先日、理念経営について話をする機会がありました。そもそも理念=経営ですから経営の技術として理念を使うのではなく、経営か理念かと使い分けているのもまた本来の理念からかけ離れたものです。どれだけ理念を優先順位の第一義に維持できるか、そこは己に克ちつづけるしかありません。
しかしこれが分からずいつも我に呑まれ刷り込まれてしまっている人が多い様に思います。己に負けてしまっていることにも気づかず、我が使い分けをしてはさも理念をやっているように錯覚してしまうのです。自分を中心にして、物事を分別しているようではカラダで会得したものではなく所詮頭で仕分けたものですから実践が本物になったわけではありません。
実践が本物になっているというのを気づけるかどうかは、己に克っているかということを内省することでその感性を磨いていくしかないようにも思います。まず己に克っているかどうかの判断の前に、自分の私心はどうなっているのかということに気づいているかどうかがあります。
人は誰しも私心を持っています、つまり我があります。その我を優先している人は、私心に呑まれていることにも気づかずに理想理念をも自分の都合で捻じ曲げていきます。本人はちゃんとやっている気になっていても、先に己心の魔、私欲と私心が優先されていますからそれは理念を優先していることとは異なります。
人間はなんでも自分の思い通りにしたい、自分の都合ですべてを動かしたいと思っていますからその考え方が根底にあれば無意識に自分の分別で良し悪しを勝手に決めては自分の都合の良い正義を持ち出しては理屈、正論を述べてしまいます。そうなってしまうと、反省もまた自分に都合のよい反省を繰り返すだけで自分を変化していくことはいっこうにできません。
人が変化するのは、理念を優先しているからでありその理念に合わせて自分の方を変えていくからこそいつまでも素直で謙虚なままでいられます。日々に気候が変動して服装を着替えていくように、日々に体調に合わせて過ごし方を変えていくように、常に世の中の変化に対して自分が順応していくように、相手を変えようと思わずに自分の方をパッと変えていける人こそ柔軟性がある謙虚な人とも言えます。
この逆に、いつまでたっても何をいっても自分のイメージや自分の姿の方を守ろうとし自分を変えまいと頑なに固執していると変化に取り残されていきます。理念を観て動いている人は、別に頑なな自分をいつまでも維持しようとは思わず楽しみながら自分を変化させていきます。それは私心よりも理念を優先するからです。故事に「聖人は無欲ではなく大欲である」という言葉があります。
理想理念といった大欲があるからこそ、自分の小欲に固執しない、私心に囚われないことが理念を優先した生き方ということなのでしょう。理念がありながら単なるお題目になって何も自分が変わっていかないのは、宝の持ち腐れになることもあります。
本来の宝を活かし、自分を光らせていくためにも理念を優先しているかどうか、自分の方を理念に合わせて変化させているか、私心を取り払い個性を発揮しているかと見つめていきたいと思います。