灯りの余韻~炭の仕組み~

炭を使った暮らしをはじめてみると、如何に炭が温もりを与えているのかを実感するようになってきました。一日のはじまりと終わりに炭を熾しているだけで時から離れ自然に近づいていきます。

そして炭はコツを掴めば、火の調節もとてもしやすく便利な現代の道具よりも微調整がききます。それに一度火が入れば、小さな火が残りますからいつでもまた熾し直すことができ火を絶やさなければいつでもまた復活するということにも気づけます。灰も大切な役割をし、燃え尽きてなおその火を守っています。この炭で沸かす一杯の御茶は本当に格別で生きている仕合わせを感じるほどです。

この炭というものの温もりは、普通の薪やガス、石油で燃やす火にはないものです。それらの火は燃え盛る太陽だとしたら、炭の火はそれを受けて光る月のようです。月はその光の中に温もりを宿します。同じように炭にもその炭の中に温もりが宿るのです。

炭に火が入れば、炭のいのちが燃え始めます。その炭のいのちは透明な灯りを自らの呼吸で点灯させていきます。その点灯した灯りが周りを暖め、同時に私たちに温もりを感じさせます。この優しく包まれる灯りの中で、私たちは一日のはじまりの意味を知り、一日の終わりの意味を感じます。この炭が産み出す「灯りの余韻」は、心に深い味わいを与えてくれます。

人生は一瞬です、そしていのちは熱を帯びてはその熱が次第に冷めて消えるか最期には灰になっていきます。血液が赤く体温を維持するために呼吸するように炭もまた赤く温もりを維持するために呼吸をします。火吹竹で息を吹き込み元気になる炭のように、私たちもまた息をして元気になります。

火に空気の中の何かが反応することで、温もりというチカラが出て来ます。その自然が熔け合う瞬間に私たちは灯りの余韻を感じて心が癒されていきます。火は人の心を投影します。その人の心の安らぎは火の中にも顕れます。炭のない暮らしは人心の荒廃を進めているように私には思えます。これは昔からの稲作の仕組みがなくなって協力しなくなったように、炭もまたこの人の手で炭を扱う仕組みがなくなって温もりが失われてきたようにも思います。

灯りの余韻を大切に味わう心のゆとりを炭と一緒に育てていきたいと思います。

子ども達のためにも、自分が灯を消さないように実践を大切にして見守っていきたいと思います。

分を弁える~謙虚さの醸成~

人は自分自身のことを間違うのは我慾や私心に呑まれるからだとも言えます。昔から執着をはじめ、暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、傲慢などがあります。どれも自分自身の中にある己心と私心との間で発生してくる感情であり、その感情をどう転換し、どう執着を手放すかが人生の修行とも言えます。

実際に文章で書くのはいとも簡単ですが、実際に実践してそれを転じて善いものにしようとするのは大変なことです。実際には、どの執着が一番強いかは人それぞれに異なりますが、ある人は強欲でなくても傲慢であったり、ある人は暴食がなくても怠惰であったり、それぞれに強弱あるものです。

仏教では六波羅蜜と言いその執着を手放すための修行として、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)があるそうです。私欲を手放すには、私欲を超える実践を行いいつも自分を律してより大きなものに自分を近づけていこうとすることで己の分を弁えようとするように思います。

人は自分の分を弁えることができてはじめて謙虚になったとも言えます。

実際の自分を本来の身の丈よりも大きいものだと思うところに人間、いや人類の失敗があり、実際は分を弁えないことをすればそこに破滅が待っています。これは歴史を観れば明白で、分を弁えればその文明は長く続き、分を弁えないことで文明は終焉します。

人間がいくら凄いと思っても「いのち」一つ作れませんし、また地球規模の大天災には立ち向かう術もありません。例えば、火山の大噴火や熔岩を消火できるのか、竜巻や台風を消し飛ばすのか、大津波を鎮めるのか、巨大隕石を吹き飛ばすのか、そんなことできるはずもありません。宇宙や自然を敵にしても決して勝てるわけではなく、もしくは何かや誰かと比較競争して勝った気になってもそれは長い目で観て果たして本当に勝ったと言えるものかとも思えます。

自分の分を弁えている人は自然に沿っています。自然に沿っているから、自然を変えようとはせずに自分を変えようとします。世の中を変えようとはせず、自分を変えようとします。他人を変えようとはせずに、自分を変えようとするのです。これらは分を弁えているのです。自分を変化させる人はみんな、その道理を実践により体得しているのです。

如何に分を弁えるか分度を保つかは、日々の生き方、その謙虚さの醸成があるということです。一期一会の御縁といただいた大切なお守り刀を懐に抱き、初志を貫くためにも安文守己・知足安文の実践を意識していきたいと思います。

循環を優先

発酵を深めていく中で、沢山のことに気づきますがもっとも大切なポイントは「循環を優先」することのように思います。自然と共に歩んでいく生き方というのは、まったく一つの無駄がなく、「ゴミ」という観念がありません。この世にあるすべてのものは再利用でき、そのものが消失しても次の世代や次のいのちの糧になります。

このように一つの無駄もゴミも発生しないこと、そしてそれが永続的に繰り返され継続されていくことを循環と定義します。

例えば、木というものを理解するとそれが循環の柱になっていることに気づけます。木は種から根をはり芽が出て伸びて成長する中で森をつくり、多くの生き物たちを活かします。その後、朽ちたり、炭になり灰になりまた土にいる微生物たちを甦らせていきます。微生物は極小の生物ですが、私たちを常に活かします。木はその成長に一つの無駄もなく、常に様々な他を活かし続けて寿命を維持します。

木から学ぶことは本当に多く、自分の都合を一切排除したところに循環型社會が存在することを直感します。

一昨日の桶については、その木の特性を上手に活かし、微生物の仕組みを深く理解しているからこそ桶を使ってきたように思います。古来から私たちの先祖は、壺や甕を用いて水や酒を保存していました。これは遺跡を見学すれば縄文以前の時代からあったことは遺跡の出土で分かります。そして木の桶は弥生時代の遺跡からも発見されており、室町時代に中国からの影響もあり広がり江戸時代には各家庭に必ず存在したものとなりました。その後、昭和に入りホーロータンクやプラスチック製のものが広がり桶はほとんど見なくなりました。そこには人間の都合の良い便利さ安価さはあり経済という名のお金の拡大はありましたが同時に大量のゴミが発生し、大量の無駄が存在する非循環になったとも言えます。

かつて桶はどのように循環していたかを調べてみると、まず酒屋が森の中から選んだ木を用い新桶を作り、その後30年後に酒桶としての寿命が近づくと、今度は味噌屋・醤油屋それを譲られ、更にそこから長くて150年ほど使われます。その後は、職人たちが修理を繰り返し微生物たちの故郷として何百年もの間ずっと循環型社会の御役に立つのです。

世代を超えて利用されてきた桶はずっと人間と一緒に生きて暮らしてきました。桶を身近に生活していると、その桶が私たちと同じように「呼吸」をしていることに気づけます。漬物においては、自分たちの都合の悪い微生物を排除して簡単に管理できるプラスチックと違って木桶や木樽はこちら側が愛情をかけて塩加減、塩梅をみて見守らないと腐ってしまいます。しかし経年変化の味わいが出てくるのはそこは生き物として、いのちとして大切に扱っている真心が入るからです。

そこに循環があるというのは、それは私たちがいのちとして寄り添うから存在するのです。いのちがあるものは寿命があり、その寿命を延ばしてあげたい、一緒に暮らしていきたいといういのちを思いやる温もりがあります。

時代が変わっても、桶の持つ魅力は変わりません。

それは私たちの心の中に、この循環の思いやりや真心が消えないからです。手間暇かける贅沢さや、手作業の温もりは、いのちに触れる仕合せです。

身のまわりに循環の道具を置くことは、自分も循環の中に暮らすことです。いくら循環をしたいといっても、今の循環しないものに囲まれていたら気が付くと大量のゴミと大量のムダを発生してしまうもので、同時に人間の都合の良いことばかりを優先し循環できなくなっていきます。そうやって人間が自我欲に負け、己に克てず、我儘に傲慢になれば循環型社会は一瞬で崩壊していきます。

子ども達の未来はこれからまだまだ続きます、それをどう永続させていくために自分たちが一体何を実践して生きていくかはこの世代を任された私たちの使命のはずです。

常に自らを正しつつ、循環を優先しているかを観直していきたいと思います。

伝統の桶職人

昨日、八女市で90年以上続く九州で唯一の桶職人松延新治さんにお会いする機会がありました。この方は、川端誠さんの落語絵本「たがや」(クレヨンハウス)の主人公のモデルにもなった方だそうです。森の名手名人100人にも選ばれる伝統工芸職人でもあります。

工房の中を拝見させていただくと、全国各地から集まっているあらゆる木桶に囲まれていました。伝統の職人さんが居なくなっていく中で、かつてからの桶を大切にしたいと思っている人たちにとってはまるで救いの神です。

私も発酵をはじめ漬物樽や酒樽、味噌樽、その他、おひつや風呂桶をはじめ、様々なものを伴に暮らす道具として重宝してからはこれをどう手入れしながら大切にしていこうかと愛着をもって接してしました。すると古いものを譲っていただいたり、かつての古民具なども次第に集まってきます。その中には、どうしても修理しないといけないものもあり、その時に手入れ手直しをしていただけるというのは本当に学びも多く、日本古来の自然との共生の工夫を観直す機会になります。

今の時代は、桶ではなくプラスチックで大量生産されたものを使います。修理するよりは買い換えた方が安く、また今は修理不能のものばかりが売られています。そうなると、次第に修理が必要なもの、手入れを怠れない自然のものは大変で面倒だからと次第に遠ざけていくものです。

しかし長い目で観たら、自然物というのは大切に接して手入れをすればするほどに長持ちし、しかも修理ができて末永くずっと一緒に暮らしていくことができるのです。なんでも使い捨て、なんでも便利に買い換えていたらそういう有り難いつながりや、共に育ち助け合ってきたもったない御縁に気づく感性も鈍ってくるかもしれません。

今回は、今ではもう使われていないような歴史の古い木炭や薪で焚く鋳物つきの木の風呂桶の修理をお願いしましたが修理すればするほどにそのものをいとおしく感じもっと大切にしたいと思うように感じます。

職人さんが手作りで作ったものを、大切に手入れして大事に使っていくことは一緒にその道具と呼吸をして共生していくかのようです。工房の中は古き善きたくさんの修理待ち、修理済みの道具からまるで「これからもお願いします」というような声が聴こえてくるようで、新しい道具からは「温もりをいつまでも忘れないで」という声が聴こえてくるようでした。桶の歴史は平安時代より続き、生活の中でずっと私たち日本人と息づいてきました。嫁入り道具や御守道具、また祖父母の形見や思い出にもなってきたそれぞれの木桶の中に有る思い思いの人々、もったいないご先祖の真心を桶たちから感じたからかもしれません。

昔の発酵や、木の持つ素晴らしさを知ればしるほどに桶の魅力と自然と暮らした人々の感性に尊敬の念が湧いてきます。子どもたちのためにも、伝統を深め、その伝統が遺りその心を譲っていけるように自らが実践を積み重ねていきたいと思います。

理念を優先~私心を取り払う~

先日、理念経営について話をする機会がありました。そもそも理念=経営ですから経営の技術として理念を使うのではなく、経営か理念かと使い分けているのもまた本来の理念からかけ離れたものです。どれだけ理念を優先順位の第一義に維持できるか、そこは己に克ちつづけるしかありません。

しかしこれが分からずいつも我に呑まれ刷り込まれてしまっている人が多い様に思います。己に負けてしまっていることにも気づかず、我が使い分けをしてはさも理念をやっているように錯覚してしまうのです。自分を中心にして、物事を分別しているようではカラダで会得したものではなく所詮頭で仕分けたものですから実践が本物になったわけではありません。

実践が本物になっているというのを気づけるかどうかは、己に克っているかということを内省することでその感性を磨いていくしかないようにも思います。まず己に克っているかどうかの判断の前に、自分の私心はどうなっているのかということに気づいているかどうかがあります。

人は誰しも私心を持っています、つまり我があります。その我を優先している人は、私心に呑まれていることにも気づかずに理想理念をも自分の都合で捻じ曲げていきます。本人はちゃんとやっている気になっていても、先に己心の魔、私欲と私心が優先されていますからそれは理念を優先していることとは異なります。

人間はなんでも自分の思い通りにしたい、自分の都合ですべてを動かしたいと思っていますからその考え方が根底にあれば無意識に自分の分別で良し悪しを勝手に決めては自分の都合の良い正義を持ち出しては理屈、正論を述べてしまいます。そうなってしまうと、反省もまた自分に都合のよい反省を繰り返すだけで自分を変化していくことはいっこうにできません。

人が変化するのは、理念を優先しているからでありその理念に合わせて自分の方を変えていくからこそいつまでも素直で謙虚なままでいられます。日々に気候が変動して服装を着替えていくように、日々に体調に合わせて過ごし方を変えていくように、常に世の中の変化に対して自分が順応していくように、相手を変えようと思わずに自分の方をパッと変えていける人こそ柔軟性がある謙虚な人とも言えます。

この逆に、いつまでたっても何をいっても自分のイメージや自分の姿の方を守ろうとし自分を変えまいと頑なに固執していると変化に取り残されていきます。理念を観て動いている人は、別に頑なな自分をいつまでも維持しようとは思わず楽しみながら自分を変化させていきます。それは私心よりも理念を優先するからです。故事に「聖人は無欲ではなく大欲である」という言葉があります。

理想理念といった大欲があるからこそ、自分の小欲に固執しない、私心に囚われないことが理念を優先した生き方ということなのでしょう。理念がありながら単なるお題目になって何も自分が変わっていかないのは、宝の持ち腐れになることもあります。

本来の宝を活かし、自分を光らせていくためにも理念を優先しているかどうか、自分の方を理念に合わせて変化させているか、私心を取り払い個性を発揮しているかと見つめていきたいと思います。

日本の伝統

永い時間をかけて手作業で産み出されたものに伝統工芸があります。伝統工芸品の中には、その作者が誰なのかが分からなくてもそこに籠められた思いや心が作品に投影されているのが分かります。手に取ってみると、どのように使われてきてどのように使われたいのかが分かるような気がします。これもまた作品に魂が宿っている証かもしれません。

日本民藝館の柳宗悦にこんな言葉が遺っています。

「実に多くの職人たちは、その名をとどめずこの世を去っていきます。しかし彼らが親切にこしらえた品物の中に、彼らがこの世に活きていた意味が宿ります。」

これは誰の人生でも同じことで、たとえ有名ではなくても名前がこの世に残らなくてもその人の生き様は確実にこの世に活かされていきます。そしてその生き様が後の世の人の発見や伝承によって意味が宿るのです。

成功ばかりを望んでいるのではなく、自分の人生を懸命に打ち込むことで作品を遺すという生き方から私たちは伝統の価値を知ります。

また日本という個性と特色においてもこういう言葉で表現しています。

「近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後れたもので、単に昔の名残に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。」

新しいものしか価値がないと思うような世の中の風潮もありますし、流行ばかりが人気で儲かるからと追いかける人もいます。しかし世の中の多様性が消失し、画一化されて個性のないものばかりが溢れてしまえば特色はなくなっていきます。

一見、オルタナティブと呼ばれる少数の存在は実はそれこそがその国の特色になるものでありその他大勢が特色とは呼ばないのです。多様な特色を併せ持つからこそ、その国のカタチもはじめて観えてくるものであり、そういう個性を大切にする人々が持ち場持ち場で踏ん張っているからこそその他大勢の個性も活かされ過去から未来へ大切な願いや思いが伝承されていくのです。

伝統というものは、太古から受け継がれてきた私たちの精神文化です。その精神文化をカタチにした人たちが職人であり、その職人たちの作品によって私たちは個性を自覚することができ尊重するように私は思います。

最後にまた柳宗悦の言葉です。

「無名の職人だからといって軽んじてはなりません。彼らは品物で勝負しているのであります。」

本当に善い仕事とは、有形無形の品物となって後世に語ります。私たちが取り組む子どものための仕事もまた、現場の中に顕れます。どれだけ子どものためになったかは、子どもの姿の中に顕れます。私たちの作品は、子ども自身だからこそ未来の子ども達がそれを証明すると思います。

かつての日本の職人たちに恥じないように、日本人としてやり遂げていきたいと思います。

 

恩の循環

「恩」という字があります。恩は自分が誰かや何かから受けた恵みのことです。よくこのご恩は忘れませんという言葉や、いのちの恩人というような使い方をします。この恩は、御蔭様の気持ちを忘れない心のことでありいつも自分がいただいている偉大な恩恵を忘れずに過ごしていることを実感し続ける謙虚な心でもあります。

ドイツの詩人ゲーテに「忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。」があります。自分の力でと勘違いすることほど弱点であり、恩を忘れない謙虚な人は皆それぞれに強みを活かすことができるのは周りの御蔭に気づいているからかもしれません。

そしてこの「恩」という字を、致知出版社の藤尾社長はこのように解釈しています。

『「恩」という字は「口」と「大」と「心」から成っている。「口」は環境、「大」は人が手足を伸ばしている姿。何のおかげでこのようにして手足を伸ばしておられるか、と思う心が【恩を知る】ということである』

自分が伸び伸びと日々に暮らしていけるのは、その蔭に本当に多くの方々の見守りがあるからです。両親をはじめ、先祖の方々、今まで自分を育ててくださり自分を助けてくださった本当に多くの方々がいることで今の自分が存在します。あの出会いもあの気づきも、あの言葉もあの親切も、もしくはあの厳しさもあの悲しさも、すべては今の自分をつくってくださった御蔭様の一つです。

恩を知るというのは御蔭様を知る心であり、御蔭様をいただいてばかりだからこそ何か自分も同じように恩返しができないかと感謝の気持ちに満たされるとき「恩」の意味を自覚できるように思います。しかし恩はその人にお返しすることはできず、その人もまた他の人の御縁によって恩をいただきそれを他の人に送っているわけですから同じように恩送りをして人と人の間で恩を循環していくしかありません。

そしてこの恩の循環のことを繁栄というように私は思います。

社會を発展させ繁栄させていくというのは、人類が倖せになっていくということです。そして人類の幸福を願うなら、この恩の循環を通して社會を繁栄させていくしかありません。その社會の繁栄は、自分の日々の生き方次第で行われますから日々の恩送りの実践こそがより善い社會を育てていきます。

その実践とは、受けた恩よりも少しでも多くを他の人の送ることです。ペイフォーワードという映画もありましたが、これは社會を育てていく最善の方法のように感じた記憶があります。

受けた恩や恵みを自分のものだけにせず、誰かに一つ多めに付け足して送っていくことが豊かさを約束し皆を仕合わせにしていく自然の摂理です。恩の循環を忘れないように御蔭様の心を実践していきたいと思います。

 

人間本来の能力とは何か~持ち味を活かす~

現在は誰かを比べたり誰かの目を意識したりと常に自分を何かに合わせなければならない窮屈な世の中になっているとも言えます。個性のことを障害といい、天才のことを精神病と呼び、人と異なる資質を持つ人のことを奇人変人だと偏見で差別したりします。

本来、みんなが周りと同じ姿であるほうがおかしな姿であり異なるのは御互いを活かし合うために必要な自然の性質ですから持ち味を御互いに出し合って協力して生きていくのがこの世の中の摂理です。

今は一斉画一にすべて同じものを良しとして、同じものを目指され、如何に平均から外れないかということを押し付けてくるものです。学校などは最たるもので、みんなと同じことができないことを恥ずかしいこととし平均の中でもっとも上位にあるものを優秀であると定義して技能を教え込んでいきます。

能力は別に学識や体力だけが能力ではなく、素直であること謙虚であること、また自分らしくいられることも能力の一つです。この能力のそもそもの定義とは何か、それはその人が「もっとも持ち味を活かしている状態」のことを言うと私は思います。そして私は能力の本質は「自分らしくいられること」がもっとも能力を自他に活かしていることであることだと思うのです。

その人がその人らしくいられるというのは、周りもその人らしくいられることです。これは御互いの持ち味が存分に発揮されている姿であり、それらの能力が相乗効果によっ御御いに役立っているということです。

人間の仕合せというものは、御互いに仕い合うことです。つまりは誰も不必要としない、そのままで役に立っている社會の実現のことだと思います。人道の平和とは、御互いが持ち味を活かし合って仕合わせを築くことだと思います。

今のようにこうでなければならないと押し付ける窮屈な社会での中で、その人らしくいられないことで心を病み苦しんでいる人たちがたくさんいるように思います。自分が此処に居てもいいという心地好い居場所があるかないかでその人の人生の仕合せは決まっていくようにも思います。成功か失敗かではなく、金持ちか貧乏かどうかではなく、仕合せかどうかを皆で見つめる世の中にしていくことが道に入っていくことのように思います。

あるがままの自分でいいと思えるためには、あるがままを受け容れてくれる社會が必要です。そしてその社會は徳によって実現することは自明の理です。人が思いやり助け合い御互いの持ち味を活かし合う世の中は、そのままでいいと受け容れてくれる暖かい場を一人ひとりが築き上げていくことに由ります。

引き続き子ども達のためにも子ども達の個性を伸ばし、その個性を受け容れ、みんな違っているからこそみんながいいのだという見守り合う社會を社業を通じてこの世に広げていきたいと思います。

透明な信条

佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。

今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。

本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。

『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』

もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。

これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。

結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。

『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』

言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。

最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。

 

『言葉を超えた行動が心魂に響く』

 

ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。

 

 

透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。