先祖の真心

日本には古来から山岳信仰というものがありました。山を畏敬し、山から学び、山と生き、山に棲むのです。今での古神道では、その太古からの信仰を伝承しているところが多いと言います。

私も物心ついた時から地元の霊山によく登山し、知らず知らずに沢山の恩恵を受けてきました。齢を経てからさらにいくつかの御縁の深い山との出会いがあり、あらゆる面で助けていただいているように思います。

この御山というものは、民俗学の伝承で柳田国男は農民の間に日本古来の信仰があったといいます。春になると「山の神」が里へ降りてきて、「田の神」となって稲の生育を守護し、稲の収穫が終わる秋になると再び山に帰って「山の神」となる、という信仰です。これは祖霊とか穀霊、水や木の精霊といったもので、古神道の原形でそこには身近な動物が、神になぞらえられたり、神のお使いとされました。「山の神」なら猿、狼、猪、大蛇、熊などがまた狐は冬から春にかけて山から降りてくるため稲荷神として信仰されています。

御山を信じ、その御山に棲むものを神様の依代であると崇拝し御山の持つ清々しさや畏敬、その他を感じ取っていたということかもしれません。そして山々にも個性があるように思います。私の人生でよく接している山々、富士山、高野山、三輪山、英彦山、鞍馬山、大山、どれも同じような山とは感じません。

不思議なことですが、私たちの先祖に山岳信仰が山の気というものがありその山々の持つ神聖なものを感じているように思います。そしてその御山を産土として祀り、奥の院は山頂、もしくはもっとも深い場所へ、麓には神社を設けました。その御山との御縁を結び、御山を中心に暮らしを行った形跡があるのは間違いありません。

毎年、御山に来ると荘厳な気持ちになり、様々なインスピレーションがあるのはその御山との御縁を感じるからかもしれません。御山に入り、御山の霊気に触れるということが元気を確認することになり、その元気によってまた山を下りて平野で活動していくのです。そう考えると御山と縁結び、山に棲み山から降りて山に帰ってくる。水の流れとともに沢になり川になり海になり雲になり雨になって戻って来る。水の流れと同じであることを感じます。そして水が最も澄んでいるのは山から湧き出してくる水です。この水のおいしさをいのちは知っています。

西行法師が伊勢神宮を参拝した際、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」という詩を詠みました。

御山にはいつも助けられており、同じように有難い存在に「かたじけなく」感じるものです。今年の年頭祈祷でも御山に触れる機会を得て、御山の存在に学び直しができることを有難く感じています。

先祖の真心に触れ、先祖の真心に近づいていきたいと思います。

 

心身一如~心の観ている世界に近づく~

物事という出来事には光と影があるように、それぞれに別の側面を持っています。例えば、嬉しいことがあればその陰には悲しいことも同時に増えていくとも言われます。勝負の世界なども、勝ち負けがある以上、どちらかが笑いどちらかが泣くというように側面が発生します。

人生も同じようにこの側面はどんな出来事にとっても発生しているとも言えるのです。人生の意味を深めていると、この側面について考えることで人生の妙味を感じることができるようになります。

一見、それは禍に見えているようなものが実はそれが福になったり、一見、失敗に見えたその出来事がその後の人生の大成功につながったりと、目先の自分の小さな視野では理解できないこともその意味を深める力があれば別の側面から冷静に観察することができるようになるということです。

人間は自分の執着を持ち、その執着ゆえに一つの側面にしがみ付きたくなるのかもしれません。そんな時、どうその側面以外の側面を見出し、丸ごと受け止め受け容れて「見方を転じるか」、言い換えれば違う側面を見出すことができるかがその人の心の能力ではないかと思います。

以前、小林正観さんの著書で「見方道」についての内容を拝読したことがあります。小林正観さんは、自分を見方道の家元になりたいと修行を積まれたそうです。「見方を変えればすべては味方になる」というような具合です。具体的には、あらゆるものの見方を「うれしい・たのしい・しあわせ、感謝の心」で観直そうという技法です。

これは先ほどの側面をどう悲観を楽観にするか、それだけではなく全てを必然と転じるときの心の技法のひとつのようにも思います。人生は決して良いことだけではなく悪いこともある、しかしその見方を転じ切ることができるならそれは全て至善になることだということでしょうね。

これらの側面というのは、全体で循環しているものとも言えます。雨が降って嫌な思いをする生き物もいれば、それで救われる生き物もいる。自分にとって都合が悪くても、周りにとっては都合がいいこともある。全体にとっては善いことになっているという見方もあるように私は思うのです。

もしも地球全体で他力が働いている時、善いことにしてくださるのなら諦めてみようと思うものです。もしくは、きっと地球や循環が元にしてくれるのだから安心して委ねてみようという心境のことです。

畢竟、人生は天命があり運命に従い天寿を全うするものです。どうなるか分からなくても、委ねていけばどうにかしてくださるものです。思い通りにいかなくても、その側面では思ってもいないような偉大なことを成し遂げていたり、思ってもいないような幸運や恩恵をいただいているものなのです。

そういう側面を見る力がついてはじめて心の技法を身に付けれているといってもいいのかもしれません。心神一如というか、絶対安心絶対積極の元気のチカラは無我の中にあるように思えてなりません。

日々は自分で見ていること以上のことが本当に沢山発生しています。

見方を大きくすることや、見方を沢山持つことや、見方を換えてみることはすべて心が観ている世界に近づくコツのように私は思います。生き方上手というのは、別に世渡りが上手いことをいうのではなくこの見方が上手な人を言うのでしょう。

子ども達のためにも、どんなことが起きてもそれを全て至善に転じて歩んでいけるような大人のモデルを目指していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

 

身体の声

体調を崩して数日経ってみると色々と身体の声がはっきり聴こえはじめてきます。人間はつい当たり前に存在するものについてのことはまるで自分のものの一部にもなったかのように感謝を忘れて大切にしなくなりますが、何かあったり失ってみたりするとその有難さや大切さに気づくように思います。

聴くというのは、まず自分自身の身体の声を聴き、そののち心の声を聴けるようになることが肝要で最初から発する声に耳を傾けようとはしないその姿勢にこそ問題があるように思います。

養生法の一つに、石塚左玄の「食養」というものがあります。これは「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとし人の心を清浄にするには血液を清浄に、そして血液を清浄にするには食物を清浄にすることであるとも言いました。

日頃どんな食生活をしているか、そのものが何よりも養生法において重要であるといいうことです。その日頃の食生活が乱れ、バランスを崩すような生活を続けていていざ体調を崩して民間療法をやったとしてもそれでは手遅れなことがほとんどです。

なぜなら民間療法はそもそも自然に沿った生き方をしている人たちが病気の時に取り組んだ治癒法であり、今の時代のように農薬や合成添加物、スピードや効率で栄養過多になって偏った食生活の人たちが今更やってもすぐに効果が出ることは考えにくいからです。

民間療法をやるのなら、そもそもの日頃の食生活や生き方そのものから改善しなければその民間療法も活きてこないということです。如何に今の時代の食が乱れているか、昨今の世の中を見渡せば観えてくるものです。

対処療法というものは、どうしようもなくなった問題を「これよりもマシ」という比較の中で行われていきます。本来の問題とは向き合わず受け止めず、そこを只管避けて通ろうとする、変わらないのは自分自身なのが対処療法です。しかし根源治癒の方は、これよりもマシという欲望を断ち切ったのち、日頃から丁寧に生き方の方から変えていくものです。自分が間違っていることに気づいたらすぐに変わる、それが根源治癒です。

治癒というのは、自然に直るということです。

自然に直るには、そもそも人間は何が自然だったかというものを深める必要がります。その時、石塚左玄はこういうことも言っています。「人類穀物動物論」「一物全体」「身土不二」「陰陽調和」など、本来人類がどういう食べ方をしてきたかをとことん突き詰めているのです。何をもって自然かといえば、そのはじまりを知ることです。

そしてこの石塚左玄には、「食養道歌」というものがあります。二宮尊徳にも道歌がありますが、その道を深めた人たちの言葉は心に沁みます。

「臼歯持つ人は粒食う動物よ。肉や野菜は心して食え」
「円心ある穀類多く食ひなば、智仁勇義の道に富むなり」
「動かずば動かぬものをおもに食い、動き動かば動くもの食え」
「海国の魚と塩とに富む土地は、山や畑に生ふるもの食え」
「大陸の麦と薯とに育つ人。勤めて食えよ肉や卵を」
「塩風の温味ありける火の本を、さます薬は野菜なりけり」
「遠海の北と雪との水国は寒さ凌ぎに肉を食うべし」
「潮風の吹き入る土地は身の為に食ふて欲しい豆と野菜を」
「山里は塩の漬物食うが好し、肉と魚との代用するなり」
「牛と魚鳥や玉子とかはれども海鹽と同じものとこそ知れ」
「魚や塩得るによしなき山里は、鳥獣の肉を食うべし」
「塩風に吹かるる土地の人々は、夏気となるや殊に菜食え」
「飯食うて、程よく肉を嗜まば、身も壮健で智も才もあり」
「肴屋はさかなのように動けども、八百屋の如く静かではなし」
「春苦味、夏は酢の物、秋辛味、冬は脂肪と合点して食え」
「献立は海の品なら山のもの。臭い物には野菜合わせよ」

これれは、すべてほどほど、中庸であることが説かれているように思います。足るを知り、ほどほどの善さを自覚するものは健やかなりということでしょう。今の時代、誘惑ばかりがありますから己に打ち克つにはやはり自分自身との対話を静かに行っていくしかないのではないかと今回の病を得て実感しました。

「あらゆる静寂に耳を凝らし、深淵から届く声に耳を傾け、その澄んだ音を聴け」(藍杜静海)

今年も最初から転じる出来事ばかりが続いていますが、学び直しがはじまっていることに感謝し、体験させていただけることの御蔭様に恩返しをしていきたいと思います。

 

民間療法の本質

今回、民間療法を試していく中で一つの発見がありました。この民間療法は日頃取り組んでいる自然農と同じで、もともと備わっている自然治癒を援助し支えるやり方で行われていたということです。

現在の西洋の薬は確かに緊急時には必要ですが、病原体にだけに対してだけではなく同時に身体にも影響を加えてしまいます。副作用があるということは、病原体を攻撃するために多少の犠牲をはらっても手段を選ばずに薬で殲滅させようという考え方です。

それに対して古来から伝わる先祖たちが伝承してきた民間療法は、もともと身体には自然治癒が備わっているためそれをどう発揮できるように手伝うか、また援護するかという観点で薬を用いています。そのため副作用はありません。

例えば、喉の痛みについては「はちみつ大根飴」や「緑茶のうがい」、「生姜茶」の療法を用いましたがこれは扁桃腺で自助免疫が外部からのウイルスや細菌の侵入を防ごうと攻防を繰り広げています。その時、はちみつが抗酸化作用で殺菌を助け、緑茶のカテキンが同じように殺菌をし、大根が炎症や痛みを和らげ、生姜が体温を中から暖め免疫が活動しやすくなるようにと援護します。

つまり古来の薬はすべてにおいて自然治癒を「援護」するものであり、病原体を倒すためのものではないということです。これは人間にはそもそも自然治癒が備わっていると信じられており、その自然治癒が働きやすいようにと配慮しながら暮らしてきたのです。

これは自然農も同じで、作物その物のもつ育つチカラを邪魔しません。どうしても外敵に負けそうな時だけ、援護します。するともともと持っている元気が出てきて、逆境を撥ね退けて負けそうな時よりもずっと強く逞しく活き活きと育っていきます。その生きるチカラ、その元気溌溂さを見るとき、実は逆境は善いものだと信じさせるものです。

人間の身体も同じくもともと持っている元気がでなくなったのは自分の自然治癒力を信じず、西洋の薬に頼りますます元気がなくなってしまっているように思います。これは薬だけに限った話ではありません。何でも目に見えて効果がありそうなものに飛びつき、本来の自分自身の中にあるものを信じようとしなくなっているようにも思います。自分の免疫で治すことは確かに信じるチカラが必要であり、治るかどうかが分からない状態で苦しみが続くのですから調子が悪いとより不安になるのは仕方がないことなのかもしれません。

しかし見方を転じてみれば病気になってしまった原因を見つめるよい機会でもあり、苦しみを受け止めてそれを民間療法を用いて恢復ができるのなら自然に身体は以前よりも益して元気が漲ってくるように思います。

最後に整理すると、自然に沿って治そうとするものが民間療法であり人工的に意図的に治そうとするものが現代医療といっていいかもしれません。先祖たちの伝承された民間療法を試していたら、先祖たちが如何に自然に寄り添った暮らしを永い期間ずっと行ってきたか、そしてそれが如何に優れて素晴らしかったものなのかを身体で感じます。

自然を征服することができても果たしてそれが幸せなのかどうかは疑問です。自然物の一つとしての人間なのは自明の理なのですから、自然物のチカラが自分に具わっていることを自覚することの方が信じるチカラを得て自然一体に安心できるように思います。

子ども達のためにも、自然農と同じく民間療法としてのものもできる限り掘り起し探し出し少しでも多くのものを伝承していけるよう生き方を遺していきたいと思います。

 

祈りの実践

先日、あうん健康庵にて有難い真心の籠った最幸のおもてなしをいただき私たちにも一生の思い出ができました。御縁は本当に有難く、「祈りの力」という小松先生の著書のタイトルに惹かれて知人からご紹介をいただいてから自然治癒ということの本質について深めることができています。

そもそも「いのり」というものをどのように定義するか、そこに祈りのチカラを自覚するかどうかの差異があるように思います。日々に「祈りの力」を実践するものこそが、その祈りによって世の中が働いていることを知る様に私は思います。

かつて「代表的日本人」を著し、世界に日本人の徳を弘めた内村鑑三が「聖書之研究」の中で「祈りの特権」という語録を遺しています。

『人は窮すれば人に頼む。人の援助を得て窮地を脱せんとする。そして人の援助の絶えし時に行詰りたりと云う。彼は、おのれに祈祷の特権あるを忘れるからである。何がなくとも祈る心はある。これさえあれば、われに万物ありである。』

私の意訳ですが、「人が困窮すれば誰かに助けを求めそれが尽きた時、行詰るといいます。しかしこの時、自分には祈りがあるという実践、その初心を忘れているからそうなるのです。どんなものが不足しても祈る実践はできないことはない、つまりこれさえあるのなら自分には万物が足りているのです。」

人は祈ることを忘れることで困窮していきます。言い換えれば祈らないから困窮するのです。この祈りというのはピンチこそ祈るのではなく、やはり日々に初心を祈ることのようにおもいます。この祈りの特権というのは、人が素直になり謙虚になる唯一の方法です。困窮して行詰るのは自己中心的で自利にばかりに心を奪われてしまうからとも言えます。もしも利他に生き、三方よしの全体のためにと人事を盡して天命を待つ生き方をしているのなら困窮ではなく天から与えていただいた試練だと感じるものです。

それは「試されごとは頼まれごと」という言葉もありますが、それだけ天が頼ってくださっていると感じる感じ方もあるのです。試練は「初志」を鍛錬し、「初心」をも研磨してくれますからその試練によって人は養分を得て養生し成長するとも言えます。

話を戻せば、祈りの力というものは日々に初心を忘れない実践を行ういます。それは理想を信じる中で魂を純粋にし、魂のままに遣りきっていくことに似ています。

世界には同じようにこの世に産まれてきて何かを直感し、生き方を変えて一隅を照らしともに世の中を明るく美しくしようと実践する方々が沢山います。そういう人たちと一緒に祈り続けるのなら、いつの日か必ず人類は目覚め安心の世の中を築いていくはずです時、大事なことは真心と思いやりを忘れずに一緒にいつまでも祈りの実践を行うことのように思いますそうすることでたとえ時代り変わっても伝承され継承され、その祈りは永遠になり無限の刻を歩み続けていきます。

「祈り」は人間に与えられた「至大至高の叡智」であるということです。

最後に内村鑑三はこう締めくくります。

『祈祷の哲理を解せずといえども、祈祷の実力を知る。われは弱き人である。されども祈祷の人である。ゆえに強くせられ、また人を強くすることができる。大なるかな、祈祷の特権。』

未来がどうなるかは、今の自分の祈りの実践によります。倦まず飽かず怠らず、精進を続けて子どもたちの未来のために祈りを積み重ねて研ぎ澄まし、祈りそのものに近づいていきたいと思います。

心が優先

今の時代は知識が豊富になり、何でも解決方法をインターネットをはじめ本を読んですぐに活用することができます。しかし同時に、優先順位が求められている時代に入ったとも言えます。

例えば料理をする際、食べたいものを考えてレシピを検索します。そしてレシピをみたすぐにその通りに料理をすればある程度はおいしいものはすぐにできてしまいます。つまり頭で考えた通りに頭で近づけていくことができるとも言えます。その際、注意する必要があるのは先に心を優先してから頭を使っているかということです。

ここでは頭と心という言い方をしますが、頭でいいなと思ったことをやるのではなく、まず先に真心や思いやりを優先しその後にその具体的な方法として頭を使うという意味です。今の時代は知識が豊富になり便利になることで心は使わず頭だけでやっていることが増えたとも言えます。

便利か非効率かではなく、心を優先しているかどうかということが大事なことなのです。

心を入れずに頭で生きていくことは確かに便利です。面倒であればあるほど心のチカラは生きてきますが、簡単便利であればあるほど頭は動いていきます。電気一つスイッチを入れればすぐに暖房がついて暖かくなるのと、薪や炭で火をおこし暖めていくのでは時間も労力もまったく異なります。しかし前者は心は使わなくてもすぐにできてしまいますが、後者はそこまでしてやりたいかというくらい時間も労力もかかり不便なものです。

頭で考えていてもコツは掴めませんが、心を優先して頭を使うことでコツは身に着いていきます。そうして心を遣って行動することを優先し、それを知識で深めていくことができるようになってくると自然との向き合いが上手になってきます。

先ほどの暖房一つでも、スイッチ一つで暖めるのか、手間暇かけても火をおこし暖めるのでは実践していることが異なります。自然を相手に日々に取り組むことは心を高めて五感を磨くことと同じです。

これからは機械がより高度に発展し、ロボットや人工知能が人間の代わりに働きはじめる時代ですからなおさら感性を磨き、人間にしかない直感を研ぎ澄まし、人間力を高めていく必要があります。それが心を優先するということです。

心を優先する訓練というものは、自然を相手に暮らしていくことです。発酵を学んだり、御米や野菜を自然に育て、生き物たちを慈しみながら一緒に生きていくことや、生活の中で必要な道具をかつての親祖からの伝承を学び直し受け継いでいくことも心を優先する実践になります。

もちろん情報化社会ですから頭脳を磨くことも大切なので、新しいものの価値もまた身に着ける必要がありますがそれは心が優先しての話です。心が優先しない技術や知識というものは本当に危険極まりないものです。それは自然を相手にする危険とは異なり、まるで欲の化け物を相手にするような危険が伴います。

人類はどう自分に打ち克つかというのは歴史の教訓の中で何度も気づかされます。栄枯盛衰、どんな文明も必ず滅びました。それは心が優先されなくなって滅んでいくのが分かります。真心や思いやり、仁とも言いますが時代が変わって技術がいくら進んでも大切な優先順位は間違わないぞというその時代その時代の人たちの信念が未来を決めているのでしょう。

子ども達のためにも、何を優先して生きていけばいいか、今の大人たちが変われば子どもが変わり、子どもが変われば未来もまた変わるのですから常に自分自身に矢印を向けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

ヒューマンスケール~手の届く範囲~

先日、ヒューマンスケールについての話を伺う機会がありました。これは辞書によれば「物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなど、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを尺度にして考えること。人間の感覚や動きに適合した、適切な空間の規模や物の大きさのこと。身体尺度。」(goo辞書より)とあります。

昔、鞍馬寺に伺ったときに貫主様から「手の届く範囲」という御話をお聴きしたことがありました。人は手間暇や手仕事、手元や身近な手の届く範囲で生きていくことが大切という話です。

つい人は青い鳥症候群のように、遠いところや未来の彼方に宝があるように錯覚しますが実は足元にこそ本来の宝があるという考え方を持つと見方が転じていくものです。

手間暇をかける幸せや、身近な暮らしを味わう倖せ、そして大切な人たちと一緒に生きる歓びや、分相応に謙虚に日々の仕事を丁寧に進めていくことの豊かさ、これらはすべて「手の届く範囲」で行われるものです。

人間は原子力をはじめ、遺伝子組み換え、サイボーグ等々、地球を破壊するような様々な科学技術を便利に我が物顔で使っていますがとても使いこなしているようではありません。目にはみえないところまで手を伸ばし、手が届かない範囲まで手を出そうとしています。もう自分では制御不能の技術の中で、心は着いてこなくなっています。

人は本来、循環の一部ですから「分相応」という生き方を選んできました。よく身に余る光栄だとか、恐れ多いとか、もったいないというように自分に相応しいものがどれだけのものなのかを自覚していました。

しかし今は、身の丈を超えて無理をし、虚飾をして派手な生活を繰り返しているともいえます。大量生産大量消費の中で、経済のみを優先していくと分不相応な暮らしは広がるばかりです。日常よりも非日常を求めては、お金を使うために体を壊してお金のために大事なものを捨てていく始末です。

二宮尊徳は「分度」といって、分相応を定めてその中で生きることを説きました。自然体の生き方というのは、自分の身の丈にあった生活を続けていくことのように思います。人間は欲ばかりを肥大化させていけば、その欲によってヒューマンスケールを簡単に超えていきます。そしてもはや人間の生活ではない暮らしを送り、本来の人間らしい自然な姿が分からなくなっていくものです。

日々に何を食べていたか、どんなリズムで生きていたか、何を大切にしてきたか、その全ての「はじまり」すら思い出せなくなるところにこのヒューマンスケールで生きない問題があるように思います。

手の届く範囲いうのは、欲張らないということです。言い換えれば、自然の御蔭様に気づき感謝で生きていくということかもしれません。それはすべて手が届く範囲で実感できるものだからです。

手間暇、手仕事、手の込んだものはどれも「美しい仕事」になります。

この手の届く範囲にこそ私は「美しさ」を感じます。つまり美しい仕事はすべて手仕事なのです。そして美しい生き方というのは、分相応に生きている人が持てるものなのかもしれません。そしてそれが自然体の本質であり、人間らしさの本質かもしれません。

子ども達のためにも、時代が変わっても日常の初心、その「手の届く範囲」や足元の宝を忘れないように精進していきたいと思います。

感性を磨く3

ここ数日で感性を磨くということを書いていますが、その感性は何を砥石に見立てて磨くかによって磨かれ方も異なります。先日、天然砥石をいただき来年から研ぎをはじめますが感性に通じる磨きがあります。

二宮尊徳に「天地の経文」があります。

「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」

二宮尊徳は書物や人から学ばず、常に自然の声を聴いて学んでいたことが分かります。日々に繰り返される天地自然の御姿をお手本に誠の道とは何かを自問自答することで学び直しを続けたとあります。

本来、感性とは自らに具わっているものです。なぜならそれは自分も自然の一部であり、自分も宇宙物と一体であるからです。人間だけを分別し、他のものと分けてしまうことの中に本当の問題が潜んでいるように思います。

人間というものは天地自然の一部にして、周りの全てのものと同化しているものという視点に立脚するのなら自ずから学びの対象は自分自身になるのです。本来、離れてはならないものと離れてさも分かった気になって自分の都合のよいものを師にして弟子にしてもそれは道理から離れていくものです。

創始の人々は、すべて自然から学び、自然の技術を道具にしてそれをもって能力を磨き感性を研ぎ澄ませてきたともいえます。創始の人々と同じものを見つめる心は、自分自身の感性を創始の人々に近づけていくことと同じです。

私たちの感性は知識によって磨かれるのではなく、自然によって磨かれるのです。その自然が知識で見ている自然であればそれは自然ではありません。空を見て空とし、雲をみて雲と理解し、太陽を見て太陽と理解し、月を見て月と理解する。こんなことでは本当の自然を理解することは絶対にありません。

そのものをそのままに感じる心が感性のことです。言い換えるなら、空は空と見ない、雲は雲と見ない、太陽は太陽と見ず、月も月と見ない。つまりはそのままの姿をそのままに受信し感応する心に耳を傾けて声を聴くのが感性です。

感受性を高める教育などと言われ、何を思ったか教科書を使い自然まで知識で教え込もうとしますがこんなものが果たして感性を磨くとは私には思えません。

感性を磨くには、感じる力を高めていくことです。それは耳を傾けることです、そして声を聴くことです。そういうことを素直にできるとき、人はその感性が磨かれ自然一体の素直で謙虚な姿に近づけるように思います。私が尊敬する空海も二宮尊徳も、また吉田松陰も、その他様々な先祖たちが実践してきた自然に学ぶ姿に今も心が融け合っていきます。

子ども達のためにも、何をお手本にして学び直していけばいいか、その刷り込みを取り払う環境を用意していきたいと思います。自然から学び直すことで、直感を養い、感性を高め、道理を学び、思いやりや真心を実践できる人に近づいていきたいと思います。

感性を磨く2

昨日、感性ことを書きましたが「直感」や「勘」はコツを掴んでいくという言い方もしましたが自然に触れ自然の智慧を会得することでその感性もまた磨かれていくように思います。

身近な自然物を使い、道具を一つ一つ拵えていくことは自分自身の中にある本能や感性を呼び覚まし研ぎ澄ますことになっていくものです。

先日、島根にて注連縄づくりの伝承に参加する機会がありました。稲藁を束ね、ねじり、巻き、そして結ぶことを取り組む中でチカラの入れ方を学びます。一つ一つの道具の中にはとてもシンプルですが何をすれば自然のチカラを活用できるのかをカラダを通して体験で直感して体得していけます。

これは五感を使って自然のチカラを活用し道具を創る中で身に着く智慧とも呼んでもいいのかもしれません。

かつて日本民藝館を設立した「柳宗悦」に「見て知りそ、知りてな見そ」という言葉があります。これは知ることを先にして見ることをあとにしてはならないという意味です。よく「考えるよりも感じろ」という言葉もあります。知識ばかりを先に掴み、そのあと智慧を掴もうとするのは無理なことです。

本来は智慧があってそれを知識で深彫っていくことが学問の楽しさであり、やってみて実践し行動してみて内省し反省し改善することが「コツ」を会得していく使命の活かし方のように思います。

今の時代は、知識ばかりが豊富で知っていることや分かった気になってはそれが安心だと勘違いしている人がいます。不安の解消と絶対安心とは異なるものであり、同じく信じる世界は知る世界とは異なるものです。人はなかなかそれまで身につけてきた知識を手放そうとはしないものですから、感じるチカラはますます減退していきます。

その柳宗悦の日本民藝館に「直感」の大切さについて語られている文章があるので紹介します。

「自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。」(日本民藝館HPより)

この刷り込みのない無我の境地のすがたは、透徹された素直さによって顕れるように思います。素直さというのは人間の能力でもあります。どれだけ素直に自分が物事を直感できるかは、日々の暮らしの中で感性を磨いていく脚下の精進に由ります。太古の昔から無駄の一切ない完全体の美しいものを直感する感性や、素晴らしいものを産み出す感性は、自然の美意識や自然の活用技術によって会得していくように思います。

感性を磨いていくことはもっとも大切な人間力を高める方法かもしれません。

かつての親祖たちが産み出し創ってきた道具の中に、日本人の中にある感性の原点、自然美を私は感じます。引き続き子ども達に日本の中に遺る自然美、そして日本人の心に宿る美意識を伝承してその魂を譲っていきたいと思います。

感性を磨く

人間には「感性」というものがあります。

この感性とは生きていく上でとても重要であり、その感性が時代の先を読み、周りの人々を倖せに導いたりします。つまりはリーダーの資質の中で何よりも大切な能力であるように思います。そしてその資質には、素直さや自然環境を通して学ぶという謙虚さがあるように思います。

最澄の言葉に「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」という言葉があります。自分をどのような環境に運ぶのか、リーダーは常にその感性を磨くための精進を欠かすことはありません。私が風土を探訪して山に学ぶのもまたその直感を研ぎ澄ませていきたいからです。

人は本来、環境から学ぶ生き物です。その環境からカラダで学び、「勘」や「直感」というものを会得していきます。それは知識ではなく智慧であり、経験や経年を積んだ中で磨かれた感性のことです。よく「直感」で物事を決めていく人は、頭が良いわけではなくその人は磨かれている感性を持っているということです。そして感性とは鈍るものですし、感性とは磨くものですから感性に対する精進を怠るなら当然「直感」もまた冴えなくなってきます。

そしてこの「直感」や「勘」というものは具体的な「失敗の質量に比例する」ように思います。つまり、体験をし失敗をし何度も何度も繰り返し改善する、その勇ましい挑戦と、七転び八起きの逞しい生き方によって次第に磨きがかかり研ぎ澄まされていくのです。感性を使ってるというのは言い換えるのならば「五感をフル動員」して自分も持つ全てを出し切り使っているということです。その集積で得た境地のことを「コツを掴んだ」とも言います。

つまり心を澄ましたり、魂を磨いたり、真心を盡したりという行為は全て感性が関わります。その感性は機械やロボットでは持ちえないチカラであり、人間が人間たる由縁でもあります。そういう感性を磨いていくことは、自然の一部である自分自身の本能を使っていくことでもあります。

今の時代はすぐに知識ばかりを優先し、直感や勘というものを少し見下げているような風潮があるように思います。しかし本来は、自然の中で生きている私たちに感性が磨かれていなければ実際に悠久の永い年月に生き残ることはできなかったように思います。

敢えて厳しい環境の中に身を投じたり、敢えて苦しい環境の中で手間暇を惜しまないのは、その環境の中で感性が研ぎ澄まされていくことを自覚するからです。失敗を恐れずに何度も何度も場数を踏むのが大切なのはこの「直感」や「勘」のコツを掴むために必要なのです。

子ども達が何度も何度も繰り返しやってみては泣き、やってみては笑うのは、これらの感性を磨いている証拠です。子どもから学び、子どものような学び方を思い出し学び直すのは全てその悠久の年月で得て来た智慧に回帰することのように私は思います。

子ども達と同じように一生感性を磨いていきたいと思います。