人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。
本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。
私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。
在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。
このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。
そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。
生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。
みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。
子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。