希望に生きる

人は幼い頃から、周りの期待の影響を少なからず受けているものです。例えば、それが親からの期待であったり先生からの期待、また周囲の関係する間での期待などもそうです。その期待に無意識に応えようとして、知らず知らずに本当の自分ではなく期待に近づこうとしている自分になってしまっていることも多い様に思います。

例えば、親の望む子どもの姿になるために本心ではない自分でも相手が喜んでくれるのならと装飾し演じているうちに自分がそういう子どもになっていくのです。これは相手を喜ばせるのではなく、自分が気に入ってもらったり相手に好かれるために期待に応えたいと思う感情です。これらの感情はごく自然なもので、好かれたいからこそ期待に応えるというのは好きだからこそ出てくるものです。本来、自分で選択してそれを行う場合は判断できるのですが無意識に期待に応えるのが自分だと思い込めば刷り込みを深くしているかもしれません。

今でも親から刷り込まれた自分を本当の自分だと思い込み、悩んでいる人がたくさんいます。親の夢が自分の夢だと勘違いしたり、先生の期待が自分がなりたい自分であったりと取違をしていくのです。自分との正対と内省により、本当に自分が望んでいるものが何かを確認することは刷り込まれた自我を取り払うことで実現しますがそれを自分だけで行うのは難しいものです。よく内観し自我を取り払う人や本質的な人の力をかりて自分の本心を知ることが効果があるように思います。

そして希望というものがあります。これは期待とは全く異なるものです。英語のTODOに対してTOBEでもあります。どうするかばかりを思うより、どうありたいかの方で生きることに似ています。しかしどうありたいかですら、自分の期待通りにすることだと勘違いしていることも多いのです。本来の希望は、自分の期待やどうありたいがあろうがなかろうが関係がなく初心や理念を信じるということです。期待は、相手次第、自我次第でいくらでも自分の思い通りに動かそうとします。しかし希望はそんなものでは一切なく、思い通りにならなくても大切な理念や初心の方を優先し信じている状態だということです。

希望に生きる人は、希望を失うことはありません。希望の反対は失望という言い方をする人もいますが希望の反対などなく希望はその人の生き方なのです。生き方を覚悟し定めた人は希望に溢れています。先日から紹介している三木清にも希望について書かれたものがあります。

「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。」

希望が期待にすり替わり、気が付くと自分の思い通りにしようとする。希望を失ったり絶望したりとあるのは、知らず知らずのうちに希望が期待になってしまっているのです。本来の理念や初心を優先できなければ生き方はいともたやすく無意識のうちに自我慾に取って代わられ入れ替わります。つまり人生は己に負けてしまえば期待になり、己に克てば希望になるのです。だからこそ己に克つ人はいつまでも希望を失うことがありません。最後の最期の瞬間でも実践を怠らないのです。それが信じるということです。

希望には未来があります。

それは希望が道を歩んでいる言葉であり、希望が志を顕す言葉であるからです。未来への希望とは、続いている道を諦めないということでもあります。希望に生きるとは、理念や初心に生きるということと同義です。子ども達のためにも、希望を歩む生き方を実践していきたいと思います。

孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。

 

自然体の本質

世界において日本人であるということの重要性は昨日も書きました。なぜ日本人でなければならないか、そこには私たちの世界における存在意義にも関係します。そしてそれは単に世界の中での日本民族というだけにとどまらず、結局は自己を活かすということの本質に深く関わっているからです。

そもそも人は自分という存在をどのように理解しているかで観えている世界が変わっていきます。例えば、単に自己という自分が今までの過去のことや身近な存在から理解する狭い範囲の自分というものと、民族の一人として先祖代々からつながっている自分であると理解するのでは自己認識が変わっていきます。前者は私的なものですが、後者は歴史全体的なものです。言い換えればこれらの歴史全体的な民族的使命を持つことによってはじめて本来の意味での個性というものに出会うということです。これを三木清が分かりやすく例えています。

「すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。」(論文 全体と個人より)

はじまりの初心をもって誕生した先祖たちの道をその後の私たちが受け継ぎ歩んでいるのですからその道を高めそれを民族の目指した姿として顕現させていることが今の文化とも言えます。文化があるというのは、かつての祖親の真心をカタチにした個人があったということです。人類的価値とは、その初心という理念においてそれをどのような道筋と道程を実践して文化にしたかということです。だからこそ三木清も「すべての人は、自らの民族が持つ文化を世界史的意義を有するものへ磨き上げそして高めていかなければならない」と言います。

「個人は抽象的な人類や世界ではなく却って民族というが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或いは世界的になることができない。単に人類的と考えられるような個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。」(論文 全体と個人より)

個人というものの定義をどのように捉えるか、自分らしさというものをどの価値で定めるか、そこが肝心だと私は思います。自分自身とは何か、それを正しく理解できてこそはじめて真の個性を活かし発揮することができるのです。単に個性の発揮とは、自分の好きなことをやればいのではなく真に自分らしさ、自然体であるのです。自分らしさが自然体とも言いますが、では自然体とは本当は何かということなのです。

私の自然体の定義はもっとも日本人であるということです。

言い換えれば今まで脈々と受け継がれてきた私たちの道統の存在そのままになっているということです。それがあってはじめて自分らしさであり、それが本当の個性なのです。私が日本人を目指し文化を学び直すのも自分の中にあるその個性を磨きたいからです。日本の精神とは何か、その精神を磨くのもまたそれは民族としての心を高めてはじめて日本精神を磨くといえます。そして三木清はこうも言います、「国家・民族という精神的バックボーンがあってこそ「個人」が真に活きる 」と。

私も同感で、まず「国」とは何を指すのか、そして「民」とは何を指すか、真に「国民」であるということはどういうことか。自分が国民の一人として自分を発揮していくには、まず本来の国民に回帰する必要があるのです。その回帰した姿において如何に文化を世界に発信していくか、そこに民族的使命がありそこに個々の天命があるように思います。

運命というものは天命のことで、天命は運命と自然体になればなるほど同化していきますから自分が民族の文化そのものであるということを忘れてはならないと私は思います。

そのために何を実践していくか、どんな手本を示して子ども達に道を譲っていくのか、自分の使命とはそういう民族から受け継がれてきた使命のことですからその道を譲り渡す時、真の幸福もまた受け渡していくことができるように思います。最後に三木清の言葉で締めくくります。

行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現れ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもって偉大であるのではなく、その世界史的使命に従って偉大であるのである。

歴史に顕れる日本の先人たちの中には、全てその民族の偉大さが顕現します。私の尊敬する方々もみな、その自然体の本質を持っています。吉田松陰然り、高杉晋作然り、源義経然り、私たちの民族には「徳」と「義」が脈々と受け継がれています。

本当の意味で世界が滅びるというのは、世界史的使命が失われるということです。民族多様性を如何に遺すか、それはそれぞれの民が文化を重んじて生きていくということです。時代がいくら激変しても道は変わらずそこにありますから道を継ぎ道を弘め、道を繋いでいけるよう自然体に近づいていきたいと思います。

ナレッジマネジメント~活人仕法~

組織において情報共有の仕方をみればその組織の大事にしていることが観えてきます。例えば、スケジュールで共有する組織、思いやりで共有する組織ではその進め方が異なることはすぐにわかります。結局は、情報共有とは人が一緒に働く仕組みであり、一緒に働くときに何を優先して働くかが関係しているからです。

情報共有のことを英語では「ナレッジ・マネジメント」と言います。この「ナレッジ・マネジメント」はPF・ドラッカーが知識社会パラダイムにおける経営改革手法として紹介されています。次の社会においては、知識だけではなくその知恵を集めそれを具体的な日々の経営に活かす時代に入るということです。これは人を活かす経営か、人を殺す経営かと言い換えれるかもしれません。

人は単なる大量生産大量消費のモノではなく、人は智慧を創造するいのちであるという考え方でものと見直すと如何に一人ひとりの衆知を集めてその知識を智慧にまで高められるかということにかかっているように思います。

神話の中にも、何か問題が発生したとき八百万の神々が集まり話し合いをして智慧を絞り出して話し合って解決する場面が何度もあります。例えば、天照大神が天の岩戸に御隠れになったときも神々が皆で火を囲み車座になって衆議をしそれを集めて智慧にまで昇華して物事を解決しています。

誰かが専断専行するような独断と独占、独善的であることを良しとはせずあくまで衆議・衆知を集めることにこだわり「智慧を重んじた」ことが先祖の生き方として遺っています。そのあと、聖徳太子が出て「和をもって尊しとせよ」といったのは日本で明確にナレッジ・マネジメントをはっきりと示したように私は思うのです。

私たちは先祖代々より他を尊重してよく傾聴し共感し受容し、それができれば智慧になるというようにマネジメントの在り方を実践してきた民族とも言えます。今の組織でよく情報共有がうまくできなくなった理由は、その初心を忘れて不和になっているからかもしれません。不和とは偏った意見、誰かの意見だけに従う姿であり円満に事が進むやり方ではありません。

一円観のように、すべてを丸ごと傾聴し思いやることですべて善いことになっていることや聴けばいいことになっているというような安信した状態でいることで和は尊ばれるようにも思います。

そしてその和はすべて真心や思いやりによって行われます。情報共有は思いやりである理由は一緒に生きている仲間だからこそ、相手のことを思いやることで感謝が結ばれ絆が産まれ御互いに助け合うことができ衆知が集まり衆知を活かし、そして人々の持ち味を活かすことができるように思います。

持ち味を活かすには相手を思いやりそれぞれの考えを聴く必要がありますからよくよく話を聴く組織、つまり思いやりが溢れている組織ほど最高のナレッジ・マネジメント(活人仕法)ができていると私は思います。

引き続き、子どもの現場に働く大人たち一緒に先祖代々から伝承されてきた仕組みを温故知新し未来へと継承していきたいと思います。聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。

暮らしの道具

昔の生活道具を身近で使っていると、その当時の日本文化に触れることができます。頭で考えるのではなく、直接触れていくことでどんな暮らしをしていたのかが直観的に感じ取ることが出来ます。今の時代は何でもスイッチ一つですぐに簡単便利に何でもできた方が幸せという価値観ですが、昔は手間暇かけて面倒でも充実している方が仕合わせという価値観だったようにも感じます。

例えば、竈という昔の生活道具があります。私の自宅では古鉄の羽釜を用いて炭でご飯を炊いていますが、出来たご飯は本当に格別の味がします。今どき面倒ではないかと思われますが、炭を扱う技術さえ身に着けばかえってガスよりも分量に対する調整ができたり火加減も自由自在で美味しいご飯ができます。火吹き竹で微調整して炊くご飯は美味しいだけではなく楽しく、食べるころには心が充実しています。単に満足するだけのご飯ではなく、充実するためのご飯を食べられるのもまた昔の道具がそれを演出してくれているからです。

この竈は50年前くらいまではどの家庭でも使われていたもので、電気炊飯器が登場してあっという間に見なくなりました。簡単便利に電気でできるご飯は、急速に発展し消費する社会では邪魔者になったのかもしれません。もともとこの竈は、おくどさんとも呼ばれ、約1500年前頃に朝鮮半島から登り窯や置き竈とともに伝来したとも言われています。これにより須恵器の生産もはじまり、茶碗なども一緒につくられるようになりました。

置き竈ができ、後に火鉢が開発されてそれからずっと日本人の暮らしを下支えしたパートナーだとも言えます。炭は火鉢と一緒に発展繁栄してきましたから、我が家の炭を中心とした暮らしでは火鉢と囲炉裏が大活躍してくれています。

毎朝、薪を入れ炭を熾し、井戸水を汲んでご飯を炊き隣で味噌汁をつくりました。漬物をおかずに朝餉を食べて残ったご飯はおむすびにして味噌を添えて野良仕事に出ていきます。夜になればまた囲炉裏を囲み一日のことを振り返りながら月明りとともに休み眠ります。

このゆったりした一日の暮らしの中で、心身共に充実した日々を過ごしていたのが道具から伝わっています。生きているもの、いのちがあるものは、いのちの時間を持っています。それは今のスケジュールのような時間ではなく、悠久の時間です。循環にははじまりも終わりもありませんからその時間の中にいることはとても充実するように思います。心の充足もまたそこに在るように感じます。

一日のはじまりと一日の終わりに、循環を感じることは仕合せを味わうことです。引き続き子ども達に遺していきたい生き方としての昔の生活道具、暮らしの道具を深めていきたいと思います。

野生の味~いのちの仕合せ~

先日、自然農園の青梗菜を収穫してお客様に持参しましたがとても美味しいと喜んでいただきました。この青梗菜は形こそスーパーで売られているものよりも小ぶりですが、どの方が食べても美味しいと喜ばれます。

この美味しいとは本当はどういうことか、改めて深めてみます。

自然農園の野菜は、雑草と一緒に混植されているものです。種を蒔く時期と最初に育つ時期だけは丁寧に見守りますが、あとは自然に任せて育つのを待っています。育つ場合もあれば、大きくなれずにそのまま周りの雑草たちの方が強く抑え込まれて育たない場合もあります。しかし周りの雑草と一緒に育ち、混植されても育ってくれた野菜はまるで野草のような滋味があります。食べてすぐにわかるのは、自然の中で育ったと感じるあの野生の味です。

今の時代は、農薬や肥料、もしくは様々な農業技術をつかって甘くしたり辛くしたり調整して育てています。人間の都合にあわせてそのものを造っていますがそこには野生の味はありません。すべて加工されてるものです。お菓子もそうですし、料理もそう、素材の味ではなく料理の味です。

しかし自然の中にあるものはすべて野生の味があります。例えば、海で獲れた天然魚や、山で獲れた山菜などはすぐに食べれば美味しいと感じます。この美味しさは加工された美味しいではなく、野生のままだから美味しいという感覚なのです。

本来、人間は美味しいという感覚を持っています。

これは舌さき三寸で味わう味とは異なり、いのちそのままの味を味わう味を知っているということです。これは舌ではなくカラダ全体で感じる自然を味わう器官が備わっていることの証明であり、そこで感じる「美味しい」はあるがままであるいのちや個性を歓んでいるのです。

できる限り、野生の味を味わえるように昔の道具たちは造られたとも言えます。今、使っている日本刀包丁や、砂鉄の鍋、羽釜、陶器、炭などもそのものの素材のいのちを壊さないような道具たちです。その道具たちの持つ偉大さは、いのちを壊さないままに料理できることです。

ここから考えてみると、やはり本物の美味しさというのは「野生の味」であることに気づきます。そしてその野生の味は、そのままであることを邪魔しないことによります。私たちが社業にしている「子どもらしく子どもの発達を邪魔しない」というのは、この野生の味を育てていくということです。

自然農も同じく、美しい暮らしも、すべては子ども第一義の理念を実践していくのと何も変わりません。そのままであることの美しさ、あるままであることの深い味わい、こういうものを私は「美味しい」と定義するのです。人間の都合で教育され、人間の都合で加工され、あるがままであれないものが果たして「善いもの」なのかと思います。料理すればするほどにまずくなったでは本末転倒です。

もちろん加工がよくないといっているのではなく愛情や真心を籠めたかどうかもいのちは感じますからそれもまた滋味を味わう一つです。そしてこの愛情や真心こそが野生の見守り、自然と同じ心の姿です。

野生の感性は自然から遠ざかることで離れていきます。私たちは自然に磨かれていのちは高まっていきますから、自然の姿、あるがままでいるのは美しく味わいのある人生を送れるように思います。あるがままでいい、そのままでいいと丸ごと個性を認めるような環境はそのものを野生のままに育てていきます。野生の味の美味しさはいのちの仕合せなのです。

引き続き、子どもの発達を邪魔しないような道を伝え弘めていきたいと思います。

心の風通し

「風通し」という言葉があります。これは自然では風が通り抜けるという意味ですが、組織では意思疎通のとれている意味で使われます。昔からこの風通しというものは風水をはじめ、あらゆる環境や場創りに用いられてきました。風通しがよければカラッと乾いた状態を維持していくことができます。逆に風通しが悪いとカビが生えたり腐ったりと病気になったりと様々な問題を引き起こしていきます。風通しというものは、水通しでもあり、水は目詰まりを起こせば澱んでいくように風も通りが悪ければ同じように澱みます。水は澱むと腐敗しますから、如何に澱まないようにしていくかが自然の智慧、「風通し」ということです。

この風通しは人間関係においては何よりも重要な要素です。

たとえば、風通しが悪くなってくるというのは疑心暗鬼になって意思疎通が取れない状態です。それぞれが感情を押し殺して自分の思い込みで勝手に真実とは違うことが気になり不安で動けない状態になります。周りの目が気になり、コミュニケーションや対話が正常に行われず、言いたいこともいえず素直に自分をさらけ出すこともできません。こんな状態では風は通らず人間関係もまた澱んでしまいます。

そもそも風通しが悪いのは密閉されているからです。例えば家でいえばどちらかの窓が閉じていたら風は入ってくることはできません。風を通すには少なくても二つ以上の窓を開いていなければ風は抜けません。これを人間でいうのなら、自他との信頼の窓を開いているかどうかということでしょう。

人は自分の感情や心を安心して表現できる、何を言っても大丈夫と言う状態をつくれるかどうかが風通しの一つの基準になります。自分がここに居ていいんだという安心感、居心地の善さが風通しを善くしていきます。そのためには、自己観照や自己内省をし自分のことに気づける内省的風土と他人の思いやりに感謝できる理念的風土を醸成する必要がある様に私は思います。

なぜなら自分か相手かという相対的観念や自己中心的な個人的観念が強いと自我を優先しますから己に負けていつまでも真心の窓を開くことが出来ないからです。いつも心を開いていることは自我慾を超えたオープンな姿勢、言い換えれば克己復礼、自他を信頼をしている姿でいることでありその姿が周囲をも安心させていきます。人は自分の我を押し通せば押し通すほどに風通しが悪くなります。そうならないように自我よりも真我といった、本来の自分の目指したい理想や理念、自己信頼を自らが裏切らないようにしてそれぞれが自分に打ち克つ実践を積み重ねて己の我に克ちつづける必要があります。

自他信頼ができる組織、皆のためにと自律できる人たちが集まれば自ずからその組織は風通しが善くなります。ただ対話をすればいいのではなく、自他との本心の対話と内省を通して風は通っていくように思います。

人間における風通しの風とは何か、その風は心の風です。

心が澱まないようにする創意工夫、その中にこそ人間の風通しがあります。私たちが実践する様々な取り組みはすべてその風通しの工夫から創出されたものです。

最後に二宮尊徳に、「我が道は,人々の心の荒蕪を開くを本意とす,心の荒蕪一人開くる時は,土地の荒蕪は何万町歩あるも憂ふるにたらざるが故なり」があります。あらゆるものの荒廃は心の中から発症しますから、その心田を開発すれば繁栄は尽きないということです。心に風を通す真心の循環の技法、まさにそれが私の目指す未来の子どもに伝承したいかんながらの道です。

引き続き風通しについて深め、心の荒蕪を耕す仕法を今に温故知新したいと思います。

グローバル人材~生物の本質~

昨今、グローバル人材という言葉が飛び交っています。文科省をはじめ、世界で通用する人物を育成するということでアクティブラーニングなどという言葉も流行っています。私は当たり前のことを何をいまさらと思っていますが、結局は多様性を受け容れる感性を持っているかどうかであると思っています。

そもそも生物多様性という言葉があるように、生物=多様なのです。それをわざわざ画一であると教え込んできたのは教育がそうしてきたとも言えます。「こういうものだ、こうあるべきだ」と刷り込んでは正解を与えて正解を探すことを繰り返しされてきた人は頭でっかちになって感性を磨きませんでした。感性を優先する人たちは当然答えはないことを知っていて質問をして訊くこと、つまりは無から創造することを優先して直感的に理解していきます。しかし知識や正解を優先する人たちは答え探しに終始費やし正解を求めては無理に正解に合わせて整合性をとっていきます。

本来この世の中は多様であるのは、自然界のように無限に組み合わせが存在するからです。その時々に応じて如何に持ち味を活かして組み合わせを存在させるか、言い換えれば人との出会い、つながりの多様さが新たな未来を産み出すように多様性があるからこの世の中は調和しさらに広がっていくのです。

多様性を失い画一化してしまうことの背景には、知識で分別し「こうでなければならない」という思い込みが強くその知識で分別した立場や役割通りで「なければならない」という先入観や刷り込みを取り払うことができないからです。枠内であることにこだわり枠内であるようにと枠を設けるのです。

例えば、上司はこうでなければならない、夫はこうでなければならない、先生はこうでなければならない、親子はこうでなければならない、男はこうでなければならない、会社はこうでなければならない、あらゆる「なければらない」に縛られます。実際は頭で考えた「なければならない」通りにいくように周りもその人も必死になります。これを自然にまで拡げて、犬でなければならない、魚でなければならない、花でなければならない、稲でなければならないと思い込み、こちらの思い込みで接しているから自由度がなくなく創造性も発揮されず画一化されていくのでしょう。一つの価値観に無理やり合わせて従わせていくというやり方は自然界の本来の姿からほど遠いのです。

自然を観察するのには知識で行うのではなく、感性で行います。なるほどこうなっているのかというのはほとんど直観を用いて全体を掴みます。生きていくと言うのは、自然界で生き残るための感性です。「生き残る感性」がある人はグローバル人材とも言えます。その生き残る力は自然によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。学力というものの本質もまた人間が勝手に定義した学力ではなく、自然界の生き物たちが本来本能でもっている学力にすれば多様性のこともまた理解できると思います。

その上で私が思う教育の在り方は、もっと自然に沿って自然から学び直す感性を磨くことです。知識ばかりを使って感性を使わない生き方をやめ、感性を使ってその上で智慧を知識で整理していけばその人物は多様性を受け容れることができるグローバル人材になっていくでしょう。

昨年の海外視察から観えてくるのは、感性を研ぎ澄ます大切さの再認識です。子ども達のためにも、自らが証明するためにあらゆる実験と実践を積み重ねていきたいと思います。

自分を磨く

人は自分の慾に打ち克つことで覚悟を磨いていくことが出来るように思います。最初から覚悟がある人がいるわけではなく、何度も何度も修練を積み重ね次第に自我欲を手放していく中で信念が醸成されていくように思います。

つまり何より大切なのは己に克つことで自らを「磨く」ということです。磨けば磨くほど光って観えるのは、真意や信念、心がはっきりと顕れるからかもしれません。覚悟のある人の話を聴けば、かつて過去にその人が大変な出来事を乗り越えて挑戦し大切な目的や理念を優先して自らに打ち克った歴史があります。其処に至るには何度も勇気を出して己に打ち克つ挑戦の磨き痕がその人に残っています。

人は嫌だな、辛いな、面倒だなと、すぐに向き合うことから避けようとし己に克つことから逃げようとします。その理由は、不安や煩い、憂いと向き合いたくないからです。その時、不安が嫌だからといつも逃げていたら覚悟はいつまでも磨かれることはありません。己が先に立ってしまい、砥石や鑢で磨くのがメンドクサイと遠ざけていたら磨きようもありません。

実際には、人間は生きていたら必ず出来事は起こります。もしも一念発起して目的をもってしまえば、それまでは避けて通れた問題も避けられなくなってしまいます。それが嫌だからと何でも適当に流していたらそのうち逃げ癖が沁みついてしまうものです。言い訳ばかりをしては、不安と向き合おうとしない、何でも嫌なことは先延ばしでは覚悟も何も磨く前の段階で終わってしまいます。

まず覚悟を決めるというのは、何を裏切れないか、何を大切にするか、何を最も人生の優先順位にするのかを自覚することです。自覚したらあとは自然発生してくる日々の選択を自らが苦しい方を選べるか、自らが大変な方に挑戦するか、不安と向き合ってでも勇気を出して実践できるか、そういう自然の砥石や鑢で自分磨きをしていくのです。

覚悟という字は、どちらも「さめる・気づく」という意味を表しています。つまり目が覚めるかということ、己という我を手放しその中の心に気づけるか、自分の信じる道に気が付くかということのように思います。

いつも自我慾に負けて、真我が出てこない日を送っていたら本当の人生の意味や自分の真実の価値に気づかないままこの世を去ってしまうかもしれません。自我を満たす日々ではなく、己に克って真我に生きるということが自分を磨くということの意味のように私は思います。

そして人は常に大切なものを守りたいと行動するとき強く優しくなっていくようにも思います。人が真我に目覚め、真我のままに真心を実践するのなら世の中は平和安泰の世界、福世かなものに変わっていきます。

自分が覚悟を決めて行動すれば、周りが仕合わせになっていく理由は真我で人に接し御互いに覚悟を磨き合うやしていくことができるからです。そしてその人によって勇気が沢山いただけて自分も挑戦する勇気に変わっていくからです。人生で本当の仲間に出会うのも自分自身の覚悟ですし、本当の人生に出会うのもまた自分の覚悟です。

まずは大切なものを裏切らないように自らを律して取り組んでいく日々を内省によって高めていくことのように思います。自分に都合の悪い方、自分が苦労する方、自分が労苦を感じる方を楽しんで選べるように克己の工夫を味わっていきたいと思います。

子ども達が将来、自分らしく自分の天命に目覚め立命できるように、自他一体に人々の目覚めに寄り添い見守れるよう精進していきたいと思います。