現在、ロシアとウクライナの戦争が激化してきて報道で一般人が大勢被災している映像が流れています。暴力というものは、どの時代にもありますが改めてそれを目の当たりにすると平和であることの大切さを思い出します。
平和とは、永遠に和み続けている状態のことです。
これは力で乱暴に何かを押し付けるのではなく、みんなで分け合い分かち合っているものです。誰かだけが富を独占したり、誰かだけが権力を維持したり、誰かだけが特別扱いされる環境ではなく、地球に一緒に生きる大切な仲間としてみんなで苦しみも喜びも仕合せも分かち合っている心がそのまま和んでいるということです。
差別せずいのちを尊重し、いのちを大切にする。いのちには違いがないからです。そのいのちを粗末にせず、いのちを乱暴に扱わない。これは地球の平和をさらに育てます。私たちに真の教育の意味があるのは、本来は人類が平和を司るための知恵なのです。
人類は傲慢になると謙虚さを失い戦争をします。戦争をしてまたいのちの有難さや大切さを学びます。本来は、わたしたちは小さな虫から植物、動物にいたるまであらゆるもののいのちを尊び、その寿命を大切に分かち合って暮らしてきました。伝統的な和の暮らしは私たちが傲慢にならない一つの仕組みであり知恵でした。
現在の教育は偏差値や成績ばかりで他と比較し競争させ、知識一辺倒で思い込みばかりを増やし仮想に偏っています。本当は、自然のなかで一人ではないことを知り、平和を学ぶのが教育の本義であったはずでそれが市場原理や経済優先の社会で蔑ろにされてきています。
そういう人が教育され大人になり社会にでて、平和を望むのか。むしろ孤立し戦争の温床をつくっているかとさえも思います。自分のいのちを大切にすること、自分以外のいのちもまた大切にすること。それをいつまでも忘れないようにみんなで平和を保とうとしたのが「暮らし」だったのでしょう。戦争は暮らしが破壊されるときにすでにはじまっているのです。戦争をする人の暮らしはほとんど破綻しているからです。
私が「暮らしフルネス」を提唱するのもまた永続する平和のためなのです。
日本人の親祖をはじめ先人たちもそれを知っていました。きっと戦争の苦しみのなかで必死に平和を生きる方法をみんなで悩み対話して考え抜きました。そこからみんなで一緒にお米作りをして藁ぶき屋根を葺き、自然の素材を最後まで大切に使い切るような意識でみんなでいのちをもったいないと寿命を丁寧に使い切ったのではないかと思うのです。これが子孫の平和と繁栄のためだと信じていたからでしょう。
今こそもっと長い目線、縦の歴史を学び直すことだと私は思います。
今、戦争が起きていますがもっとむかしも同じように戦争はありました。暴力で苦しんだなかで今の平和をつかみ取ってきました。それを忘れないというのは先人や先祖たちの願いや祈りを忘れないことではないでしょうか。仏壇や神社を拝むのも、私たちはその先祖の祈りや願いを受け継いでいる存在だからでしょう。
私たちに今できることは、ただの正義のぶつけ合いや正論の押し付け合いではありません。そして運動ではなく、「実践」が必要だと私は思うのです。その実践とは、何か、それは一人一人の暮らしをととのえていくことです。一人一人の暮らしから立て直すのです。
身近なことでも戦争は防ぐことができます。それは一人一人の小さな実践、1人の100歩よりも100人の一歩が大切だと思うのです。これ以上、戦争の犠牲者が増えないことを願い、子どもたちのためにも暮らしの実践を通して祈りをカタチにしていきたいと思います。