自物一体~勿体ない~

昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。

神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。

昨日はここで不思議な体験をしました。

巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。

物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。

私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。

つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。

物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。

まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。

また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。

有難うございました。

クニの真玉~光と初心~

かつてクニ造りのはじめに、「大国主」と「少彦名」の二人が私たちの繁栄の礎を築いたと古事記や日本書紀にはあります。大国主がクニをどのように治めていけばいいかを天に問い、海から光の玉と共に顕れたのが少彦名です。

この二人はまずこの国の理念を定めます。それは大国主の様々な物語がその生き方を示しています。因幡の白兎の話、その後の黄泉の国での素戔嗚との話、クニ造り、クニ譲りとどんな人物であったのかはその神話から想像で近づけます。

そして参謀でパートナーでもあった少彦名と共に、その徳の統治の手段を「医」と「農」によって行います。これは今の言葉に直せば、「医」は養生の在り方、そして「農」は暮らしの在り方を示します。

少彦名については、農業技術、のみならずあらゆる産業の祖とされその方法を伝授し国を富させました。この親祖はカミムスビの子であり「天津神」といって天照大神と同じく、天界の神様の一族です。その少彦名との出会いがなければ、大国主は国を繁栄させることはできませんでした。

古事記と日本書記にはこうあります。

「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」(古事記)

「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)

つまりは、全ての人々がこの少彦名と大国主の御蔭様で元気に幸せに暮らしていくことができていると示します。この二人がいなければ、私たちのクニははじまらず存在すらしなかったということです。それくらい重要な人物こそがこの少彦名です。そしてその少彦名は国の発展と共にいなくなります。少彦名がお役目を終えこの世を去ると、大国主が一人でどうしたらいいのかと途方にくれます。すると三輪山の大神山にて光の玉に再び出会い、少彦名に出会った時の「初心」を思い出し、下記のような天津神の太祝詞を唱えます。

「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸(さきわ)いたまえ」

ここに、何を祈っていけばいいのかをはっきりさせ、少彦名のいなくなった後もクニを治めていく覚悟を決めるのです。

出雲は今でも根のクニ(島根)と呼ばれます。私たちの暮らす島の根があり、その根とは心の故郷のことです。心の故郷に真心はいつまでも伝承され、いつまでも遺る神話や遺跡から先祖たちが私たちに譲ってくださったものが何かを感じるとることが出来ます。

時代が混迷期に入るとき、人は初心に帰る必要があります。今のクニにもっとも何が必要か、これからの未来の子ども達に私たちは何を譲り遺していくのか・・・。

もう一度、少彦名と大国主の実践したことを省み、私たちの故郷にある真心を学び直していく必要を感じます。光の玉によって気づくとありますが、この光の玉は真玉と言い、これは真心のことです。

光る真心とは徳のことであり、民を思いやり、その声を聴き、衆智を集めることによって全ての発展の理念としたということです。孔子が仁の政治を説きましたが、この神話を聴いたらなんといっただろうかとおもいを馳せます。

今の私たちの先祖には脈々とはぐぐまれた徳の血脈が遺っています。

根の心に触れて、また新たな心で御縁を深めていきたいと思います。

見方の転換~福の実践~

私たちは今自分が立っているところを中心に物事を観ようとするものです。

かつてニコラウス・コペルニクスという天文学者が地球を中心に宇宙はまわっているという説を覆し、太陽を中心にまわっていることを発表しました。これを哲学者のカントがコペルニクス的転回と呼び、物事の観方がまったく別のものになったことを言いました。

実際に、私たちの価値観もまた似たようなものがあります。人は自分を中心に物事を考えて自分を中心にまわっていると思い込むものです。しかし本来は、科学ではサムシンググレートと言ってもいいし、東洋では「天」と呼んでもいいのでしょうが自分以外の偉大な存在によって活かされていると感じれば物の見方は変わってきます。最近では、望遠鏡も発達しその太陽もまた銀河を中心にまわり、その銀河もまた大宇宙を中心にまわっていることが分かっています。

そこから自分を中心に物事は動ているものは実際にはこの世には一つもないということが分かります。これを循環とも言いますし、御縁とも言います。

生きていると自分の思っていたことは起きなくても自分の思っている以上のことに出会っていることに気づくことがあります。そして自分があたりまえに生きていると思っていたら実は本当に多くの御蔭様で活かされていることに気づくというものもあります。

これらも全てコペルニクス的転回であり、自分を中心にするのではなく偉大な何かを中心に据える謙虚な心があれば物事はまったく別の観え方になるのです。

以前、小林正観さんが「見方道の家元」を目指しているという御話をお聴きしたことがあります。物事の見方を転じて観れば実際は、まったく別のことに気づけるということです。

実際に自分の知っている知識にこだわり、常識と思い込んでいる自分の価値観の中から出ずに偏見ばかりを貯め込んでいくことが齢をとることだと勘違いする人が多いように思います。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と言います。

どれだけ偏見をもってしまっているかも本人は気づかないものでしょうが、実際は偏見を捨ててあるがままに物事を素直に観えたり、他人の話を謙虚に聴いて学び直しをする人は常識を超えた真実を持っていたりするものです。

常識に縛られるということは、偏見を持つということです。如何に常識を壊して本質を捉えるかは自分自身の見方を転換できるかどうかによります。そしてその転換は、「気づき」によって産まれます。

よく「知っている」方が偉いと思い込む人もいますが、実際には知っているというのは膨大な情報の一部を知っているだけのことです。もしも「知らなかった」と素直に言えるのなら膨大な情報があることを知っていることになるように思います。人に素直に「知らなかった、教えてください」と話を聴ける人は無限の見方を持つ人だとも言えます。

学問の本質は、常識に囚われないことのように私は思います。

偏見のコレクターからすれば偏見の塊が変人でしょうが、変人だからこそ常識に囚われない新しいことを産み出せるように思います。それぞれ人には役割がありますから、それぞれが地球や人類のために自分を最大限活かし切ることで新しい時代が切り拓かれ道が続いていくように思います。

日々は自分の偏見を捨てていく学び直しの日々、子ども達のためにも様々な見方をもってすべてを福に転じて味わっていきたいと思います。

初心のチカラ

人は「初心」という言葉を聴いても、実際は自分の初心に気づかない人がほとんどです。その初心は自分と向き合っていく中で出会うものであり、自分の心から思うことを実践し実行することで次第に自分の中に在る心に出会う機会があって再確認するものだからです。

実際に「初心」に出会うには、昨日書いたように「遣りきる」ことが必要です。遣りきったあとの余韻で心が満足したかどうか、心が充足したかどうかで自分の初心の実感を得ることが出来るからです。しかしその遣りきるというのも、計画通りに自分の思い通りに時間通りに終わることを遣りきることだと勘違いしている人がいます。実際は、自分の都合を排除し、効率を優先せず、不便でも時間と手間暇をかけて自分の信念や決心や覚悟を周りに流されずに実践したことを「遣りきる」というのです。

自分に軸足を置いた遣りきるは、それは遣りきるではないのはまだ外界の判断基準や世間の価値観の中の比較や分別知、相対的な世界において遣りきった気になった遣りきった風なだけで本来の遣り切りではありません。遣り切りとは、絶対的な世界において自分の決めた覚悟を信念をもって実践するということです。

社内には刷り込みカレンダーというものがありそこには「初心は実践の中にあり」と書かれています。これは実践しているときだけは、初心を遣りきっている最中であり、実践しない人は初心の在り処すら見失い忘れてしまっている状態だということです。初心を見失っている人はただ繰り返しているだけで実践にもなりません。心を籠めて実践するその一つ一つに信念の集積があり、それが実践の妙味だからです。

初心を思い出せていない人は、目的を忘れています。目的を忘れる人は、安易な目標に心を奪われていきます。目標ばかりを追いかけては目的を忘れてしまうでは、あまりにも人生がもったいないと思います。

初心は何か事があり向き合うことで思い出すことが出来ます。例えば、死にかけるときや大事なものを失う時、もしくは人生を左右するようなタイミング、あるいは自分価値観を揺さぶられるような体験の時です。その時、感じたものが初心であり、その初心をいつまでも忘れないように実践をすぐに開始し、その実践の最中にこそ自分の中にある本心を持続させていくことで自分の中の生きるチカラ=初心を持てるように思います。

この生きるチカラは、継続力のことです。継続がチカラなのは、そこには初心の持つチカラが働くからでしょう。初心のチカラを育てていくことは、一度しかない自分の人生を一期一会に遣りきる仕合わせ、御縁に活かされ、自他一体に生きる豊かさを自覚することにもなります。

子ども達が自分自身の人生を本質的に謳歌していくためにも、大人が子ども達のモデルになる生き方を遣りきっていくことだと思います。自分が何のために存在するのか、何のために生きるのか、何のために働くのか、常に自問自答を入り口に、かけがえのない実践を味わっていきたいと思います。

新しい自分~新たな役割~

人は新しい自分を刷新していくことで、自分らしさというものを発見し発掘していくように思います。新しい自分に出会えることは仕合せなことであり、それは自分自身がその時々で役割に気づき役割を生き切るということに出会えているということです。

人はなぜ新しい自分に出会えないのか、それは過去のままでいるからです。かつて自分が自分らしくいた自分のことを自分らしい自分だと思い込み、無意識に自分が役割を持っていた頃の自分に執着してしまうからです。自分が望んでいた自分になることは確かに幸福感を感じられますが、時処位が変われば役割もまた変化していくものです。

それではどうすれば自分らしさをずっと発掘できるかということです。

それは常にお役立ちできる自分に出会い続けることであろうと思います。新しい今の自分を肯定でき、新しい自分でいることに精進していくことだと思います。昔の自分のできることに終始するよりも、自分が周りにお役立ちできることを増やして高めていくことで今の自分が自分らしくいることに気づけます。

畢竟、自分らしさというものは自分の思い通りになることではなく周りの中で自分の役割を発揮できているということです。一つの目的に向かって、自分を遣りきって今を生き切り、必死で精進してくことで新しい自分に出会うこと、それが自分らしさの刷新だからです。

物事は全て必然だと信じられるかどうかがまず受け容れる第一歩であろうと思います。この世に意味のないものは存在せず、今の自分の運命が今起きているようになっているのはそこには確かな必然性が存在します。

こんなはずではないと否定から入る前に、全てを一度丸ごと受け容れて「これでいいのだ」とその中で、最善を盡そう、人事を盡そう、自分のできることで精いっぱいお役に立っていこうと心を定めて覚悟を決めればそこから新しい自分に刷新していけるように思います。

昔の自分よりも今の自分を好きになるには、今の自分が周りの御役に立つ努力や精進を以前の自分に負けないくらい実践していてはじめて好きになれるものです。自分を好きで居続ける努力とは、常に一生懸命の今の自分で役立てる全てを出し切ることです。

主体性も自立も、自分らしさに関係します。自分らしくいられるというのは、遣りきったか、出し切ったか、生き切ったかの確認です。日々は新しいことに満ちていますから、日々新たに日々新たな役割を実践していきたいと思います。

主体性の発揮2

昨日、主体性のことを書きましたがこの主体とは使われる人になるのではなく使う人になるということであり、単に生きている人ではなく活かす人になるということでもあります。

主体的な人が環境を使いこなすというのは、組織でいえば組織に使われる人間ではなく組織を使う人間であること、そして社會でいえば社會に生きている人になるのではなく、社會を活かす人になるということです。

人間というのは、御互いを尊重することで認め合い助け合うことができます。それが人間であることの原理原則であり、人間はお互いの役割を活かし合うことで仕合わせを感じて愉しい人生を送ります。言うことを単に聞けばいいといった受動的な存在でもなく、機械の歯車のような部品になることを望んでいる人間は本来はいないものです。

しかし実際は、業務や職務をこなすことを優先し仕事はしても本来何のためにやるのかという目的を忘れては日々に使われる人になって疲れている人がいるものです。目的を忘れない工夫ができる人はどんなことがあっても主体性を失いません。そしてその目的があるから自分の役割を果たそうと誰が見ていようがいまいが精進するものであるし、どんな時も心が着いてきますから遣り甲斐や生きがい、そして働きがいを持つことが出来るように思います。

人は初心を忘れることで使われる人になり、初心を忘れないで使う人になります。目的意識というものは、他人から管理されるものでは身に付きません。如何に自分を自分自身で管理するか、つまりは自分に打ち克ち自分の目先の欲望よりも理想を優先するチカラを持てるかということが肝要です。それは言い換えれば常に理念を優先する持続力、忍耐力、信念、志、克己心を腹に据えるということができるということです。

人は目先の目標ばかりを追っているうちに、本来の目的よりも目標が達成することがやる気になっていたりします。もちろんそれも大事ですが、その目標は本来は大切な目的が合ってそれを細分化することで観えてきた部分の一部でしかありません。大きな目的があることを忘れない人は、どんな些細なことであれそれが全体の目的に繋がっていることを自覚しますから心を籠めないことはありません。

目標は手を抜きサボり怠けることもできますが、目的はそうはいきません。もしくは目標をマジメにさえすればと無理をし続けることも目的に対して不真面目かもしれません。働き方と生き方の一致というのは、どこまで自分が目的に対して忠義を盡しているかということでもあります。

大義を持てる人というのは必ず遣り切りますからどんなことをしていてもその人生は意味を持ち楽しく充実したものになります。

この世界をどのようにしていきたいかは、自分の観えている世界観の変革に由るものです。ガンジーの遺訓に「自分が見たいと思う変革に、自分自身がなりなさい」「私たちの偉大さは、世界を作り替える力にあるのではなく、私たち自身を作り替える力にある」とあります。

自分を目的に合わせて変えていくことこそが主体性であり、主体性を発揮するというのは世界を変えている実感を持っているということです。自分の日々の実践が、どんなに小さなものであっても、大河の一滴であったとしても、それが必ずいつかは人間尊重の仕合わせに一役買うのだと信じて自らが様々なことを引き受けさせていただく気持ちで取り組む人には受身という言葉がなくなるものです。

引き受けること、させていただけるのは組織に忠実だからやるのではなく目的に忠実だからこそできることです。如何に目的そのものを見て、目的そのものになるのかが中心だということでしょう。

自分らしさとは人間らしさですから、子ども達の未来に常に人間らしくいられるように主体性を発揮する生き方を示していきたいと思います。

真似の真価

先日、GTリーダー研修の霊長類研究所の明和先生の講演で「真似」についての話をお聴きする機会がありました。チンパンジーや自らの子育てを通して胎児の時から幼児期にかけての発達やその智慧について科学的に実証されていました。

特に印象に残ったお話は「真似」の本質についてです。

人類は真似をすることで、様々なことを子々孫々へと伝承してきました。真似とはまさに自然の智慧の仕組みであり、その真似の仕組みを研究することは人類のもつ本来の目的を知るためのキッカケではないかと感じました。

一見、猿まねといい、真似をすることは簡単だと思われがちですが実際には真似ができるというのは、そこは本当に高度で難儀なことが行われているということです。それは単に同じ行為をするだけではなく、真似をすることで共感をしたり、学習をしたり、心を通わせたりといった人類が生き延びてきて生まれつきもっとも大切にして残してきた理由がありました。講演の中では「真似し合う」「心を想像する(相手の気持ちを)」「教え合い、助け合う」ということを行っているという御話もありました。

以前、日本文化の教え方の一つに職人の師弟関係による学びを深めたことがありました。宮大工でも同じく、他の刀鍛冶もそうですが師弟は言葉で教えません。つまり「カラダで覚える」、「後ろ姿で伝える」というやり方をとります。これは動物たちも同じ教え方で子ども達を導き、言葉でいちいち教えません。自然の学び方というのは、見て学ぶ、観て自分のものにする、本来の人類の教え方も同じように自然の智慧を用いた伝承方法だったと感じます。

今ではそういう教え方をせず、型にはめては幼児期から言葉や知識によって教えようとしますが本来代々先祖から繋がっている私たち常に先人といったモデル像があり、そのモデルをベンチマーキングすることで自ずから伝承され自らカラダで体得して結んで譲り渡していくのが人間の持つ本来の想像力や直観力、実践力や工夫力を磨く方法だと私は思います。

あらゆるものから学ぶ智慧を捨ててしまおうとする今の世の中の風潮や、今後の人類の行く末の方が心配になります。その時、子どもの持つこの「真似」の持つ可能性というのはまだまだ見直されていく必要があると改めて感じました。幼児教育や保育には、人類がどうやってきてどこに向かうのかというテーマを秘めています。

動物たちから学び、子どもたちから学び直すことは人類が本来備わっている叡智を活かすための方法を改めて再発見して価値を観直すことになります。子ども達のためにも、「真似」の実践を通して如何にその智慧が効果があるかを初心を伝承する中で実現していきたいと思います。

ありがとうございました。

心がけを増やすこと

昨日は心がけのことを書きましたが、心がけは関係性でもあるように思います。よく絆という言い方や、結びつき、つながりなどという言い方もありますがこれは心がけで結んだ関係のことを言うように思います。

例えば、生き物を育てるという行為においてその生き物のことを心配し一緒に暮らしているうちにその生き物との間には絆ができます。御互いがお互いのことを気にして、心を通い合わせていきます。

それは直接的な水やりなどの行為だけではなく、そのものを大切にしようといった心がけによって絆が結ばれ強くなっていくのです。自分が「心から」やったことは思いやりが通じますから絆が結べますが自分が心でなく頭でやったことは絆が結べずに関係性が発展していくことがありません。

自らが頭で考えて行うのは、自分の心がけに関係するように思います。どんな心がけを大切にするかは、どれだけ相手のことを思いやるかということです。思いやりの素晴らしさは、そういう周りの絆や結びつき、つながりを広げていくことができその心がけの積み重ねにより心が周りから離れないことに由ります。

心はつながりを深めていくことでより洗練されていきますから、心を開いて心を通じ合わせていくことで次第に真心は澄まされていくように思います。

真心を磨くというのは、心がけを積み重ねるということです。言い換えれば、どんな対象のものであっても思いやりで接するようなものです。ものを粗末にしないというのも、感謝を忘れないというものも、恩に報いたいというものも、それは心がけです。

心がけがあれば有難い見守りを感じられるように思います。心がけを日々に実践する人は真心の行動が次第に増えていくように思います。周りの結びつき、つながり、絆を大切にすることが見守り見守られる関係を強くして安心できる環境を創造していくように思います。

子ども達のためにも、心がけを忘れない実践を増やしていきたいと思います。

久しく永い時間のモノサシ~棲み分けの智慧~

畑に出て来年の高菜のお世話をしていると、周りには夏草から秋草に入れ替わってきています。一年の同じ場所を分け合って他の草草は生きています。これを棲み分けとも言いますが、生き物たちの絶妙な棲み分けには感動します。これは場所に限らず、明るい時間と暗い時間、夏と冬、地下と地上、冷と熱、様々なところに移動しては棲み分けます。

地球は一つしかありませんから、一つの場所を同じ種がずっと占有していてはそこで争いが起こります。これは自然界のものが、共生を優先していることを物語ります。共生とは譲り合いのことで、進んで争わないということです。常に自然界では和を優先して生き物たちは久しく生きながらえてきました。

競争していないはずはないといいますが、実際は長い目でみて競争はせず共生しているのです。目先のことだけをみれば、競争して勝ち残ったものだけが生き残るとも捉えられますがそんな修羅のみの世界で生き物たちは暮らしているわけではありません。末永く久しく生き残るために、敢えて厳しい環境に身をおいて生き延びようとしたけで進んで争いたいと思って生きている生き物はありません。

その証拠に、生き物たちは多くをとり過ぎることはありません。その時、必要な分だけを分けてもらうのです。自然が循環して、自分の行いが長い年月でどのようになるのかを自覚するからこその棲み分けです。

つまり棲み分けとは、常に久しく永い時間のモノサシがあるからこそできることです。人間は、久しく永い時間のモノサシを捨ててきているのかもしれません。自分の代のことや自分の心配ばかりをし、目先の競争や保身に一喜一憂してはそのために資源も何もかも浪費するという考え方は果たして久しく永い時間のモノサシにはどう映るでしょうか。

生き残るというのは、決して厳しいだけではなく自然の豊かな恩恵の中で幸せに暮らす時間を与えていただいたという捉え方もできるはずです。いのちがこの世に存在するというのは、それだけ自然の愛や真心を受け続けることができるということです、まさにここが自然の楽園であり極楽浄土です。

その豊かさや仕合わせを感じられないということは不幸なことかもしれません。本来のモノサシを取り戻し、子ども達に悠久の時を譲っていきたいと感じるばかりです。日々に本業を通して伝承していきたいと思います。

ほのぼの

先日、「ほのぼの」(仄仄)という言霊に気づかせていただく機会がありました。私たちがおもてなしで心を籠めて取り組んでいる実践を「ほのぼのする」と表現してくださった方がいたからです。

この「ほのぼの」というのは、心を顕す言葉であり「心暖まる」「心和らぐ」、他には「心が癒される」という意味になります。人には心がありますから、心がいつも豊かで仕合わせであるというのはこのような心の通じ合いがあって感じるものです。

今の時代は、日々にやることに追われ急ぎ焦り心を籠めるということもなくなってきました。心を亡くしていてまるで人形やマシーンのようになってしまえばそのうち心の在り処がなくなり心は疲れ切ってしまうかもしれません。

もしも自分の心を亡くしたままに歩んでしまったら本心がどこにあるのかもわからなくなってしまっているかもしれません。現代の社会問題の中に、根強く残る自分らしさの消失はこの真心を見失うことからはじまっているように思います。自他を尊重することや、自分自身が調和することもすべてはこの心の在り方に懸っています。

人は、心の在り方次第では観えている世界は異なっていきます。同じこと同じ現象、同じ環境が合ってもある人には天国、ある人には地獄であることがあります。いくら世間で幸せだと評されようとその人の心次第では不幸であり、いくら世間でかわいそうだと同情されてもその人の心次第では幸せなのです。

人生はその人の心次第ですから、人生をより善くするのは心がけです。心がけが歪んでいたらその心もまた歪みます。心がけが澄んでいるのならその人の心もまた素直になっていきます。

どう生きるのかは自分にしか左右できず、それは全てにおいて心がけが決めます。

その方から「心の田に日々に種を蒔くこと」を教えていただきました。これは心がけのことです。どんな心がけで日々に生きるかはその人次第、悪因悪果、善因善果、それはもう随分前に自分が蒔いた種が芽を出して今に現れただけのことです。誰のせいでもありません、すべては自分のせいですから言い訳はできません。

如何に日々に福行の種子を蒔くかが、福世かな世界を信じて見守るための要諦です。活かされているいのちを輝かすためにも、子ども達の未来が明るく仕合わせになるためにも、自分自身の心がけがすべてを決めてしまいます。

心を亡くしている人が多いからこそ、私たちは「ほのぼのと働いて」いきたいと思います。教えていただいたことを実践し、また御恩返しに生きていきたいと思います。ありがとうございます