ヒューマンスケール~手の届く範囲~

先日、ヒューマンスケールについての話を伺う機会がありました。これは辞書によれば「物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなど、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを尺度にして考えること。人間の感覚や動きに適合した、適切な空間の規模や物の大きさのこと。身体尺度。」(goo辞書より)とあります。

昔、鞍馬寺に伺ったときに貫主様から「手の届く範囲」という御話をお聴きしたことがありました。人は手間暇や手仕事、手元や身近な手の届く範囲で生きていくことが大切という話です。

つい人は青い鳥症候群のように、遠いところや未来の彼方に宝があるように錯覚しますが実は足元にこそ本来の宝があるという考え方を持つと見方が転じていくものです。

手間暇をかける幸せや、身近な暮らしを味わう倖せ、そして大切な人たちと一緒に生きる歓びや、分相応に謙虚に日々の仕事を丁寧に進めていくことの豊かさ、これらはすべて「手の届く範囲」で行われるものです。

人間は原子力をはじめ、遺伝子組み換え、サイボーグ等々、地球を破壊するような様々な科学技術を便利に我が物顔で使っていますがとても使いこなしているようではありません。目にはみえないところまで手を伸ばし、手が届かない範囲まで手を出そうとしています。もう自分では制御不能の技術の中で、心は着いてこなくなっています。

人は本来、循環の一部ですから「分相応」という生き方を選んできました。よく身に余る光栄だとか、恐れ多いとか、もったいないというように自分に相応しいものがどれだけのものなのかを自覚していました。

しかし今は、身の丈を超えて無理をし、虚飾をして派手な生活を繰り返しているともいえます。大量生産大量消費の中で、経済のみを優先していくと分不相応な暮らしは広がるばかりです。日常よりも非日常を求めては、お金を使うために体を壊してお金のために大事なものを捨てていく始末です。

二宮尊徳は「分度」といって、分相応を定めてその中で生きることを説きました。自然体の生き方というのは、自分の身の丈にあった生活を続けていくことのように思います。人間は欲ばかりを肥大化させていけば、その欲によってヒューマンスケールを簡単に超えていきます。そしてもはや人間の生活ではない暮らしを送り、本来の人間らしい自然な姿が分からなくなっていくものです。

日々に何を食べていたか、どんなリズムで生きていたか、何を大切にしてきたか、その全ての「はじまり」すら思い出せなくなるところにこのヒューマンスケールで生きない問題があるように思います。

手の届く範囲いうのは、欲張らないということです。言い換えれば、自然の御蔭様に気づき感謝で生きていくということかもしれません。それはすべて手が届く範囲で実感できるものだからです。

手間暇、手仕事、手の込んだものはどれも「美しい仕事」になります。

この手の届く範囲にこそ私は「美しさ」を感じます。つまり美しい仕事はすべて手仕事なのです。そして美しい生き方というのは、分相応に生きている人が持てるものなのかもしれません。そしてそれが自然体の本質であり、人間らしさの本質かもしれません。

子ども達のためにも、時代が変わっても日常の初心、その「手の届く範囲」や足元の宝を忘れないように精進していきたいと思います。

感性を磨く3

ここ数日で感性を磨くということを書いていますが、その感性は何を砥石に見立てて磨くかによって磨かれ方も異なります。先日、天然砥石をいただき来年から研ぎをはじめますが感性に通じる磨きがあります。

二宮尊徳に「天地の経文」があります。

「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」

二宮尊徳は書物や人から学ばず、常に自然の声を聴いて学んでいたことが分かります。日々に繰り返される天地自然の御姿をお手本に誠の道とは何かを自問自答することで学び直しを続けたとあります。

本来、感性とは自らに具わっているものです。なぜならそれは自分も自然の一部であり、自分も宇宙物と一体であるからです。人間だけを分別し、他のものと分けてしまうことの中に本当の問題が潜んでいるように思います。

人間というものは天地自然の一部にして、周りの全てのものと同化しているものという視点に立脚するのなら自ずから学びの対象は自分自身になるのです。本来、離れてはならないものと離れてさも分かった気になって自分の都合のよいものを師にして弟子にしてもそれは道理から離れていくものです。

創始の人々は、すべて自然から学び、自然の技術を道具にしてそれをもって能力を磨き感性を研ぎ澄ませてきたともいえます。創始の人々と同じものを見つめる心は、自分自身の感性を創始の人々に近づけていくことと同じです。

私たちの感性は知識によって磨かれるのではなく、自然によって磨かれるのです。その自然が知識で見ている自然であればそれは自然ではありません。空を見て空とし、雲をみて雲と理解し、太陽を見て太陽と理解し、月を見て月と理解する。こんなことでは本当の自然を理解することは絶対にありません。

そのものをそのままに感じる心が感性のことです。言い換えるなら、空は空と見ない、雲は雲と見ない、太陽は太陽と見ず、月も月と見ない。つまりはそのままの姿をそのままに受信し感応する心に耳を傾けて声を聴くのが感性です。

感受性を高める教育などと言われ、何を思ったか教科書を使い自然まで知識で教え込もうとしますがこんなものが果たして感性を磨くとは私には思えません。

感性を磨くには、感じる力を高めていくことです。それは耳を傾けることです、そして声を聴くことです。そういうことを素直にできるとき、人はその感性が磨かれ自然一体の素直で謙虚な姿に近づけるように思います。私が尊敬する空海も二宮尊徳も、また吉田松陰も、その他様々な先祖たちが実践してきた自然に学ぶ姿に今も心が融け合っていきます。

子ども達のためにも、何をお手本にして学び直していけばいいか、その刷り込みを取り払う環境を用意していきたいと思います。自然から学び直すことで、直感を養い、感性を高め、道理を学び、思いやりや真心を実践できる人に近づいていきたいと思います。

感性を磨く2

昨日、感性ことを書きましたが「直感」や「勘」はコツを掴んでいくという言い方もしましたが自然に触れ自然の智慧を会得することでその感性もまた磨かれていくように思います。

身近な自然物を使い、道具を一つ一つ拵えていくことは自分自身の中にある本能や感性を呼び覚まし研ぎ澄ますことになっていくものです。

先日、島根にて注連縄づくりの伝承に参加する機会がありました。稲藁を束ね、ねじり、巻き、そして結ぶことを取り組む中でチカラの入れ方を学びます。一つ一つの道具の中にはとてもシンプルですが何をすれば自然のチカラを活用できるのかをカラダを通して体験で直感して体得していけます。

これは五感を使って自然のチカラを活用し道具を創る中で身に着く智慧とも呼んでもいいのかもしれません。

かつて日本民藝館を設立した「柳宗悦」に「見て知りそ、知りてな見そ」という言葉があります。これは知ることを先にして見ることをあとにしてはならないという意味です。よく「考えるよりも感じろ」という言葉もあります。知識ばかりを先に掴み、そのあと智慧を掴もうとするのは無理なことです。

本来は智慧があってそれを知識で深彫っていくことが学問の楽しさであり、やってみて実践し行動してみて内省し反省し改善することが「コツ」を会得していく使命の活かし方のように思います。

今の時代は、知識ばかりが豊富で知っていることや分かった気になってはそれが安心だと勘違いしている人がいます。不安の解消と絶対安心とは異なるものであり、同じく信じる世界は知る世界とは異なるものです。人はなかなかそれまで身につけてきた知識を手放そうとはしないものですから、感じるチカラはますます減退していきます。

その柳宗悦の日本民藝館に「直感」の大切さについて語られている文章があるので紹介します。

「自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。」(日本民藝館HPより)

この刷り込みのない無我の境地のすがたは、透徹された素直さによって顕れるように思います。素直さというのは人間の能力でもあります。どれだけ素直に自分が物事を直感できるかは、日々の暮らしの中で感性を磨いていく脚下の精進に由ります。太古の昔から無駄の一切ない完全体の美しいものを直感する感性や、素晴らしいものを産み出す感性は、自然の美意識や自然の活用技術によって会得していくように思います。

感性を磨いていくことはもっとも大切な人間力を高める方法かもしれません。

かつての親祖たちが産み出し創ってきた道具の中に、日本人の中にある感性の原点、自然美を私は感じます。引き続き子ども達に日本の中に遺る自然美、そして日本人の心に宿る美意識を伝承してその魂を譲っていきたいと思います。

感性を磨く

人間には「感性」というものがあります。

この感性とは生きていく上でとても重要であり、その感性が時代の先を読み、周りの人々を倖せに導いたりします。つまりはリーダーの資質の中で何よりも大切な能力であるように思います。そしてその資質には、素直さや自然環境を通して学ぶという謙虚さがあるように思います。

最澄の言葉に「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」という言葉があります。自分をどのような環境に運ぶのか、リーダーは常にその感性を磨くための精進を欠かすことはありません。私が風土を探訪して山に学ぶのもまたその直感を研ぎ澄ませていきたいからです。

人は本来、環境から学ぶ生き物です。その環境からカラダで学び、「勘」や「直感」というものを会得していきます。それは知識ではなく智慧であり、経験や経年を積んだ中で磨かれた感性のことです。よく「直感」で物事を決めていく人は、頭が良いわけではなくその人は磨かれている感性を持っているということです。そして感性とは鈍るものですし、感性とは磨くものですから感性に対する精進を怠るなら当然「直感」もまた冴えなくなってきます。

そしてこの「直感」や「勘」というものは具体的な「失敗の質量に比例する」ように思います。つまり、体験をし失敗をし何度も何度も繰り返し改善する、その勇ましい挑戦と、七転び八起きの逞しい生き方によって次第に磨きがかかり研ぎ澄まされていくのです。感性を使ってるというのは言い換えるのならば「五感をフル動員」して自分も持つ全てを出し切り使っているということです。その集積で得た境地のことを「コツを掴んだ」とも言います。

つまり心を澄ましたり、魂を磨いたり、真心を盡したりという行為は全て感性が関わります。その感性は機械やロボットでは持ちえないチカラであり、人間が人間たる由縁でもあります。そういう感性を磨いていくことは、自然の一部である自分自身の本能を使っていくことでもあります。

今の時代はすぐに知識ばかりを優先し、直感や勘というものを少し見下げているような風潮があるように思います。しかし本来は、自然の中で生きている私たちに感性が磨かれていなければ実際に悠久の永い年月に生き残ることはできなかったように思います。

敢えて厳しい環境の中に身を投じたり、敢えて苦しい環境の中で手間暇を惜しまないのは、その環境の中で感性が研ぎ澄まされていくことを自覚するからです。失敗を恐れずに何度も何度も場数を踏むのが大切なのはこの「直感」や「勘」のコツを掴むために必要なのです。

子ども達が何度も何度も繰り返しやってみては泣き、やってみては笑うのは、これらの感性を磨いている証拠です。子どもから学び、子どものような学び方を思い出し学び直すのは全てその悠久の年月で得て来た智慧に回帰することのように私は思います。

子ども達と同じように一生感性を磨いていきたいと思います。

自物一体~勿体ない~

昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。

神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。

昨日はここで不思議な体験をしました。

巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。

物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。

私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。

つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。

物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。

まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。

また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。

有難うございました。

クニの真玉~光と初心~

かつてクニ造りのはじめに、「大国主」と「少彦名」の二人が私たちの繁栄の礎を築いたと古事記や日本書紀にはあります。大国主がクニをどのように治めていけばいいかを天に問い、海から光の玉と共に顕れたのが少彦名です。

この二人はまずこの国の理念を定めます。それは大国主の様々な物語がその生き方を示しています。因幡の白兎の話、その後の黄泉の国での素戔嗚との話、クニ造り、クニ譲りとどんな人物であったのかはその神話から想像で近づけます。

そして参謀でパートナーでもあった少彦名と共に、その徳の統治の手段を「医」と「農」によって行います。これは今の言葉に直せば、「医」は養生の在り方、そして「農」は暮らしの在り方を示します。

少彦名については、農業技術、のみならずあらゆる産業の祖とされその方法を伝授し国を富させました。この親祖はカミムスビの子であり「天津神」といって天照大神と同じく、天界の神様の一族です。その少彦名との出会いがなければ、大国主は国を繁栄させることはできませんでした。

古事記と日本書記にはこうあります。

「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」(古事記)

「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)

つまりは、全ての人々がこの少彦名と大国主の御蔭様で元気に幸せに暮らしていくことができていると示します。この二人がいなければ、私たちのクニははじまらず存在すらしなかったということです。それくらい重要な人物こそがこの少彦名です。そしてその少彦名は国の発展と共にいなくなります。少彦名がお役目を終えこの世を去ると、大国主が一人でどうしたらいいのかと途方にくれます。すると三輪山の大神山にて光の玉に再び出会い、少彦名に出会った時の「初心」を思い出し、下記のような天津神の太祝詞を唱えます。

「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸(さきわ)いたまえ」

ここに、何を祈っていけばいいのかをはっきりさせ、少彦名のいなくなった後もクニを治めていく覚悟を決めるのです。

出雲は今でも根のクニ(島根)と呼ばれます。私たちの暮らす島の根があり、その根とは心の故郷のことです。心の故郷に真心はいつまでも伝承され、いつまでも遺る神話や遺跡から先祖たちが私たちに譲ってくださったものが何かを感じるとることが出来ます。

時代が混迷期に入るとき、人は初心に帰る必要があります。今のクニにもっとも何が必要か、これからの未来の子ども達に私たちは何を譲り遺していくのか・・・。

もう一度、少彦名と大国主の実践したことを省み、私たちの故郷にある真心を学び直していく必要を感じます。光の玉によって気づくとありますが、この光の玉は真玉と言い、これは真心のことです。

光る真心とは徳のことであり、民を思いやり、その声を聴き、衆智を集めることによって全ての発展の理念としたということです。孔子が仁の政治を説きましたが、この神話を聴いたらなんといっただろうかとおもいを馳せます。

今の私たちの先祖には脈々とはぐぐまれた徳の血脈が遺っています。

根の心に触れて、また新たな心で御縁を深めていきたいと思います。

見方の転換~福の実践~

私たちは今自分が立っているところを中心に物事を観ようとするものです。

かつてニコラウス・コペルニクスという天文学者が地球を中心に宇宙はまわっているという説を覆し、太陽を中心にまわっていることを発表しました。これを哲学者のカントがコペルニクス的転回と呼び、物事の観方がまったく別のものになったことを言いました。

実際に、私たちの価値観もまた似たようなものがあります。人は自分を中心に物事を考えて自分を中心にまわっていると思い込むものです。しかし本来は、科学ではサムシンググレートと言ってもいいし、東洋では「天」と呼んでもいいのでしょうが自分以外の偉大な存在によって活かされていると感じれば物の見方は変わってきます。最近では、望遠鏡も発達しその太陽もまた銀河を中心にまわり、その銀河もまた大宇宙を中心にまわっていることが分かっています。

そこから自分を中心に物事は動ているものは実際にはこの世には一つもないということが分かります。これを循環とも言いますし、御縁とも言います。

生きていると自分の思っていたことは起きなくても自分の思っている以上のことに出会っていることに気づくことがあります。そして自分があたりまえに生きていると思っていたら実は本当に多くの御蔭様で活かされていることに気づくというものもあります。

これらも全てコペルニクス的転回であり、自分を中心にするのではなく偉大な何かを中心に据える謙虚な心があれば物事はまったく別の観え方になるのです。

以前、小林正観さんが「見方道の家元」を目指しているという御話をお聴きしたことがあります。物事の見方を転じて観れば実際は、まったく別のことに気づけるということです。

実際に自分の知っている知識にこだわり、常識と思い込んでいる自分の価値観の中から出ずに偏見ばかりを貯め込んでいくことが齢をとることだと勘違いする人が多いように思います。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と言います。

どれだけ偏見をもってしまっているかも本人は気づかないものでしょうが、実際は偏見を捨ててあるがままに物事を素直に観えたり、他人の話を謙虚に聴いて学び直しをする人は常識を超えた真実を持っていたりするものです。

常識に縛られるということは、偏見を持つということです。如何に常識を壊して本質を捉えるかは自分自身の見方を転換できるかどうかによります。そしてその転換は、「気づき」によって産まれます。

よく「知っている」方が偉いと思い込む人もいますが、実際には知っているというのは膨大な情報の一部を知っているだけのことです。もしも「知らなかった」と素直に言えるのなら膨大な情報があることを知っていることになるように思います。人に素直に「知らなかった、教えてください」と話を聴ける人は無限の見方を持つ人だとも言えます。

学問の本質は、常識に囚われないことのように私は思います。

偏見のコレクターからすれば偏見の塊が変人でしょうが、変人だからこそ常識に囚われない新しいことを産み出せるように思います。それぞれ人には役割がありますから、それぞれが地球や人類のために自分を最大限活かし切ることで新しい時代が切り拓かれ道が続いていくように思います。

日々は自分の偏見を捨てていく学び直しの日々、子ども達のためにも様々な見方をもってすべてを福に転じて味わっていきたいと思います。

初心のチカラ

人は「初心」という言葉を聴いても、実際は自分の初心に気づかない人がほとんどです。その初心は自分と向き合っていく中で出会うものであり、自分の心から思うことを実践し実行することで次第に自分の中に在る心に出会う機会があって再確認するものだからです。

実際に「初心」に出会うには、昨日書いたように「遣りきる」ことが必要です。遣りきったあとの余韻で心が満足したかどうか、心が充足したかどうかで自分の初心の実感を得ることが出来るからです。しかしその遣りきるというのも、計画通りに自分の思い通りに時間通りに終わることを遣りきることだと勘違いしている人がいます。実際は、自分の都合を排除し、効率を優先せず、不便でも時間と手間暇をかけて自分の信念や決心や覚悟を周りに流されずに実践したことを「遣りきる」というのです。

自分に軸足を置いた遣りきるは、それは遣りきるではないのはまだ外界の判断基準や世間の価値観の中の比較や分別知、相対的な世界において遣りきった気になった遣りきった風なだけで本来の遣り切りではありません。遣り切りとは、絶対的な世界において自分の決めた覚悟を信念をもって実践するということです。

社内には刷り込みカレンダーというものがありそこには「初心は実践の中にあり」と書かれています。これは実践しているときだけは、初心を遣りきっている最中であり、実践しない人は初心の在り処すら見失い忘れてしまっている状態だということです。初心を見失っている人はただ繰り返しているだけで実践にもなりません。心を籠めて実践するその一つ一つに信念の集積があり、それが実践の妙味だからです。

初心を思い出せていない人は、目的を忘れています。目的を忘れる人は、安易な目標に心を奪われていきます。目標ばかりを追いかけては目的を忘れてしまうでは、あまりにも人生がもったいないと思います。

初心は何か事があり向き合うことで思い出すことが出来ます。例えば、死にかけるときや大事なものを失う時、もしくは人生を左右するようなタイミング、あるいは自分価値観を揺さぶられるような体験の時です。その時、感じたものが初心であり、その初心をいつまでも忘れないように実践をすぐに開始し、その実践の最中にこそ自分の中にある本心を持続させていくことで自分の中の生きるチカラ=初心を持てるように思います。

この生きるチカラは、継続力のことです。継続がチカラなのは、そこには初心の持つチカラが働くからでしょう。初心のチカラを育てていくことは、一度しかない自分の人生を一期一会に遣りきる仕合わせ、御縁に活かされ、自他一体に生きる豊かさを自覚することにもなります。

子ども達が自分自身の人生を本質的に謳歌していくためにも、大人が子ども達のモデルになる生き方を遣りきっていくことだと思います。自分が何のために存在するのか、何のために生きるのか、何のために働くのか、常に自問自答を入り口に、かけがえのない実践を味わっていきたいと思います。

新しい自分~新たな役割~

人は新しい自分を刷新していくことで、自分らしさというものを発見し発掘していくように思います。新しい自分に出会えることは仕合せなことであり、それは自分自身がその時々で役割に気づき役割を生き切るということに出会えているということです。

人はなぜ新しい自分に出会えないのか、それは過去のままでいるからです。かつて自分が自分らしくいた自分のことを自分らしい自分だと思い込み、無意識に自分が役割を持っていた頃の自分に執着してしまうからです。自分が望んでいた自分になることは確かに幸福感を感じられますが、時処位が変われば役割もまた変化していくものです。

それではどうすれば自分らしさをずっと発掘できるかということです。

それは常にお役立ちできる自分に出会い続けることであろうと思います。新しい今の自分を肯定でき、新しい自分でいることに精進していくことだと思います。昔の自分のできることに終始するよりも、自分が周りにお役立ちできることを増やして高めていくことで今の自分が自分らしくいることに気づけます。

畢竟、自分らしさというものは自分の思い通りになることではなく周りの中で自分の役割を発揮できているということです。一つの目的に向かって、自分を遣りきって今を生き切り、必死で精進してくことで新しい自分に出会うこと、それが自分らしさの刷新だからです。

物事は全て必然だと信じられるかどうかがまず受け容れる第一歩であろうと思います。この世に意味のないものは存在せず、今の自分の運命が今起きているようになっているのはそこには確かな必然性が存在します。

こんなはずではないと否定から入る前に、全てを一度丸ごと受け容れて「これでいいのだ」とその中で、最善を盡そう、人事を盡そう、自分のできることで精いっぱいお役に立っていこうと心を定めて覚悟を決めればそこから新しい自分に刷新していけるように思います。

昔の自分よりも今の自分を好きになるには、今の自分が周りの御役に立つ努力や精進を以前の自分に負けないくらい実践していてはじめて好きになれるものです。自分を好きで居続ける努力とは、常に一生懸命の今の自分で役立てる全てを出し切ることです。

主体性も自立も、自分らしさに関係します。自分らしくいられるというのは、遣りきったか、出し切ったか、生き切ったかの確認です。日々は新しいことに満ちていますから、日々新たに日々新たな役割を実践していきたいと思います。

主体性の発揮2

昨日、主体性のことを書きましたがこの主体とは使われる人になるのではなく使う人になるということであり、単に生きている人ではなく活かす人になるということでもあります。

主体的な人が環境を使いこなすというのは、組織でいえば組織に使われる人間ではなく組織を使う人間であること、そして社會でいえば社會に生きている人になるのではなく、社會を活かす人になるということです。

人間というのは、御互いを尊重することで認め合い助け合うことができます。それが人間であることの原理原則であり、人間はお互いの役割を活かし合うことで仕合わせを感じて愉しい人生を送ります。言うことを単に聞けばいいといった受動的な存在でもなく、機械の歯車のような部品になることを望んでいる人間は本来はいないものです。

しかし実際は、業務や職務をこなすことを優先し仕事はしても本来何のためにやるのかという目的を忘れては日々に使われる人になって疲れている人がいるものです。目的を忘れない工夫ができる人はどんなことがあっても主体性を失いません。そしてその目的があるから自分の役割を果たそうと誰が見ていようがいまいが精進するものであるし、どんな時も心が着いてきますから遣り甲斐や生きがい、そして働きがいを持つことが出来るように思います。

人は初心を忘れることで使われる人になり、初心を忘れないで使う人になります。目的意識というものは、他人から管理されるものでは身に付きません。如何に自分を自分自身で管理するか、つまりは自分に打ち克ち自分の目先の欲望よりも理想を優先するチカラを持てるかということが肝要です。それは言い換えれば常に理念を優先する持続力、忍耐力、信念、志、克己心を腹に据えるということができるということです。

人は目先の目標ばかりを追っているうちに、本来の目的よりも目標が達成することがやる気になっていたりします。もちろんそれも大事ですが、その目標は本来は大切な目的が合ってそれを細分化することで観えてきた部分の一部でしかありません。大きな目的があることを忘れない人は、どんな些細なことであれそれが全体の目的に繋がっていることを自覚しますから心を籠めないことはありません。

目標は手を抜きサボり怠けることもできますが、目的はそうはいきません。もしくは目標をマジメにさえすればと無理をし続けることも目的に対して不真面目かもしれません。働き方と生き方の一致というのは、どこまで自分が目的に対して忠義を盡しているかということでもあります。

大義を持てる人というのは必ず遣り切りますからどんなことをしていてもその人生は意味を持ち楽しく充実したものになります。

この世界をどのようにしていきたいかは、自分の観えている世界観の変革に由るものです。ガンジーの遺訓に「自分が見たいと思う変革に、自分自身がなりなさい」「私たちの偉大さは、世界を作り替える力にあるのではなく、私たち自身を作り替える力にある」とあります。

自分を目的に合わせて変えていくことこそが主体性であり、主体性を発揮するというのは世界を変えている実感を持っているということです。自分の日々の実践が、どんなに小さなものであっても、大河の一滴であったとしても、それが必ずいつかは人間尊重の仕合わせに一役買うのだと信じて自らが様々なことを引き受けさせていただく気持ちで取り組む人には受身という言葉がなくなるものです。

引き受けること、させていただけるのは組織に忠実だからやるのではなく目的に忠実だからこそできることです。如何に目的そのものを見て、目的そのものになるのかが中心だということでしょう。

自分らしさとは人間らしさですから、子ども達の未来に常に人間らしくいられるように主体性を発揮する生き方を示していきたいと思います。