表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

自然の暮らし

神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。

今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。

人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。

しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。

最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。

言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。

自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。

私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。

その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。

刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。

 

祭り部発足

昨日、社内の今年の取り組みとして「祭り部」ができました。昨年は「駅伝部」ができて、朝練をはじめ各地の駅伝に参加したり現地の志ある会社を訪問したり、その地域の歴史や生き方、人々や場に触れたりして愉しみ学びを深めましたが今年は「お祭り」を通じてまた新たな社内での実践を象っていくことになりそうです。

先人たちが遺してくださった叡智や智慧に触れることは、自分たちの歴史やアイデンティティがどうなっているのかを自明することにもなり、子ども達に先人たちの願いを繋いでいくことにもなります。今の時代を生きるものとして、何を遺し何を譲るか、それを先祖に学ぶことは何よりも大切な使命のひとつです。毎年、その時々で必要なテーマが降りてくるということはそれだけ前年のテーマが充実していたということです。そうやって哲学や思想がはっきりと明確になり、その明確になったものがテーマになりそのテーマによって人は創造や革新が促されます。

今年は「祭り」になりましたが、祭りというものが何か少し整理してみます。

古事記に本居宣長が祭りとは何かをこう言います。

「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」

他にも中国の漢字を分解するとこの「祭」という漢字は夕(肉)と又(右手)と示(神示)から成り立ち、右手の肉を持って神にささげる意味です。祀は示(神)に巳(シ)を付けた字で、祭・祀はどちらも神様にささげるという意味になります。

古語辞典「字訓」を書いた白川静氏はこう言います。

「神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。」

古代の神道は、祭政一致であり人々は日々の暮らしを神様に委ね神様の声を聴きながら生活を営みました。神様の声を聴けるというのは、いのちを常に感じてそのいのちを活かしていたからこそ話ができたとも言えます。その一つの神事として「お祭り」があり、お祭りを行うことで穢れを祓い清めたとも言えます。

この「祭り」を「待つ」と同源の語であると言います。私も待つことは信じ切ることで、丸ごと信じていることですから待つことで出づるのを静かに待つという心境は神様を奉る依代としての御役目として必要なことのように思います。

同時に神様が訪れるのを待つ、しかしそれをどのように待つのか、そこに待ち方というものがあると思います。その待ち方こそが祭りの本質であり、ただ待てばいいのではなく神様が顕れるのをどのような姿勢で待つのか。つまり自分たちの中から神様が出てくるのを静かに待つのです。古来、私たちは八百万の神々であり、一人ひとりが魂と命を持っています。だから親祖や先祖の神様たちは自分たちのことを「尊」をつけて尊称するのです。

その尊が出てくるのを待つのに、善いところを観る、信じて観る、素直に明るく、清らかな心になっていくようにして自分の中から出てくる神様と同じ心が顕れるのをみんなで「祭る・祀る・待つ儀式」を行ったのではないかと私は思うのです。

私たちが実践している一円対話においても、御互いが認め合い尊重し受容して清浄で無邪気な場が出来上がると神がかっているような言葉が発言者から出て来ます。これも一つの「お祭り」であり、そのことで人々が素直になり本来の真心や初心を思い出されるのです。

人が初心を思い出すためにお祭りがあり、お祭りを通して一体自分たちは何を大切に生きていけばいいかを反復して理解していく。単なる西洋からきたイベントではなく、日本のお祭りはとても精神的な意味や生き方を観直す内省的な意味を持っているのではないかと感じています。つまり神人合一していくところに、その本質があったのではないかと私は思います。

今年はそれを改めて学び直し深めていく機会をいただけそうです。引き続き、本業であり志業である子ども第一義の理念を自他一体、理想現実一致にしていくためにも一円融合、全てを福に転じて発明を続け実践を弘めていきたいと思います。

人をつくる~志を定めること~

人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。

田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。改めてその話を紹介します。

「二人の石切り職人 」

「旅人が、ある町を通りかかりました。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。

その仕事に興味を持った旅人は、
一人の石切り職人に聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

その問いに対して、石切り職人は、
不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。

このいまいましい石を切るために、
悪戦苦闘しているのさ。

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に
同じことを聞きました。

すると、その石切り職人は、
表情を輝かせ、生き生きとした声で、
こう答えたのです。

ええ、いま、私は、
多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。

どのような仕事をしているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。

その仕事の彼方に、何を見つめているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」

これが二人の石切り職人の話です。この話は、志の話です。あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。それによって仕事の価値が定まる。つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。

吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。

吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。

私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。

子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。

いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。本物の人とは志を持つ人にしていくことです。未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。

体験の真価

人間は色々な体験をして成長していく生き物です。

頭でっかちに知識だけが豊富であっても、体験していないものは知恵にはなりません。知行合一、知るということは体験してはじめて知ることができるものであり、行わない知は知識になっても知恵にはなりません。知恵とは何か、それは体験により体得し学んだコツのことです。

そしてそのコツを掴む中でもっとも価値のあるものは、厳しく辛い体験かもしれません。涙を流すような辛い体験で、もう二度とあんなことをしたくないと体に刻まれるような体験はその後その人を謙虚に素直にしていくものです。

人は手入れを行い己の慾の赴くままに調子にのっているとすぐに傲慢の芽が育ってきます。その慾はあらゆることで忍び寄ってきます。だれしも人間は自分というものがありますから自分を愛しすぎてしまうことで物事の実相が分からなくなるからです。

思いやりや真心、自他一体に生きるということはあらゆる体験を通してそれでもどう生きたいか、それでもどのような自分でありたいか、それでもどのような生き方を貫くかと自問自答する中で磨かれていくように思います。

私も思い出してみると、過去に様々なことで傷つき学び直しました。傷つくという言葉は、気づくということです。体験を通して自分の無知を知り、恥を知り、自分が如何に素直でないかに気づくこと。素直でなかったからおかしな習慣を沁みつかせ、素直でなかったから自分に対して平気で傷つけるようなことをした、そしてそれが翻って愛する人たちまで平気で傷つけていた。それまでの歪んだ自分の生活習慣や価値観、自分が自分を傷つけ続けていることに気づくことができるのです。

傷つくのを避けるために自他を傷つけるという斜に構えて生きる癖は、その後も真実を覆い被せ、王道を歩もうとすると何度もそこで足をとられて転んでしまいます。その転んだ時、どのように立ち上がるか、そこに体験から学び気づき自分を成長させるコツがあるように思います。その基本に素直や謙虚さがある人は、かつての刷り込みに気付いて立ち上がる最中に刷り込みを自らで取り払うことができるのです。

人は無意識に、無理をしたり、自分を責めたり、罪の意識を持ったり、自分を特別視したり、他人を裁いたり、自分を許さなかったりするものです。それは自分の子ども心が傷つきたくないから守ってきたことかもしれません。しかし人間は強くなければ優しくなれないし、優しくなければ強くなれません。この世の中で、自分らしく自分を生きて活かしていこうと使命に生きようとするのなら必ず通らなければならないのがこの体験に対する姿勢を磨くということです。

つまり体験をしたことに対する結果がどうこうではなく、その体験をどれだけ素直に受け止めたか、その体験をどれだけ大切に尊重したか、そこに体験の真価があるのです。人の心の成長や魂の生長、そして精神の高まりはこの体験の活かし方に由ります。

子ども達には様々な体験をすることの真価を伝え素直であることの大切さ、そして気づき変わっていくことの楽しさを伝承していきたいと思います。道の持つ深淵に触れる楽しみこそ、学問の醍醐味です。日々に素直な学び直しを続けていきたいと思います。

サビない関係

刀用語の中に「身から出た錆」という言葉があります。日本刀はたたら製鉄によって玉鋼で鍛造されますが手入れをしなければサビが出て来ます。包丁もステンレスなどのサビにくい鉄もありますがどの鉄も手入れを行わなければサビがでます。

この身から出た錆は刀身から出た錆によって刀身を腐らせてしまうことから自分自身の行いや過ちが原因で、あとで災いを受けて苦しむことなどで使われます。似た諺に刃から出た錆は研ぐに砥石がない、または刃の錆は刃より出でて刃を腐らすとも言います。

このサビは、自業自得などとも言われますが人間関係でも同じことが言えるように思います。一度、仲良くなったからと放置していれば知らず知らずに錆が出てきたりするものです。その錆を手入れすることで、日頃の関係を良好に保つことが出来ます。

このサビというものは、刀や包丁でいえば刀自身が出てくるものです。決して他からやってくるのではなく、刀が自ら錆が出てきて腐っていくのです。鉄がサビる原因は一般的には空気と水が原因ですが、特別に鉄を水に濡らさなくても空気中に含まれる水分、その湿度がある程度高くなると鉄の表面に目に見えない薄い水の膜が出来て腐食が進むのです。なので、何もしなくてもこの自然の中にあればサビが進んでいくということになります。

刀身がサビて腐食してしまえば、鞘から刀が抜けなかったり、折れたり、切れなかったりと役に立てなくなります。必ずサビるものだからと、常に手入れを行い常にサビがつかない状態にし続けることが大切になってきます。これは日々の鍛練の徳目の一つではないかと思います。

身からサビが出てくるのだから、その身を常に内省し、錆びないように手入れをしていくのです。言い換えれば、自分の状態を常に腐らせないように発酵させ続けていくこと、つまりは平常心を維持していくために日々の実践を保っていくことのように思います。

日々に鍛練していればサビに気づく感性が磨かれていきます。錆が出ているなというのは、拭い紙で拭けばすぐに気付けます。何もしていなくても紙で拭けば錆がついているのが分かり、油を塗って保存していてもまたその油が乾いているのも拭えば分かりますから常に自らの刀身ともいえる初心を紙で拭い、それを他のことで忘れてはいないか、忙しさの中で見失っていないかと常に拭き改めることによって刀身の輝きを保つのです。

守るということはとても難しいことで、何百年、何千年とサビない状態を維持するのは御互いに関係を保つために手入れをし続けたということです。人間関係も同じく、常に距離が近ければ近いほど手入れをし続けていくことで互いの信頼がサビないように精進していけるように思います。

身から出た錆に気づく感性、身から錆が出るからこそ日々の平常心や手入れを大切に実践していきたいと思います。

丸ごと信じる~聴くことの本質~

人には信心という実践があります。物事を信じる人は素直であり、物事の実相が観えているものですが疑い斜めに見る人は物事の実相が歪んでしまいます。この信じると疑うというのは、生き方のことでいつも物事の善い方を観てきっと善くなる、きっと善いことだと希望に生きる人とどうせ悪くなる、もしかすると悪くなるかもしれないと期待や我慾にのまれ煩悶とする人に分かれます。

本来、信じるという心は最初から人間には備わっていて後天的に疑う心が沁みついてくるように思います。そういう心が沁みつかないように素直な実践が必要であり、物事は自分の見方次第で素直にできるということを実感するしかありません。

私は信じるのがいい、疑うのがダメと言っているわけではありません。自分の囚われや執着を如何に手放し、物事を素直に受け取る力をつけるか。そして謙虚に物事は天が与えてくださった道だとし、授かりもの、教えてくださっているものだと感謝で受け取る力を持つかということに尽きるように思います。

私自身の志業は如何に刷り込みを取り払い、その人らしく生きられるか。子ども達の周りの大人たちが、如何に刷り込みを脱却しあるがまま、自然の姿に回帰できるかと四六時中研究し、それを具体的な方法に発明し弘めているのが本業とも言えます。見守ることも然り、一円観も然り、徳も然りです。

実際は素直になれと言っても人は簡単に素直になるわけではありません。信心が深い人は、人の話をよく聴き、自分が疑っていたのではないかと内省し反省をし改善できます。しかし疑いから物事に入る人は、人の話をちゃんと聴かず、自分の都合の良い方ばかりに解釈をして間違いを重ねていきます。この間違いとは、正しいか間違いかではなく、信じるか疑うかということです。自分から疑う人は、他力の存在も信じることが出来ません。

人が話を聴けなくなるのは、自分の我を入れるからです。我を入れて自分の都合で聞いていたらすでにそれは聴けていないということになります。自分の都合で仕分けている聞き方は素直とはかけ離れたものです。素直な人は、自ら積極的に主体的に自分から学ぼう、教えていただいている、何か大切な意味があると丸ごと信じるから聴けるのです。

つまり素直に聴くというのは、ひょっとしたら相手が教えてくださっているのかもしれない、自分が気づいていないかもしれない、自分が間違っているかもしれないという自分の我を抑える工夫が身に着いているのです。しかし我慾ばかりが優先され、疑心に塗れている人は我の執着から囚われや刷り込みが深くなるばかりでいつまでも聴くことができません。

その疑心や執着はその人が 「丸ごと信じる人か」ということに由ると思います。丸ごと信じる人は、まず疑わず丸ごと信じます。その一瞬の隙間には疑心が入る余地がなく、素直に「ハイ」とまず受け容れるのです。つまりは、話を受け容れるのに蓋をしたり栓を閉じたりしないということです。

先日、あるご縁で蓮如上人の言葉に出会いました。それは一休禅師との文のやり取りで、蓮如上人が返信したものですがこのやり取りにはとても味わい深いものがあり共感しました。私もよく自問自答する内容であり、次代を超えて同じように刷り込みを取り払おうと精進した人たちがいたことに本当に多くの励ましと勇気がいただけます。

まず一休禅師がこう言います。

「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生 のみ助ける」         一休禅師

阿弥陀仏は本当の慈悲はない、頼んできたものは助けるが頼まないものは助けないではないかと言います。

これに対し蓮如上人は言います。

「阿弥陀には へだつる心なけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」
蓮如上人

阿弥陀仏に分け隔てるような心はないけれど、蓋がある水には月が映らないのだと言います。

私にとってもこの蓋こそが刷り込みであると思っています。月は同じように万物を照らして世のためにと慈悲心を永遠に無限に休むことなく与えてくれていますが、蓋をしている人の心にはそれがうつらないということだけなのです。別に選んで取引しているのではなく助ける人と助けない人がいるわけでもなく、蓋があるから何もできないのです。その蓋を取り除こうと必死に色々なことを考えては、それを現場で伝え教えを弘め、一緒に変わっていこうと道を同行するのです。

一休禅師の問いもまた世を救いたいという義憤と一心から来ているものであるのを感じ、どうすれば皆の見方を転じて福にできるかを心から願いました。それに応える蓮如も同じように一生懸命に方法を考え工夫して、どうすれば一切衆生を導けるかと心身を盡しました。

このやり取りの中に、御互いの志を確認するものが観得、私はとても心から励まさ勇気をいただけます。世の中の蓋をどのように外せるか、世の中にある栓をどうやって開けられるか、今も願いはそこにしかありません。

子ども達の未来のためにも、しぶとく粘る疑心を超えて楽しく明るく和来に満ちた信心に導けるよう導きと御縁と天を頼りに道を精進していきたいと思います。

本物を譲る~先祖代々の生き方と魂~

それぞれの国にはそれぞれで築いてきた文化があります。その文化は民族の習慣として習得され、それを代々受け継いで今の子孫があるとも言えます。例えば、日本人は礼儀正しいや正直、子どものように明るく無邪気で親切な人が多いなどと海外から評されます。これも先祖代々の生き方が文化として伝承されて継承されてきたのです。

他には、ドイツ人は親切で勤勉だとか、ロシア人は忍耐強いとか、オランダ人は友好的だとか、イギリス人は紳士的だとか、中国人は地縁血縁を重んじるとか、それぞれの国民性の中に先祖代々で築き上げられた智慧が生きています。これらは伝承されてきた大切な無形の文化として脈々と受け継がれてきた生き方であり、その国民性の持ち味とも言えます。

先日、あるヨーロッパの外国人たちが今の日本の状況をこう評しているとお聞きする機会がありました。それは「日本人は、笑いながら価値のある宝をどんどん捨てていく滑稽な民族」と言っていたそうです。

最初は何のことかと思っていましたが、先祖代々受け継がれてきた大切な宝を惜しみもなく笑いながら捨てていくというのです。その大切な宝は何かと聞いたら、日本人の大切にしてきた生き方や暮らし、それまで築き上げてきた文化や智慧のことだそうです。

何でも西洋から入ってきた新しいものが価値があるとし、文明を優先するあまり古いものは不必要だと廃棄されていきます。日本の風土に沿って自然に寄り添った建造物もなくなり、それまで循環し一つのゴミも発生せずに循環した暮らしを手放し、末永く修理して活かせる自然の道具も見なくなり、御互いに助け合い一緒に結束を固かった地域の繋がりも消えていきました。

今の日本人の特徴は果たしてどのようなものか、子ども達に継承されていく文化はどのようなものなのかと感じるのです。文化の本質は、その民族の生き方でありその生き方をどのように継承していくかがその民族の魂を継承していくことになります。子ども達は環境を通して、そしてその大人たちの生き様の背中を通して先祖代々の智慧やメッセージを無言のままに受け取っていきます。その受け取ったものを基本にして、その時代時代に大切な初心が失われないように温故知新して文化を守り文明を従えて発展してきたのです。

文化を排除し、文明だけを優先して目先の利益ばかりに飛びついて何でもかんでも捨てていたら二度と取り返しのつかないことをしてしまうかもしれません。世界が一つになるとき、もっとも必要なのは民族の多様性です。それぞれの国民性の持ち味を活かして、如何に人間が目覚め御互いが仕合わせになり、地球が喜ぶような生活をするかは文化に懸っているともいえ、子々孫々の平安と平和を譲り渡していく先祖代々の真心はそこに生きているとも言えます。

真心を感じてみれば、先祖は子孫のためにと本当に自分の天命を盡し、一生懸命にいのちを今につないでくれました。私たちが子ども達の未来を案じ子どもたちのためにと今できることをやろうと思うように、先祖たちも同じようにそうやって真摯に子孫のためにその時々をより善くしてくださいました。

私たちが今、本当になすべきことは子どもたちに受け継がれていく民族の魂を守ってあげることではないかと思うのです。今一度、日本の文化とは何か、日本人とは何か、世界から何を必要とされているのか、子ども達に譲り遺していきたいものは何か、自問自答しながら子どもの志事の本質を見極めていきたいと思います。

本物を如何に遺して、本物を如何に譲っていくか、今の時代に生きる責任ある大人の一人として真摯に日々の生活を見直し、一つ一つ実践を通してお手本の一つになる様に精進し暮らしていきたいと思います。

自然界最強の存在~柔弱の徳~

生き物には強さや弱さというものがあります。一般的に今の世の中の価値観では、強さというのはライオンやトラ、熊などの大きな動物の方が強いと思われていますし、集団で攻撃してくる動物、毒を持ち特殊な技術があるものが強いと信じられています。そして弱いものは、小型の草食動物やアリなどの小さな虫たち、逃げてばかりで攻撃する手段がない生き物のことを弱いと思っています。

しかし実際、自然界での強さ弱さの本質はどうなっているかを深めていけばいくほど本来の強さや弱さは逆転していることに気づきます。私たちが弱いと思っている存在が実は自然界では最強であり、私たちが強いと思っている存在が実は弱いこともあるのです。

老子に「含徳の厚きは、赤子に比す。」という言葉があります。これはこの世で最も徳の厚い赤ちゃんに敵うことがないと言います。一般的に赤ちゃんはもっとも弱い存在で何もできないと思われています。しかし何もできないと思われていますが実際はもっとも強い存在なのです。

老子は、その言葉のあとこう続きます。「含徳の厚きは、赤子に比す。蜂蠆虺蛇も螫さず、猛獣も拠わず、攫鳥も搏たず。骨は弱く筋は柔らかくして而も握ること固し。未だ牝牡の合を知らずして而も全の作つは、精の至りなり。終日号びて而も嗄れざるは、和の至りなり。和を知るを常と曰い、常を知るを明と曰う。生を益すを祥と曰い、心、気を使うを強と曰う。物は壮なれば則ち老ゆ。これを不道と謂う。不道は早く已む。」

赤ちゃんは、もっとも自然に調和している存在だと言います。道に沿っていると言います。赤ちゃんを猛獣や毒虫も襲えず、骨は弱く筋肉が柔らかくそして拳を握れば固いと言います。生まれながらに気力も精力も全て調和し、無理がない。私の意訳ではもっとも弱いと思われる赤ちゃんこそ、強さのお手本であり、この世で道を永く生き残るための智慧が溢れている存在であるということです。

他にも老子は、「最大の徳は、水のように最も低い場所に甘んじること」という言葉もあります。赤ちゃんや水のような柔軟で弱い生き方こそが、本当は最強の生き方であり最も無為自然そのものであるというのです。

自然には、しなやかやたおやか、なごやかやおだやかという言葉があります。この古語の日本語にある「やか」がつくものは全てにおいて柔軟性・柔弱性を秘めています。自然界の持つこの弱さというものは、生き残るために変化を已まない最大の智慧であり徳です。そしてその徳を持つ赤ちゃんや水のような生き方はこの世では至強の存在であるのです。

私たちが弱いと思っているものこそ、自然界では最も強く、そして人間が強いと思っているものほど実際は弱いということなのです。

私も以前、自然を学び直す中で大きな太くがっちりとした大木が雷や台風で倒されるのに対し、若くて青々しく瑞々しい草たちがどんな台風の強風にも水害にも耐えて嵐が去るとまた何事もなかったように太陽の光でキラキラと甦生し続けて成長する姿を観たら至弱こそ最強の存在ではないかと何度も驚いたことがあります。

弱そうに見えて実際に強いのは、何でも強くなろうと思っているのではなく大事なものを守るためには変化を惜しまない。言い換えるなら、理念や初心が守れるのならそれが以外は何を変えても平気であるほどに柔軟性・柔弱性を持っているということです。

生き方のお手本というのは、生き残るために変化を已まない存在です。自然界では、そうやって今までいのちをつないできていますしこれからもずっといのちは自然と一緒に寄り沿って自分の天命を活かしていきます。

自然に学ぶものの一人として、本来の強さをはき違えないようにしたいものです。

最後に私が好きな老子の言葉です。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木の生まるるや柔脆、その死するや枯槁なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以って兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち折る。強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る。」

40代を迎え、一生青春、一生若々しくあるためにこの柔らかく弱い存在に近づいていくよう子どもと自然とお手本に精進していきたいと思います。そして捨ててはならない大切な生き方を子どもたちに譲り遺していけるように万物自他一体に遣り切っていきたいと思います。