を自他一体、理想現実一致にしていくためにも一円融合、全てを福に転じて発明を続け実践を弘めていきたいと思います。

人をつくる~志を定めること~

人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。

田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。改めてその話を紹介します。

「二人の石切り職人 」

「旅人が、ある町を通りかかりました。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。

その仕事に興味を持った旅人は、
一人の石切り職人に聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

その問いに対して、石切り職人は、
不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。

このいまいましい石を切るために、
悪戦苦闘しているのさ。

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に
同じことを聞きました。

すると、その石切り職人は、
表情を輝かせ、生き生きとした声で、
こう答えたのです。

ええ、いま、私は、
多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。

どのような仕事をしているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。

その仕事の彼方に、何を見つめているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」

これが二人の石切り職人の話です。この話は、志の話です。あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。それによって仕事の価値が定まる。つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。

吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。

吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。

私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。

子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。

いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。本物の人とは志を持つ人にしていくことです。未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。

体験の真価

人間は色々な体験をして成長していく生き物です。

頭でっかちに知識だけが豊富であっても、体験していないものは知恵にはなりません。知行合一、知るということは体験してはじめて知ることができるものであり、行わない知は知識になっても知恵にはなりません。知恵とは何か、それは体験により体得し学んだコツのことです。

そしてそのコツを掴む中でもっとも価値のあるものは、厳しく辛い体験かもしれません。涙を流すような辛い体験で、もう二度とあんなことをしたくないと体に刻まれるような体験はその後その人を謙虚に素直にしていくものです。

人は手入れを行い己の慾の赴くままに調子にのっているとすぐに傲慢の芽が育ってきます。その慾はあらゆることで忍び寄ってきます。だれしも人間は自分というものがありますから自分を愛しすぎてしまうことで物事の実相が分からなくなるからです。

思いやりや真心、自他一体に生きるということはあらゆる体験を通してそれでもどう生きたいか、それでもどのような自分でありたいか、それでもどのような生き方を貫くかと自問自答する中で磨かれていくように思います。

私も思い出してみると、過去に様々なことで傷つき学び直しました。傷つくという言葉は、気づくということです。体験を通して自分の無知を知り、恥を知り、自分が如何に素直でないかに気づくこと。素直でなかったからおかしな習慣を沁みつかせ、素直でなかったから自分に対して平気で傷つけるようなことをした、そしてそれが翻って愛する人たちまで平気で傷つけていた。それまでの歪んだ自分の生活習慣や価値観、自分が自分を傷つけ続けていることに気づくことができるのです。

傷つくのを避けるために自他を傷つけるという斜に構えて生きる癖は、その後も真実を覆い被せ、王道を歩もうとすると何度もそこで足をとられて転んでしまいます。その転んだ時、どのように立ち上がるか、そこに体験から学び気づき自分を成長させるコツがあるように思います。その基本に素直や謙虚さがある人は、かつての刷り込みに気付いて立ち上がる最中に刷り込みを自らで取り払うことができるのです。

人は無意識に、無理をしたり、自分を責めたり、罪の意識を持ったり、自分を特別視したり、他人を裁いたり、自分を許さなかったりするものです。それは自分の子ども心が傷つきたくないから守ってきたことかもしれません。しかし人間は強くなければ優しくなれないし、優しくなければ強くなれません。この世の中で、自分らしく自分を生きて活かしていこうと使命に生きようとするのなら必ず通らなければならないのがこの体験に対する姿勢を磨くということです。

つまり体験をしたことに対する結果がどうこうではなく、その体験をどれだけ素直に受け止めたか、その体験をどれだけ大切に尊重したか、そこに体験の真価があるのです。人の心の成長や魂の生長、そして精神の高まりはこの体験の活かし方に由ります。

子ども達には様々な体験をすることの真価を伝え素直であることの大切さ、そして気づき変わっていくことの楽しさを伝承していきたいと思います。道の持つ深淵に触れる楽しみこそ、学問の醍醐味です。日々に素直な学び直しを続けていきたいと思います。