サビない関係

刀用語の中に「身から出た錆」という言葉があります。日本刀はたたら製鉄によって玉鋼で鍛造されますが手入れをしなければサビが出て来ます。包丁もステンレスなどのサビにくい鉄もありますがどの鉄も手入れを行わなければサビがでます。

この身から出た錆は刀身から出た錆によって刀身を腐らせてしまうことから自分自身の行いや過ちが原因で、あとで災いを受けて苦しむことなどで使われます。似た諺に刃から出た錆は研ぐに砥石がない、または刃の錆は刃より出でて刃を腐らすとも言います。

このサビは、自業自得などとも言われますが人間関係でも同じことが言えるように思います。一度、仲良くなったからと放置していれば知らず知らずに錆が出てきたりするものです。その錆を手入れすることで、日頃の関係を良好に保つことが出来ます。

このサビというものは、刀や包丁でいえば刀自身が出てくるものです。決して他からやってくるのではなく、刀が自ら錆が出てきて腐っていくのです。鉄がサビる原因は一般的には空気と水が原因ですが、特別に鉄を水に濡らさなくても空気中に含まれる水分、その湿度がある程度高くなると鉄の表面に目に見えない薄い水の膜が出来て腐食が進むのです。なので、何もしなくてもこの自然の中にあればサビが進んでいくということになります。

刀身がサビて腐食してしまえば、鞘から刀が抜けなかったり、折れたり、切れなかったりと役に立てなくなります。必ずサビるものだからと、常に手入れを行い常にサビがつかない状態にし続けることが大切になってきます。これは日々の鍛練の徳目の一つではないかと思います。

身からサビが出てくるのだから、その身を常に内省し、錆びないように手入れをしていくのです。言い換えれば、自分の状態を常に腐らせないように発酵させ続けていくこと、つまりは平常心を維持していくために日々の実践を保っていくことのように思います。

日々に鍛練していればサビに気づく感性が磨かれていきます。錆が出ているなというのは、拭い紙で拭けばすぐに気付けます。何もしていなくても紙で拭けば錆がついているのが分かり、油を塗って保存していてもまたその油が乾いているのも拭えば分かりますから常に自らの刀身ともいえる初心を紙で拭い、それを他のことで忘れてはいないか、忙しさの中で見失っていないかと常に拭き改めることによって刀身の輝きを保つのです。

守るということはとても難しいことで、何百年、何千年とサビない状態を維持するのは御互いに関係を保つために手入れをし続けたということです。人間関係も同じく、常に距離が近ければ近いほど手入れをし続けていくことで互いの信頼がサビないように精進していけるように思います。

身から出た錆に気づく感性、身から錆が出るからこそ日々の平常心や手入れを大切に実践していきたいと思います。

丸ごと信じる~聴くことの本質~

人には信心という実践があります。物事を信じる人は素直であり、物事の実相が観えているものですが疑い斜めに見る人は物事の実相が歪んでしまいます。この信じると疑うというのは、生き方のことでいつも物事の善い方を観てきっと善くなる、きっと善いことだと希望に生きる人とどうせ悪くなる、もしかすると悪くなるかもしれないと期待や我慾にのまれ煩悶とする人に分かれます。

本来、信じるという心は最初から人間には備わっていて後天的に疑う心が沁みついてくるように思います。そういう心が沁みつかないように素直な実践が必要であり、物事は自分の見方次第で素直にできるということを実感するしかありません。

私は信じるのがいい、疑うのがダメと言っているわけではありません。自分の囚われや執着を如何に手放し、物事を素直に受け取る力をつけるか。そして謙虚に物事は天が与えてくださった道だとし、授かりもの、教えてくださっているものだと感謝で受け取る力を持つかということに尽きるように思います。

私自身の志業は如何に刷り込みを取り払い、その人らしく生きられるか。子ども達の周りの大人たちが、如何に刷り込みを脱却しあるがまま、自然の姿に回帰できるかと四六時中研究し、それを具体的な方法に発明し弘めているのが本業とも言えます。見守ることも然り、一円観も然り、徳も然りです。

実際は素直になれと言っても人は簡単に素直になるわけではありません。信心が深い人は、人の話をよく聴き、自分が疑っていたのではないかと内省し反省をし改善できます。しかし疑いから物事に入る人は、人の話をちゃんと聴かず、自分の都合の良い方ばかりに解釈をして間違いを重ねていきます。この間違いとは、正しいか間違いかではなく、信じるか疑うかということです。自分から疑う人は、他力の存在も信じることが出来ません。

人が話を聴けなくなるのは、自分の我を入れるからです。我を入れて自分の都合で聞いていたらすでにそれは聴けていないということになります。自分の都合で仕分けている聞き方は素直とはかけ離れたものです。素直な人は、自ら積極的に主体的に自分から学ぼう、教えていただいている、何か大切な意味があると丸ごと信じるから聴けるのです。

つまり素直に聴くというのは、ひょっとしたら相手が教えてくださっているのかもしれない、自分が気づいていないかもしれない、自分が間違っているかもしれないという自分の我を抑える工夫が身に着いているのです。しかし我慾ばかりが優先され、疑心に塗れている人は我の執着から囚われや刷り込みが深くなるばかりでいつまでも聴くことができません。

その疑心や執着はその人が 「丸ごと信じる人か」ということに由ると思います。丸ごと信じる人は、まず疑わず丸ごと信じます。その一瞬の隙間には疑心が入る余地がなく、素直に「ハイ」とまず受け容れるのです。つまりは、話を受け容れるのに蓋をしたり栓を閉じたりしないということです。

先日、あるご縁で蓮如上人の言葉に出会いました。それは一休禅師との文のやり取りで、蓮如上人が返信したものですがこのやり取りにはとても味わい深いものがあり共感しました。私もよく自問自答する内容であり、次代を超えて同じように刷り込みを取り払おうと精進した人たちがいたことに本当に多くの励ましと勇気がいただけます。

まず一休禅師がこう言います。

「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生 のみ助ける」         一休禅師

阿弥陀仏は本当の慈悲はない、頼んできたものは助けるが頼まないものは助けないではないかと言います。

これに対し蓮如上人は言います。

「阿弥陀には へだつる心なけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」
蓮如上人

阿弥陀仏に分け隔てるような心はないけれど、蓋がある水には月が映らないのだと言います。

私にとってもこの蓋こそが刷り込みであると思っています。月は同じように万物を照らして世のためにと慈悲心を永遠に無限に休むことなく与えてくれていますが、蓋をしている人の心にはそれがうつらないということだけなのです。別に選んで取引しているのではなく助ける人と助けない人がいるわけでもなく、蓋があるから何もできないのです。その蓋を取り除こうと必死に色々なことを考えては、それを現場で伝え教えを弘め、一緒に変わっていこうと道を同行するのです。

一休禅師の問いもまた世を救いたいという義憤と一心から来ているものであるのを感じ、どうすれば皆の見方を転じて福にできるかを心から願いました。それに応える蓮如も同じように一生懸命に方法を考え工夫して、どうすれば一切衆生を導けるかと心身を盡しました。

このやり取りの中に、御互いの志を確認するものが観得、私はとても心から励まさ勇気をいただけます。世の中の蓋をどのように外せるか、世の中にある栓をどうやって開けられるか、今も願いはそこにしかありません。

子ども達の未来のためにも、しぶとく粘る疑心を超えて楽しく明るく和来に満ちた信心に導けるよう導きと御縁と天を頼りに道を精進していきたいと思います。

本物を譲る~先祖代々の生き方と魂~

それぞれの国にはそれぞれで築いてきた文化があります。その文化は民族の習慣として習得され、それを代々受け継いで今の子孫があるとも言えます。例えば、日本人は礼儀正しいや正直、子どものように明るく無邪気で親切な人が多いなどと海外から評されます。これも先祖代々の生き方が文化として伝承されて継承されてきたのです。

他には、ドイツ人は親切で勤勉だとか、ロシア人は忍耐強いとか、オランダ人は友好的だとか、イギリス人は紳士的だとか、中国人は地縁血縁を重んじるとか、それぞれの国民性の中に先祖代々で築き上げられた智慧が生きています。これらは伝承されてきた大切な無形の文化として脈々と受け継がれてきた生き方であり、その国民性の持ち味とも言えます。

先日、あるヨーロッパの外国人たちが今の日本の状況をこう評しているとお聞きする機会がありました。それは「日本人は、笑いながら価値のある宝をどんどん捨てていく滑稽な民族」と言っていたそうです。

最初は何のことかと思っていましたが、先祖代々受け継がれてきた大切な宝を惜しみもなく笑いながら捨てていくというのです。その大切な宝は何かと聞いたら、日本人の大切にしてきた生き方や暮らし、それまで築き上げてきた文化や智慧のことだそうです。

何でも西洋から入ってきた新しいものが価値があるとし、文明を優先するあまり古いものは不必要だと廃棄されていきます。日本の風土に沿って自然に寄り添った建造物もなくなり、それまで循環し一つのゴミも発生せずに循環した暮らしを手放し、末永く修理して活かせる自然の道具も見なくなり、御互いに助け合い一緒に結束を固かった地域の繋がりも消えていきました。

今の日本人の特徴は果たしてどのようなものか、子ども達に継承されていく文化はどのようなものなのかと感じるのです。文化の本質は、その民族の生き方でありその生き方をどのように継承していくかがその民族の魂を継承していくことになります。子ども達は環境を通して、そしてその大人たちの生き様の背中を通して先祖代々の智慧やメッセージを無言のままに受け取っていきます。その受け取ったものを基本にして、その時代時代に大切な初心が失われないように温故知新して文化を守り文明を従えて発展してきたのです。

文化を排除し、文明だけを優先して目先の利益ばかりに飛びついて何でもかんでも捨てていたら二度と取り返しのつかないことをしてしまうかもしれません。世界が一つになるとき、もっとも必要なのは民族の多様性です。それぞれの国民性の持ち味を活かして、如何に人間が目覚め御互いが仕合わせになり、地球が喜ぶような生活をするかは文化に懸っているともいえ、子々孫々の平安と平和を譲り渡していく先祖代々の真心はそこに生きているとも言えます。

真心を感じてみれば、先祖は子孫のためにと本当に自分の天命を盡し、一生懸命にいのちを今につないでくれました。私たちが子ども達の未来を案じ子どもたちのためにと今できることをやろうと思うように、先祖たちも同じようにそうやって真摯に子孫のためにその時々をより善くしてくださいました。

私たちが今、本当になすべきことは子どもたちに受け継がれていく民族の魂を守ってあげることではないかと思うのです。今一度、日本の文化とは何か、日本人とは何か、世界から何を必要とされているのか、子ども達に譲り遺していきたいものは何か、自問自答しながら子どもの志事の本質を見極めていきたいと思います。

本物を如何に遺して、本物を如何に譲っていくか、今の時代に生きる責任ある大人の一人として真摯に日々の生活を見直し、一つ一つ実践を通してお手本の一つになる様に精進し暮らしていきたいと思います。

自然界最強の存在~柔弱の徳~

生き物には強さや弱さというものがあります。一般的に今の世の中の価値観では、強さというのはライオンやトラ、熊などの大きな動物の方が強いと思われていますし、集団で攻撃してくる動物、毒を持ち特殊な技術があるものが強いと信じられています。そして弱いものは、小型の草食動物やアリなどの小さな虫たち、逃げてばかりで攻撃する手段がない生き物のことを弱いと思っています。

しかし実際、自然界での強さ弱さの本質はどうなっているかを深めていけばいくほど本来の強さや弱さは逆転していることに気づきます。私たちが弱いと思っている存在が実は自然界では最強であり、私たちが強いと思っている存在が実は弱いこともあるのです。

老子に「含徳の厚きは、赤子に比す。」という言葉があります。これはこの世で最も徳の厚い赤ちゃんに敵うことがないと言います。一般的に赤ちゃんはもっとも弱い存在で何もできないと思われています。しかし何もできないと思われていますが実際はもっとも強い存在なのです。

老子は、その言葉のあとこう続きます。「含徳の厚きは、赤子に比す。蜂蠆虺蛇も螫さず、猛獣も拠わず、攫鳥も搏たず。骨は弱く筋は柔らかくして而も握ること固し。未だ牝牡の合を知らずして而も全の作つは、精の至りなり。終日号びて而も嗄れざるは、和の至りなり。和を知るを常と曰い、常を知るを明と曰う。生を益すを祥と曰い、心、気を使うを強と曰う。物は壮なれば則ち老ゆ。これを不道と謂う。不道は早く已む。」

赤ちゃんは、もっとも自然に調和している存在だと言います。道に沿っていると言います。赤ちゃんを猛獣や毒虫も襲えず、骨は弱く筋肉が柔らかくそして拳を握れば固いと言います。生まれながらに気力も精力も全て調和し、無理がない。私の意訳ではもっとも弱いと思われる赤ちゃんこそ、強さのお手本であり、この世で道を永く生き残るための智慧が溢れている存在であるということです。

他にも老子は、「最大の徳は、水のように最も低い場所に甘んじること」という言葉もあります。赤ちゃんや水のような柔軟で弱い生き方こそが、本当は最強の生き方であり最も無為自然そのものであるというのです。

自然には、しなやかやたおやか、なごやかやおだやかという言葉があります。この古語の日本語にある「やか」がつくものは全てにおいて柔軟性・柔弱性を秘めています。自然界の持つこの弱さというものは、生き残るために変化を已まない最大の智慧であり徳です。そしてその徳を持つ赤ちゃんや水のような生き方はこの世では至強の存在であるのです。

私たちが弱いと思っているものこそ、自然界では最も強く、そして人間が強いと思っているものほど実際は弱いということなのです。

私も以前、自然を学び直す中で大きな太くがっちりとした大木が雷や台風で倒されるのに対し、若くて青々しく瑞々しい草たちがどんな台風の強風にも水害にも耐えて嵐が去るとまた何事もなかったように太陽の光でキラキラと甦生し続けて成長する姿を観たら至弱こそ最強の存在ではないかと何度も驚いたことがあります。

弱そうに見えて実際に強いのは、何でも強くなろうと思っているのではなく大事なものを守るためには変化を惜しまない。言い換えるなら、理念や初心が守れるのならそれが以外は何を変えても平気であるほどに柔軟性・柔弱性を持っているということです。

生き方のお手本というのは、生き残るために変化を已まない存在です。自然界では、そうやって今までいのちをつないできていますしこれからもずっといのちは自然と一緒に寄り沿って自分の天命を活かしていきます。

自然に学ぶものの一人として、本来の強さをはき違えないようにしたいものです。

最後に私が好きな老子の言葉です。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木の生まるるや柔脆、その死するや枯槁なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以って兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち折る。強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る。」

40代を迎え、一生青春、一生若々しくあるためにこの柔らかく弱い存在に近づいていくよう子どもと自然とお手本に精進していきたいと思います。そして捨ててはならない大切な生き方を子どもたちに譲り遺していけるように万物自他一体に遣り切っていきたいと思います。

素直は能力

昨日、久しぶりにあうん健康庵の小松先生と奥様にお会いしました。いつもながらの温かい心遣い、おもてなし、いつもの素敵な笑顔と生き方にお会いするだけで元気をいただけます。

場所が離れていても、どんな時でも、私たちのことを応援してくださり励ましてくれる。子ども達のためにと精進していくことは厳しくもあり楽しいことでもありますが、志を実践する方との邂逅によって御縁や道はいつも支えられているように思います。

そのあうん健康庵の入口に、「素直は能力」と書かれた色紙があります。この素直さというものは何ものにもかけがえのない自然治癒の極意のように感じ、私自身もこの素直さは単なる性格ではなく己の磨き方としての最大の能力であるように感じています。どんな時でも素直な人は、全ての出来事やご縁を必ず善いことだと受け容れ、それを福に転じます。しかしその大事な場面で素直の能力がない人は、全ての出来事を禍にしてしまうのです。幸不幸はその人のものの見方、受け止め方ですからどんな出来事もその人がどういう見方をするのかで見え方が変わってきます。その見え方を変える技術、それも素直の能力の一つであることは分かります。

素直と言えば、私が最初に思い浮かべるのは松下幸之助さんです。

松下幸之助さんは、人間にとって何よりも欠かせない大切なものは「素直さ」であると言い切ります。生涯をかけて、素直という言葉を言い続け書き続け実践をし続けた方です。そのエピソードや人生の出来事の場面で如何に松下幸之助さんが素直の能力を活かして禍を転じて全て福にしてきたかが分かります。何よりこれは産まれつきでもっていたのではなく、大切だと気付いて努力して能力を磨いたことが「素直の初段」という言葉の中に残っています。

『私自身はこういうことを考えている。それは、聞くところによると、碁というものは特別に先生について指導を受けたりしなくとも、およそ一万回うてば初段ぐらいの強さになれるのだという。だから素直な心になりたいということを強く心に願って、毎日をそういう気持で過ごせば、一万日すなわち約三十年で素直な心の初段にはなれるのではないかと考えるのである。初段ともなれば、一応事に当たってある程度素直な心が働き、そう大きなあやまちをおかすことは避けられるようになるだろう、そう考えて、私自身は日々それを心がけ、また自分の言動を反省して、少しでも素直な心を養い高めていこうとしているのである。そのように方法はみずから是と思われるものを求めたらよいわけだが、素直な心の涵養、向上ということ自体は、あらゆる経営者、さらには、すべての人が心がけていくべき、きわめて大切なものである。それなくして、経営の真の成功も、人生の真の幸せもあり得ないといってもいい。だから、素直な心に段位をつけられるものであれば、やはりお互いに初段ぐらいにはなることはめざしたい。そこまでいけば、これまでに述べてきたようなことも、おのずと体得され、生かされてくると言ってよいであろう』

松下幸之助さんは80歳半ばになってようやく素直の初段になったと言っていました。生き方として如何に素直を磨くかは、日々の御縁や出来事を通した時、自分がどのようにそれを転じつづけて福にしたかという実践なのです。日々の過ごし方一つ、当たり前ではなく有り難いと感じて物事の見方を転じて観ることや、何かあった時にこれはきっと大切なことを教えてくださっていると学びに換えること、そういう日々の行動で素直は磨かれるように私は思います。また松下幸之助さんはこう言います。

『素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境はうぬぼれを生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられたひとつの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。』

生き方として、逆境が来た時に卑屈になればそれはまた己に負けることになります。そして順境の時にうまくいっているからと調子にのればまた己に負ける。人生は常に己に克つかどうか、自分との付き合いをどう素直な状態にしていくかですから運命を受け容れその境涯に対して如何に油断しないで何があろうがなかろうが日々に粛々と実践を続けていくかということになるのです。

素直さを磨くという心があれば、素直さの能力は高まっていきます。最後に松下幸之助さんが言う素直な心で締めくくります。

『素直な心とは、単に人に逆らわず従順であるということではありません。本当の素直さというものは、力強く、積極的な内容をもつものだと思います。つまり、素直な心とは、私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれず、物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。その心から、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。だから、真理をつかむ働きのある心だと思います。したがって、素直な心とは、何ものにもとらわれず、物事の真実と、何が正しいかを見きわめて、これに従う心、適応していく心です。お互いが素直な心になれば、していいこと、してならないことの区別も明らかとなり、また正邪の判別もあやまることなく、何をなすべきかもおのずとわかってきます。素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強くし正しく聡明にいたします。』(「素直な心になるために」PHP)

逆境のときこそ素直さは磨かれ、そして順境の時こそまた素直さは磨かれる。素直の初段になるために、日々素直は能力と言い続けることは生涯の人生道場であり、一生の修行であるように思います。

自然治癒もまたこの素直さが何よりも肝要であることを学び直しました。

起きた出来事一つ一つに大切な意味があることに感謝し、日々の御縁を大切に学び直しを味わっていきたいと思います。

 

真の実践者

よく実践者のことをみて、人はなんであんな大変なことをやるのだろうと思うものです。もしくはあれだけやらなければならないことばかりで大変ではないかと心配されるものです。例えば、トイレ掃除をしている人や毎日有り難うを100回言うなどと決めている人を見てはなんであんな大変なことを続けるのだろうかと感じるものです。

しかし実際は聖人になろうとやっているわけでもなく、立派な人になろうとしているわけでもなく、周りから見れば無理してわざわざしなくてもと思うかもしれませんが本人は実際は気づいたことを忘れないためにすぐに実践をした方が未来に色々な効果が出てきて最終的には運が善くなり不思議とうまくいくことが多いから続けているのです。

体調が悪い時とか、感情の落ち着かない時でも、実践をしていたら自然に心が穏やかになって初心を取り戻していきます。どうしても人は日々に忙しくなり大切な初心を忘れたりしますからそれを忘れないでいることで物事は本質的に積み上がり願望も成就していきますから日々に内省したり振り返るための実践を持っている人はやっぱり「好いこと尽し」になっていきます。別に「やらなければならない」と、ネバネバしているのではなくそっちの方が楽しいし上手くいく体験を沢山しているからその人は自然に続いているとも言えます。

実際に人が善いと思ったことをいくら知っても、知っているだけでは何も変わりません。そこに知ったことを忘れないための実践があって善いことは伸ばしていけます。

たとえば御蔭様を忘れない方が良いと知ったら、すぐに御蔭様ノートを書いていくことを決める。普通は3日もすれば御蔭様であったことも忘れるのが人間ですが、日々に御蔭様ノートを書いていたら忘れないのです。こういうように忘れないために続けていたら、日々に御蔭様の存在を実感することができ自分の力ではなくいつも御蔭様の力によって物事は進めてくださっているのだと感謝する心が次第に持てるようになっていきます。すると、人間関係も御蔭様、仕事の成果も御蔭様、健康も安全もすべて御蔭様だとなって日頃感じれない他人様の偉大な憐れみや施し、思いやり利他の人の行っている姿が観えてきてより感謝が伝わり合い自分の真似したくなり自他が仕合わせになっていくのです。

これは別に何が何でもしなければならないと思って本人はやっているわけではなく、そっちの方が楽しいからやっているだけでそっちの方が得だし効果が出てくれば無理するよりも楽だから続けるのです。実際に実践をしてみれば、実践をした方が楽だなと思う事ばかりです。言い換えれば自分にメリットがあるからやっているだけです。

先ほどの御蔭様ノートもそうだし、このかんながらブログ、他にも昨年からはじめた暮らしの実践で炭を熾してお茶を飲むのもそうですが、日々にやればやるほどに気づいたことがカタチになってきて結果も経過も以前よりずっと善くなってきています。一つやって効果が出てくれば他にもいっぱいやりたくなります。そうしているうちに周りの人たちから実践者とか呼ばれますが、実際は効果が出てくると愉しいから続けているだけなのです。そして効果が出たら人に教えてあげたくなりますから一緒にやらないかと誘うのです。例えば社内で皆で一緒に行っている「ツイてる体操」や「面白い話」、その他様々な実践もやればやるほどに楽しくなって皆の人生の運気も上がって結果も出て来ます。決してしなければならないと悲壮感からやっているのではなく、そっちの方が楽だし楽しい、効果覿面だからやっているだけなのです。

実践をするのは何でも最初は大変そうに見えますが、実践を継続していくと次第に思った以上の効果や奇跡に出会ってその凄さやその実践がつくってくれた様々な神業に驚き感動することばかりです。継続は力なりという諺もありますが、継続してみないと分からないのが実践の醍醐味ですから続けてはじめて変化の楽しさを味わえます。トイレ掃除だって一日やったくらいではわかりませんが、何年もやっている人には掃除で何が変わるのかの実感を沢山持っているのです。

実践の面白さはその実践そのものの大変さを見るのではなく「実践しているとどんな効果がありますか?」と本人にストレートに聴いた方がその実践の価値と面白さを正しく知ることが出来るように思います。

早起きは三文の徳とか、毎日笑顔でニコニコしているとか、自他に前向きな言葉がけをし続けるとか、みんなが喜ぶことをたくさんするとか、ありがとうを沢山言うとか、毎朝神社を参拝してお祈りをするとか、そういうものも実践と呼びます。そうやって実践をやっていた方がなんでも不思議とうまくいくことを知っている人のことを実践者、または実践ジャーと呼びます。早起きだって今の時代は暗いうちから起きてそんなに早起きでストイックだと自分には無理だとか煙たがられますが、実際に早朝から起きてやっている方が日中や夜中にやるよりもずっと楽だし効果が出て楽しいから早起きしているだけで早起きが「好いこと尽し」だからやっているだけなのです。

私は実践者はみんな謙虚な人だと思っています。なぜなら自分の力で物事が動かないことを知っている真の謙虚な人はみんな自分自身の実践を欠かさないからです。それは自分が傲慢になり我儘になり感謝を忘れ御蔭さまを信じなくなることで人生がつまらなくなることに気づいているからです。謙虚な人ほど実践を続けて、黙々と粛々と続けるのは自分の力ではないと思うことの方が自然体だと思っているからです。

実践は人に強要するのではなく自分が実践していたらこんないいことがあったよ、こんな奇跡があったんだよとこの実践の面白さ、実践の功徳、周り廻ってくる自然の恩恵を伝えていきたいと思います。やってみてもしも継続ができてその価値や面白さを知ったなら同じように悩んでいる人のために何か御役に立つかもしれません。他人を変えることはできませんから、自分の実践の姿、その実践の背中を見てもらって人は変わることがあるのかもしれません。

実践の価値を伝道できるように、自らの実践を味わい、実践を愉しみ、周りの実践者と一緒に楽しく道を弘げていけるように精進していきたいと思います。

生き物たちを活かす生き方

今、人間以外の生き物は絶滅の危機にさらされています。生態系というのは、渾然一体に食べ食べられ御互いを活かし合い命を伸ばし合う関係ですがそれが人間の都合で自然を変えることでそれまでの生態系を画一化してしまいそこから種が消えていく連鎖が止まらなくなっているのです。

どれくらい絶滅スピードが上がっているかというと恐竜時代は1年間に0.001種、1万年前には0.01種、1000年前には0.1種、100年前からは1年間に1種の割合で生物が絶滅していると言われます。絶滅のスピードは加速し今では1日に約100種となっています。つまりこの計算では1年間に約4万種がこの地球上から姿を消していることになります。この100年で約4万倍以上の加速で世の中から種が消えています。さらにそのスピードは加速を続け、このままでは25~30年後には地球上の全生物の4分の1が失われてしまう計算になっていると言います。

実際はより複合的に総合的に御互いが絡みあっているのが自然界ですから、ひょっとすると以上のスピードよりも速く絶滅してしまうかもしれません。以前は巨大隕石の衝突や、火山の天変地異で滅亡したことがありましたが今は人間の欲望で滅亡する時代です。コントロールできず肥大化した不自然は、人間以外の生き物たちのいのちを先に奪い、最期には人間のいのちを奪ってしまうのでしょう。

絶滅のスピードを速めることで分かっている範囲では野生動物の乱獲、生物資源の乱獲、森林破壊、農薬や薬剤の散布、排ガスや空気汚染からの酸性雨、合成洗剤などの身近な生活環境汚染の積み重ねによるものと言われます。

しかし本質は、人間が何よりも優先され周りの生き物たちへの思いやりや配慮がない暮らしをしていることが原因であるように思います。自然農では、作物を育てますが取り過ぎることがありません。その上で周りの生き物たちが生活できるように薬をまかず草をのこし他の生き物たちが一緒に暮らしていけるように配慮します。

生き物たちが一緒に暮らして多様性が働けば、一部の生き物たちが暴れたり食べ尽したり取り過ぎることはありません。人間が薬をまいて全ての生き物たちを殺傷したときだけ、その後、一つの生き物が大量に増えるため農園に問題が発生するのです。実際に取り過ぎず、分を弁えて周りを思いやっていけば自然は自ずから調和するようにできています。そしてその時だけ、末永くいのちは活かし合い生きながらえる仕組みになっているのです。

将来のことを思えば、今の子どもたちが大人になった時にはほとんどの生き物たちがこの世の中からいなくなっていきます。今、気づいたなら一人ひとりが身近な実践から生き方を変えていくしかありません。

地球が喜ぶものを使うとか、地球が悲しむものをやめていくなどもそうです。何を実践することが、他のいのちを思いやり、何に配慮することが周りのいのちを活かすのかということをそれぞれで身近な暮らしから見直し取り組んでいくしかありません。

壊れていくスピードが速いからと、絶滅は止められないからと何もしないでは子どもたちの未来に対する責任が果たせません。今、自分ができる実践を積み重ねることはたとえハチドリの一滴であっても、大海に石を積み上げるようであっても、その実践の祈りは必ず未来に引き継がれていくように思います。

今は人間生命時代の大転換期です。

この時代に生まれてきた世代であることを誇りに思い、生き物たちのいのちを活かすために今の自らの生き方を見直し、未来の子どもたちのために変えられるところから一つずつ丁寧に丹精を籠めて変えていきたいと思います。

協力の本質

人は自分の責任の範囲というものをそれぞれに持っているものです。例えば、自分の役割が何かということを自分で決めているものです。それは肩書きや立場、組織の中での自分の役割などのことですがそのことから無責任の構図が発生することがあります。

例えば、自分の責任の範囲を決めればそれ以外は自分の責任ではないという考え方があります。自分はこの仕事を貰っているのだからそれはやるけれど、他のことは他の人がやるという考えです。経理であれば経理の範囲しかせず、営業であれば営業の範囲しかしないというようにそれぞれ自分の立場を勝手に決めてはその中の役割や責任だけを果たせば自分は問題なく取り組んでいると思うのです。

しかし実際にはちょっと深く考えたらわかると思いますが、その自分の範囲の責任を果たしても、全体の目的や方針に対する責任が果たせておらずもしもその会社や集団が消失してしまった場合は誰の責任かということになります。一般的にはトップの責任や役員の責任、その組織がなくなるほどの原因をつくった人物の責任といいますが実際は全体責任はそこで働くみんなに責任があったということになります。これはかつて教育で歪んだ個人主義を教え込まれた競争の刷り込みでもあり、自分さえよければいいという利己主義でそれぞれが保身に入る敵対構図の刷り込みでもあります。

アメリカの大統領、J・Fケネディの有名な演説「国があなたに何かをしてくれるのではなく、あなたが国に何ができるかを考えよう」があります。これは一人ひとりが、全体に対して責任を持って取り組もうということに似ています。自分はこの役割をやっているのだからではなく、自分がどれだけ全体の役割を果たせるか、それは自分の範囲を決めるのではなくもっと大きな目的や理念のためにできることは何でもやろうという決意です。

組織が敵対したりバラバラになるのは、自分の立場や自分の役割を決めて相手と対峙するからです。本来の全体目的や大きな目標に向かって総力戦で挑もう、自分が何ができるかを問おうとするのなら敵対ではなく協力になるはずです。協力できなくなるのは、それぞれの自分の立場を守ろうとするから対峙してしまうのです。みんなで一致団結して一家協力して一人ひとりが全体に対して主体的に協力して取り組めば必ず国をはじめ会社、すべての集団は目的を実現できるように思います。

最後に、そのJ・Fケネディの演説のその前後の文章を紹介します。

『世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒されているときに、それを守る役回りを与えられた世代というのは多くありません。私はこの責任を恐れず、喜んで受け入れます。おそらく皆さんも、この役目を他の誰かや他の世代に譲りたいとは思わないでしょう。我々がこの取り組みに注ぎ込む精力と信念、そして献身的な努力は、この国とこの国に奉仕する人々を明るく照らし、その情熱の光は世界を輝かせるはずです。そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。』

何かをしてもらおうとばかり考えるのではなく、自分が何ができるかを考える。この主体性があってこそはじめて組織や集団は「協力型」に切り替わります。協力することは、足し算ではなく掛け算になります。相乗効果というシナジーが発生し、一人ではできないと思っていたことが相乗効果によってできるようになるのです。

如何に協力を優先するか、如何に相乗効果を発揮するかは、一人ひとりの主体的な信念と行動、実践にかかっています。引き続き、子ども達のためにも憧れるモデルになるような働き方を目指していきたいと思います。

発想の転換

人間には思い込みというものがあります。今まで生きてきて、どのような刷り込みを受けどのような常識を持ったか、そこがその人の先入観であり価値観でもあります。今までやってきたことの上に物事をいくら考えてみても、もしもそれがまったく今までと同じことでは不可能だと自覚するとき、人ははじめてそこで発想の転換ということに気づくのです。

しかしこの発想の転換に気づくには、よほどの衝撃を受け止める力が必要です。

以前、地動説を唱えたコペルニクスがそれまで地球を中心に世の中が変わっているという世界観を、太陽を中心に世界が変わっているということを発表しました。しかしそれまで信じられた天動説があるから、その後、同じように地動説を唱えた人たちは異端として沢山火あぶりの刑で処刑されていきました。世の中の刷り込みや常識を壊すということは、それまでの価値観の否定です。ガリレオも無理やり天動説を唱えるように圧力をかけられて従いました。晩年、「それでも地球はまわっている」と言っても、実際は世の中の常識や刷り込みが怖くて誰も真実を認めようとはしませんでした。人間というのはどこまでも自分中心、自己都合ですから真実すらもあっという間に書き換えてしまいます。

その後、科学が進み「明らかに」地球が太陽の周りをまわっていることが隠せないほどに証明され気づいてその常識や刷り込みは覆されました。真実が覆い隠せなくなったとき、世の中はその真実を認めるしかなくなります。それまでにかかった時間が如何に膨大か、それほど刷り込みは取り払われなかったということです。

これは今まで信じられてきたことが真実で、それ以外のことは真実ではないという考え方です。誰かが先に言ってそうだと言ってしまえば、そうなんだと何も考えずに鵜呑みにする、これを刷り込みとも言えます。物事の本質を見極める人は、刷り込みを信じず自分の感性を信じます。そして本質を突き詰めて、自分中心で物事を考えるのではなく「発想の転換」によって自然に全体を捉えるのです。

これができる人は、刷り込みを持たない人です。あるがままにありのままを素直に観ることが出来るのは知識で物事を判断するのではなく、智慧で物事を直感するのです。この智慧は、人間の知識を信用せず自然の姿を信じることに似ています。

自然がどうなっているのかを詳しい人は、そもそも人間の知識が自然に適っていない、理に適っていないことを見抜きます。自然に精通する人は、何が自然で不自然かが正しく見極められるのです。王道というものも同じく、本質的で本来どうあることがもっとも自然かということを貫く実践の道でもあります。そしてそれは己に克っているから己という刷り込みに囚われないでいることができます。

どんな時も人が行詰るとき、そこに発想の転換は必要です。

そして発想を転換するには、それまでの常識を一度すべて疑ってみる必要があります。また今までの自分の刷り込みに気付き、その刷り込みを外して物事をみることも必要です。そのためには、自分に矢印を向けて自分が間違っているのではないかという自分自身の刷り込みを一度疑ってみる必要があります。自分に矢印を向ける人なら、自分の間違いにハッと気づいてそこから発想の転換への道筋が出て来ます。そうやって素直に謙虚に刷り込みを取り払ったなら、何のためにやるのか、どの方法でやるのかは自然に照らして真実を考えてみるといいように思います。

ありのままに物事が観えるというのは、刷り込みを日々に取り払い続けることで実現します。刷り込みのままに知識をいくら入れても、それは刷り込みを助長するだけですから刷り込み自身が何かをまず考えることが刷り込みに流されないコツかもしれません。

私たちの本業はずっと刷り込みを取り払うことに終始しています、刷り込みを取り払う本物の技術こそが、これからの子ども達の見守る環境には必要不可欠です。

自然から学び直し、子どもから学び直すことも自分の刷り込みを取り払う方法論の一つです。引き続き、子ども達にあるがままのことを伝承していくためにも、本質は何か、真実が何か、何を行うことがもっとも自然で王道かということを観直し続けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自然のまま~本質かどうか~

今年は自然農の畑と両親の耕す畑で高菜を栽培してみて、色々な発見がありました。自然農の畑の高菜は、大きくなく小さいものばかりです。もう5年間、無肥料無施肥でやっているものといえば近場の雑草を刈って敷き詰めるくらいです。それに比べて両親の畑は、肥料が残っているので私の高菜の6倍くらいの大きさになっています。実際に農協や農産物直売所では両親の畑の高菜の方が評判がいいはずです。大きくて肉厚な野菜は高く売れます。

しかしよくよく観察してみると、どの辺が異なっているのかということにすぐに気付きます。まず自然農の野菜は、根がとても強く茎がしっかりと強くなかなか収穫するときに簡単に切れません。全体的に小ぶりですが、ほとんど虫がついてなく食べられている形跡もありません。色つやがとても野性的で、収穫してからもなかなか腐りはじめません。高菜などは天日干ししてもすぐには萎れず、元気なままです。売るには大きくて肉厚ではないので価値が低いのですが、食べるには最高です。両親の畑の方は大きさと肉厚さはすごいのですが虫が大量についています。その虫を洗い流すのが一苦労で、これだけの虫を防除しようとすれば農薬を使わないと成り立たないのがすぐにわかります。

実際に大きくしようとすればするほど、大量に肉厚なものを作ろうとすればするほどに肥料が増えていきます。そして肥料が増えていけば虫も増えていきます。虫が増えていくから農薬も増えていくのです。この「大きくする」ということが如何に別の手間を増やしているのかということなのです。しかし大きくする理由はお金になるからです。お金にするために育てるのだから大きくした方が消費は増えるということです。作るときから消費をするために作るのだからエネルギーも使う道具や中身も消費するものを沢山使うことで経済効果が上げているのです。

しかしここで大きくしないと決めるとどうなるか、すると売れなくなります。売れなくなるのを諦めてしまえば消費は落ちていきます。食べていくにもお金がなければ食べていけないのだから食べていくものを作っているのにそれを作ってもお金にならなければ生活していけないという矛盾が発生してしまうのです。私のように兼業農家で行う場合は、自然に食べるものを育ててもそれで収穫して食べて別のことでお金は稼げばいいのですが実際は専業になるとやはり食べるものではなく売れるものを中心につくりはじめるのです。

消費するものか食べるものか、今の時代は消費者が消費するものを求めていますから食べるよりも消費材の方が価値が高く売り買いされていくのです。道具ひとつでも今は修理するよりも買い換えた方が安い時代です。プラスチック製品などは、最初から使い捨てるために大量消費できるように作られています。そもそも道具も使うものではなく消費するもの、食べ物も食べるものではなく消費するものなのです。

自然農は食べるものを作ります。消費にはあまり役に立ちませんが、その分、自然循環する農の暮らしが行え、食べる営みや育てる営み、自然と寄り添い生きていく智慧を学び生き方の方を自然大道に沿っていくことができます。

食べ物をつくることが本来の農であり、消費することが農ではありませんから如何に農を実践するかが自然農の醍醐味になります。美味しい食べものを育て、美味しい食べ物を加工する、そして美味しく食べてもらうこと。

美味しいものを作ることは大きくすることでもなく肉厚にすることでもありません。かえって自然の大きさのままにそれが小さくても自然の姿のままで育てることが美味しいものを作ることです。

この自然のままがいいという価値観は、常に「一体何のためにやるのか」という本質を外すことがありません。本来、人が自然が分かるのはそもそも何のために作るのか、それと深く正対しているから自然のままの意味が自明するのです。

引き続き、本物の漬物作り通し本質的に育てる感性を磨きたいと思います。