慢心

古に思いを馳せれば馳せるほど、人の心の様相の変化を感じます。私たちは知識をつけては進化しているように思っていますが、その実、全てにおいて古の心には敵いません。それは、知識を得て慢心し人は自惚れていくことに他なりません。

不易と流行というものがあります。心の世界は変わることがなく、そして時は流れていきます。焦りと油断が慢心を産み、自惚れと過ぎたる自愛が慢心を助長します。そのうち、流行だけが先行して不易が失われていくように思います。

そもそも慢心しないというのは、人を見下さないということです。それは別に比較しないというわけではなく、自分を特別視しないということでもあります。人は油断をするとすぐに自分が分かったかのように錯覚します。分かった気にならないと戒め続けることよりも、分かったことで分かった気になり知識によって得た安楽によって錯覚するものです。しかしその時、分かった気になった故に慢心が生まれ分かっていないという謙虚さを失うのです。

実際の世の中は、自分が知っている範囲などほんのわずかなものです。ほとんど全てのことは知った気になっているだけで知ったわけではありません。そして知るということはできません、なぜなら変化せず、已むものはこの世にまったく存在しないからです。

万物は変化し続けているからこそ、かつて知ったことがずっとそのままであることはありません。しかし知った気になってしまうと、その変化していることを忘れてしまうのです。慢心が油断であり、油断が大敵なのです。その油断しないようにするには、自分の慢心をいつも戒め続けなければならないように思います。

どんなに悟った人であっても、どんなに膨大な知識をもって努力している人であっても、慢心は誰にもあります。慢心しませんということ自体も慢心であり、慢心していると思っていることであれ慢心です。慢心とは、絶対的に人間が放すことができないものであり、それは聖賢と言えども聖人と言えども、誰しも取り払うことが難しく一生かかったものだからです。

二宮尊徳の遺誡に、「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」があります。

ここにも常に慢心を恐れて謙虚に向き合い続けた姿があります。自信と自惚れは百害あって一利なしです。古に学び直し、古の心を師として分かった気にならず真摯に精進していきたいと思います。

自然の美

日々、炭と憩り、御茶を立てて一服する日々を過ごしていると心の安らぎを覚えます。不思議なことですが、この炭を使いお湯を沸かし一杯の御茶を呑むことがこんなにも心が落ち着くのは何か自然の慈愛と通じ合っている気がします。

茶器というものが戦国時代は、大変重宝され一国一城の価値があったとも言えます。心が安らぐときに、その周囲に日頃から愛着をもって大切に遣っている道具たちに見守られ一杯の御茶をいただく、道具たちもそれぞれに持ち味を活かして一杯の御茶のために盡力する、その一つに向かって籠めた真心が御湯と御茶を通じて心に沁みわたります。

おもてなしというものは、道具たちをはじめ大切にそのものの持ち味を活かして協力し合い一つの物事のためにチカラを分かち合って相手に自分たちの真心で御迎えすることではないかとこの御茶を点てている中で実感します。

日頃、会社でもお客様がお越しになる際に、みんなでチカラを合わせて色々と準備します。その真心からの行動や実践は、目には観えなくても必ず相手に伝わり、おもてなしに心が穏やかになり豊かな仕合わせを味わえるものです。これはみんなが心を一つにすることが大切であり、御茶の道具たちと協力して心を一つにおもてなしするものまた同じ仕組みであろうと私は思います。生物非生物に関わらず、みんなで一緒に誰かをおもてなすというのは、そこに自然の美があるように思います。

炭の実践の中で、もっとも私が感じ入ったのはこの炭と御茶の関係に出会ったことでした。茶道で有名な千利休に利休七則というものがあります。これは弟子から「茶の湯の真髄は何ですか?」と問われ、問答がそのままその茶道の心得として遺ったものです。

利休は弟子にこう言いました。

「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」と。

弟子がそれくらいのことは私でも知っていますと答えると、もしもあなたがそれができるなら私はあなたの弟子になりましょうと応えたと言います。無念無想、かんながらも同じですがどの道もまた心のあるがままにあることが伝承されているかのようです。

千利休は、禅の心を一休禅師の弟子村田珠光の足跡を歩んだと言われます。その村田珠光には、その茶の道の「初心」が記されたやり取りの手紙が遺っていると言います。

「 此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也、こふしやにハちかつきて一言をもなけき、又初心の物をはいかにもそたつへき事也、此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんあるへき事也、又、当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、かるゝと云事ハよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也、又さハあれ共、一向かなハぬ人躰ハ、道具にハからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所肝要にて候、たゝかまんかしやうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」

何を初心と言っているか、古今の聖人の道を歩む人たちは同じ真心と実践を歩むように思います。そして心の師となり、心を師とせよといいます。自分の真心のままに歩むことこそ自然であり、その自然美をカタチに示したのがこの火と水の持つ芸術、そして生き方と暮らし方だったのかもしれません。自然の美しさを感じるのは、心が自然と一体になるからです。その心の美しさが響き合うことが、自然の美だということです。

子どものためにと必死に生きていく中で、志を支えてくれるこの炭と御茶、そして道具たち、自然のすべてに感謝しています。

 

 

人道の本質

二宮尊徳の遺訓には、私たち人間がどのようにすることでもっとも天道地理に沿うのかということが記されています。今のような物質が溢れ、飢饉飢餓などが遠ざかった世の中にはあまり二宮尊徳の偉業が弘がりませんが、本来は「心田の荒蕪を耕す」といった本質で観れば今の時代ほど二宮尊徳の教えが必要な時代に入っていると思うのです。

その尊徳翁遺訓に「水車のたとえ」というものがあります。

『「水車の回るは半ばは天道にして半ばは人道なり」。翁曰はく、それ人道は言ふれば、水車の如し、その形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中に入れば回らずして流れるべし、また水を離るれば回ることあるべからず。それ仏家にいはゆる知識のごとく、世を離れたるごとし、また凡俗の教義も聞かず義務も知らず、私欲一遍に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。ともに社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊ぶ。水車の中庸はよろしきほどに水車に入りて半分は水に順ひ半分は流水にさかのぼりて運転滞ほらざるにあり、人の道もそのごとく、天理に順ひて種を蒔き、天理に逆うて草を取り、欲に従ひて家業に励み欲を制して義務を思ふべきなり。』

これは意訳ですが、(天道と人道は水車のようである。その水車の半分は水に従い、半分は水に逆らう。水の中に入れば水車は回らず、水の外に出ても回らない。これは世の中と交わらない仏教徒のようなものでこれでは水中の水車と同じく役に立てない。だからこそ人道はバランスが大事である。人の道は自然に沿って自ら種を蒔き、そして自然に逆らってその周りの草を刈る、これは慾に従って幸福成功のために精進しつつ、同時に慾に逆らって世の中への理想や利他を盡して社會貢献していくのである。)と。

自然農を実践する中で、自然に沿う事と自然に逆らう事は常に向き合うことになります。天地自然の恩恵を受けて私たちは存在していますが、人間はその中で自然を破壊し自分たちの思い通りの世の中にしているとも言えます。

一方では自然を愛しつつ、一方では自然をコントロールしようとする。これが人間とも言えます。ここでの二宮尊徳の言う、天道と人道とは別に天道か人道かと言っているわけではないと私は思います。

まずは天道を素直に優先し、その上で人道を謙虚に行うことだと私は言っているように思うのです。この優先順位が違うならば、人間は慾に負け、慾を制することがなく、今の世界のように樹木や生き物たちは絶滅の一途を辿ります。

この水車のたとえというのは、結局は「人の道」とはどういうものかということをたとえています。人間は天道に従うことで循環し、そして中庸を実践することで人道に適うというのです。

この世の本当の意味での幸不幸はこの「人の道如何」に由ります。

二宮尊徳が言う、「報徳」の真心を今の時代に置き換えて「仕法」を仕組みに昇華してこれからも子どもたちのいる現場に種を蒔き続け、刷り込みの草を刈り続けたいと思います。

御縁の尊さ

一つの会社や組織を運営していく中で、そこで働く人たちの出会いと別れというものがあります。経営者をはじめ、そこで勤める社員も御互いに未熟者同士ですからその時々の状態では不本意なことも発生するかもしれません。

しかし人はそういう人と人との御縁を通じて成長していくものであり、どう在りたいか、どう生きたいかということに向き合うのもまたその節目節目の自己との正対に由ります。別れが尊いからこそまた出会いもまた尊いことに気づくのが人間のようにも思います。その御縁の御蔭様で、様々なことを学べ、その御蔭様で今が存在していますから何よりも大切なことは、「御縁があったということそのもの」に感謝することのように思います。

ただよく時間が経って省みて思うことは、その時は決して自分の思い通りにならないように思えても実際は自分の思った以上のことが発生していたということです。

以前、この宇宙は目に見える部分が5パーセントほどで残りの95パーセントが目には観えないもののチカラで動いているということを聞いたことがあります。それはダークマターといって、姿かたちのないものが支えるのです。あの星々や銀河に至るまで、その星々や銀河を支えるのはその目には観えないチカラによって支えられているというのです。

実際に人の御縁も同じようなもので、目に見えて発生した出来事は全体の数パーセントで実は残りの90パーセント以上はその御縁の周りが支えているように感じるのです。

その時々は、人は様々な感情を持ち、自分の価値観の世界でのみしか世界を見れず感じることもできませんがその御縁が一体これからどうなってゆくのかと未来に想いを馳せるとき、その御縁の周囲でどんな奇跡が同時に生まれるのかを希望するのです。

人と人が出会う事に意味がないことは一切なく、出会いと別れによってまた新たな道が顕れていきます。その道の全体を支えるものが御縁であり、その御縁に気づける人は目に見える数パーセントのことを何より一期一会に大切に接するように思うのです。

誰かにかける今日の真心の一言や、誰かからいただいた今日の親切は、実はその観えない部分の偉大な御蔭様によって已むことなく永遠に休むことなく行われているのかもしれません。

だからこそ御蔭様に感謝するように御縁を尊び、日々に発生する小さな出来事から全体を想像していけば自ずから御縁の有難さに気づき、御縁の良し悪しという自分の都合で見るのではなく、「御縁そのものが尊い」と感じられるようになるように思います。

常に御縁こそが尊いといつも実感できるように、御蔭様に生きる有り難い実践を積み重ねていきたいと思います。

 

 

実地実行を尊ぶ~中庸~

物事は文字では書けても実践実行することは簡単ではありません。どんなに文字を巧みに利用してさも真実を知っているように教えたとしても、それを活かせないのでは学んでいないのと同じだからです。

二宮尊徳は、文字を重んじず、実行を尊びました。それは実行しなければ何も変わらず、実践しなければ何も積み上がっていくことがないからです。

その二宮尊徳の夜話を弟子が書き取った話の中にこういう話が遺っています。

『ある儒学者が尊徳先生に言った。「孟子はやさしいが、中庸は難しい」と。尊徳先生はこうおっしゃった。「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸はやさしい。なぜかといえば、孟子の時代には、道は行われず、異端の説が盛んであった。だからその弁明をするため、道を開いたのだ。
したがって仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。君らが孟子をやさしいといって孟子を好むのは、自分の心に合うためである。君らが学問する心は、仁義を行おうために学んでいるのではない、道を実践するために修行しているのではない。ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。議論が達者で、人を言いまかせさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。聖人の道というものが、どうしてそのようなものであろうか。聖人の道は仁を勤めることにある。五倫五常を行うにある。どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。人を言いまかすことをもって勤めとしようか。孟子はすなわちこれである。このようなことを聖人の道とする時ははなはだ難道である。容易に実行しがたい。だから孟子は難しいというのだ。』

学問のための学問ではなく、実地実行の学問の方が易しいと言います。孟子は、言葉によって人の道を正した故に難しく、本来の聖人の道は解釈云々よりも難しい道なのだと言います。そして続けてこう話します。

『中庸は通常平易の道であって、 一歩より二歩、三歩と行くように、近きより遠きに及んで、低いとことから高いところに登り、小より大に至る道であって、誠に行いやすい。たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。愚夫愚婦にもできない事はない。この道を行えば、学ばないでも、仁であり、義である。忠であり、孝である。神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。いたって行いやすい道である。だから中庸というのだ。私が人に教えるに、私の道は分限を守るをもって本となし、分内を譲るをもって仁となすと教えている。なんと中庸であって行いやすい道ではないか。』

それに対して中庸は誰でも実地実行できる道を説いているといいます。自ら分度を定めて、分度内を守りそして分度外を譲ることが思いやりだと話せばいい。それを実行すれば学問のために学問をしなくても、そこに思いやりや真心、忠義や孝行がある。それが聖人たちが実践した道であり、誰にでもすぐに取り組むことが出来るものだから中庸は易しい道であると言います。

実地実行しないで深めていく学問と、実際に実地実行することで道になる学問。本来の学問は、道のために存在するものであり、学問のために存在するものではありません。二宮尊徳はこう喝破します。

「学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。」と。

巷ではリーダー論など、自分が実地実行しないのに研修会などでは学者や立場のある人たちが勉強不足だと非難したりします。しかし、自分が実地実行していないのでは道は善く拓けていくことはなく、結局はそのリーダー論も活かせないものをただ教えていることになっているかもしれません。

もちろんそれぞれに役割があり、現場で実行する人があってその教えを広める人があっていいと思いますが、その役割を全部学識だけでやろうとするのは本末転倒のように私は思います。もっと現場の実践者と協力をし、御互いが何を実地実行していくことが本来の道になるのかを協力していくことが本質的なリーダーを育成していくようにも思います。

世の中の役に立つ学問、そして道を弘めるために私も知識学識の慢心を戒め、実地実行を強めて一つ一つ丹精を籠めて精進していきたいと思います。

天の尊爵

昨日、コメントに「矢人豈函人より不仁ならんやと」ありました。これは孟子が矢を造ろうが鎧を造ろうがそれが実際の真心とは関係がないといい、その他、巫女と大工も同じであると言っている一文です。しかしこれを解釈する人は、ひょっとすると自分の仕事は選ばなければならないと思い違いをする人がいますが本来は真心はどんな仕事をしていても発揮されるものです。このたとえ話は、「道」の話をしているからです。

よく職業によって、自分は良い人か悪い人かと思い込む人がいます。職業差別などもそうですが、どの仕事であってもその人の真心が自然で無我であり、天の命に従い純粋であるのならそれは尊いことです。こういう尊いものをいただけることを「天の尊爵」とも言います。

孟子に「夫れ仁は天の尊爵なり。人の安宅(あんたく)なり。之れを禦(とど)むることなくして不仁なるは、是れふち不智なり。(公孫丑上七章)」があります。

意訳ですが、(真心は天が与えた尊い位である。これは徳を実践する人に与えられる安らかな身の置き場である。そうならずに真心があちこちと落ち着かないのは徳を実践しないからでありそれでは智者とは言わないのである。)と言います。

この「天の尊爵」について吉田松陰が孟子の講釈、講孟箚記の中で講義をしています。

「何をか『尊爵』と云う。人、本心を存し、人道に於いて失う所無ければ、仮令一時に屈抑せらるるとも、万世に発揚すべし。俗輩に凌侮せらるるとも、道を知る者には尊崇せらるべし。道を知る者の尊崇は万世に発揚するに足る。固より俗輩の凌侮、一時の屈抑の比すべきならんや。」と言います。

意訳ですが(一体何を尊爵というのか、人は人としての本質を失わず人道に間違わなければたとえその志が何かによって抑えられることがあったとしてもそれは永遠に伝道されていくものです。もしも俗世の大衆に侮られ辱しめられても必ず道を実践する人物たちには尊敬されるはずである。道を実践する人物から尊敬されるのなら、永遠に伝道することには十分である。別に一時的に俗世の大衆に邪魔されても別に一時的なものにしかならならず、決して問題にもならないことなのである。)と言います。

本来、職業というものは伝道について付属するものであり、職業に入るから道に入るのではなく、道を実践するからこそ職業が尊くなるのです。自分が実践せずに、職業だけを転職すれば道の実践者になったのではありません。そんなものは職を失えばあっという間に志も失ってしまいます。本来、自ら道を実践することでそこで徳が自然に顕れ、その徳を高め、徳に報いることで真心は次第に引き立たされてその地位を得るということです。

そもそも「尊爵」は、「尊い位」の意味ですがこの「位」という字は「人が立てる」と書きます。徳が高く実践する人は、周りがその人を立てていきます。尊爵というのは、天の道理に従い、天命に応じて、無我無心、無想無念に一心不乱に真心を実践する中で得られるその人に天が与えた天命のことです。

それは矢を造ろうが、鎧を造ろうが、巫女であろうが、大工であろうが本来は関係がなく、道を実践するものであれば、自ら省みて仁を盡していくのでしょう。

だからこそ吉田松陰はこう言いました。

『自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん』と。

(自分で自分の言動を顧みて天に恥ずかしくないのなら、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも、私は全うするのだ)と。

その大義を貫く真心こそが孟子が言う、「矢人豈函人より・・」の一文の本質であろうと私は思います。

そして孔子は「内に省みて疾しからざれば、其れ何を憂え何を懼れん。」と言いました。結局は、自分の身の置き場に安心するのではなく、自分の心に疚しい気持ちが一点の曇りもないくらい内省することによってはじめて心の安宅は得られるといっているように思います。何をもって安心するかは真心の実践によります。

自分が良い人か悪い人かを自ら裁く前に、自分の真心は本当に天意に従っているか、天命に沿っているかと深く自反慎独していたいと思います。今日の実践を、また真心を盡して執り行わせていただきたいと思います。

 

 

元気になること~有り難しの直受~

かつて岡山に黒住宗忠という人物がいました。この方は、1780年の冬至の日に生まれ、代々神職の家系で育った方です。小さな頃から大変な親孝行で信心深く、20歳の時には「心に悪いことと知りながら行うことがなければ神になる」と念じて、悪しきことを思う事も行わずということを誓ったそうです。

その後、父母が流行り病で7日間の間に次々と亡くなり親孝行だった宗忠は酷く落ち込み自らも肺結核の病を得て臥せってしまいました。いよいよ医師も見放したとき「自分は父母の死を悲しんで陰気になったために大病になった。だから心さえ陽気になれば病気は治るはずだ。せめて生きている間そのように心を養うのが親孝行だ」と気づきを得て奇跡的に回復していきました。そして1814年3月19日に入浴し体を清めてお日様を拝みたいといい入浴の後、縁側に這うように出てお日様を拝みそれをきっかけに年来の病気は全快したと言います。

ここで天命直受され、「有り難し」という天照大御神の真言を得ます。この世のすべては、この「有り難し」を感得するかどうかによる。その真心を「限りなき天照神とわが心 へだてなければ生き通しなり」と詠みます。つまり自分の中の陽気が満ちないのは「有り難し」という一念が天と通じ合わないからであり、病が回復しないのは陰気によってその御心一体になっていないからであるとしました。

「いつも申し上げているとおり、道というものはまことに単純なもので、ただ私の智恵を離れて有難きのみに日を送られるならば、年もよらず、疲れもせず、うれしい面白いのみです。何事もうれしいうれしいと世を渡られれば、うれしいことばかり自然と来るものです」といいます。そしてこう詠みます。「有り難き また面白き 嬉しきと みきを供うぞ 誠成りけれ」と。

日々に如何に「嬉しい愉しい倖せ」と念じるかは、天照大御神の恩徳を感じて感謝の念を忘れていないことに由ります。太陽の真心に通じ合うことは、まるで歌をうたい踊りたくなるような心境であったと言います。純粋に御日様の光を浴びて「有り難い、有り難い」と自然に戯れて活き活きと遊ぶ自然界の生き物たちのようにその陽気を肌で感じ取った宗忠の様子がありありと浮かびます。

その後、宗忠は自分と同じように病で苦しんだ人たちのためにとそこから残りの人生は自分の体験を弘め教え、そして同様に病を得ている人たちのために尽力していきます。

その時のいくつかの逸話には病を恢復した人たちのことが沢山遺っています。

『岡山藩のさる高禄の世臣(せしん)がらい病(ハンセン氏病)にかかり、世間の噂に黒住先生のところでは難病・業病も立ちどころになおるときき、早速宗忠を訪ねて病状を述べ、どうしたら御蔭をこうむることができましょうか、とたずねた。宗忠から、『ただ一心に有り難いということを100遍くらいお唱えなされよ』との答を得たので、それに従って、1週間ほど、毎日自宅の神前で『有り難い有り難い』と唱えた。しかし、一向にしるしがない。また宗忠のもとに出向いてたずねると『一心不乱に1,000遍ずつ』との答。また1週間経ったがしるしがないので、また行くと、今度は「10,000遍ずつ唱えよ。」との答だった。その通り無念無想に1週間、1万遍ずつ毎日唱えていると、7日目に発熱し血を吐いて、疲労の果てに倒れ、そのまま熟睡してしまった。そして翌朝起きてみると、らい病の萌芽の見えていた皮膚は、すっかりなおってきれいになっていた』(「黒住宗忠」原敬吾より)

以前、私も自然治癒を深める中で「100万回の有り難う」を言うと病は治るとお聴きしたことがありました。これも同じく、黒住宗忠の言う「何事も有り難いにて世に住めば むかふものごと有り難いなり」、「有り難やかかるめでたき世に出でて 楽しみくらす身こそ安けれ」の境地を得て病転じて福になるということではないかとも思います。100万回本気で言う人がどれほどいるか、しかしそこに御日様の元気と通じる妙法があるように思います。またこういう話もあります。

『ある門人が「心の底から有り難いという心がどうも起こらないのですが・・・」と相談すると、宗忠は、こう教えた。「たとえまねでも口先でもいいから、まず朝、目がさめると第一に『有り難い』と言いなさい。それからお日様を拝んで『有り難い』と礼拝し、見るもの聞くもの何につけても『有り難い有り難い有り難い』と言っていると、自然とお心が『有難く』なります』

私も、ここ18日間の病を得て一体何の意味があってこうなるのかを向き合っていたところ自分の中に昨年沖縄で出会い、年始の伊勢神宮での御縁、「ツキ」についてのことが繋がっていることにハッと気づかされました。元気がなくなり病が出るのは「ツイテイル」と想えていないほど感謝の心が自分の中で貧しくなってくるからです。

物事は豊富になり願いが成就し、心が満たされ過ぎることで感謝は慢心によって喪失していきます。もしくは得難い感謝を「有り難し」と思わない日々を送るほど、元気はなくなっていきます。日々に自分都合ではなく、天恩の自然の徳恵にどれほどの有り難いを感じているかが「元気」を引き出していくのに深く関わっていることに気づきます。

「有り難きことのみ思え
人はただ今日の尊き今の心の」

病極みにきて黒住宗忠との御縁があったのを、御日様の御心と感じてもう一度、原点回帰して精進していきたいと思いました。御蔭様の実践を、引き続き積み重ねていきたいと思います。

 

 

先祖の生き方~人道格具一体の境地~

先日から包丁研ぎを深めていますが、歴史を辿れば日本刀にそのルーツがあることに気づきます。世界でもっとも切れる日本刀が戦後に失われてから、だいぶ時が経ちました。

それまで当たり前であった研ぎの世界も失われ、そして鍛冶の世界も同時に失われていきました。西洋から、安価で丈夫な大量生産の刃物が輸入され日本の製鉄技術もかつての玉鋼のような材料も失われどうしても外国の刃物の方が丈夫で長持ち、そしてよく切れるというようになってしまったそうです。そしてそのうちお金儲けが第一になり、善いものを造ることの優先順位が下がりますますそれまでの日本の文化であった鍛冶や研ぎは失われていったと言います。

どの時代も買う人たちの心理がものづくりの人たちに影響を与え、ものづくりの人たちの心理が買う人たちの心理になっていくのは同じです。買う人たちが安価ですぐに買換えできるような便利なものを求めれば、ものづくりの人たちもその要請に応えてしまい安物で便利なものをつくります。またものづくりの人たちが金儲けに走れば、買う人たちもまたお金だけのモノサシでものを購入するようになります。世の中は、その時代の使い手、作り手の生き方が道具に顕れてくるのです。

以前、「刃物の見方」(岩崎航平著 慶友社)の中で、「日本刀は平安朝時代のものが最高で後の時代はそれに近づけようとしているだけである」という話を読んだことがあります。もしも昭和の名刀だと威張っても江戸時代だと三流くらいで平安朝時代なら十流か十一流位で刀鍛冶の数にも入らないといいます。そこにはこう書かれます。

「刀に関する科学だけは何も進歩していません。進歩しているのは電子計算機だの、ナイロンだの、ミサイルだの、原子爆弾であって、日本刀に関する科学は、進歩どころか時代が下がるに従って退歩して、今日が一番衰えているんです。だから今の人はもう少し頑張れば、もっと古いところまでは到達できるでしょう」

これは西岡常一さんの宮大工の世界でも同じ話を聴いたことがあります。法隆寺を建てた時代の大工は大変見事であったと、その上で使っている道具や釘もまた最高のものであったと、それに近づくために組み直して学び直していくのだと言います。

先人たちの智慧が如何に優れていたか、そして後人の私たちが進歩と勘違いしている現実をどう見るか。道具や智慧については先人に敵うものは何一つなく、技術が進んで少し似せることができてもそのものになることはありません。

日本刀においては、刀の原料の玉鋼の作り方が今と全く異なるといいます。平安朝時代の刀の原料の玉鋼がどうしても同じように作れないそうです。その時代、どこでその最高の砂鉄を採掘したのか、そしてどのように玉鋼を製造したかが全く分からないと言います。同じように最先端の科学をもって同じように復元しても決して同じにならない、ここに退歩があるということです。

私たちは知識をつけてはあらゆるものを見知ったかのように錯覚します。しかしその分、昔の人たちは非常に鋭敏な感覚と直感をもって物事の本質を観得ておりました。

そしてかつての時代は、売る人も買う人も、そこに深い洞察力や哲学があり、今の時代の価値観のように安価で便利なものを必要としませんでした。そこには崇高な精神や理念があったことは道具が語っています。

時代を超えて新たに暮らしの道具に触れる中で、古民具や骨董、その他の文化芸術の中に、私たちの先人たちみんなの生き方や理念が随所にちりばめられています。なぜ敵わないか、そこには生き方が敵わないのです。

私はその時代の人々の生き方が「かんながらの道」を歩み、その理念が自然への畏敬を忘れずその精神が心魂がブレずに盤石であったからこそ、それらの至高の道具を産み出し扱うことができたのではないかと思います。

人格を道具が超えることもなく、道具を人格が超えることもないのです。自他一体のように、人道格具は一体であるということです。

もう一度、先祖たちが遺してきた偉業を省みつつ、この時代をどのようにしていけばいいいのかを考え直したいと思います。後輩に後人に笑われないないような生き方を譲っていきたいと願います。

子ども達のためにも真摯に学び直していきたいと思います。

美味しい切れ味

もともと日本では包丁という言葉を料理とし、料理する人を包丁人と呼ばれてきた記述が鎌倉時代の記述に遺っているそうです。これらの料理の定義は「切る」という文化であり、この「切る」という技法が、日本料理の原点であり、生ものをはじめ、新鮮なものを新鮮なままに料理する感覚の世界を大切にしてきたとも言えます。

日本料理で割烹とありますが、これは「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」であり材料を切り割いてそのまま食べる生ものが主で、煮たり焼いたりするといった火を使う料理は従であるという考え方のことです。

それだけ「切る」という技法は、日本料理の代表的な文化です。そしてその「切る」ということを可能にしたのが日本刀であり、和包丁なのです。これは世界でみても、とても珍しい調理法で日本には新鮮な山の幸海の幸が豊富にあり、その「いのち」を傷つけないように壊さないようにとそのまま料理することに重きを置きました。

物のいのちを観るだけではなく、すべての生きとし生けるものたちのいのちを大切にしてきた日本人だからこそ、ただ食べるではなく、神事として食べるということを行うからこそいのちを尊んできたように思います。

今の時代は、腹を満たせればいい、慾で食べられればいいと、飽食の時代ですから食べ物も粗末にされ、あまりそれらの料理に「切る」ということの美味しさを実感する機会も少なくなってきましたが、昔の人たちは実家のよく研ぎ澄まされた和包丁を用いることで「美味しい切れ味」を知っていたように思います。

切れ味次第で、美味しくもなればまずくもなるという感覚世界を知っていたということでしょう。今は切れ味といっても、通じない世の中になりましたが本来の切れ味が分かるからこそ物の尊さ、味の美しさを知るのでしょう。

料理を今までもたくさんしてきましたが、この「切る」ということが料理であるという定義ははじめて知ることができました。日本人の料理に対するこだわりが、一体何と通じているのか。改めて、先祖たちの産み出した道具のすべては一つの理念から出来上がっていることに気づきました。

子どもに遺していきたい道具、子どもに譲っていきたい道具とは何か、これから道具を発明するときの大切な姿勢を学び直していきたいと思います。

感覚の世界~研ぎの志~

昨日、三重県松阪にある月山義高刃物店にて藤原将志三代目から研ぎについての講習を受ける御縁をいただきました。昨年から「磨く」ことをテーマに、深めていると鐵に出会い、鐵から砂鉄に出会い、砂鉄から砥石に出会い、そして研磨に辿りつきました。

研磨という世界は感覚の世界であり、この感覚の世界をどれだけ大切にするかに由ります。日頃から切れ味知り、観る目を凝らしてミクロの世界を感じることやマクロの世界を味わうことは、自分自身の感覚を研ぎ澄ませていくものです。

今回の体験でもかつて日本人たちが如何に鋭敏な感覚を日頃から持っていたかというのを実感しました。これらの日本の技術が廃れていくのは本当に辛い思いがしますが、次世代、もしくはさらに先の世代が必要としたときその技術がこの世になかったではあまりにも悲惨なことになります。

だからこそ今を生きる私たちは、ちゃんと子ども達や次世代のことを考えた志業を行う必要があるのです。今回の研ぎでもまた、その文化の一端に触れる機会になり、これら実践していく上で何よりも大切な志をいただいたような気がします。

物はモノではなく、志があります。誰がどんな思いをもってそれを造り、誰がどんな祈りをもってそれをつなぐか。つまり物はその誰がが語るから、物語なのです。たたら製鐵を遺し鍛冶をする刀匠、そしてミクロの世界を科学し研ぎの真髄を語り続け研鑽を続ける研ぎ師、そのお二人の姿から大切なことを学び直した気がします。

研ぎについては、「切れ味」という世界があることを知りました。

つまりは、物は切れ味次第で実際の素材の味も変わり、持ち時間も変わってくるということです。この切れ味が分かってくることが、何よりも最初の感覚の世界であり、これが観えるか観えないかが最初のコツのように思いました。

切れ味とは辞書に由れば、「刃物の切れ具合、才能・技能の鋭さ」とあります。他には「切れ味が良すぎる」や「切れ味が冴えた」という言葉もあります。そして私自身も切れ味については学んでいる途上で、如何に本質にシンプルに辿りつくかを思う時、そしてそれが最も正確無比で余計な言葉がそぎ落とされたとき、切れ味を思います。

切れ味については最後に印象深いことを仰っていました。

「善い研ぎ師であればあるほど、研ぎすぎることがない。」

だからこそ天然砥石を用いるそうです。これは自然の世界と同じであり、天然であればあるほど我が抜けているということです。天然の持つ砥石に磨かれるというのは、その調整力を身に着けるということではないかと直感しました。

早速実践をはじめ、境地を得てみたいと思います。