天与の持ち味

人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。

本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。

私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。

在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。

このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。

そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。

生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。

みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。

子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

真我の目覚め

先日から理念を取材する有難い機会をいただいています。いつも感じるのは、人間の持つ尊さです。人が本心の中に理想を持ち、その理想はとても崇高なものです。真心や思いやりをこちらが感じているとき、それはその人の中にあるものと通じ合います。心で人間の真心を感じることができるなら、人間は皆思いやりに満ちていることに気づけるのかもしれません。

しかし実際にはその本心は日頃表層には出てこないものです。なぜなら日頃の生活においては脳が普段の状況を分析し処理し、習慣によって生活に支障がおきないように調整されているからでもあります。また人間は我と真我があります。我で生きていくのは、食べることや寝ること、その他の欲を果たすことで生存を維持するからです。

ただし、何のために生まれて来たのか、何をなすのかという使命は真我が行います。それは人生の目的であり、その人の魂の望む在り方のことです。これは日頃の生活の欲とは異なり、人生の欲でもあります。一生一度、一期一会に生きる今世の自分だからこそそこで成し遂げたい生き方というものがあります。感じたいものがあります、そして味わいたいものがあるのです。

もしも人間に生きていくことの悩みがなくなるのなら、あるものは命が望んでいるものだけです。人間には奥深いところにその目的を秘めています。その秘めたものが表に顕れるとき、人はその人物の信念を見ることが出来るのです。そうやって人は何を成し遂げたいのかということを語ることで、支援者が増えて目的を達成できるのです。

そういうことを語っていないのなら周りもその人の力になれない場合が往々にしてあります。もしくは本来の目的ではない欲ばかりを話しても誤解される一方です。人は本心からの真我の声、私たちは信念の種とも呼びますがそれを呼び覚まし、それを実現したいと日々に語り実践で示すなら人間はみんなそれを助けたいと思います。

なぜならそれが生まれてきた意味になるからです。

私たちは意味というものをあまり大切にしていません。しかし本来の人生とは意味なのです。その意味をどう味わうかはその人一人ひとりの真我の目覚めと実践に由ると私は思っています。

理念を出すというのは、その人の本心を目覚めさせておくという意味でもあります。いつまでもうとうとして迷い惑い眠りこけていたら気がついたら終わっていたではもったないように思います。

こういう魂の目覚めの手助けというものは、見守ることに通じています。

見守るということの見守るが何を見守るかは、その人が見守られていることに気づけるかどうかです。日々の実践を高めて、子ども達の信じる未来を切り拓いていきたいと思います。

人生の王道~自分の根を掘り下げること~

私たちは自分のルーツを知ることで、それまでどのように生きてきたかといった歴史が辿ってきた道のりを学ぶことができます。自分の世代だけを謳歌しようといった風潮の中、本来の教育が失われてきているのではないかと思います。

日本の心や日本人の精神、それらのことを伝承されている文化や道具に触れていると本来、先祖たちがどのような生き方をしてきたかを学び直すことができます。自分の根っこを知ることは、自分がどこに根を据えていけばいいのかを学ぶことです。教育の醍醐味とは、自分が何ものなのかを知ることでもあります。そしてこれからどのように生きていけばいいのかを示す入口でもあります。

技術や能力ばかりを教え、道徳も単なる正しいことばかりを並べては良いことだと大人が子どもに一方的に押し付けてもそれで道徳観を身に付けることはないように思います。大人たちの人生観をはじめ、生き方や働き方の背中を通して子ども達は直感していきますから、自分がまず日本人になっているかということが肝要だと思います。

稲盛和夫さんの著書に「人生の王道」(日経BP社)があります。その中の教育の項目にこのように書かれます。

「一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の祖先がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。
今の教育現場は、日本という国について教えることにあまりにも腰が引けています。グローバルに生きる時代だからこそ軸足をしっかりと据えなければ、日本人は世界の中で「根なし草」になってしまいます。日本の成り立ち、特に近代になってからの世界の中における日本の位置づけを教育の現場できちんと子供たちに教えるべきです。そのうえでこれからの日本がどういう道を歩んでいったらよいのか考えるべきではないでしょうか。」

世界が一つになってきているからこそ、自分の根がどうなっているのかを知り、それぞれの民族がその風土の中でどのように生きてきたのかが重要になるのです。地球の中には、それぞれに国土というものがあります。気候や風習、そして全ての生き物がその場所に順応し、自然に沿った生き方をして個性を磨いてきました。

十羽一絡げのように、同じものが世界に溢れてもそれは多様性を発揮しているわけではありません。多様性を発揮するには、それぞれの風土で育まれた伝統と伝承、その生き方をしてきた人物が自然の智慧を存分に発揮して、他の風土と一緒一体になって新しい地球上での住み分けを考えていかなければなりません。

世界が一つになるとき、御互いを思いやり持続可能な社會を維持できるのは軸足がしっかりと日本人として根をはっているものだけが可能です。世界に出て真に活躍できうる本物の国際人物とは、単に経営が上手だから認められるのではなく、その人が日本人の心と魂を存分に発揮することができてはじめて世界から認められます。

人生の王道というものは、自分の根を掘り下げていくことだと私は思います。

掘り下げることがない人生は、まるで浮草のように流れてはどこかに消えていきます。せっかく生まれてきて一期一会の人生をいただいたのならば、自分の根を深めて自分の根からの養分で一生の花を咲かせて実をつけ種を遺していきたいものです。

日々の実践が根を深めることを助けます。

引き続き、日本の心、日本人としての生き方を学び直していきたいと思います。

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

初心を忘れないこと

昨日、「忘」という字についてのことを書きました。人が人生の目的を忘れてしまえば木偶の坊のようになってしまうと江戸しぐさの中でも紹介されていました。この木偶の坊とはあまり今の時代は使われませんが何かといえば、「木偶」は木彫りの人形、または操り人形のことを指し人に操られるだけで、自分では何もできないことから、ぼうっと立っているだけの役立たずの人をたとえていう言葉です。

初心を忘れて自分で考えなくなっている状態は、心が亡くしているという意味です。

ではなぜ初心をなくすかということです。

人は人生の目的というものを誰しも本来は持っています。遠くを慮れば今どうあるべきかということを思い出せるものです。諺に「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。言い換えれば、近くのことを憂うばかりだから遠慮がなくなってくるとも言えます。

あまりにも不安を抱え、心配事ばかりに終始していたら本来何のためにやっているかなど考えなくなっていくものです。人は何かを判断するとき、損得で判断することがあります。自分にメリットがあるかどうかで考えていることがあります。しかし実際は、自分のメリットは誰かのデメリットになりますからいつも自分勝手に判断していたらその陰で辛い思いをしている人や迷惑をかけている人がいたりします。

だからこそ判断基準は、みんなが倖せになるかどうかであったり、周りがよろこんでくださるかどうか といった全体にとって自分が善い存在になろうと判断することで迷惑をかけていることを自覚し感謝を忘れないようにしているものです。

またそうやって決めたことや、自分がどう生きるのかを定めた初心や理念を決めた心のままに維持していくために実践があります。自分が決めたことを自分が忘れたらこれはもう救いようがありません。自分が決めたことだからそれを忘れないようにするのは自分にしかできません。

自分で決めたことを自分が忘れると心が泣いてしまいます。人はそんな時、心を亡くしたことを思い出して涙します。その涙を忘れないようにいつまでも心に決めたままでいることが実践でもあります。実践をするとき、頭では考えられなくても心は安心します。心が安心するのは実践を続けてくれているからです。実践を続けるということは、心が決めたままの自分を自分が維持し続けているということです。

忘れるというのは、単に暗記力が低いということを言うものもありますがあれは頭で終始行われるもののことです。本来の「忘れない」というのは、暗記ではなく心が決めた人生の目的や初心、理念を忘れることがないという意味です。

いくら忘れないでくださいねといったとしても、その人が実践を怠ればすぐに忘れてしまいます。一緒に心を寄り添っていくことの大切さは、「私は忘れていませんよ」といったその人が思い出せるように見守ることです。

自分を低く見て、理想を低くするというのは自分で初心を忘れてしまっているといっても過言ではありません。その人の理想を聴けば誰しも崇高な理念を持っています。その崇高な理念を周りからバカにされようがやり遂げることこそが理念を持つということだと思います。

理念を持ったなら忘れないために実践することだと思います。

吉田松陰に「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」があります。

自分の夢を忘れたり、自分の夢を卑下したり、自分の夢を亡くしていたらせっかくの一度きりの自分の人生を深く味わっていくことができません。一度きりの人生だからこそ、味わい深く悩んで愉しんでいくのが初心の有難さです。

初心を忘れないということは、全ての根本です。

引き続き、実践を増やし高めて継続していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

孝行の徳

「孝は百行の本」という諺があります。これは日本の昔からある諺ですが、全ての善行の根本は全て親孝行にあるという意味です。

他にも似ている言葉に、「孝悌は仁を為すの本、孝は百行の人の恒徳となす、孝は万善の本、孝は道の美にして百行の本なり」があります。

どんなに正しいことを言おうが示そうが、親孝行の真心を自覚せずに真に善いことはできないということでしょう。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」があります。これも全ての根本に「孝」があり、その孝行を自らが目覚めることではじめて思いやりや真心の意味を知るということなのでしょう。

今の自分があるのは偉大な無償の愛によって存在できているとも言えます。

今の自分が生きてこの世に存在できているのは、まず両親が自分を産んでいただいたからです。その両親はその先の両親が産んでくださってと遡れば、いのちをつなぎつむいでくださった方々の愛を感じます。そして今の自分があることを思えば、様々な困難や艱難を乗り越えて周りの方々が偉大な恩徳を与えてくださった御蔭様で今の自分が在るのを知ります。

そしてそこに至る入口はこの親孝行のところに存在することに気づきます。

よく考えてみると、人間は生まれてからすぐには一人では何もできません。両親に育てて見守ってくださる時期があり大人になり社會に出ます。その後も、陰ひなたから見守り心配してくださっています。これはまるで先祖や祖神様の真心と同じで、子子孫孫の私たちのことをずっと見守り愛してくださっています。

私たちはその愛の中で、信じるということを学び、そして感謝と報恩を実践していくようになります。そして感謝報恩を実践するとき、それは孝を自覚するに至ります。

与えていただいているものに対する感謝の心に対し、自分もその真心と一体になることを孝行と言います。自分の存在が偉大な見守りによってあることを知り、偉大な見守りを自分も実践していこうとする心、その本は「孝」にあるということです。

吉田松陰の辞世の句に「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」があります。親の気持ちは親になってはじめて気づくものかもしれません。その何に気づくかは「孝」に気づくということです。「祖父母との思い出は家族の智慧である」という言葉も残っています。

どれだけ自分のことを大切に思ってくださっている周りがあるか深く反省し、自分勝手に我儘ばかりを言うのをやめ「孝行の実践」に精進していきたいと思います。子どもとの思い出は次世代の真心につながっています。感謝報恩、孝行していきたいと思います。