理念を優先~私心を取り払う~

先日、理念経営について話をする機会がありました。そもそも理念=経営ですから経営の技術として理念を使うのではなく、経営か理念かと使い分けているのもまた本来の理念からかけ離れたものです。どれだけ理念を優先順位の第一義に維持できるか、そこは己に克ちつづけるしかありません。

しかしこれが分からずいつも我に呑まれ刷り込まれてしまっている人が多い様に思います。己に負けてしまっていることにも気づかず、我が使い分けをしてはさも理念をやっているように錯覚してしまうのです。自分を中心にして、物事を分別しているようではカラダで会得したものではなく所詮頭で仕分けたものですから実践が本物になったわけではありません。

実践が本物になっているというのを気づけるかどうかは、己に克っているかということを内省することでその感性を磨いていくしかないようにも思います。まず己に克っているかどうかの判断の前に、自分の私心はどうなっているのかということに気づいているかどうかがあります。

人は誰しも私心を持っています、つまり我があります。その我を優先している人は、私心に呑まれていることにも気づかずに理想理念をも自分の都合で捻じ曲げていきます。本人はちゃんとやっている気になっていても、先に己心の魔、私欲と私心が優先されていますからそれは理念を優先していることとは異なります。

人間はなんでも自分の思い通りにしたい、自分の都合ですべてを動かしたいと思っていますからその考え方が根底にあれば無意識に自分の分別で良し悪しを勝手に決めては自分の都合の良い正義を持ち出しては理屈、正論を述べてしまいます。そうなってしまうと、反省もまた自分に都合のよい反省を繰り返すだけで自分を変化していくことはいっこうにできません。

人が変化するのは、理念を優先しているからでありその理念に合わせて自分の方を変えていくからこそいつまでも素直で謙虚なままでいられます。日々に気候が変動して服装を着替えていくように、日々に体調に合わせて過ごし方を変えていくように、常に世の中の変化に対して自分が順応していくように、相手を変えようと思わずに自分の方をパッと変えていける人こそ柔軟性がある謙虚な人とも言えます。

この逆に、いつまでたっても何をいっても自分のイメージや自分の姿の方を守ろうとし自分を変えまいと頑なに固執していると変化に取り残されていきます。理念を観て動いている人は、別に頑なな自分をいつまでも維持しようとは思わず楽しみながら自分を変化させていきます。それは私心よりも理念を優先するからです。故事に「聖人は無欲ではなく大欲である」という言葉があります。

理想理念といった大欲があるからこそ、自分の小欲に固執しない、私心に囚われないことが理念を優先した生き方ということなのでしょう。理念がありながら単なるお題目になって何も自分が変わっていかないのは、宝の持ち腐れになることもあります。

本来の宝を活かし、自分を光らせていくためにも理念を優先しているかどうか、自分の方を理念に合わせて変化させているか、私心を取り払い個性を発揮しているかと見つめていきたいと思います。

日本の伝統

永い時間をかけて手作業で産み出されたものに伝統工芸があります。伝統工芸品の中には、その作者が誰なのかが分からなくてもそこに籠められた思いや心が作品に投影されているのが分かります。手に取ってみると、どのように使われてきてどのように使われたいのかが分かるような気がします。これもまた作品に魂が宿っている証かもしれません。

日本民藝館の柳宗悦にこんな言葉が遺っています。

「実に多くの職人たちは、その名をとどめずこの世を去っていきます。しかし彼らが親切にこしらえた品物の中に、彼らがこの世に活きていた意味が宿ります。」

これは誰の人生でも同じことで、たとえ有名ではなくても名前がこの世に残らなくてもその人の生き様は確実にこの世に活かされていきます。そしてその生き様が後の世の人の発見や伝承によって意味が宿るのです。

成功ばかりを望んでいるのではなく、自分の人生を懸命に打ち込むことで作品を遺すという生き方から私たちは伝統の価値を知ります。

また日本という個性と特色においてもこういう言葉で表現しています。

「近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後れたもので、単に昔の名残に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。」

新しいものしか価値がないと思うような世の中の風潮もありますし、流行ばかりが人気で儲かるからと追いかける人もいます。しかし世の中の多様性が消失し、画一化されて個性のないものばかりが溢れてしまえば特色はなくなっていきます。

一見、オルタナティブと呼ばれる少数の存在は実はそれこそがその国の特色になるものでありその他大勢が特色とは呼ばないのです。多様な特色を併せ持つからこそ、その国のカタチもはじめて観えてくるものであり、そういう個性を大切にする人々が持ち場持ち場で踏ん張っているからこそその他大勢の個性も活かされ過去から未来へ大切な願いや思いが伝承されていくのです。

伝統というものは、太古から受け継がれてきた私たちの精神文化です。その精神文化をカタチにした人たちが職人であり、その職人たちの作品によって私たちは個性を自覚することができ尊重するように私は思います。

最後にまた柳宗悦の言葉です。

「無名の職人だからといって軽んじてはなりません。彼らは品物で勝負しているのであります。」

本当に善い仕事とは、有形無形の品物となって後世に語ります。私たちが取り組む子どものための仕事もまた、現場の中に顕れます。どれだけ子どものためになったかは、子どもの姿の中に顕れます。私たちの作品は、子ども自身だからこそ未来の子ども達がそれを証明すると思います。

かつての日本の職人たちに恥じないように、日本人としてやり遂げていきたいと思います。

 

恩の循環

「恩」という字があります。恩は自分が誰かや何かから受けた恵みのことです。よくこのご恩は忘れませんという言葉や、いのちの恩人というような使い方をします。この恩は、御蔭様の気持ちを忘れない心のことでありいつも自分がいただいている偉大な恩恵を忘れずに過ごしていることを実感し続ける謙虚な心でもあります。

ドイツの詩人ゲーテに「忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。」があります。自分の力でと勘違いすることほど弱点であり、恩を忘れない謙虚な人は皆それぞれに強みを活かすことができるのは周りの御蔭に気づいているからかもしれません。

そしてこの「恩」という字を、致知出版社の藤尾社長はこのように解釈しています。

『「恩」という字は「口」と「大」と「心」から成っている。「口」は環境、「大」は人が手足を伸ばしている姿。何のおかげでこのようにして手足を伸ばしておられるか、と思う心が【恩を知る】ということである』

自分が伸び伸びと日々に暮らしていけるのは、その蔭に本当に多くの方々の見守りがあるからです。両親をはじめ、先祖の方々、今まで自分を育ててくださり自分を助けてくださった本当に多くの方々がいることで今の自分が存在します。あの出会いもあの気づきも、あの言葉もあの親切も、もしくはあの厳しさもあの悲しさも、すべては今の自分をつくってくださった御蔭様の一つです。

恩を知るというのは御蔭様を知る心であり、御蔭様をいただいてばかりだからこそ何か自分も同じように恩返しができないかと感謝の気持ちに満たされるとき「恩」の意味を自覚できるように思います。しかし恩はその人にお返しすることはできず、その人もまた他の人の御縁によって恩をいただきそれを他の人に送っているわけですから同じように恩送りをして人と人の間で恩を循環していくしかありません。

そしてこの恩の循環のことを繁栄というように私は思います。

社會を発展させ繁栄させていくというのは、人類が倖せになっていくということです。そして人類の幸福を願うなら、この恩の循環を通して社會を繁栄させていくしかありません。その社會の繁栄は、自分の日々の生き方次第で行われますから日々の恩送りの実践こそがより善い社會を育てていきます。

その実践とは、受けた恩よりも少しでも多くを他の人の送ることです。ペイフォーワードという映画もありましたが、これは社會を育てていく最善の方法のように感じた記憶があります。

受けた恩や恵みを自分のものだけにせず、誰かに一つ多めに付け足して送っていくことが豊かさを約束し皆を仕合わせにしていく自然の摂理です。恩の循環を忘れないように御蔭様の心を実践していきたいと思います。

 

人間本来の能力とは何か~持ち味を活かす~

現在は誰かを比べたり誰かの目を意識したりと常に自分を何かに合わせなければならない窮屈な世の中になっているとも言えます。個性のことを障害といい、天才のことを精神病と呼び、人と異なる資質を持つ人のことを奇人変人だと偏見で差別したりします。

本来、みんなが周りと同じ姿であるほうがおかしな姿であり異なるのは御互いを活かし合うために必要な自然の性質ですから持ち味を御互いに出し合って協力して生きていくのがこの世の中の摂理です。

今は一斉画一にすべて同じものを良しとして、同じものを目指され、如何に平均から外れないかということを押し付けてくるものです。学校などは最たるもので、みんなと同じことができないことを恥ずかしいこととし平均の中でもっとも上位にあるものを優秀であると定義して技能を教え込んでいきます。

能力は別に学識や体力だけが能力ではなく、素直であること謙虚であること、また自分らしくいられることも能力の一つです。この能力のそもそもの定義とは何か、それはその人が「もっとも持ち味を活かしている状態」のことを言うと私は思います。そして私は能力の本質は「自分らしくいられること」がもっとも能力を自他に活かしていることであることだと思うのです。

その人がその人らしくいられるというのは、周りもその人らしくいられることです。これは御互いの持ち味が存分に発揮されている姿であり、それらの能力が相乗効果によっ御御いに役立っているということです。

人間の仕合せというものは、御互いに仕い合うことです。つまりは誰も不必要としない、そのままで役に立っている社會の実現のことだと思います。人道の平和とは、御互いが持ち味を活かし合って仕合わせを築くことだと思います。

今のようにこうでなければならないと押し付ける窮屈な社会での中で、その人らしくいられないことで心を病み苦しんでいる人たちがたくさんいるように思います。自分が此処に居てもいいという心地好い居場所があるかないかでその人の人生の仕合せは決まっていくようにも思います。成功か失敗かではなく、金持ちか貧乏かどうかではなく、仕合せかどうかを皆で見つめる世の中にしていくことが道に入っていくことのように思います。

あるがままの自分でいいと思えるためには、あるがままを受け容れてくれる社會が必要です。そしてその社會は徳によって実現することは自明の理です。人が思いやり助け合い御互いの持ち味を活かし合う世の中は、そのままでいいと受け容れてくれる暖かい場を一人ひとりが築き上げていくことに由ります。

引き続き子ども達のためにも子ども達の個性を伸ばし、その個性を受け容れ、みんな違っているからこそみんながいいのだという見守り合う社會を社業を通じてこの世に広げていきたいと思います。

透明な信条

佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。

今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。

本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。

『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』

もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。

これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。

結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。

『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』

言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。

最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。

 

『言葉を超えた行動が心魂に響く』

 

ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。

 

 

透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。

透明

自然のことを学び直す中で、あらゆるもの透明さを知り純粋であること、真に澄むことの大切さをいつも感じます。身近な光や陰、火や水、風や土、木や石などあらゆるものが融け合い混ざり合い一つになる瞬間はいつも透明ないのちを感じます。

この透明ないのちとは、「解け合う」ことで姿を顕します。そしてその瞬間が観えているかということが真心のままであり、その瞬間を捉える感性が直観のことであろうと思います。私のかんながらの道はいつも此処に存在します。

自然が磨いてくださるいのちの尊さの中に、その透明感はいつも存在します。透明なものを感じる感性は自然の心のままに心に寄り添い、自然体で心をおもてなす日本古来の精神の鑑です。天照大御神より八咫鏡を授かってから私たちは透明な鏡に心を照らして自己鑑賞し常に心の穢れを祓い清め、心を磨き続けることを大切にしてきました。透明さというのはこの鑑の心であり、鑑の心は常に自他一体に切磋琢磨、相手と自分を解け合うことで磨き合うものだと私は思います。

佐藤初女さんは、この「透明」であることを大切にされた生き方を貫かれた方です。私も透明であること、いのちを磨くことは人生の一大事だと考えており、その生き方や生き様には本当に沢山の影響をいただきました。

改めて初女さんの文章を拝読していると、日々の暮らしの中で透明さを磨いていた様子が遺っており私自身も改めて学び直していきたいと思います。その初女さんにこんな言葉が遺っています。

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。ですから私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

これは調理のことを語っているのではないことはすぐに自明します。これは透明になることを語っているのです。

生きている間の課題として、如何に心を透き通らせて脱皮するかと言います。私の言葉では心を如何に研ぎ澄ましていくかということと同じです。心を研ぎ澄ましていくことは、人生において何よりも大切なことです。なぜならそれは人生とは魂を磨くことだからです。この世に私たちが来たのは、魂を磨き心を研ぎ澄ますために体験をしているとも言えます。

生きている修行というのは、結果が云々ではなくこの間にどのように生きたかというそのものが問われるように思います。自然界の生き物たちやいのちのように生きていくことが仕合わせであり、彼らと同じように日々に暮らしの中で自然の砥石で心魂が磨かれていくことがいのちを輝かせていくことだと私は思います。

人間の中においては御互いに思いやり真心を盡していくことで心魂は磨かれ高まりより透明になっていきます。透明な感性をいつも持ち続けることは、自然と解け合い直感のままにいて自然体になることです。

憧れた人に近づけるよう、私も持ち場で日々に精進していきたいと思います。子ども達に譲っていく透明ないのちを受け継いでいきたいと思います。

深さとは何か~直感~

物事には深さがあり、深さを持つ人はその深さを人に伝えていけることができるように思います。同じ話をしても、自ら刻苦勉励し体験を通して苦心しつつも掴んだ人の話は同じ言葉を並べても伝わり方が異なるものです。知識と体験との違いは、知識によっていくら文字を並べてもそれは単なる文字遊びにしかならず体験によって得た智慧や知識により文字が並ぶとそれは実行するためのヒントになります。

昨日、かねてから尊敬していた森のイスキアの佐藤初女さんがお亡くなりになりました。講演で一度だけお話をお聴きしたことがありますが、その時の御話もまた深さがありました。子どもがお菓子ばかりを食べて困っているという質問には、「ご飯を美味しく作ればいいのです。」とただシンプルに回答するのですがその言葉の間には真心を籠めて子どもを育てることや、食に命を懸けて取り組むことの大事さなど言葉の背景に膨大な暗黙智慧が語られている深さがありました。

この方もまた日本古来の大道をこの世に受け継ぎ、次代へ繋ぎ紡いだ有り難い道徳人でした。魂や大義は失われず、人々の心の中に生き続けて実践によって伝承されていくと思います。瑞々しい透明な心を通じて出会った有り難いご縁をいつまでも心に刻み忘れません、ご冥福を心からお祈りしています。

話を戻せばこの深さというのは、その人の体験によって深まっていきます。深さを持てる人とというのは常に理想を求めて一生懸命に苦労を厭わずに努力精進していくことで深まっていくように思います。深さの中には、つまり理想までの距離のようなものがあるのかもしれません。自分の目的や志の高さに対して今の現実があり、その間が深さになっていくように私は思います。

深さを持てる人になるためには、まず理想を定めて自ら覚悟決心する必要がある様に思います。そして自問自答し、本質は何かを求め続ける胆力や道を歩み続けて内省し続ける継続力も必要です。

求めている理想が大きければ大きいほど、世のため人のための祈りが広ければ広いほどその深さはますます奥深く深淵な深さになります。またその深さは五感や全感覚を通して感じるもので、到達している深さは観えないほどですから互いの直感でしか感得しえません。西洋ではそれをシンクロニシティともいいますが、本当の深さを求めている人はいつもご縁によって導かれるように思います。ご縁の世界に生きる人々は深さを持ちます、そしてその深さは直感と導きと道中の閃きによって開拓されていくのでしょう。

日々に何を最も優先するのかを忘れずに、自分の持ち場を掘り下げて道を歩む人たちに恥じない背中をみせられるように文字遊びを戒め深く精進していきたいと思います。

 

場と場所

日本の古来からの文化に「場・間・和」があります。これは心の世界を表現する三文字であり、日本人が常に大切にしてきた真心が此処にあるとも言えます。一つ一つは全て日本の伝統文化を顕しており、歴史を観ても、身近な文化の中にも息づき入り込んでいるものです。

今回はその「場」を深めてみようと思います。

場とはただの場所のことではありまん。場所というのは、その指し示す環境一帯のことでありそこに営みがあるかどうかはあまり関係がありません。しかし「場」となると、そこには確かな営みがありそこに集う人たちの思いや願い、心が存在します。

場が発生してくるというのは、そこには場を創ろうとした人の理念や初心があり、そこに集うものたちはその思いによって引き寄せられて集まる仲間たちです。これは例えば、山林にある雑草が生え人が全く手入れをしていなかった休耕田があるとします。そこに一つの思いをもった人が自然農法を行おうと独りで田に立つのなら次第にその田には野菜や作物、稲をはじめ虫たち、動物たち、周りの人たち、そして思いを共にする仲間たちが次第に集まってそこに「場」が産まれるのです。

この場が産まれれば、そこには空間が産まれます。この空間の「間」とは、時間を超越した間合のことです。間とは心のないところには産まれず、忙しさとは時によって行われるものですから忙しくない時、つまりその時そのものが無くなって「間」は産まれます。これを無の心ともいうのかもしれませんが、間合の中には時を超越した心が存在します。

そしてこの間があるところに「和」が存在します。この和とは、言葉で表現するのなら全てが調和し中庸になっているということです。和になれば心が安住する居場所が産まれ、居心地が善い場が誕生するということでもあります。これは次回、事例で深めて書いてみようと思います。

話を戻せばこの場と場所の違いは、理念を持った人がいるかどうかに由ります。そして理念を共にする仲間たちがいるかどうかに由ります。場と仲間というものは、常に隣り合わせであり、仲間づくりをしようと思えば場づくりをしようとなるのです。

今年は「場」の面白さに気づき、その場を子どもたちの環境の中に広げていきたいと思っています。場から学び直し、和の持つ有り難さを味わっていきたいと思います。子どもに一つでの譲り遺せるものを日本の文化から発掘し開発していきたいと思います。

変化の美

経年変化の美について書きましたが、経年劣化という言葉もあります。年月が経つということは、ある意味自然消滅していくものですから自然劣化していくものです。同時に、劣化せずに味わいが出てくるものもあります。それは道具に関わらず、人物においても同じように劣化と味わいというものは付き纏います。

例えば、齢を経ても美しさが変わらないとか、齢を経れば経るほどにその価値に磨きがかかりより一層美しくなるものもあります。いつまでも変わらないものを維持しているというのは、いつまでも大切にしているものが変わらないということです。

そもそも経年というのは、単に年月が経つことですが変化というのは自らが変わり続けることです。時代が変わっても、その時代の価値にあわせて変化を已まないでいることは常に温故知新を続けているということです。そしてそこには主軸になる理念があるように思います。

人は時代に左右されずに自分の信念を貫く人や、いつまでも理想や夢への情熱を失わない人も「変わらない人」と言うことがあります。そういうものを失ってしまった人のことを「あの人は変わった」とも言うこともあります。これは生き方のことを言っているのであり、見た目の変化のことではなく内面のことを言っているようにも思います。

人は理念があり、その道を歩み、研鑽を続けて精進をするのなら経年は変化の連続ということになります。変化の連続をするものは経年劣化とは言わず、経年変化というように思うのです。

道具も同じく、使われ続けたものは経年劣化とはいわず大切にその道具を用いる人がいるのなら経年変化になると思うのです。経年変化の美とは、変化の美のことであり、この世にいていのちが活きている証とも言えます。

いのちを輝かせ、いのちを活かし、いのちを盡していく日々が経年の持つ味わいを深いものにし、美しさを高めていくように思います。

古の道具に再び呼吸を取り戻すのも、こちらの姿勢如何です。かつての思いやかつての願い、そして理念と共に歩める仲間たちが増えていくことで場が生まれ、物語がはじまります。

変化を共にする仕合わせを大切に、子ども達に変化の大切さを生き方で譲っていきたいと思います。