全ての物事はバランスによって維持されます。これは天候も同じくバランスが崩れることによって嵐が起きたり干ばつが来ることがあります。常に微妙なバランスを維持しているからこそ、中庸であることを維持できます。
これは人の感情や心境なども同じです。感情に呑まれて心境が乱れる人は中庸ではなくなります。するとそこからバランスが崩れ、様々な偏った判断をしてしまいます。中庸にはこうあります。
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中和を致して、天地位し、万物育つ」
意訳ですが人に喜怒哀楽があってもそれがじっくりと安心安定している、そして発しても常に節度と分を弁えておる。これが和である。その中和があれば天地はバランスを保ちすべての万物は育つといいます。
人は自分が偏ることでバランスを崩して本来の中和から遠ざかるものです。これは他人との関係だけに限らず、健康も含めて、あらゆるものの中にバランス感覚というものが求められます。安心した世の中を創ることも、安心できる人間関係を創ることもこの中庸の徳を学び実践していくことが何よりも理想としたのが孔子であり、政治の実践者です。
かつて中国の鄭の名政治家に「子産」がいました。孔子にして「剛ならず、柔ならず。至高の和の精神」の人物と讃えられた人です。政治を火と水に例え、法と徳のバランスをどのように維持していくのかといった実践の要諦が遺っています。
人はみんな自分勝手ですし、それぞれに欲望も理想もありますから同じように他人が安心して暮らせる政治を行うことは至難の業です。その時、こうやればいいという方法があるのではなく常に中庸を執っていくしかありません。
「ちょうどよい」ところ「塩梅」を確かめることが出来るならその人は中庸の道に入っているとも言えます。まだまだ自分は実践がおぼつかず、偏ってしまった後始末に追われる日々でもあります。
中庸には「偏らざるをこれ中といい、かわらざるをこれ庸という。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり」とあります。時代の中で何が変わっていき、何が変わっていかないのかを維持できるものこそ中庸の実践者です。不易と流行を自覚するには、中庸を学び実践の中で謙虚さと素直さを磨いていくしかないようにも私は思います。
王道というものは、常に小手先の技術を喝破しますから直向きに正直に誠実に千里の道も一歩からと取り組んでいくしかありません。
最後に子産の遺訓です。
「厳ならず、緩ならず。剛ならず、柔ならず。政を布くこと適々、百福ここに集まる」
百福が集まるような生き方と働き方を精進していきたいと思います。