囲炉裏の場~火を守り続ける~

朝から炭を熾し、囲炉裏で鉄瓶の一杯の御茶を呑むのはとても仕合せな時間です。囲炉裏のある暮らしというのは、温もりのある生活です。この日本の囲炉裏にはとても不思議なチカラがあります。

縄文時代より家の中心には囲炉裏が設置され、暮らしの中心は火と共に行われました。囲炉裏が真ん中にあると、冬は暖かく夏はカラッとしたと言います。灰や炭が防虫効果や病気が入ってこないこともあり、火の神様は一家の守り神として大切に日々に接してきたと言います。

その後、日本家屋は「土間」、「居間」、「座敷」の3つの空間に分かれました。「土間」は出入り口とつながった空間で農作業をする場所、「座敷」は人を招きおもてなしをする場所、そして、寝起き、炊事、団欒などの生活の場所として「居間」と分かれます。

得に囲炉裏はは火の神の祭り場であり、火の神は家を守る神でしたから家の中では最も神聖な場所に設置されました。そしてそこに足を踏み入れたり、穢れたものをくべることは禁じられたほど神聖な場所でした。それだけ火は、私たちの先祖が大事に信仰してきた家の守り神であり、一年中、神棚に火を祭ることで暮らしが継続できたとも言えます。

以前、石川県で「火様」という風習が残っているのを聴いたことがあります。これは毎朝、小枝をくべ炎がおさまると灰をかぶせ手を合わせて祈る。これを300年も継承されていると言います。

これはまさに原始の心、火の神様を祀り奉るための神事であることが分かります。

今では当たり前になっていますが、この「火」が絶えないことが家が絶えないことであり、囲炉裏を中心に家族が団欒して集い暮らしが存続できたことの御蔭様が火の神様であったということでしょう。火の神様がいらっしゃる神聖な場所、そこが「囲炉裏」であったのです。

囲炉裏は家の魂とも言えます。

家の中に囲炉裏があるということは、そこに一家の魂が宿っているということです。その一家の魂が常に火がともし続けられ、その火を守り続けるということは家運を守り続けるという家主の実践の一つだったのです。

囲炉裏を大切にするということは、その家の暮らしを大切にするということですから温もりを絶やさずに神聖な場所を守り続けたことで囲炉裏と共に代々が続いていくのだという歴史の歩み方を伝承しています。

最後に「永遠の燈火」として800年間火を絶やしていない千葉家の家訓で締めくくります。「いろり火の焚火はな、先祖が焚きつけた火じゃで、消すことはならんぞよ。代々伝えてくりょ。なんとしてでも、山があるもんやで火を絶やさずやってくり」とあります。

そして火はこうやって残すのだという心得を続けて語ります。

「いろり火を絶やさないコツは、朝起きたら、夕べの火種を掘り起こして、火をおこし『おき火』をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて、その上から十能一杯分の籾殻をふりかえておきます。そうすると夕方まで火が残る。十三時間くらいは大丈夫。夕方は、朝と同じように火をおこして同じことを繰り返します。かつては薪も山の木を割ってくべていました。今は、若い者の仕事が忙しいので、買った薪を使うこともあります。火を守り続けて感じるのは、昔は、簡単に火をつけることができなかったので、大切にしたんやないかということです。今は、火を守る必要がないと思われるかもしれませんが、先祖からの火なので尊く感じられて…。先祖あっての自分ですから。この家には家族五人が暮らしています。家のものは、先祖からの言い伝えをただ大切に守っています」

・・・先祖からの火なので尊く感じられて・・・。

火が絶えないということは、先祖からずっと火を守り続けてきたということです。囲炉裏は火が絶えない場所なのです。囲炉裏が今もあることで、私たちの暮らしは復活していきます。

引き続き、子どもたちに伝承したい暮らしを味わっていきたいと思います。

 

 

 

八十八

春が訪れ、いよいよこれからお米の苗作りの季節に入ります。毎年この時期がとても待ち遠しく、今年も一緒にお米と季節の廻りが学び合えること、見守りを味わえることに仕合せを感じます。

お米というものは八十八の手間暇がかかると書いて「米」と書きます。この手間暇は意識していなくても自然に手間暇をかけています。こういう時間が何よりの味わいであり、自然農はさらにその手間暇を手作業で味わい盡すことができる豊かな農です。

以前、熊本県人吉にある国宝青井阿蘇神社に参拝したことがあります。そこの大神宮拝殿の入口付近に下記のように書かれてあったのを覚えています。

「わたし達の主食であるお米は、天照大御神からいただいたものといわれています。その「米」という文字は、「八十八」、つまり88の手間をかけ大切に育てるという意味です。太陽・星・月の光を受け、大自然の恵みとしては雨水をいただき、風で害虫を防ぐ、稲妻の光で稲の実が膨らみ、わたし達の命の根(イのちのネ)、命の根源となります。お米は撒けば1粒が万倍にもなります。これは自分1人だけでなく、他人の分までも賄えるという神道における調和と共存共栄の思想です。平らかに【平】、禾(イネ)をを口にする【和】。神様からの賜りものを平均して皆がいただける状態を「平和」というのです。」

とても素晴らしい文章で、古来よりお米が神道の行事、また儀式や祭礼として私たちの生活に密接につながっているのを感じます。昨年は島根で注連縄づくりも実践するご縁をいただきましたが、お米の持つ神聖神秘的なもの、その稲神様が寄り添って暮らしてくださっていると実感することは私たち民族が何を初心に生きていけばいいかを忘れさせないための工夫にもなっています。

八十八の神様宿るお米だからこそ、八十八のお世話をつとめさせていただけるという仕合せ。御米作りの有難さというのは、いのちのねが育つ歓びでもあります。

すでに自然農園の山の湧き水のたまりに10日前に設置してきた昨年のお米の種籾から新芽が出てきていました。これから苗床を用意していよいよ6年目の実践がはじまります。さらに今年は、一昨年前に川口さんにいただいた古代米にも挑戦し、また苗場も使い分けて取り組みます。

子ども達のためにとはじめたものですが、田畑から数多くの見守りをいただき確実に八十八がしみ込み浸透してきています。また青井阿蘇神社にはこう書かれていました。

「お米を炊き食事をつくる場所を台所と言います。これは母親が幼い子どもの食べ物の有難さや、大切さ、事の善悪を教えるなど、人間の生き方の基礎となるべき土台を形成する場所だったからだとも言われます。全国の神社で五穀豊穣を「祈願」するのが2月17日の祈年祭で、「感謝」するときが11月23日の新嘗祭です」

愉しみはいつも道の中にあります、道縁無窮です。

今年も御米に携われることに深く感謝して、丹精を籠めて丁寧に学び直してしていきたいと思います。

 

 

 

 

理屈よりも大河の一滴

3月も中旬を過ぎ、いよいよ自然農での今年の高菜の収穫と稲作の準備に入ります。自然に取り組むとき、そこに理屈は通用しません。単なる本や文字で書かれていることは何の役にも立ちません。実際に役に立つのは、誠実さと真心、後は実践と実行のみです。

そこから人の道も同じく、単なる本や文字で書かれていることも何の意味もありません。言葉遊びばかりしていても、人の世がよくなることはありません。理屈でああすればいいとかこうすればいいとか言いたいことをいう人は沢山いますがそれも何も変わりません。やはりここでも実際に役に立つのは、至誠と実行のみです。

いくら聖賢の学問を学んだとしても、それを実行する方法を持っていないのならそれはやらないとの同じです。いくら学術的な知識を貯め込んでいたとしても、使えないものならそれもないのと同じです。

しかし今の時代は、具体的なものよりも形式的なものや理屈的なものばかりが評価され実際に地味に実践している人たちのことはあまり評価されることはありません。すごいことを知っていて周りから評価されている有名人は沢山いますが、実際に実践を積み重ねて世の中を変えている人のことはあまり有名ではありません。それだけ理屈ではない方はあまりにも地味すぎてこれくらいでは何も変わらないように目に映るのでしょう。

頭というのは思い通りに事が進むと勘違いしているものです。しかし頭で考えたようにみえてその実は現実に無理やり頭を合わせているだけでその通りにいくことはないのです。実際は理屈では物事はうごいたためしなどなく、全て至誠と実行でのみ動くのです。それが自然だからです。

自然というものを相手にするとき、こちらが具体的に動いた分だけしかカタチになることはありません。例えば、自然農においてもいくら理屈であれこれと対策を立てたとしても、実際には田畑に出て見回り、声をかけ、時折草刈りをし、時折虫たちや土の様子を見て、あとはその時々の状況を真心を籠めて寄り添っていくことで作物は無事に収穫ができます。そしてまた翌年に向けて、蒔き時から収穫時期、それまでに気づいた改善をすぐに実行して直すだけです。

いくら農業知識があったとしても、至誠と実行なくしてはそれは役に立ちません。至誠と実行は、真心をカタチにする具体的な実践のことです。実践を已めるということは学者になるということです。二宮尊徳は言います「茄子が先に出来たか字が先か」と。また「豆という字を書いてみよ、お前の豆は馬もくわん。俺の豆は馬もくう」と。理屈で文字遊びをしているような学問に興味は一切なく、実際の世の中を変革しようとするのなら行動をしたのです。

分かった気になると人は学問をした気になります。分かった気にならないようにするには一つ気づけばすぐにそれを行動することです。行動によって気づいたことが実践となり、実践となったことで世の中が一つ変わります。

自分の日々の小さな実践は所詮、大海の大河の一滴にもならないものであったとしても世の中を憂うのなら諦めきれないのが真心のように思います。真心を優先した一日を状況に左右されずに過ごしていきたいと思います。

気力体力

人間には気力と体力というものがあります。この2つの力をもって活発的に活動しているのが人間だとも言えます。この気力と体力はどのような定義になっているのか、少し深めてみます。

まず気力とは辞書には「物事をなしとげようとする精神の力。また、元気。精力。困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り。気合。」とあります。そして体力とは「ある仕事が行えるか否か、または病気に耐えるか否かという、身体の強さ。労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。」とあります。

気は気持ちの部分が強いのに対し、体は行動する部分が強いように思います。この2つがバランスよく働くとき、気力体力が充実して物事は成就していくように思います。私の場合は気力が強い方でそれに体力が着いてくる感じですが、体力がなくなってくるとどうしても気力が回復しなくなってきます。体力が気力を支えますから体調を崩し病気になるとどうしても気力が減退します。

こういう時は、体力の回復を優先しまた気力が充実してくるのを待つしかありません。体力の維持のためには、規則正しい生活や、規則正しい食事、適度な運動があります。日頃から下支えしてくださっている体力に対してどれだけ感謝し配慮していくかが体力維持には大切なことです。

病気になってしまったなら、静かに体力の回復に努めることです。体力が回復することで病気も平癒します。子ども達の為にも、日常の生活を観直していきたいと思います。

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

逞しい力

ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。

先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。

一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。

私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。

それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。

文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。

逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

 

 

希望に生きる

人は幼い頃から、周りの期待の影響を少なからず受けているものです。例えば、それが親からの期待であったり先生からの期待、また周囲の関係する間での期待などもそうです。その期待に無意識に応えようとして、知らず知らずに本当の自分ではなく期待に近づこうとしている自分になってしまっていることも多い様に思います。

例えば、親の望む子どもの姿になるために本心ではない自分でも相手が喜んでくれるのならと装飾し演じているうちに自分がそういう子どもになっていくのです。これは相手を喜ばせるのではなく、自分が気に入ってもらったり相手に好かれるために期待に応えたいと思う感情です。これらの感情はごく自然なもので、好かれたいからこそ期待に応えるというのは好きだからこそ出てくるものです。本来、自分で選択してそれを行う場合は判断できるのですが無意識に期待に応えるのが自分だと思い込めば刷り込みを深くしているかもしれません。

今でも親から刷り込まれた自分を本当の自分だと思い込み、悩んでいる人がたくさんいます。親の夢が自分の夢だと勘違いしたり、先生の期待が自分がなりたい自分であったりと取違をしていくのです。自分との正対と内省により、本当に自分が望んでいるものが何かを確認することは刷り込まれた自我を取り払うことで実現しますがそれを自分だけで行うのは難しいものです。よく内観し自我を取り払う人や本質的な人の力をかりて自分の本心を知ることが効果があるように思います。

そして希望というものがあります。これは期待とは全く異なるものです。英語のTODOに対してTOBEでもあります。どうするかばかりを思うより、どうありたいかの方で生きることに似ています。しかしどうありたいかですら、自分の期待通りにすることだと勘違いしていることも多いのです。本来の希望は、自分の期待やどうありたいがあろうがなかろうが関係がなく初心や理念を信じるということです。期待は、相手次第、自我次第でいくらでも自分の思い通りに動かそうとします。しかし希望はそんなものでは一切なく、思い通りにならなくても大切な理念や初心の方を優先し信じている状態だということです。

希望に生きる人は、希望を失うことはありません。希望の反対は失望という言い方をする人もいますが希望の反対などなく希望はその人の生き方なのです。生き方を覚悟し定めた人は希望に溢れています。先日から紹介している三木清にも希望について書かれたものがあります。

「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。」

希望が期待にすり替わり、気が付くと自分の思い通りにしようとする。希望を失ったり絶望したりとあるのは、知らず知らずのうちに希望が期待になってしまっているのです。本来の理念や初心を優先できなければ生き方はいともたやすく無意識のうちに自我慾に取って代わられ入れ替わります。つまり人生は己に負けてしまえば期待になり、己に克てば希望になるのです。だからこそ己に克つ人はいつまでも希望を失うことがありません。最後の最期の瞬間でも実践を怠らないのです。それが信じるということです。

希望には未来があります。

それは希望が道を歩んでいる言葉であり、希望が志を顕す言葉であるからです。未来への希望とは、続いている道を諦めないということでもあります。希望に生きるとは、理念や初心に生きるということと同義です。子ども達のためにも、希望を歩む生き方を実践していきたいと思います。

孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。

 

自然体の本質

世界において日本人であるということの重要性は昨日も書きました。なぜ日本人でなければならないか、そこには私たちの世界における存在意義にも関係します。そしてそれは単に世界の中での日本民族というだけにとどまらず、結局は自己を活かすということの本質に深く関わっているからです。

そもそも人は自分という存在をどのように理解しているかで観えている世界が変わっていきます。例えば、単に自己という自分が今までの過去のことや身近な存在から理解する狭い範囲の自分というものと、民族の一人として先祖代々からつながっている自分であると理解するのでは自己認識が変わっていきます。前者は私的なものですが、後者は歴史全体的なものです。言い換えればこれらの歴史全体的な民族的使命を持つことによってはじめて本来の意味での個性というものに出会うということです。これを三木清が分かりやすく例えています。

「すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。」(論文 全体と個人より)

はじまりの初心をもって誕生した先祖たちの道をその後の私たちが受け継ぎ歩んでいるのですからその道を高めそれを民族の目指した姿として顕現させていることが今の文化とも言えます。文化があるというのは、かつての祖親の真心をカタチにした個人があったということです。人類的価値とは、その初心という理念においてそれをどのような道筋と道程を実践して文化にしたかということです。だからこそ三木清も「すべての人は、自らの民族が持つ文化を世界史的意義を有するものへ磨き上げそして高めていかなければならない」と言います。

「個人は抽象的な人類や世界ではなく却って民族というが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或いは世界的になることができない。単に人類的と考えられるような個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。」(論文 全体と個人より)

個人というものの定義をどのように捉えるか、自分らしさというものをどの価値で定めるか、そこが肝心だと私は思います。自分自身とは何か、それを正しく理解できてこそはじめて真の個性を活かし発揮することができるのです。単に個性の発揮とは、自分の好きなことをやればいのではなく真に自分らしさ、自然体であるのです。自分らしさが自然体とも言いますが、では自然体とは本当は何かということなのです。

私の自然体の定義はもっとも日本人であるということです。

言い換えれば今まで脈々と受け継がれてきた私たちの道統の存在そのままになっているということです。それがあってはじめて自分らしさであり、それが本当の個性なのです。私が日本人を目指し文化を学び直すのも自分の中にあるその個性を磨きたいからです。日本の精神とは何か、その精神を磨くのもまたそれは民族としての心を高めてはじめて日本精神を磨くといえます。そして三木清はこうも言います、「国家・民族という精神的バックボーンがあってこそ「個人」が真に活きる 」と。

私も同感で、まず「国」とは何を指すのか、そして「民」とは何を指すか、真に「国民」であるということはどういうことか。自分が国民の一人として自分を発揮していくには、まず本来の国民に回帰する必要があるのです。その回帰した姿において如何に文化を世界に発信していくか、そこに民族的使命がありそこに個々の天命があるように思います。

運命というものは天命のことで、天命は運命と自然体になればなるほど同化していきますから自分が民族の文化そのものであるということを忘れてはならないと私は思います。

そのために何を実践していくか、どんな手本を示して子ども達に道を譲っていくのか、自分の使命とはそういう民族から受け継がれてきた使命のことですからその道を譲り渡す時、真の幸福もまた受け渡していくことができるように思います。最後に三木清の言葉で締めくくります。

行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現れ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもって偉大であるのではなく、その世界史的使命に従って偉大であるのである。

歴史に顕れる日本の先人たちの中には、全てその民族の偉大さが顕現します。私の尊敬する方々もみな、その自然体の本質を持っています。吉田松陰然り、高杉晋作然り、源義経然り、私たちの民族には「徳」と「義」が脈々と受け継がれています。

本当の意味で世界が滅びるというのは、世界史的使命が失われるということです。民族多様性を如何に遺すか、それはそれぞれの民が文化を重んじて生きていくということです。時代がいくら激変しても道は変わらずそこにありますから道を継ぎ道を弘め、道を繋いでいけるよう自然体に近づいていきたいと思います。

ナレッジマネジメント~活人仕法~

組織において情報共有の仕方をみればその組織の大事にしていることが観えてきます。例えば、スケジュールで共有する組織、思いやりで共有する組織ではその進め方が異なることはすぐにわかります。結局は、情報共有とは人が一緒に働く仕組みであり、一緒に働くときに何を優先して働くかが関係しているからです。

情報共有のことを英語では「ナレッジ・マネジメント」と言います。この「ナレッジ・マネジメント」はPF・ドラッカーが知識社会パラダイムにおける経営改革手法として紹介されています。次の社会においては、知識だけではなくその知恵を集めそれを具体的な日々の経営に活かす時代に入るということです。これは人を活かす経営か、人を殺す経営かと言い換えれるかもしれません。

人は単なる大量生産大量消費のモノではなく、人は智慧を創造するいのちであるという考え方でものと見直すと如何に一人ひとりの衆知を集めてその知識を智慧にまで高められるかということにかかっているように思います。

神話の中にも、何か問題が発生したとき八百万の神々が集まり話し合いをして智慧を絞り出して話し合って解決する場面が何度もあります。例えば、天照大神が天の岩戸に御隠れになったときも神々が皆で火を囲み車座になって衆議をしそれを集めて智慧にまで昇華して物事を解決しています。

誰かが専断専行するような独断と独占、独善的であることを良しとはせずあくまで衆議・衆知を集めることにこだわり「智慧を重んじた」ことが先祖の生き方として遺っています。そのあと、聖徳太子が出て「和をもって尊しとせよ」といったのは日本で明確にナレッジ・マネジメントをはっきりと示したように私は思うのです。

私たちは先祖代々より他を尊重してよく傾聴し共感し受容し、それができれば智慧になるというようにマネジメントの在り方を実践してきた民族とも言えます。今の組織でよく情報共有がうまくできなくなった理由は、その初心を忘れて不和になっているからかもしれません。不和とは偏った意見、誰かの意見だけに従う姿であり円満に事が進むやり方ではありません。

一円観のように、すべてを丸ごと傾聴し思いやることですべて善いことになっていることや聴けばいいことになっているというような安信した状態でいることで和は尊ばれるようにも思います。

そしてその和はすべて真心や思いやりによって行われます。情報共有は思いやりである理由は一緒に生きている仲間だからこそ、相手のことを思いやることで感謝が結ばれ絆が産まれ御互いに助け合うことができ衆知が集まり衆知を活かし、そして人々の持ち味を活かすことができるように思います。

持ち味を活かすには相手を思いやりそれぞれの考えを聴く必要がありますからよくよく話を聴く組織、つまり思いやりが溢れている組織ほど最高のナレッジ・マネジメント(活人仕法)ができていると私は思います。

引き続き、子どもの現場に働く大人たち一緒に先祖代々から伝承されてきた仕組みを温故知新し未来へと継承していきたいと思います。聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。