日本には古来から山岳信仰というものがありました。山を畏敬し、山から学び、山と生き、山に棲むのです。今での古神道では、その太古からの信仰を伝承しているところが多いと言います。
私も物心ついた時から地元の霊山によく登山し、知らず知らずに沢山の恩恵を受けてきました。齢を経てからさらにいくつかの御縁の深い山との出会いがあり、あらゆる面で助けていただいているように思います。
この御山というものは、民俗学の伝承で柳田国男は農民の間に日本古来の信仰があったといいます。春になると「山の神」が里へ降りてきて、「田の神」となって稲の生育を守護し、稲の収穫が終わる秋になると再び山に帰って「山の神」となる、という信仰です。これは祖霊とか穀霊、水や木の精霊といったもので、古神道の原形でそこには身近な動物が、神になぞらえられたり、神のお使いとされました。「山の神」なら猿、狼、猪、大蛇、熊などがまた狐は冬から春にかけて山から降りてくるため稲荷神として信仰されています。
御山を信じ、その御山に棲むものを神様の依代であると崇拝し御山の持つ清々しさや畏敬、その他を感じ取っていたということかもしれません。そして山々にも個性があるように思います。私の人生でよく接している山々、富士山、高野山、三輪山、英彦山、鞍馬山、大山、どれも同じような山とは感じません。
不思議なことですが、私たちの先祖に山岳信仰が山の気というものがありその山々の持つ神聖なものを感じているように思います。そしてその御山を産土として祀り、奥の院は山頂、もしくはもっとも深い場所へ、麓には神社を設けました。その御山との御縁を結び、御山を中心に暮らしを行った形跡があるのは間違いありません。
毎年、御山に来ると荘厳な気持ちになり、様々なインスピレーションがあるのはその御山との御縁を感じるからかもしれません。御山に入り、御山の霊気に触れるということが元気を確認することになり、その元気によってまた山を下りて平野で活動していくのです。そう考えると御山と縁結び、山に棲み山から降りて山に帰ってくる。水の流れとともに沢になり川になり海になり雲になり雨になって戻って来る。水の流れと同じであることを感じます。そして水が最も澄んでいるのは山から湧き出してくる水です。この水のおいしさをいのちは知っています。
西行法師が伊勢神宮を参拝した際、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」という詩を詠みました。
御山にはいつも助けられており、同じように有難い存在に「かたじけなく」感じるものです。今年の年頭祈祷でも御山に触れる機会を得て、御山の存在に学び直しができることを有難く感じています。
先祖の真心に触れ、先祖の真心に近づいていきたいと思います。